しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

徐州の女

2021年02月16日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
前線で撃ち合う兵は、生死が紙一重で極度の緊張と半狂の状態となるが
駐屯地における生活は、その真逆になる。
基地で1時間程の歩行訓練で、1日の業務は解放される。
となると、まだ若い20~25才の兵士が行く場所といえば、ほぼ限られる。

・・・・・・・・・


「憲兵よもやま物語」 山内一生著 光人社 1988年発行







徐州の女

慰安所は東門に近い域内で、大通りから坂を下ったところにある。
同じように区割りした小さな店がつづいているが、
ほとんどは韓国人の店だった。
ここは下士官兵専用で、将校は常磐街へ行くのであろう。
花子の店と書いてあったように思う。
やはり韓国の女性だった。
一軒一間の狭い店だが、中はやはり、なまめかしい女性の雰囲気がある。
しかし,当主の花子はいたって快活の感じの女だ。
「私のポンユー。かんげいするよ」とまず頬にキスした。
厚くて熱い唇であった。
そして茶ダンスから、出るわ出るわ。
あめ玉、せんべい、かりんとう、塩豆、ピーナッツ、甘なっとう。
「まだまだあるヨ」

・・・・・

慰安所界隈は兵隊の姿であふれている。
こうゆう場所では、
敬礼するのも答礼するのも、目が合うと、なにかテレくさい。

・・・・・・

それにしても、兵隊には、酒と食と性しか楽しみがないのだろうか。








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日中戦争の泥沼化

2020年10月06日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「満州事変から日中全面戦争へ」 伊香俊哉著 吉川弘文館 2007年発行

日中戦争の泥沼化



1937年(昭和12)11月、関東軍は蒙疆(もうきょう)政権を樹立した。
同年12月北支那方面軍が中華民国臨時政府を樹立した。
1938年3月には、中支那派遣軍が南京に中華民国維新政府をを樹立した。
この傀儡政権は統一もせず、民衆の信望は低かった。
国民政府の軍事的潰滅のあてが外れていった。

1938年春、徐州に中国軍50~60万人が集結した。
大本営は、大規模な包囲殲滅作戦である徐州作戦を4月7日命令した。
しかし六個師団約20万人の日本軍は、中国軍をほとんど捕捉することができず、
5月19日に徐州を占領しただけに終わった。

徐州作戦にひきつづき、
大本営は武漢攻略作戦に着手した。
当時武漢は中国軍主力の拠点であり、国民政府・党の機関も存在していたため、その攻略が戦争終結に結び付くと期待された。
また国民政府の遷都先である重慶は、武漢からさらに1000㌔ほど揚子江をさかのぼったとっころにある。
重慶は航空機による爆撃しかなく、そのためにも武漢の攻略は必要とされた。
大本営は武漢に加え、軍需物資の入口となっている広東省を攻略する方針を決めた。

1938年8月22日、30万の兵力で武漢作戦は発動された。
1938年10月26日の武漢攻略により幕を閉じた。
徐州同様、中国軍は退却しており潰滅的打撃を与えるという目的は果たせなかった。

日本国内では武漢や広東の陥落が華々しく報じられたが、日本の軍事的動員力は限界にたっしつつあった。
もはや前線への補給もままならない状態で戦線が拡大されていったが、目的を達することなく終わったのである。


宇垣工作と汪兆銘工作

宇垣工作
1938年5月に近衛内閣の新外相に就任した宇垣一成大将は、「国民政府を相手とせず」声明の修正を主張し、近衛も同意を与えた。
宇垣の登場は国民政府との和平工作を再開させる契機にはなったが、まもなく暗礁に乗り上げた。
中国側は、日本による華北支配・賠償支払いなどある程度応じる姿勢を見せたが、蒋介石の下野を拒絶し、交渉は行き詰まり9月に打ち切られた。


汪兆銘工作
汪兆銘は国民党副総裁の地位にあった。
日本軍の停戦表明に合わせて和平を実現する筋書きだったが、国民政府内の主導権は握れなかった。
その後は、汪兆銘を国民政府から切り離した。



1939年、
1938年末に中国戦線は膠着し、厭戦感情も表面化しつつあった。


1940年、

ドイツは4月以降北欧と西方諸国へ侵攻。
6月フランスを陥落させた。
ドイツの勝利に幻惑され「バスに乗り遅れるな」とばかり日独伊三国軍事同盟締結。
それを背景に東南アジア占領(南進)を活発化させた。

