しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

オート三輪 (棒型ハンドル)

2023年09月26日 | 失われた仕事

福山青果市場のオート三輪

学校が終わって、用之江から茂平に帰っているとオート三輪が後ろからやってくる。
オート三輪は茂平への峠道を越すのが能力いっぱいだった。
それで同級生数人でトラックの後ろを押していた。
峠道を登りきると、そのお礼に、トラックに乗せてくれた。
一人か二人が前に乗り、運転手の隣の助手席。残りの人が荷台に乗った。
助手席と荷台は、だいたい順番。
どちらに乗っても楽しかった。嬉しかった。

オート三輪は二日に一度くらい、福山から茂平の園芸場に果物を取りにきていた。
3時前後に茂平にきて、30分後くらいに、果物を積んで福山に帰っていった。
オート三輪に遇うのは、下校中の楽しみだった。
坂道をゆっくりと走って来る、
「来たぞ、来たぞ」。
3人~5人でトラックを押すと、トラックのスピードは気持ちぶん速くなる。
走りながら押す、
排気ガスを吸い込みながら押す。
その頃、車から出る排気ガスを吸うと文化というか、町の香りがしてうれしかった。

ある日の事、
学校から帰っていると、オート三輪が道路から田んぼに、頭から突っ込んでいた。

 

・・・

・・・


そのことがあり、
茂平に来る福山青果市場のオート三輪は新車に変った。
車がピカピカの新車になったことよりも、
ハンドルが円形に変っていたことに驚いた!
丸い形のハンドルで車輪の方向を変えることが出来る、ということがまだ子供には理解できなかった。

丸ハンドルのオート三輪は、
ハンドル以外にもエンジンの馬力がよくなっていた。
さすがに”クロガネ”(当時日本一といわれたメーカー)は違うという噂だった。
もう小学生が応援しなくても自力で悠々と峠道を越えるようになった。

だから、小学校を卒業するころには
「オート三輪を押したなあ、荷台に乗せてもらったなあ」というのは昔話になっていた。

・・・

 

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馬子(馬方)

2023年09月25日 | 失われた仕事

城見小学校前の国道2号線を通る車両(エンジン付き)は1時間に1台くらいで、
道はもちろん未舗装だった。
たまに荷馬車が通っていた。
荷馬車は農協前で休憩することが多く、
そこで水やカイバを食べ小休止していた。

茂平や用之江に馬を飼う人はなく、
荷馬車の馬を見ると、珍しいので、いつも馬見物をしてから去っていた。

・・・

茂平に馬を飼う人はなかったが、大冝に馬を飼っている人がいた。
農耕とたまに運搬に使用してようだった。

 

・・・

 

「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行

 

馬子(馬方)
馬に荷物や人を乗せて商売する人。
馬引き、馬子、馬追いともいう。

馬を引いて人や荷物を運ぶ労働者。
人足ともいう。
馬は駄馬が多く、農業などで使う馬よりも質が悪かった。

・・・

 

 

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モーターグレーダーが国道2号線を直す

2023年09月25日 | 失われた仕事

城見小学校前の国道2号線を通る車両(エンジン付き)は1時間に1台くらいで、
道はもちろん未舗装だった。
たまにモーターグレーダーが通っていた。

当時の城見小学校の生徒が目にするものでは、ずいぶん大きな車両で、
「道直し」とか「道削り」と呼んでいた。
この車両は”道直し”をする車で、
道を直すために、”道を削って”いた。

 

 

つまり国道2号線の路面の凸凹を削って、平に均しながら走行(自走)する工事車両。
走行後にローラーが来て踏めば固まるが、ローラーが来ることはなかった。
だから「道直し」の効果はほとんどなし。
家庭から出るアサリの殻を水たまりに捨てる方が、
まだ「道直し」の効果があった。

そういうモーターグレーダーの「道直し」だったから、1~2年ほどして国道2号線で見ることはなくなった。
城見小学校前の道路が舗装されるのは、それから5~6年先のことだった。

 

 

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西日本縦断駅伝(下関~大阪)

