しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

どうしても見たかった試合『ボクシング』その①

2020年06月05日 | 昭和36年~40年
どうしても見たかった試合①海老原vsポーン・キングピッチ


見れなかった。
家にテレビはあったが、民放は二つしかなく、海老原の試合は岡山県では受信できなかった。
代わりにラジオ放送があった。
ラジオで聴いた。
一ラウンドに海老原のカミソリパンチが当たりKO勝ちした。
うれしくて、翌日
大門駅まで行ってスポーツ新聞を買った。

今に直せば
ミニマム
ライトフライ
フライ
スーパーフライ
の4階級制覇。
WBA
WBC
WBO
IBFの4団体統一チャンピオン。

つまり一人で世界チャンピオンの16人ぶんのチャンピオン。
スポーツニュースではなく大ニュースだった。

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映画館の看板屋さん

2019年12月30日 | 昭和36年~40年
映画館の看板屋さん

高校の時、通学路に映画の看板屋があった。
毎朝その看板屋の前を通っていた。
その当時、笠岡に映画館は(島を除き)、大和座・笠岡セントラル劇場・笠岡中央劇場・金星劇場の4館があった。
上映中の映画は、町の何か所にポスターを設置し、毎週ポスターを貼り変えていた。当時は上映は一週間と決まっていた。
看板屋さんが作るのはポスターを見て主人公などを描いて、それを映画館の入場券売り場の上・映画館の出入り口の上に掲げるものだった。
以上は、笠岡だけでなくほぼ全国共通。

映画の衰退で映画館は休館で、看板屋さんは廃業したと思う。
なにしろ、全国の映画館が休館の頃は、日本経済が全盛期を迎える時と重なるので、仕事に不自由はなかった。

一度、笠岡の看板屋さんの話を聞いてみたいと思っていたが、叶わないので本から転記させてもらう。

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「日本懐かし映画館大全」2017年 辰巳出版発行より転記。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

映画全盛期を支えた”映画看板絵師”という仕事

最盛期の頃は、水戸のほとんどの映画館の看板を描いていました。
一番多いときは11館。
忙しくて、映画の券はもらえるんですけど、見にいけなかったです。
大きな看板を持っていくのは大変なので、何枚かに分けて作っていました。
映画看板の構図は、ポスターを見た途端にすぐ頭に浮かびます。
ここへ主役を入れ、わき役はここへ、題はここへ。
難しいのは人の肌色ですね。
人間の肌に近いイメージの色をだしたい。
看板絵は真剣勝負です。
一度描き始めたら、途中描きなおしはできない。
役者も、必ず似させて描く。顔が似てなきゃ商売にならない。
でも、
大勢の人の目に留まるものだから、本当にやりがいがありました。


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森山加代子の「月影のナポリ」

2019年03月07日 | 昭和36年~40年
その頃、家にテレビが無かった。
ラジオから女性が歌う変わった歌詞で、軽快な曲が流れていた。


ティラレ タリルッナ
キスしてほしいって
ティンティンティンの胸のなる
ティンティンティンと甘い恋よ

「月影のナポリ」という曲名で、新人歌手の森山加代子が歌っていた。
ナポリの事は歌のどこにも出ないし、どしたんだろうと思った。

次の曲もいっそう変わっていて、もはや意味不明だったが大ヒットした。
「じんじろげ」
子供たちもきそって歌った。

ちんちくりんのつんつるてん
まっかっかの
おさんどんお宮に願かけた 内緒にしとこ
ジンジロゲ ヤ ジンジロゲ
ドレ ドンガラガッタホーレツラッパのツーレツ
マージョリン ・・・

ある日、大門駅前の食堂で母とかき氷を食べた事があった。
店には高いところにテレビが置いてあり、
初めて「森山加代子」を見た。
顔よりも、長い三つ編みが印象的だった。
話しがうまかった、司会の玉置宏と上手に会話をしていた。
その頃は、”歌う”こと以外何もしないのが”歌手”だった。

次の曲は、「パイのパイのパイ」だったが、
既に前の二曲で変わった歌詞に慣れていたので、自然に聞けた。

一時だったが、あの頃は美空ひばり・島倉千代子に並ぶほどの人気者だった。
2019年3月6日、病気で亡くなった。76才。
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茂平の貸本屋

2016年12月27日 | 昭和36年~40年
観音堂の隣に、独り住まいのお婆さんがいた。
夏休み時などは双子の女の子が遊びに来ていた。

そのお婆さんのうちで「貸本屋」を始めた。
玄関からはいるとすぐ、土間と座敷の間の板間に漫画の本を並べていた。
1冊借りると5円(だったかな?)で一度行けば、たいてい2冊借りていた。
漫画本の数は多くなく、1週間ほどで何割か入れ替えをしていた。