大東亜の新秩序
1940年7月22日、第二次近衛内閣が成立。
「基本国策」は「大東亜の新秩序の確立」と謳った。
これは、日満支を一環とし大東亜の包容する皇国の自給自足経済の確立を意味した。
「南進」は日中戦争解決でなく、それ自体を目的とした。
東南アジアに植民地を有するアメリカ・イギリス・オランダ・フランスとの対立は避けられないものとなっていった。
9月23日、ベトナム北部へ武力進駐が開始された。
9月27日、ベルリンにおいて日独伊三国軍事同盟が調印された。参戦は自主決定によることとなった。



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慰安所の実態

2020年10月05日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「満州事変から日中全面戦争へ」 伊香俊哉著 吉川弘文館 2007年発行


慰安所の実態

日中戦争期には民間人の渡航は許可制であった。
慰安婦政策が存在しなければ、業者が渡航許可を得ることは困難であった。
慰安所での性病の検査には軍や、時には領事館が関与していた。

中国戦線で「慰安婦」とされたのは、
日本国内、
日本の植民地であった朝鮮・台湾、
日本占領下の中国の、女性であった。

日本からは職業的な売春婦が連れて行かれるケースが多かったとみられるが、一般女性もいた。
朝鮮・台湾からは一般の若い女性が連れていかれるケースが多かった。
これら一般女性の場合、仕事の内容を偽って募集された女性も多かった。
彼女たちは戦地に着いてから「慰安婦」として使われることを知らされたが、もはや帰国するすべはなかった。

慰安所の稼働時間は朝から深夜までの15時間程度で、兵、下士官、将校という階級によって利用できる時間帯が分けられていた。
この間「慰安婦」は客として来た兵を拒むことはできず、多い日には一日で50人以上もの兵を相手にしなければならなかった。

女性たちは、親に支払われた金や、移動経費など、本人の知らぬ間に借金を負わされた形になり、「慰安婦」として働かざるをえなかった。
給与は、借金返済などにあてる形で本人には支払われず、借金が返済し終わると国防献金に回されてしまうなど、結局本人に渉るケースは少なかった。

休日は月一回しか与えられず、勝手に外出することは認められなった。
兵士はコンドームの使用が定められていたが、兵士は必ずしもそれを守らなかった。
そのため兵士から性病をうつされたり、妊娠する場合もあった。

戦地で病死した人や自殺した人もいた。
どうにか戦後まで生き延びた場合でも、自分の体験を恥じ、帰国しても故郷に戻れず、身をひそめるようにして結婚もせず、ひとりで生活するケースが少なくない。
性暴力により受けた精神的ダメージは、その後も彼女たちを苦しめた。

いったい何人の女性が日本軍の「慰安婦」とされたのかは
はっきりとわかっていない。
アジア太平洋戦争期を含めて、数万~20万人の女性が「慰安婦」とされたと見られる。



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遺体処理

2020年10月02日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
日中戦争時、父は一人の遺体を焼いて、その一人分の遺骨を複数人、
つまり本人及び他の戦死者(土葬)の遺骨箱に入れていたと話していた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「満州事変から日中全面戦争へ」 伊香俊哉著 吉川弘文館 2007年発行


中国戦線での遺体処理



戦友の死体を背負って前線から撤退するケースもあった。
しかし戦局が不利であったり、作戦行動との兼ね合いで時期的に余裕がない場合などは、そうはいかなかった。

銃弾が飛びかう下で、戦死した上官の遺品として肩章と軍刀を取った後、「右腕を銃剣で切り落とし、三角布で自分の首に下げた」
数日間処理できず「悪臭のはなった」腕を枕元に置いていた。

収容された遺体が多数に上った場合、手首から先を切断し遺骨とし、遺体は埋葬することもあった。
激戦のなかで戦死した戦友の指1本だけを切り取って持ち帰り、それを火葬にすることもあった。



戦死と遺骨

戦死
徐州南方で、1938年
6月9日、戦死の或る近衛工兵隊伍長の一例。
6月13日、神奈川県の家族に弔電が届いた。
6月15日、読売新聞と東京日日新聞の地方版に戦死が報じられた。
6月16日、小隊長から父母あてに戦死に至る経緯の手紙が届く。
6月20日、部隊長から父母あて同様な手紙が届く。
7月12日、戦死通告が父あてに発せられた。戦死場所と時刻と死因が記された事務的なもの。
 遺留品は比較的丁寧な対応がとられた。
 郵送で遺品や、写真が届けられた。

