しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年、ソ連への和平依頼

2023年08月09日 | 昭和20年(終戦まで)

終戦間際の日ソ交渉ほど、みじめな外交交渉はない。
「溺れる者は藁をも摑む」を、国家が実行した。
ここまできても、なお
「死中に活を求める」案すら出せず、ソ連にすりよるだけで、最後に侵攻された。

 

・・・

「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行


「対ソ静謐(せいひつ)」

「一億玉砕」本土決戦
太平洋の島々での戦いではことごとく敗戦を重ね、もはや日本の敗戦は必至とも見えるこの時期、軍部はどのような心づもりで本土決戦をのぞもうとしていたのか。
対外政略の唯一の目標としてあげられたのが「対ソ静謐(せいひつ)の保持」であった。
アメリア軍を迎え撃って本土決戦を行うためには、北方のソビエトとの安定が絶対条件であった。
唯一絶対の条件であった。
1943年11月、
テヘランで開かれた米英ソ首脳会談で、改めてソビエトの対日参戦は確認された。
12月15日、スターリンはハリマン大使に対日参戦の政治的条件として
「千島列島と南サハリンはロシアに返還されるべきだ」と述べ、
さらに旅順・大連、満州鉄道・中東鉄道、外モンゴルの承認を要求した。

・・・

 

最高戦争指導会議(5月11日)

東郷は世界情勢を説明しつつ、激しく反論する。
「もはやソビエトを軍事的・経済的に利用しえる余地はない。
日本が手をこまねいてる間にカイロ宣言、テヘラン会談、さらにヤルタ会談となったのだ。
好意ある態度を誘致するとかいっても手遅れである」
鈴木首相の提案で、
ソ連の参戦防止、
好意的中立、
戦争終結に仲介させる。
とくに戦争の終結がはじめて正式に検討されたという点で重大な意味を持つ。
5月14日にも開催され、
まずソビエトに提供すべき代償について話し合われ、次のような代償提供を覚悟することで意見の一致をみた。

 


・・・

「終戦史」  吉見直人  NHK出版 2013年発行

東郷の謎

東郷が当時推し進めようとした対ソ工作は、戦後「幻想の対ソ工作」などとも称されてきた。
なぜ、すでにヤルタ会談で対日参戦の密約を交わしたソ連に対して甘い期待を抱き、
米英への和平仲介を頼むなどという理解に苦しむ外交交渉をやったのか。
当時外務省政務局第一課長だった曽祢益も戦後、
「泥棒に警察官を頼むようなもの」と回想している。
天皇の意向
そもそもモスクワに特使を派遣する案は、東条内閣、小磯内閣と
繰り返しソ連に申し入れ、いずれも拒絶されている。
この時(7月12日)、昭和天皇は戦争終結を急いでいた。
アメリカは、東京の東郷外相とモスクワの佐藤大使の往復電報をすべて傍受、解読していた。

 

・・・

「スイス諜報網の日米終戦工作」  有馬哲夫 新潮選書  2015年発行

1945年5月14日、最高戦争指導会議は、ソ連を仲介として終戦交渉を行うことを決定していた。
この時、交戦国である英米が、日本が受け入れられる条件を示していたなら、この段階で戦争は終わっていた可能性がある。
その条件とは国体護持と天皇制存置だった。


・・・

「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

ソ連外交への甘い期待

1945年1月の時点では、ソ連は4月までに中立条約破棄を通告することは決めていたが、
中立条約の無視・対日参戦については、結論を出すに至っていなかった。
ところが現実には、2月のヤルタ会談で「ドイツ降伏後、2~3ケ月で対日参戦する」という密約が取り決められた。
戦局の予想外の進展である。
ソビエト軍の大攻勢で独ソ戦が予想より早く帰趨が明らかになり、対日参戦にできると考えられた。
また、
太平洋の米軍の進撃状況から、一年もたてばもうソビエトの参戦は必要としなくなるという判断があった。


戦後を見据えていたソビエト

駐日ソビエト大使・マリクは1944年7月21日にモロトフに報告書を提出している。
マリク大使は
日本の無条件降伏後、米英が日本に対して取ろうとしている措置に無関心であってはならない。
とくに、ソビエトの極東地域に隣接していて現在日本の支配下にある地域
(満州、朝鮮、対馬、千島列島)
が、日本から他の大国に手に渡ることを決して許してはならない。

同じ頃、
「絶対国防圏」を突破された日本は、ソビエトの中立条約尊守を希望するだけにとどまらず、・・・・

再開された広田・マリク会談
6月24日、
しばらくぶりに広田・マリク会談が再開された。
広田は、
和平を望む日本に対しソビエトが好意的態度をとるかどうか?
その場合、どの程度の代償を日本に要求してくるのか?
感触をつかもうとした。
しかし議論はまったく噛み合わなかった。

6月29日
広田は日本からの具体的提案を用意した。
日ソ間の永続的親善関係を樹立し、東亜の恒久的平和維持に協力することとし、
日ソ不侵略の協定を締結する。
この条件として、次の三点をあげていた。
一、満州国の中立化(日本軍の撤兵)
二、ソビエトから石油を供与してもらえる場合は、ソビエト水域での漁業権放棄
三、そのほか、ソビエトの希望する諸条件について論議する用意がある
広田は、これを早くモスクワに伝えてほしいと述べた。
マリクは「考慮する」とだけ述べた。
実際、日本の提案は、検討にも値しないようなものだった。