2023年09月25日 | 失われた仕事

城見小学校の前を、国道2号線が通り、その道では下関から大阪までの駅伝大会が毎年開催されていた。
全国大会なので、当然ながら国内トップレベルの選手たちが毎年、城見小学校の前を走っていた。
下関から大阪に向かうコースで前日は福山市の中心付近がゴールで、
朝に福山をスタートし午前10~11時頃、城見学校前を通った。


全校生徒は駅伝ランナーが走ってくる20~30分前に校庭に集合した。
そこで主催者の読売新聞の小旗をもらい、学校の下の国道2号線でやってくるであろう選手を待った。

選手は今の駅伝と同じで、肩に襷をかけて走ってきた。
47都道府県の選手が次々に来たり、間をあけて走り去っていった。
旗を振って”がんばれー”、
岡山県選手と広島県選手への声援が高かったような気がする。その頃、東北や九州は今でいう外国よりも遠い存在だった。

小学生たちにとっては、授業が1時間ほど飛ぶので歓迎していた恒例行事だった。
お隣の大津野小学校と金浦小学校は国道2号線に近いから、城見小と同じように小旗を振って応援したのだろう。
北隣の陶山小学校や、井原市の小学校はまったく縁がない行事。
富岡小学校は応援したのだろうが、笠岡西小・東小はどうだったんだろう?

そのことよりも、
国道2号線を道路規制もなく全国大会の選手が走っていた、という事実が、
今となっては不思議としかいえないほど、日本経済も日本道路も低開発国の状況だった。

 

・・・

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東日本縦断駅伝

(Wikipedia)


東日本縦断駅伝(ひがしにっぽんじゅうだんえきでん)は、読売新聞社主催によるロードレース大会である。スタートの青森県とゴールの東京都の頭文字をとって『青東(あおとう)駅伝』とも呼ばれた。大会スローガンは「花になれ 風になれ 人は誰でもチャレンジャー」であった。

歴史
この大会は、サンフランシスコ講和条約の調印を記念して1951年に「青森東京駅伝」として第1回大会が開催された。コースは青森県・青森市(青森県庁前)からスタートして、岩手県、宮城県、福島県、栃木県、茨城県、埼玉県を経由して東京都・銀座(読売新聞本社前)を55区間・759.0kmで走破する東日本の都道県対抗レースとしてスタートし、以来毎年11月に開催されてきた。その後距離こそ若干の前後があるものの55区間は不変で1970年の第20回大会まで続いた。その後1971年の21回大会からコースが秋田県・山形県経由となり、ゴールが東京都・大手町に変更された(これは、交通事情の悪化と読売新聞の本社が移転した事に伴うものだった)。

一旦1974年の24回大会を最後に休止されたが、1982年に東北新幹線の開業を記念して岩手県・盛岡市(岩手県庁前)から東京都・大手町のコースで大会名称を「東日本縦断駅伝」と改め25回大会として復活し、1983年の第26回から再び青森スタートの完全復活となる。1984年~1993年の10年間は女子選手も出場したことがあったが、1994年から男子選手のみに戻る。東京都チームが4回の完全優勝(全区間1位)を含む23回の総合優勝歴を誇った。

関連大会
元々、東日本縦断駅伝は青森-下関を結ぶ駅伝構想の第一区間として行われた、第二区間として東京大阪駅伝(東京 - 大阪)、第三区間として西日本縦断駅伝(大阪 - 下関)が存在したが、いずれも1970年に消滅したままとなっている。実現すれば、さらに2013年に廃止された九州一周駅伝(2011年より「グランツール九州」)を含め、青森から九州を一本のたすきでつなぐ一大駅伝プロジェクトが確立していたことになる。

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ソノシート

2023年09月24日 | 失われた仕事

 

レコードは値段が高く、一枚300円くらいしていた。
300円あれば、
映画館に二度いける。
斎藤の中華そばなら、5杯食べれる。

それに対し「ソノシート」は安かった。
薄い塩ビ板でぺらんぺらんなレコードだった。
でも、音は普通にでるし、
中高校生に人気があった。
というより、
中高校生でも買えた。

