しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

干しいちじく①干いちじくの変遷

2014年12月11日 | 昭和36年~40年
いちじくは高温な気候を好み、笠岡市茂平に古くより生食用として栽培され、葉及び果実は整腸剤としての薬効があり、品種は在来種(蓬莱柿)を栽植していた。

 明治の中期に糖度の高い西洋種ホワイトゼノアが導入され、地元の大本幸太が干菓製法を考案(完熟した生果を硫黄でむし、天日乾燥を行い果を平たくし一週間で製品となる)製菓会社へ販売していた。

大正時代~昭和の初期には栽培者も増加し、乾燥方法も研究改良を加え、各戸に燻蒸室を作り、練炭火力と硫黄でむし、天日乾燥一週間で良質な製品が出来るようになり、栽培も盛んにとなる。

 昭和七年茂平干いちじく組合を結成、干果の協同集荷、検査、販売を行い箱詰(五〆目入)にして神戸、大阪、横浜へ協同出荷するようになる。

 昭和十三年、納屋を改良、小箱詰(二十五~三十ケ)を一箱とし、”珍菓ほしいちじく”として県内及び県外の市場へ出荷販売する。

 昭和二十年、戦中・戦後の食糧難時代には手作り自然食品として、岡山鉄道弘済会を中心に全国に販路を広げ、笠岡特産干いちじくとして広く愛用された。

 昭和二十七年、農村加工優良組合として山陽新聞社より表彰を受ける。

 昭和二十八年、農村加工推進補助事業として、国の補助をいただき、組合加工場、集荷場の新築を行った。


資料「高梁川」昭和63年12月20日発行・干しいちじくの今昔
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