 

・・・

ソビエトと米英の協力関係に楔を打ち込み、
ソビエトを枢軸国に取り込むという現実離れした構想を本気になって推進しようとしていた。
ご都合主義にはしった日本の外交が、いかにお粗末なものであったかを実感せずにはいられない。

・・・


ソビエトへの和平仲介依頼

6月29日の広田・マリク会談で、日本側からいちおうの具体的提案を提起したにもかかわらず、マリクからの返答はなかった。
モスクワの佐藤大使のもとに7月13日、緊急電報が届いた。
「(ポツダムの)三か国会談開催前にソビエト側に戦争終結に関する大御心を伝え置くこと」
日本政府は、はじめて戦争の終結に関して、ソビエト政府に申し入れるよう命じたのである。
天皇の親書を携えた近衛文麿を特使として派遣したい旨をモロトフに直接申し入れよというものだった。
日本への回答はまたもや遅れる。
佐藤は7月15日東郷外相へ、
「無条件」という条件はつけない無条件降伏を主張し、
同時に、
近衛の交渉次第で無条件降伏でない講和が可能だと考えるような「幻想」は打ち砕こうとしたのである。

 

・・・

7月17日佐藤大使の親展が届いた。
それは、事実上の特使受けれの拒否の回答だった。
「ソビエト政府にとって特派使節の使命がいずれにあるやも不明瞭であります」
天皇の威光がソビエトに届くはずもなかった。


7月20日、
佐藤は東郷外相に最後の意見電報を打電した。


「敵の絶対優勢なる爆撃砲火のもと、すでに交戦力を失いたる将兵および国民が全部戦死を遂げたりとも、ために社稷は救わるべくもあらず。
7千万の民草枯れて上御一人ご安泰なるをうべきや。
すでに互角の立場にあらずして無益に死地につかんとする幾十万の人命をつなぎ、
もって国家滅亡の一歩手前においてこれを食い止め7千万同胞を塗炭の苦より救い、
民俗の生存を保持せんことをのみ念願す」


日本国内ではまだ誰も言い出せなかったことを、佐藤は意を決して、モスクワから政府に訴えかけようとした。
「祖国の興亡この一電にかかるとさえ思われ、書き終えて机に伏す。涙滂沱なり」
と日記に記している。

7月25日、
再度佐藤は特使派遣の仲介を申し入れた。

・・・

 

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昭和20年8月8日・福山空襲の夜

2023年08月08日 | 昭和20年(終戦まで)

これは、
昭和22年4月1日に岡山県小田郡A村立A小学校に入学したB男さんの話。
談・2023.7.23

 

 

・・・

(問)小学校入学する前の想い出は?

 

戦時中の記憶

福山の空襲夜と、あくる日

いちばん記憶があるのは福山の空襲。
まあ、ぼのすごいB29が何機も旋回する。
焼夷弾を落とす。
そしたらあくる日になって、空からひらひら紙が落ちてくる。
商店の燃えカスが落ちていくる。商店の伝票や台帳が。
あれだけにゃビックリした。


田舎では庭に「涼み台」を置いて、9時か10時まで休んでいた。それから寝とった。
普段は、リュックと防空頭巾を枕元に置いて寝ようた。
その日は、
リュックサックを背負って、
もう僕らは逃げる用意をしとるん。
最低限の衣服と食べ物をちょろっといれとん。
空襲の時にゃ、そこで震えながら空を見とった。
僕らは壕がないから裏の山に逃げようゆうことにしとん。
裏の山はうっそうとして松の木がいっぱいあるん。
あっこへ逃げれば大丈夫じゃろうようた。
そこへは結局逃げなんだが、
逃げずにぶるぶる震ようた。

 


灯火管制と空襲警報発令

申し合わせがあって
”空襲警報発令”ゆうたら、上から電気が見えんようにせにゃあいけん。
外からも見えんように
昔は裸電球、傘があるのと無いのがあるが、それを風呂敷を被せて光が下だけにした。
村に面白い人がいて、
”空襲警報発令じゃ”いうて、その人が走ってまわるんじゃ。サイレンや半鐘もなるけれど。

電球は居間と台所と二つ。
電気(電球)はあったが、電気代がいってもったいないので石油ランプがあった。

 


・・・

 

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昭和20年、食べる物がない②大人「ほしがりません勝つまでは」

2023年08月08日 | 昭和20年(終戦まで)

食べる物や武器がなくても、精神論とスローガン(標語)だけは勇ましかった。
事後冷静になってみれば、まるで負け犬の遠吠えとしか言えない。

・・・・


「日本流通史」 石井寛治 有斐閣 2003年発行


食糧不足

極度の食糧不足に対応するため、国民は食べられるものは何でも食べようということになった。
雑誌『生活科学』1943年3月号は、昆虫で食べられそうなものを紹介している。
トンボの幼虫やかいこのサナギ、いなごの成虫。
カミキリムシやゲンゴロウまで、いったいどうやって食べるのであろうか。