レコードはレコード店に売っていたが、
ソノシートは本屋で売っていた。
一冊200~300円の本に、4~5枚のソノシートがはさげてあった。

勁文社という会社の独断場だったが、
次第に安物っぽくて、飽きられていった。

 

 

 

 

・・・


「失われゆく娯楽の図鑑」  藤木TDC グラフィック社 2022年発行


ソノシート

レコードよりも薄くてペラペラ。
半透明な円盤。
通常のレコードより音質は劣ったが、
安価で大量生産向きだった。

 

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パチンコ

2023年09月22日 | 失われた仕事

 

駅前といえば、
田舎駅では「自転車置き場」と「食堂」があるのが当たり前で、
町の駅では、それに加えて「パチンコ店」があった。

 

初めての時は、パチンコ店は玉を打つのが難しかった。
左右の客はみんな
右手にレバー
左手で玉入れ、
(それを連続して打ちながら)
口にはタバコ。

自分にそのまねはできなかった。
特に左手で玉を入れるに手間取った。
何か肩身の狭い思いがした。
おまけに、当然ながらおカネがみてる。
それで、パチンコ店には行かなくなった。

それから1~2年後経って、
「玉は左手で入れなくても、皿に移すだけでいい」
という話を聞いて、再び行くようになった。
これは楽だった。
打つだけでいい。
タバコも手に持って吸える。
音楽を聴きながら、ときには歌いながら打った。
そのうちイスが設置され、さらに楽になった。

パチンコ店を出る時、いつも目がぼーーーっとなった。
至近距離で玉を見つめつづけるので視力がおとろえた。
(パチンコだけが原因でないが、一因となった)
おまけに、いつも負けていたので、店に入る回数が減って、
しまいには駅前からパチンコ店が消え、(郊外店が主になった)
行かなくなった。

 

 

 

・・・

「失われゆく娯楽の図鑑」  藤木TDC グラフィック社 2022年発行

 


パチンコ

バブル期は老若男女問わずホールに集まったが、
現在は若年層が減り、出玉制限など業界の規制も強化される一方だ。

・・・

 

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質屋

2023年09月22日 | 失われた仕事

金浦中学校の同級生に、「家が質屋」の人がいた。
高校の同級生にも、「家が質屋」の人がいた。
マンガにも、物語にも、テレビでも
こっそり「着物」や「時計」や「カメラ」を質に入れて、
当座の現金を手にするのは定番のストーリーだった。

・・・


学生時代、テープレコーダーが欲しかった。
が、おカネがないので我慢をしていた。
すると友人が、
「質屋に行けば1.000~2.000円で買える」と教えてくれた。

暖簾をくぐって質屋に入ると、
テープレコーダーも2~3品展示されていた。
質屋の主人と交渉して、たしか1.500円で買って帰った。
しかし、
「欲しい」と思っていた割には、これをしたい、ということが無く
たまにラジオの流行歌を録音する程度で、使ったという記憶がほとんどない。

使った記憶が少ないのは、商品が変わっていったのも大きな要因。
買った(手に入れた)テープレコーダーは、”オープンリールデッキ”で、
本体もテープも大きかった。
電機メーカーはカセットテープのテープレコーダーを売り出し始めた。
便利さは比較することすら無理、すぐに遺物になってしまった。

・・・

・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行


質屋

昭和に入って、質屋の数が一番多かったのは戦前と高度経済成長期である
品物が本物か偽物かを見抜く鑑識眼が質屋には必要。
着物、指輪、時計、楽器、カメラ、運動器具、書画骨董などが質草として重宝された。
およそ10年の修業が必要とされた。
公休日にはデパートに行って、品物を手に取り、目を肥やした。
中には盗品を売りに来る客、
安物を高級時計と偽る客もいる。

客が返済期限まで(90日間が多い)に借りた金と利子を払えば、
預けた品物は客に戻される。
できなければ「質流れ」といって、質屋の店頭で商品として販売される。
質草の王道は着物で、一番受け取りやすく、売りやすかった。

質屋は客の世間体を考慮して大通りでなく、人目につかない横道に店を構えた。
昭和50年代にサラ金などが増え、質屋は減少した。

・・・

「昔のお仕事大図鑑」 日本図書センター  2020年発行

質屋
質屋は質草の価値をその場で見定め、客にお金を貸します。
期限までにお金が返せない場合には、あずけた質草は質屋のものとなり、「流れる」といいます。
質屋には火に強い蔵や保管庫を備えることが法律で決められています。