その貸本屋が在ったのは昭和35.36年頃で、管理人は漫画に対する興味が薄れていた。
数回借りた記憶がある。

その頃は全国的に貸本屋が流行ったようだ。
金浦からは自転車の荷台に漫画と読み物を積んだ貸本屋が。週に1~2度各家の庭まで来て廻っていた。


大冝では、吉浜の近くの店でも貸本をしていた。(借りたことはない)
用之江の学校下では、貸本屋が流行る前から漫画を置いていた。学校帰りに借りて帰ることもあった。

中学の時、生江浜では、茂平の貸本とほぼ同じ規模の店があった。

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40年間も日本が遅れていたもの

2016年12月13日 | 昭和36年~40年
アンネナプキンは昭和36年、「40年間お待たせしました」という新聞広告を繰り返したので、その商品が何をするももかも知らずに商品名は覚えた。

姉は古いタンスの中の、古着でつくったぼろぼろの布を祖母にみせてもらい「いずれ始まったら、これを使うように」と言われたそうだ。祖母も使い古しの布で使っていたのだろう。

(母は姉に、その件については「おしえてくれなかった」そうだ)


姉は男女共学の高校に行ったが、それの時は脱脂綿をつかっていた。脱脂綿はかさばるので、ませた男子生徒から冷やかされていたそうだ。


「昭和レトロ商店街」(早川書房)に当時の広告が載っているので転記する。

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欧米では40前から研究され、今では85%以上のご婦人が愛用している訳です。

これに引きかえ、わたしたち日本女性は遠いおばあさまの時代=明治そのままの原始的方法しか知らされておらず、40年もオクレテいたのです。

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現在の日本で芸術や文化・思想等は40年遅れているものは珍しくないが、物つくり・工業製品では皆無に近い。

しかし戦後10数年では、まだ日本は貧しかった。どの分野も欧米に遅れていた。アンネナプキンの宣伝文も時代を感じさせてくれる。

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茂平越県合併事件

2015年06月19日 | 昭和36年~40年
昭和35年(1960年)当時、笠岡市の人口(73.000人)は福山市の人口(85.000人)とほぼ拮抗していた。
翌昭和36年、福山市に日本鋼管の進出が決まり、昭和37年より水野組(五洋建設)による大規模な埋立工事が始まった。

茂平の西隣野々浜は、山陽本線以南は一面が水田と塩田跡地であったが、大型道路が出来て、市街地化へと変化し始めた。
それに伴い土地価格も上昇し、急に生じた資産価値の格差への羨望もあり、福山市への合併により地域の変貌を期待する住民の声が高まった。

昭和38年、茂平銅山と西ノ谷地区民を中心に福山市への合併協議会ができた。
協議会は茂平に縁故関係がある福山市区選出の中川弘県会議員を訪問し、協力と今後の運動展開を相談した。中川県議は同氏支援の福山市会議員数人を紹介し、市議が窓口になり合併運動に協力することとなった。

茂平の越県合併運動は新聞やテレビでも取り上げられた。

昭和38年7月20日、岡山県議会では「広島県側に近い茂平地区は福山へ合併アンケートをとり、近日とりまとめるという。これは、岡山県政がへき地の者を軽視して・・・」という質疑があった。(この項伊藤大孝著・人生不屈より)

昭和39年4月の笠岡市長選挙では現職・新人の2人が立候補し、新人候補は茂平地区の越県合併に賛同する事を表明した。(新人候補は落選した)

合併運動は同じく県境の用之江に広がり、福山市へ「合併請願書」が出された。

昭和39年9月に三木行治岡山県知事が急逝した。
三木知事は水島の発展に尽力してきたが、他方(県南以外の地)からは不満も生じ、茂平の越県合併事件の遠因にもなっていた。
突然の県知事選挙に用之江出身の自民党加藤武徳参議院議員が立候補した。選挙は社会党候補と争い加藤氏が当選した。

新岡山県知事は早々に地元入りし、地元での「越県合併騒動」を憂慮し運動を止めるよう懇願した。“武徳さん”の岡山県知事就任を祝う合併協議会員は、頭を下げる知事の意を汲み、以後運動を中止する事にした。
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干しイチジク

2015年02月28日 | 昭和36年~40年

高梁川流域の市町村や法人が加盟している「高梁川流域連盟」の機関誌「高梁川」の第46号に茂平の干しイチジクが掲載された。





干しイチジク


いちじくは高温な気候を好み、笠岡市茂平に古くより生食用として栽培され、葉及び果実は整腸剤としての薬効があり、品種は在来種(蓬莱柿)を栽植していた。

 明治の中期に糖度の高い西洋種ホワイトゼノアが導入され、地元の大本幸太が干菓製法を考案(完熟した生果を硫黄でむし、天日乾燥を行い果を平たくし一週間で製品となる)製菓会社へ販売していた。

大正時代~昭和の初期には栽培者も増加し、乾燥方法も研究改良を加え、各戸に燻蒸室を作り、練炭火力と硫黄でむし、天日乾燥一週間で良質な製品が出来るようになり、栽培も盛んにとなる。