これではまるで江戸時代の飢饉の庶民の姿である。

・・・

 

「日本の食はどう変わってきたか」 原田信男 角川書店 平成25年発行


昭和15年7月、国民精神総動員運動による贅沢排撃運動と相まって、
8月1日の興亜奉公日には「ぜいたくは敵だ」といった立て看板が並び、
贅沢追放が魔女狩り的に広まっていった。
この規則によってデパートの食堂などでの米食が禁止され、米なし献立に切替られて、ソバ・ウドン・パン・おから・すいとんなどの代用食が主役となった。

食料は欠乏状態となり、非常食の研究が盛んに行われて、
昭和18年の「週刊毎日」では、「食べられるものいろいろ」という特集が組まれ、
ヘビトンボ・カワゲラ・クロスズメバチの幼虫の他、
ゲンゴロウ虫の佃煮などが記されている。

昭和20年7月7日「京都新聞」には、人間の尿から塩をとる方法が紹介されている。
悲しい意味で、まさに戦いは「文化の母」だったのである。


・・・・

「日本食物史」 江原・石川・東四柳共著 吉川弘文館 2009年発行

国民食

「米はなくとも雑穀や芋で立派な国民食ができます」、
国民食運動の目的は節米であった。
入手した食材の完全利用をはかって無駄を出さず、
地域食材の活用や自家生産を奨励することが、あらゆる機会をとらえてPRされた。
さらに、昭和17年には大政翼賛会を中心に、
「玄米食奨励運動」が展開された。
米不足を受けて政府が注目したのは、農山村の食生活であった。
米麦混合、粟黍混入、甘藷、里芋、麺類、雑炊、とうもろこし、そばなどであった。
これらは農産村の一般的な食生活の実態であった。
この食習が、当時の食糧難を救うのに役立つものとして行われた。
さらに昭和20年は冷害・風水害による大凶作で、配給量は極端に低下した。


代用食と日の丸弁当
戦時の象徴的な食物は代用食と日の丸弁当である。
日の丸弁当はごはんの真ん中に梅干を一つ入れただけの弁当で、
国旗のイメージと重なり、愛国弁当としても意味づけられた。
昭和14年制定の「興亜奉公日」には、質素倹約の象徴として、日の丸弁当を持参することが流行したが、
精神主義だけが前面に出て、栄養面の配慮のないものであった。

・・・

「日本食物史」 江原・石川・東四柳共著 吉川弘文館 2009年発行


カテ飯
混主食はカテ飯で、増量の為にさまざまなものを混ぜて炊いた。
たとえば、油の絞りかす入りの「豆粕飯」、
干しウドン入りの「干しウドン入り飯」、
茶ガラを入れた「茶ガラ入り飯」などは節米のための苦肉の策であった。

一方、代用全食には、雑炊、粥、すいとんなどがあり、
代用主食には、どんぐり麺、ふすま入りパン、ぬか入りパン、うの花入りパン、ぬか団子、ふすま入り団子、そば芋餅、はと麦餅、どんぐり餅のようなものまで登場している。

・・・・

田舎では、貧しくとも日々の食料は不足なかったようだ。


(母の話)
イナゴ
イナゴは言うだけで食べた事は無い。 ジャムにして食べるとかようたがしていない。
どんぐり
粉にしてパンにする、とかようたが拾うたこともパンにした事も無い。
2001年1月3日

・・・

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昭和20年、食べる物がない①決戦食

2023年08月08日 | 昭和20年(終戦まで)

戦国時代に有名な”三木の干し殺し”、”鳥取の渇え殺し”。
これは、天正時代の出来事で450年以上前の話。
それが、昭和時代の日本で再現されようとしていた。

日本列島全体を封鎖され、

人・食糧・燃料・物資の移動ができない。
いっぽう封鎖された国内では、
労働力なく、肥料なく、農具なく、食糧生産が制約された。

中国やアメリカやソ連と戦う兵の食糧が、昭和20年秋には底をつき。
さらに、
昭和21年はそれ以上の食糧危機を迎え、兵も銃後も飢え死の可能性が高かった。
おそらく、
食料不足で暴動が起き、敗戦だったと思える。

 

・・・

「ふるさとの戦争」  青木 暢之  中国新聞 1995年発行

決戦下「野草も食糧に」

国内の食糧事情は窮迫していた。
主食の米はまず軍需食糧として確保される。
台所では米に変わり、サツマイモ、ジャガイモ、雑穀が主食に昇格する。
代用食はイモばかりではない。
20年になると情報局発行の『週報』は、
「野草も決戦食糧に」と題した特集を繰り返す。
アカザ、イノコヅチ、ヒユ、スベリヒユ、シロツメグサ、ヒメジオン、ツユクサ。
この七種は「新選夏の七草」である。

・・・


・・・

 

「日本の食はどう変わってきたか」 原田信男  角川選書 平成25年発行

日中全面戦争の長期化によって物資不足が深刻化し、
最低限度の食料さえも自由に入手できる状態にはなかった。

昭和14年の木炭からはじまり、
翌15年には繊維製品やマッチの他、
米・麦・砂糖・大豆などの生活必需品が配給制となっていった。

この年には朝鮮・西日本の干害もあり、日本人が主食としてきた米そのものの供給が厳しくなった。
白米の禁止と七分搗きの強制、これに麦・豆・芋の混食。酒やビールの製造制限が実施された。
8月1日の興亜奉公日には「ぜいたくは敵だ」といった立て看板が並ぶなど、
贅沢追放が魔女狩り的に広まっていった。