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成人映画館

2023年09月21日 | 失われた仕事

エロ映画と呼んでいた。
笠岡では金星劇場。
福山では御船町の映画館(大黒座の斜め向かい側)。
街中にある映画館のポスターでも、エロ映画のポスターは目を引いた。

どのエロ映画も、女性の肉体をおおげさに表現していた。
特に笠岡のスサキ通りのスサキ橋手前の、金星劇場のポスターは目立った。
人の行き来が多く、大人も、子どもも、みんな目にはいる。それが、笠岡に限らず当時の町の風景だった。

 

 

(最初)
エロ映画
高校卒業した春に、初めてエロ映画を見に映画館に入った。
映画は白黒映画だった。
それが、途中何回かカラー映画に切り換わる。
切り換わる時は、同時に音楽がいやらしい音や声に変るので、寝ていても気がつく。
ポスターといやらしい音で勝負する映画で、
見終えて、あほらしさだけが残った。

(二度目)
日活ロマンポルノ
日活は普通の映画を止めて、”ロマンポルノ”と自称するエロ映画をつくりだし、一定の人気を得ていた。
題名は忘れたが、歌手・五月みどりが主演の映画を見にいった。
オールカラーで、エロ映画と違うのは、役者や脚本が少しよかった。

(三度目)
飛び出すポルノ
同僚3人で町を飲み歩いていたら、
”オールナイト”で”飛び出すポルノ”の映画館があった。
酔った勢いで入ったら、
そこで左右色違いの、色メガネを渡された。
これは楽しみじゃ、
とイスに座って眼鏡を掛けると、
スクリーンから立体ポルノが飛び出すどころか、
二重三重に見えて、画面不明
しかも目が痛い。
20~30分居てから映画館を出た。
サッパリだった。

 

 

 

・・・

「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行

成人映画館

1960年代、テレビ時代の到来で映画会社が潰れ、多くの映画館が成人映画に切り替わった。

新東宝映画が1961年に倒産、
多数のスタッフや映画館チェーンが宙に浮き、
翌年そんな彼らによって製作、公開された「肉体市場」がその第一作とされる。
やがて1971年には日活が「ロマンポルノ」へ舵を切る。

・・・

 

 

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靴磨き

2023年09月21日 | 失われた仕事

「靴磨きをしてもらえば気分がええよ」と雑談中に友が言った。
しかも、「安い」という。
一回300円。

300円なら、試しに一度、いい気分になってみようと思った。
昭和40年代福山駅前の伏見町、
駅と天満屋の間の路上に靴磨きの人が3~4人並んでいた。

木のイスに座り、片足を台の上にのせる。
すると路上に座ったままの靴磨きの人は、
客の顔も見ることなしに、靴についたドロ・ホコリを払う。
次に磨く、その次に靴墨でピカピカに仕上げくれる。
両足分で約5分くらいだろうか?
300円を払って去る。

靴磨きと客の会話はいっさいない。
会話があるのは、
オプションで靴底に金具を取り付けてもらう時だけで、
金具を付ければ、歩く時、路面を踏む音がする。
今思えばあほらしいけど、それが当時の男性のおしゃれの一つだった。

では、気分がいいというのは・・・ほんとうだろうか?
これが・・・ほんとうのことだった。
理由は
客はイスに座って高い所、何もしない。
靴磨きは地面に座って低い所、作業をする。
この上から下を見下すような、ヘンな優越感が気分いい。
だが
この優越感は、人としては何の根拠も中身もない優越感なので、
うれしくもないし、
そんなことを感じる自分が恥ずかしい「優越感」だった。


尚その頃、町を歩く男性の場合、黒か茶色の革靴いっぽんで、シューズはまだなかった。

 