 昭和七年茂平干いちじく組合を結成、干果の協同集荷、検査、販売を行い箱詰(五〆目入)にして神戸、大阪、横浜へ協同出荷するようになる。

 昭和十三年、納屋を改良、小箱詰(二十五~三十ケ)を一箱とし、”珍菓ほしいちじく”として県内及び県外の市場へ出荷販売する。

 昭和二十年、戦中・戦後の食糧難時代には手作り自然食品として、岡山鉄道弘済会を中心に全国に販路を広げ、笠岡特産干いちじくとして広く愛用された。

 昭和二十七年、農村加工優良組合として山陽新聞社より表彰を受ける。

 昭和二十八年、農村加工推進補助事業として、国の補助をいただき、組合加工場、集荷場の新築を行った。





製造方法について







八月~十月に生果を穫り、燻蒸室に入れ、温室六十度以上硫黄でむし、一週間天日乾燥を行い、手作業で平たくする。十一月より集荷検査小箱詰を行い、翌年五月迄に笠岡特産干いちじくとして各地に出荷する。栽培面積五ヘクタール。

昭和三十五年頃より食品衛生法に依る検査がきびしくなり、干いちじくも硫黄分の含有量が検出され、組合として岡山県農業試験場、岡山工業試験場、大阪府立園芸試験場の諸先生を講師として現地において製造乾燥法の研究を重ねる。



改良研究実施方法



(1)燻蒸室を改良して温度を80度以上に上昇し、硫黄を少量して燻蒸乾燥する方法(扇風機使用)

(2)生果を砂糖水(20%)で五日間、30%で五日間、40%の砂糖水で五日間浸漬した後取り出し陰で乾燥する方法。



(3)生果を40%の砂糖水煮沸後天日乾燥する方法。

(4)その他化学薬品による方法等。



 以上いずれも乾燥方法製造方法に日数を要し、人件費、材料費が高くつき、品質でも色が紫黒色化して自然食品とは思われず、そのうえ生産コストが高く、組合として製造改良の研究を中止する。

 昭和39年このままの製造では食品衛生法に抵触した場合の対応に責任がもてないので製造販売を中止する。

 昭和40年に生食ようとして市場出荷、食品加工会社へ生果原料等として販売したが、単価が安く収支が合わないので、各自に生木を切り倒して在来種のいちじくに改植を行う。 

 以上昭和40年産より特産珍菓干いちじくは市場より姿は消え去った。


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葡萄酒の密造で捕まる

2014年12月18日 | 昭和36年~40年
物心が付いた時には、既に家では葡萄酒を造っていた。
葡萄の粒の傷ものを有効利用して発酵させていた。
その葡萄酒は甘く、甘酒と同じ程度の意識で子供でさえ飲むことがあった。


しかし時代は変革していた。
日本経済も村社会も急速に変化して、この事はその時代を、ある面で象徴しているように思える。

(父の話)

(密造していた葡萄酒が・・・・密造の意識は無いが・・・)長ぅおぃといたら醗酵してき、アルコール度が高おなってくる。

そしたら罰金くうた。3000円じゃったけぃのう?!

作ったのは隠しとったんじゃじゃけぃど、じいちゃんが飲むけぃ出しとったら。
来たら探すんじゃけいのう、台所を。

飲んだやつを見られてのう、罰金くうた。

(田舎で葡萄酒を調べると)ぼっこうでるんじゃ。ウチがやられる、はるおさん方がやられる。
ぶどう作りょうる人は、なんぼうかこしらえる。


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干しいちじく③改良研究実施方法

2014年12月11日 | 昭和36年~40年
(1)燻蒸室を改良して温度を80度以上に上昇し、硫黄を少量して燻蒸乾燥する方法(扇風機使用)
(2)生果を砂糖水(20%)で五日間、30%で五日間、40%の砂糖水で五日間浸漬した後取り出し陰で乾燥する方法。
(3)生果を40%の砂糖水煮沸後天日乾燥する方法。
(4)その他化学薬品による方法等。

 以上いずれも乾燥方法製造方法に日数を要し、人件費、材料費が高くつき、品質でも色が紫黒色化して自然食品とは思われず、そのうえ生産コストが高く、組合として製造改良の研究を中止する。
 昭和39年このままの製造では食品衛生法に抵触した場合の対応に責任がもてないので製造販売を中止する。
 昭和40年に生食ようとして市場出荷、食品加工会社へ生果原料等として販売したが、単価が安く収支が合わないので、各自に生木を切り倒して在来種のいちじくに改植を行う。 
 以上昭和40年産より特産珍菓干いちじくは市場より姿は消え去った。

資料「高梁川」昭和63年12月20日発行・干しいちじくの今昔

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干しいちじく②製造方法について

2014年12月11日 | 昭和36年~40年
八月~十月に生果を穫り、燻蒸室に入れ、温室六十度以上硫黄でむし、一週間天日乾燥を行い、手作業で平たくする。

十一月より集荷検査小箱詰を行い、翌年五月迄に笠岡特産干いちじくとして各地に出荷する。栽培面積五ヘクタール。


昭和三十五年頃より食品衛生法に依る検査がきびしくなり、干いちじくも硫黄分の含有量が検出され、組合として岡山県農業試験場、岡山工業試験場、大阪府立園芸試験場の諸先生を講師として現地において製造乾燥法の研究を重ねる。



資料「高梁川」昭和63年12月20日発行・干しいちじくの今昔
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