翌、昭和15年「最低の生活、最高の名誉」を標語とし、
国民生活を最低限度に切りつめることを強調した。
太平洋戦争がはじまると、栄養状態にまで悪影響を与える状態となった。

・・・

飢餓とたたかう「決戦食」
茶殻も野菜代わりに

飢える銃後
厚生省は昭和16年9月、米の供給減にともなう新たな「日本人栄養要求量」の最低限度を、成人男子1人1日熱量2.000カロリー、蛋白70gと発表した。
しかし昭和19年になると、この最低限度を下まわる1927カロリー、45.4gにまで低下した。
大阪府の場合、15歳の平均体重は17年45.4k、18年44.7g、19年42.8gと減少していった。

政府は食糧不足に対する抜本的な解決策よりも、「工夫が足りない」「我慢が足りない」として、
米や代用食以外のものを主食化しようという「決戦食」を喧伝した。

また「日本に栄養不足絶対になし」とする栄養学者も現れた。
「日本人の栄養は1.000カロリーを割っても栄養学的にはまだ大丈夫。
ようするに日本人は『玄米と味噌と野菜少々』あれば、いつまで戦争が続いても決して栄養不足になる心配はなく、いつまで戦争が続いても決して栄養不足になる心配はなく定期で頑張れるのです」
(杉靖三郎『婦人倶楽部』昭和19年6月号)
と主張する学者もいたのである。

・・・・

 

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「この非国民め!」

2023年08月07日 | 昭和20年(終戦まで)




「この非国民め!」

戦時中、京都女子大の国文科の二年生の学生だった時、
学徒動員が下り、私たち女学生は軍需工場へ動員されました。
そこで毎日やらされたのは、弾磨きです。
私は毎日長時間作業による過労と、粗食で体調を崩し、
ある日の午後、工場内の蚕棚のようなベッドに休んでいました。
少し気分が落ち着いてきたので、持参していたバルザックの『谷間の百合』の文庫本をつい手に取った時です。
そこに当直将校が見廻りにやってきました。
バタンと大きな音がしたかと思うと、将校の怒号が響きました。
「起きろ!
貴様、仮病を使って何を読んでいるのか!なにい、『谷間の百合』?
こんな敵国の本を読んでいるのか!
この非国民め!」
平手打ちを食わせました。

好きだった学業を中断され、疲労して病に倒れ、せめてもの慰めにと手にした小説すら没収されてしまった。
いちばん学びたかった、本を読みたかった時に、その自由はなく、
私は人を殺す弾を磨いていたのです。
それが私の学生時代でした。

それでも、私などはまだしもでした。
同じように動員された友人は爆撃で命を落としました。
そして男子学生は、やがて特攻隊として雲の向こうに死んでいきました。

学業は何も修めずとも、自動的に卒業免状が付与され伝で毎日新聞に入社。
ここで学芸部の副部長であった井上靖さんに出会いました。
やがて井上さんは作家デビューされ、毎日新聞社を退社される際に、
「君も小説を書いてみては」と言って下さいました。
私は昭和33年に退社し、職業作家の道を歩めました。


「作家の使命・私の戦後」 山崎豊子 新潮社 2009年発行 


・・・・




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昭和20年②本土決戦と「一億総玉砕」

2023年08月05日 | 昭和20年(終戦まで)

「竹槍から鎌、ナタ、玄能、出刃包丁、鳶口に至るまで、
刀、槍は敵兵の腹部めがけてぐさりと突き刺す。
みぞおちを突くか、睾丸を蹴る。
一人一殺でよい」

まるで原始時代か古代を思わすが、昭和の戦時中、国民に配布した『国民抗戦必携』に書かれたもの。
最期に”神風が吹いて日本が勝つ”、それを国民に押し付けた。


兵器も、食べものも、着るものも、学校もなくなったが・・・日本には”大和魂”がある!、とされた。

・・・

 


「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

本土決戦の現実

昭和20年6月8日の御前会議で「挙国一致皇土決戦では国民義勇隊の組織を中軸とし・・・」と記され、
国民義勇隊の組織化には大きな期待が託されていた。

国民義勇隊は、
官公署、会社、事務所など多数を擁するところはその職域ごとに、
その他のところでは、一定地域ごとに組織され、
老幼者、病弱者、妊産婦などを除く範囲の国民が参加することとされた。

隊員は皇国護持の精神のもとにその各々の職責を全うしながら、次のような活動に積極的に出勤するものとされた。
防空および防衛、空襲による被害の復旧作業、重要物資の輸送、工場の疎開、
食糧の増産等に関する工事や作業、陣地構築、兵器・弾薬・糧秣の補給輸送などである。
国民義勇隊はさらに、情勢が急迫し本土が戦争になるときには、国民義勇戦闘隊に移転するものとされた。

