しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

学校給食・大津野小

2015年09月09日 | 城見小・他校
参考まで、城見小学校の隣・大津野小学校。
ほぼ城見と同じようだが、
「完全給食」はどうだったか?
城見小の場合、完全給食の“完全”は遅いような記憶がある。というのは隔日での完全給食であったような気がする。


大門町誌「大津野のあゆみ」より


戦後の食糧難は極めて深刻な問題であった。
この農村地域の大津野でも学校に弁当を持ってこられない児童が多かった。
弁当を持って来れる者でもその中味は粗末なものでした。
こうした状況の中で昭和25年から脱脂粉乳によるミルク給食が始まった。
昭和29年学校給食法が設定され、これを受けて学校給食が実施されていった。
昭和30年には、みそしる給食(副食給食)が始まっている。
そして昭和36年から完全給食が実施されるようになった。
それから20年後の昭和56年には米飯給食も導入されていった。
なお、完全給食が始まった頃は、一食当たり20円くらいであったが、一ヶ月の給食費がなかなか払えない家庭もあった。
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城見小の進学先

2015年06月27日 | 城見小・他校

昭和(戦前)になると義務教育は6年であったが、それで就学が終了する人は稀だった。

男性の場合、
中学校(福中=誠之館・金中=金光学園高)や実業学校(笠岡商・神辺実業など)へ進学する人。小学校高等科(2年)で学び、就学終了する人と中学・実業へ進学する人がいた。中学校進学の人はそこで就学が終了する人が多かったが、師範学校(岡大教育)や陸軍士官学校や海軍兵学校に進む人もいた。高校へ進学する人は極稀だった。

女性の場合、
高等女学校(笠高)と小学校高等科(2年)に分れた。高等科を出る人は、就学終了の人と女学校(淳和・増川など)へ進学の人に分れた。高等女学校を卒業後の進学先は女子師範学校(岡大教育)にほぼ限定された。

男女とも城見小学校高等科(就学8年)で終了の人は、引き続き付設の実業補習学校や青年学校で1~2年学ぶ人が多かった。

昭和(戦後)は学制改革があり、城見小卒業後は大半の人が金浦中学校へ進学した。
高校進学は笠岡市と福山市が多い。
昭和30年代は男子の大学進学者が出始た。その当時の女性進学は短大だった。昭和40年代になると女性の進学も4年制が多くなった。

通学可能範囲の4年制大学は昭和30年代までは5校程度だったが、今は20~30校まで拡大している。それでも地元を離れ、遠い大学を希望する人は多い。
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城見小の給食が始まる前

2014年12月04日 | 城見小・他校
原則毎日弁当を持って行った。

1~2年生の頃は学校で保温してくれた、けれど味が落ちるので冷えた弁当を食べていた。
金属の弁当箱は新聞紙にくるんでカバンに入れていた。おかずにアゲの時は汁が出て新聞紙が半分染みていた。
弁当は早食い競争で、誰が一番に校庭に出て遊ぶか、負けないように・・・よく噛まずに・・・食べていた。

弁当の他に、
小学学校の1年生からアメリカからの援助物資「脱脂粉乳」を飲んでいた。
最初は元役場で沸かして学校まで運んでいた。


月に1~2度給食の日があった。

その日は全校生徒は「割木3本」を学校に持参した。
給食は脱脂粉乳と「おかず」で、米(と言っても麦飯混じりだが)は弁当箱に入れて持って行った。
調理は宿直室の隣でしていたような気がする。
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城見小の学校給食

2014年12月04日 | 城見小・他校
小学校の4年生の頃、校舎の東側教室が「調理室」に変わった。(生徒減で教室が余りだした)
城見の2人の女性調理婦で全校生徒の「完全給食」が始まった。
当番制でクラスから2名が調理室から給食を運んで、汲んだ。

食器はすべてアルミやスズの合金だった。
食事は、脱脂粉乳とパンとおかずだった。
パンはこっぺぱんで小切したマーガリン付き。
おかずは圧倒的にクジラ肉料理が多かった。
たまにミカンがデザートで付いた。
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校長先生の挨拶

2014年12月04日 | 城見小・他校
毎週二度、校庭の壇上から校長先生による全校児童へ挨拶があった。
月曜日の始まりと、土曜日の昼の全員帰校時前だった。

ある時の挨拶が忘れられない。
校長先生は踏切を渡るときの心得や安全について話した。

「踏切で事故をしてはいけない!」という話であったが、それは
児童の安全ではなくて
「踏切事故で汽車を停めようなら、あなた方の親は膨大な費用を国鉄に支払うことは出来ない」から、という話だった。

城見小児童にとって踏切の安全は全児童に及んだが、
校長先生の頭の中はまだ、命よりも国家という名残があったのだろうか?

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小学校の唐傘

2014年12月04日 | 城見小・他校
教室には生徒数ぶんの唐傘(からかさ)があった。
目的は雨降りの帰校に自由に使うため。

この唐傘は油紙(あぶらがみ)に雨音が、パラパラでなく、パチパチと大きく
かつ、うるさかった。

次の登校時には教室に戻すために持参していた。
ところが、この傘は重く、大きくて
遊びながら学校に行く児童にとっては邪魔だった。

そうゆう訳で雨降りの帰校は濡れながら走って帰っていた。
なお、朝から雨の場合は”こうもり”をさして通った。
(当時、折りたたみの傘は・・・勿論・・・なかった)


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遠足の行先

2014年12月04日 | 城見小・他校
小学校の1年は歩いて城山。帰りはバスだった。
吉浜の天神さんへ歩いて往復。

2年は歩いて、津之下の元飛行場、当時は自衛隊。大きな釜にびっくりした。家庭用の釜しか知らなかった。当時は塩田が見えたはずだが記憶にない。
汽車で福山の福山城、バスで明王院。芦田川の大河(川幅)にびっくりした。

3年は記憶不明。

4年は汽車で金光教へ往復。

5年は汽車で尾道千光寺。

6年は汽車で岡山市の岡山城。

今思い出すに、行先よりも
持ち物の「店で買った」「お菓子」方が楽しみだった。
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修学旅行

2014年12月04日 | 城見小・他校
当時は一泊で、隔年で高松・屋島と広島・宮島・岩国と行先が違っていた。

昭和35年は広島だった。

見物場所は初日が比治山と東洋工業と平和公園、宮島に行って見物と宿泊。
二日目はバスで岩国の米軍基地、錦帯橋。

出発の朝は真っ暗な道を6年生だけが学校に行った。
学校から大門駅に向かう途中、溝口池付近で夜が明けた。

比治山で弁当を食べ、東洋工業の工場見学(オート三輪だったかな?)、見学の後でみんなにボールペン(鉛筆かも?)を呉れた。
原爆資料館を見て宮島に泊まった。干潮で海にある大鳥居で記念写真を撮った。
旅行で泊まるのは生まれて初めての経験だった。(二度目は中学、三度目は高校)。親類以外に泊まるということは無かった。

岩国ではシロ蛇が見物場所でなく残念だった。米軍でほんもものアメリカ人を見た。基地内の家の庭が芝生だった。

復路は呉線でトンネルが多くみんな喜んだ。(海岸線とか海には無関心)

なお当時は、岩国城も広島城も天守閣は無かった。



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