・・・・


「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優  原書房 2016年発行
靴磨き

靴磨きは警察署から道路使用の許可を貰って、行う。
場所は移動できず、日よけなどの設置も許されなかった。

作業手順は、
客のズボンの裾を折り返す。
刷毛で靴のホコリを取り払う。
靴に詰まったドロもブラシで払う。
靴の底、甲に靴墨を塗る。
これを念入りに3.4回塗ってすり込む。
剥げていれば更にすり込む。
ブラシで全体に広がるようにする。
タオルでまたこする。
最後に乾いたタオルで乾拭きする。

 

・・・

 

「失われゆく仕事の図鑑」  永井良和他 グラフィック社 2020年発行

靴磨き

駅の近く、
たとえば大きなターミナルの通路に靴磨きはいた。
大きな道路の歩道に、露店として商いをしていた靴磨きもいた。
靴は革靴だった。
磨けば艶が出る。

靴を磨く仕事を、やむなくしなければならない人たちがいた。
飢えをしのぐため、気の毒な事情をかかえた人たちがいた。

その台に、土足を投げ出し、小銭と引き換えに靴を磨かせる。
明瞭な対照をなす瞬間だった。


・・・
 

 

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肥買船(肥船・糞船)

2023年09月20日 | 失われた仕事

近年まで、
農家の食べ物は、
麦や雑穀や芋を主食とし、おかずはコーコに梅干し、味噌汁、干魚。

ところが町に住む人は、
お米や魚や肉や野菜や果物を食べていた。

食生活の違い(というか差は)あまりに大きく、食べる物が違えば、人糞も違うと、
農家の人は信じ町の人たちの人糞を買い求めた。
特に花街の人糞は相場がよかったようだ。


・・・


(父の話)

人糞と牛糞の違い・町の人糞と田舎の人糞の違い


(人糞と牛糞はどちらが良かったのか?)
そりゃあ、人糞じゃ。
食いもんが違う。
窒素が違う。
人間はええものを食べる。ええものを食べりゃあ、それだけ成分がようなる。

人糞も。田舎よりは町の人のほうがええもんを食べるんで、町のひとのほうがええ肥になりょうた。
(田舎の)梅干ばぁ食びょうるんじゃあ、ええうんこがでん。町の美味しいものを食びょうる人のほうがよぅ効く。

談・2002年10月14日

 

・・・・・・

「瀬戸内文化誌」  宮本常一 八坂書房  2018年発行


肥買い船


阿波の藍は関東の干魚をその肥料にしていた。
讃岐では古くから大阪の下肥を買う風があった。
明治大正になって、この風は著しく助長されたようである。
というのは昭和10年頃、
大阪市の港区に在住する香川県人のみで、18万人にのぼっていたという事実からも察せられるのである
肥船もこれらの人たちを慕ってきたようで、
讃岐の人は大阪で飲食しても、その糞便で故郷の土をこやしていたのである。

 

・・・・


(父の話)

肥えを積んだ船が茂平に来ていた。
神戸から来とった。
船の真中辺に肥えを積んどった。

それを金を出して買おとった。
浜に入った船に荷車にニ荷積んでしんがいの畑の野つぼに移し、せえから、また船に行って買おて今度は他の畑にうつす。
そわあなのは戦中から戦後まで3~4年続いたじゃろうか。

(人糞肥料はどんな野菜や果物に適していたのか?)
何にでも効きょうた。

談・2001年4月22日

・・・

「野々浜むかし語り」  福山市野々浜公民館  1991年発行

肥船

昔は肥料屋が船に肥を積んで売りに来た。
肥船はタンカーのような構造の船だ。
神戸の方からも来ていたから「神戸肥」とも言っていた。

この船が野々浜の港に入り、肥を一荷(いっか)幾らで百姓をしている者に売る。
この時は浜の方の家の者は、臭くてかなわなかった。

「野々浜むかし語り」  福山市野々浜公民館  1991年発行

 

・・・・

 

 

追記・「灰船」もあったようだ。

「瀬戸内文化誌」  宮本常一 八坂書房  2018年発行


灰船

町において、その家々の炊きだされる灰の量は夥しいもので、
煙草や綿の耕作地帯ではその灰を珍重していた。
塩田の塩炊き小屋、
瀬戸内海の沿岸には瓦を焼く所の灰。

・・・

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