6月23日、これに法的根拠を与えるため義勇隊兵役法が公布・施行された。
これにより、
年齢15歳に達する年の1月1日より60歳に達する年の12月31日までの男子、
年齢17歳に達する年の1月1日より40歳に達する年の12月31日までの女子が義勇兵役に服することになった。
「一億特攻」をスローガンに、全国民の軍隊化がはかられたのである。

しかし、正規の軍隊でさえ武器・弾薬の不足に悩まされていた状況下、一般の国民である義勇隊に与える余分の武器・弾薬が、充分にあろうはずはなかった。
したがって国民には徹底的な精神主義が叩き込まれ、
まともな武器もないままに自らの命を賭して敵に立ち向かうことが強要された。

当時大本営陸軍部が国民義勇隊に敵と戦う方式を示す目的で発行し、一般に配布した「国民抗戦必携」には、
「対戦車肉薄攻撃」
「挺身斬込み戦法」といった捨て身の覚悟での戦い方が解説してある。
「白兵戦闘と格闘」の一節には、こんなくだりがある。

 

 

「銃、剣はもちろん刀、竹槍から鎌、ナタ、玄能、出刃包丁、鳶口に至るまで、
これを白兵戦闘兵器として用いる。
刀、槍は敵兵の腹部めがけてぐさりと突き刺す。
ナタ、玄能などは後ろから奇襲する。
格闘になったら「みぞおち」を突くか、睾丸を蹴る。
一人一殺でよい。

アメリカ軍の近代兵器による猛攻撃を前に、日本の国民は竹槍、鎌、ナタなどを手に戦おうとしていた。
一億玉砕。
本土を舞台にして、沖縄と同じ悲劇が再び繰り返されようとしていた。

 

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「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

九州防衛の実情

日本側はアメリカ軍の本土侵攻の時期、上陸地点をほぼ正確に予測していた。
上陸地点としては
宮崎海岸、
志布志湾、
吹上浜、
の三方面があげられていた。

日本側にとって何よりも急務とされたのは、
アメリカ軍を迎え撃つ陣地を構築することだった。
上陸予想地点を中心に各地で、兵隊のほかに学徒隊や女子挺身隊も動員して、
陣地構築のための穴掘り作業が連日続けられた。

第二五師団師団参謀をつとめたT氏は、陣地の構築については、次のように語っている。
「だいたいね、永久築城というコンクリートを使ったのはどこもやってないんですね。
土や泥で造ったのに穴掘ったという程度のところが大部分でしたね。
私は鉄筋コンクリートを使ったやつはこの地方では全然知りません。
もう造る余裕がなかったのです、資材がなかった。
旅順の二〇三高地なんかには、今でも堅固な要塞が残っていますがね、
あんなものは一つも造っていませんよ」

 

 

第二総軍作戦課長だった大佐はこう語っている。
「日米の師団数はほぼ同数。
日米の戦力比は1対10。
わが方は決死敢闘、玉砕戦法あるのみ」
日本の勝算はほとんどなかった、しかし
一般住民に対しては、郷土防衛のため、軍と同様に特攻精神をもって参加することを求められた。

 


・・・


「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行

一億玉砕へ

6月6日の最高戦争指導会議
秋水月三総合計画局長官と迫水久常内閣書記官が、
「国力の現状」と「世界情勢判断」と題する文書の説明を行った。
「国力の現状」は、戦争遂行能力がなきにも等しい日本の現状を正確に描き出すことになった。

例えば「輸送力」については、
使用船腹量急減、しかも燃料の不足、敵の妨害激化、荷役力の低下・・・本年末に於いては殆ど皆無に近き状態に立至るべし。
「鉄道」輸送力は前年度の1/2に減退。極地輸送になるおそれ大なり。
「鉄鋼」生産は原料・輸送困難で前年度1/4程度に陥る。

「国民生活」についても絶望的な記述が続く。
食糧の逼迫は漸次深刻を加え本端境期は開戦以来最大の危機にして、
大陸糧穀及び食糧塩の計画輸入を確保し得るとも、
今後国民食生活は強度に規制せられたる基準の糧穀と生理的必要最小限の塩分を漸く摂取し得る程度となるを覚悟せざるべからず。
さらに海外輸移入の妨害、国内輸送の分断、天候及び敵襲等に伴う減少等の条件を考慮に入るるときは局地的飢餓状態を現出するの虞あり。

国力の現状は、誰がみてももはや戦争を継続することが不可能な日本の姿だった。
しかし、
説明にたった秋永長官は生産の増強は不可能にあらずとの意見を語った。
最大の障害は「生産意欲ならびに敢闘精神の不足」であると、問題をすり替え、
精神力を高め、施策を徹底しさえすれば本土決戦は可能だとされたのである。

 


・・・


「終戦史」  吉見直人  NHK出版 2013年発行

『一億総玉砕』

敗色濃厚となり、日本中の都市という都市が空襲で焼かれてもなお、
狂気にかられた陸軍は一億総玉砕を叫んで徹底抗戦へと暴走し、
国民には竹槍で戦うのだと瞑想じみた精神主義を押し付けて道連れにしようとしたのだと、戦後ずっと我々は思っていた。


本土決戦

第二総軍作戦課長だった井本熊男大佐は戦後の自著で本土決戦準備を詳細に書き残している。
「陸軍兵器の充足の目途は立たなかった。
6月末現地視察によれば、
敵の戦車を破壊し得る火器はほとんどない。
小銃を持たなかったり、射撃すらしたことのない歩兵が多数おり、
持っていても中学校の発火演習用だったり、銃身の中が腐敗して実射が危ぶまれるものが多い。
銃剣がなく竹のヘラを腰に差している兵が多い。
気の毒なような老兵が少なくない。
陣地らしい陣地ができてない。
部隊は陣地構築に専念していて訓練をする実施する閑がない。
結局のところ、6月7月の実相として、敵のわずか1/30程度の戦力しか本土にはなかった」
当時、日本本土には一撃を加える力さえ残っていなかった、とみるのが妥当なところであろう。


水際決戦

本土決戦構想をみていくと、
陸軍上層部は「水際に於ける敵の必然的弱点を追及する」。
中堅層は「内陸部での持久戦を容認し」
現地部隊は、なるべく内陸部に陣地を構築する傾向があった。
通達は要するに軍をあげて水際に向かって総突撃を行って決戦せよ。
その際の大損害の如きは考慮するな。
後退配置などはとらない。


・・・・

 

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昭和20年①戦局は好転の見込み絶対なし【近衛上奏文】

2023年08月05日 | 昭和20年(終戦まで)

日本軍はレイテ戦で敗れ、マッカーサーはフィリピンに上陸した。
昭和19年から、日本の戦争は転げ落ちるように負け戦をつづけていた。

しかし、そもそも、開戦以前からそれは日本の指導層が認識していたことだった。
昭和20年2月、指導層で初めて近衛公が”敗戦”という言葉を使った。

 

・・・

 


「日本の歴史14」 研秀出版  1973年発行 

日本本土空襲

米国はB29をつくりだしとともに、昭和19年春から夏にかけて
中国四川省成都などに基地を設け、
満州・北九州・台湾の製鋼工場を爆撃。
昭和19年11月にはマリアナ基地から日本本土空襲を始めた。
11月24日から昭和20年3月9日まで、高度1万メートルから、
航空機工場を狙った。
精度は悪く,効果は少なかった。

昭和20年3月10日以降、
夜間の都市爆撃に切りかえ、低空(6.000m~8.000m)から焼夷弾攻撃をした。
とくに最初の東京下町爆撃では、
130機が2時間半で東京を4割を焼き、死者8万、負傷者10万、罹災者100万をだした。
攻撃は四方から包囲し、まず外側に火をつけ住民が逃げられぬようにして、
じゅうたん爆撃をしたもので、みな殺し作戦であった。
日本を焦土にした司令官ルメイには、昭和39年に佐藤首相から勲一等旭日大綬章をおくった。

・・・

 

 

・・・

「日本海軍の終戦工作」  纐纈厚 中公新書 1996年発行

「サイパン戦以来、海軍当局は連合艦隊はすでに無力化せりといい、
陸軍当局もまた戦局全体が好転の見込み絶対なしと一致せるものの、
只これを公言する勇気なしという現状なり」(近衛日記)

 

近衛上奏文

天皇は戦局悪化への不安から陸海軍当局者に対し、戦況の詳細に関する下問を行った。
これに対して陸海軍の両統帥部長は悲観的な報告を述べる一方で、
まだ最終的な反撃の余地はある判断を明らかにしていた。
これに加えて木戸自身が、この段階においても陸海軍主戦派の力量を評価していた。
近衛は陸軍主戦派から戦争指導の主導権を完全に奪わないと「国体護持」は到底無理であり、下手をすると国体破壊まで行きつくと考えていた。
昭和20年2月14日、
近衛は天皇に拝謁し以下のような上奏を行った。
それが有名な近衛上奏だ。

敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。
敗戦は我国体の一大瑕瑾(かきん)たるべきも、
米英の世論は今日迄の所、
国体の変更とまでは進み居らず、(勿論一部には過激論あり、また将来いかに変化するやは測知し難し)
随って敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる要なしと存候。

 

この近衛の上奏を契機に、天皇が梅津ら陸軍主戦派の言い分に全面的な信頼を寄せなくなりつつあったことは確かだった。

 

・・・

尚、

上奏文の写しを所持していたというだけで、外務省の吉田茂は憲兵に逮捕された。
しかし、そのこと(逮捕された)が戦後勲章となり、総理大臣となり、死は国葬で送られた。孫の一人も総理大臣までなった。

 

 

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天声人語 【大本営発表】 (辰濃和男)

2023年08月03日 | 昭和20年(終戦まで)

戦前・戦中の日本は、報道の自由が権力や法や軍事に圧迫され、
それが戦争の開戦~敗戦の大きな要因になった。

戦後の昭和は、その反省からもマスコミも言論人も矜持をもって出版や報道していたが、
平成ころからの日本は、
政治家の圧力もあり、報道機関が、何かすすんで権力にすりより、
自己と所属先の保身第一の報道が目につくようになった。
その結果、今や日本の「報道の自由度ランキング2022」では
世界71位のありさま、とても先進国とは言えない。

・・・

【ごまかしを監視し、戒め、責任をとる機能がなかった。】

【作家の高見順は当時の日記に書いている。
「沈黙を守っている新聞に対して、言いようのない憤りを覚えた」】


戦争と苦渋の体験した言論の先人に、今の報道人は顔向けできるのだろうか?

 

・・・

辰濃和男

一ツ橋大学HP「静かな炎・辰濃和男」

「文章のいちばんの条件は、これをこそ書きたい、これをこそ伝えたい
という書き手の心の、静かな炎のようなもの」
辰濃和男の言葉である。


・・・


 


「天声人語」 辰濃和男  朝日文庫 

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1986(昭和61)年 5・1

 

大本営発表の詐術  8・15

中学生の頃、動員されて軍需工場で働いていた。
太平洋戦争のさなかだ。
級友たちと手書きの同人雑誌をつくったら、
「死」について書くものが多くて、お互い顔を見合わせたことを覚えている。
予科練へ行った仲間もいた。

生き抜きたいとは思うが、数年内には死ぬことになるだろうというさめた気持ちがあって、
いかに立派に死ぬか、といったことを当時の私たちは幼い筆で書いた。

当時、大本営報道部にいた将校が戦後、発表のウソを認めて
「自分の前半生は罪万死に値する」と書いているのを読んだことがある。
発表のごまかしは、すさまじいものだった。
ごまかしの裏側を調べた保阪正康さんは
「こと大本営に関しては、日本の軍事集団が官僚機構としてあきれるほど腐敗していたことをものがたっている」と書いている。

「大本営」とは天皇に直属する最高の統帥部のことで、
戦争遂行の面では政府よりも強力で絶対的な存在だった。

陸軍と海軍が争っても手柄話に尾ひれをつけても、手痛い敗退を隠しても、ごまかしを監視し、戒め、責任をとる機能がなかった。

 

 

・・・

1987(昭和62)年 3・11

東京空襲・42年  

四十二年前の三月の『朝日新聞』縮小版を読んだ。
書かざる部分のあまりの大きさに、いまさらながら暗い気持ちになった。
一九四五年(昭和二十年)の三月十日、米軍B29による爆撃で東京の下町一帯は火の海になり、約十万の人が死んだ。

無数の遺体が、黒く焼けた木片のように無造作にころがる中を歩いたことが、いまも記憶にある。
あのころ東京にはすでに何回も空襲があり、そのたびに多数の死者があった。
だが、その詳細は新聞にはのっていない。

作家の高見順は当時の日記に書いている。
「東京の悲劇に関して沈黙を守っている新聞に対して、言いようのない憤りを覚えた」と。

当時の新聞は、空襲による被害者の数や焼失戸数を書くな、敵の攻撃効果の判定資料となるものは書くな、被害現場写真は「深刻ニ描写サレテイル」ものはのせるな、
と差し止められていた。

被害地域さえ「都内各所」とぼかされていた。

国家総動員法が言論を規制していた。

加えて、国防保安法、軍機保護法、不穏文書臨時取締法、陸軍省令、海軍省令、外務省令などが十重二十重に新聞、ラジオをしばっていた。
新聞がもし、空襲の悲惨をありのままに伝えていたら、伝えることができる体制があったら、を考えることは国家秘密法に反対する側にとって、貴重な教訓だ。

・・・・

 

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6月29日・岡山空襲

2023年06月29日 | 昭和20年(終戦まで)

岡山空襲は死者1.700人、
空襲警報が無かったことで、被災者が多かった、といわれている。

しかし、それを言えば
空襲警報が発令されていたなら、
果たして被災者が減っていたか?
それは違うと思う。
すでに当時の日本は、警報が出ても慢性化してして、「鳴っとるのう」の状況であった。

より大きな問題は、
市街地から避難するよう命令せず、(指導するどころか禁止した)
空襲が激化していても市民の避難を許さなかった。
その典型が軍都中の軍都・広島であるが、
岡山も広島も、そのことはまったく触れない。
被災者と空襲時の悲惨な状況のみを報道する。

悲惨な状況をつくりだたのは、
(米軍だけでなく)
”神州不滅””最後は神風が吹く”と
最後まで国民をあおり、指導・報道した国家・為政者である、
と自分は思っている。

・・・

(大戦末期の父・茂平の自宅にて)

・・・・


「帝国陸軍 戦場の衣食住」 学習研究社 2002年発行 より転記

下士官の食事

兵営での下士官の食事は、料理の内容と食器は兵と同じものであった。
しかし、下士官は内務班で兵とともに食事をすることはなく、部隊にある「下士官室」と呼ばれる
専用の個室ないし部隊本部に近接する事務室で、兵が運んでくる食事をとった。

また、既婚者や勤務年数の長い下士官は、将校同様に「営外居住」が認められており、朝食と夕食は自宅あるいは下宿で済ませ、昼食のみを部隊でとっていた。

 

・・・

父は三度目の入営中で、
当時、本土決戦にそなえて岡山の聯隊にいた。
年齢もあり、下士官兵だったので、
たまに帰る茂平の家で「岡山空襲」を知った。

翌日岡山で見た岡山市街地のことは何度か聞いた。
岡山駅が異様な臭いで、まだ半分燃えていたこと。
西川に浮かんだ幾重もの死体、
その死体は老人と幼児がほとんだだったこと。
その時、米軍機が上を飛んていた。
「戦果の確認じゃろうと思った。日本は見ずに発表するが」

・・・・

これほどの空襲を受けて後の、
岡山市長の方針が悲しすぎる。(お粗末すぎる)

岡山空襲の後、
火事も津波も空襲も、不幸にも出合会ったならば、・・・とにかく安全なところ、指定した場所まで逃げる。
なら、まだすくえるけれど

岡山市長の、「緊急防空対策」は
各家庭防空要員(男女)は必ず残ること。
バケツ等防火用水は三倍に増やすこと。

まさに”逃げるな、死んでも火を消せ”。

・・・

こうしてみると、
6月29日の「岡山大空襲」は夜であったので、
歴史的な大汚点を残さずに済んだ面がある。

昼、
岡山市国民学校。
焼夷弾の雨。
「空襲だ、逃げろ」
先生・生徒「校長先生、避難先はどこへ?」
校長先生「ワシャ御真影が大切じゃ」
先生・生徒「校長先生、避難先はどこへ?」
校長先生「護らねばならんのは生徒でなく、御真影言うとるじゃろ。」
焼夷弾、
校舎・校長先生・先生・生徒・御真影、みんな燃えてなくなる。

・・・


「岡山教育史」

ご真影の安否

昭和20年になると、米軍機が本土上空に侵入し、日本の空は完全に米軍に制圧された。

空襲化の学校で当時、最も憂慮されたのは、各学校に奉安しているご真影の安否であった。
県では、この日のあることを予想して、6月24日付の岡山県内政部長名で、非常の場合には市内公私立中学校は閑谷中学校へ、
岡山市内の国民学校は御津郡馬屋上国民学校へ奉遷するよう指示していた。
しかし、
準備中に空襲を受け、各学校宿直教員が、猛火の中をそれぞれ近郊の安全な学校へ奉遷した。
生徒は在宅中であり、平素の訓練もあってか比較的被害は少なかった。
幸いに被害を免れた公私立学校は、一時罹災者収容所、臨時病院となったり、官庁、団体、企業等が使用した。

焼失した学校の生徒の多くは、
郡部の縁故を頼って行った。
残った通学可能な生徒を集めて分散授業や青空授業をしたが、
出席したのは全体の一~二割にすぎず授業にはならなかったといわれる。

・・・

 

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昭和20年6月23日沖縄戦終了③大和特攻その2「先哲と殉国の士・新山人物誌」 

2023年06月23日 | 昭和20年(終戦まで)

特攻の観光地、鹿児島県知覧に観光で行った人が、
特攻隊員の手紙を読んで泣く。
それは観光客の自由で、泣きたいだけ、気が済むまで
存分にいつまでも泣けばいい。

 

だが
原則、「死人に口なし」。
特攻隊員の遺書は隊員の直筆だが、
「まだ死にたくない」「負ける」とでも書こうものなら、即座に没。
「お父さん、お母さん、お世話になりました。お国のため、喜んで死に行きます」は、即座に採用。
そこだけは、前提として読んでから・・・泣いてほしい。

・・・


殉国の士を、
せめても書き残して、後世に継ぐ、
そういう著者の篤い志が伝わる郷土本が笠岡市にもある。


・・・

(新山小・奉安殿)

 


「先哲と殉国の士・新山人物誌」 山部明  新山公民館 昭和47年発行

 

私の新山村助役時代は、
支那事変から大東亜戦争(こんな言葉は使ってはいけないとかだが)の再只中で、
私は来る日にも来る日にも出て立つ、若き戦士の勇姿を、
今は無き新山駅頭に送った。
そしてその多くは彼方の地に散華され、
迎えたのは白布につつまれた英霊でありました。
このことは素朴な農夫である私の心を永久に痛ましめるものであります。
そして、
これらの方々の名前だけでも集録して、
後世にとどめておきたいという祈願が、
長く私の胸に去来し、これが本書をものした第一の動機であります。

関係のお家で、根ほり葉ほりお話を伺ったりして、
失礼な事も多いと思いつつ
それでも私にできる老後のご奉公の唯一のものと信じ、
稿を閲した次第です。

 

・・・

 

 

山部巧
生 大正9.2.22
没 昭和20.4.7(26)

山口の人。
父永三郎は、現役兵当時、聯隊きっての模範兵で、感状賞状その数を知らず。
不幸、42才で去った。
母ナツノは男5人、女2人を無事に育てた。節婦である。
功は兄弟たちと共に、母に孝養を尽くした。
昭和12年、呉海軍工廠に就職した。
昭和16年徴兵検査に甲種合格となり、現役兵として呉海兵団に入った。
海軍軍人としての教養を着々と身につけ、軍艦大和に乗り込んだ。
大和は連合艦隊の旗艦で、三千三百人の乗組員はみな
最優秀の技倆の持ち主ばかりであった。
君はその中に選ばれて、
開戦以来、全海域にめざましく活躍した。
しかし戦争末期大和は巡洋艦、駆逐艦を率いて沖縄特攻を企て、
昭和20年4月7日、
徳之島西方の海域において、二時間余の激戦の後轟沈した。
君また乗組員一同と共に南海の華と散った。
戦功により勲七等功5級を賜る。
官は海軍兵曹長。

・・・

 

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