葬儀
8月7日、東京駅に遺骨が到着。
8月9日、工兵隊で慰霊祭。10時半に終了して遺骨を遺族に渡す。
8月29日、村葬が営まれた。
葬儀委員長は村長。村の在郷軍人会、青年団、郡や県、小学校の児童を含め参列者は500名を超えた。
陸軍大臣・参謀総長・教育総監からの弔電もあった。
その後、家での葬儀となった。


招魂式

1941年3月、海軍大将から靖国神社での招魂式と臨時大祭の案内がもたらされた。
招魂式は4月23日、
臨時大祭は4月24日。
「妻子や父母等の内から」二名までとされた。
位牌を抱いて「英霊」は1万4976柱。遺族は三万人。
交通費・無料参観兼、慰安会が催された。
金品の贈呈、陸海軍から記念品が贈呈された。


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無差別爆撃

2020年10月01日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
無差別爆撃

「満州事変から日中全面戦争へ」 伊香俊哉著 吉川弘文館 2007年発行



満州事変開始後

満州事変開始後まもなく、関東軍は満洲で中国軍部隊や列車などに航空部隊による機銃掃射や爆撃を開始した。
1931年10月8日には、15年戦争最初の都市爆撃として錦州爆撃が行われた。
1932年1月に開始された第一次上海事変で大規模化し軍事目標主義に反する爆撃がおこなわれた。


南京爆撃

1937年7月に日中全面戦争を開始した日本は、「敵航空兵力を覆滅す」るための高高度からの爆撃が各地の飛行場を目標として実施された。
1937年8月の南京に対する昼間・低空爆撃で迎撃機や高射砲により、予想外の被害を受けた。
日本軍はすぐに夜間の高高度爆撃に転換したが、これより実態は無差別爆撃となった。
1937年9月、大規模な南京爆撃にあたっては
「爆撃は必ずしも目標を直撃するを要せず、敵の人心を恐慌を惹起(じゃっき)せしむるを主眼とす」
と、明確に意図的な無差別攻撃方針が採用された。
1937年9月28日、国連は日本軍の無防備都市への爆撃に対し「弁明の余地なし」との態度を表明した。



重慶爆撃

日本の対中爆撃に対する国際的非難が高まるなか、
日本の法学者は自国擁護の論陣を張った。
「都市は航空機や高射砲を備えていれば”防守状態”となり攻撃を行うことができる」(立作太郎)

重慶爆撃は都市恐怖爆撃あるいは敵国民の抗戦意識破壊という、新しい航空機戦力運用の思想を開示するものだった。
第一期の重慶爆撃は1938年12月26日から39年10月7日まで30数次にわたって実施され、
39年だけの被害者数は死者4~5.000人以上、負傷者4.000人前後に及んだ。

第二期の重慶爆撃は、1940年5月26日から8月23日まで、攻撃日数は22日に及んだ。
強力な焼夷弾が投下された。
死者4149人、負傷者5411人、損壊家屋6952棟とされる。

日本側では「重慶政府は将に潰滅に陥らんとするに至り」と認識した。
しかし実際には、
中国側の抗戦意識を砕くことはできなかった。
40年9月、周恩来は「勝利は間違いなくわれわれにある」と三時間半の大演説を行った。



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戦場の衣食住③陸軍性処理問題

2020年09月28日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「帝国陸軍 戦場の衣食住」 学習研究社 2002年発行 より転記



性病の脅威

日本陸軍の構成員は、そのほとんどが若い男子にあったために、性欲の処理は大きな問題であった。

平時には各部隊に駐留している駐屯地に近接している遊興施設への登楼があり、戦地では後方に設置された「慰安所」で対応していた。

ところが性行為という快楽の代償として、性病がつきまとった。
「花柳病」と呼ばれ、軍隊内部では「三等症」という呼び名だった。
性病でも「梅毒」は不治の病として世界的に猛威を振るっていた。

梅毒の治療は1905年に病原菌「スピロヘータ・パリダ」が発見され、日本では注射薬剤の「サンバルサン」が登場した。
軍隊での一番の脅威は、性病の感染による兵力の低下である。
軍指定の慰安所では妓娼の定期診断を行っていたが、登録してない「私娼」の数も圧倒的に多かった。



軍用コンドーム

日本陸軍ではコンドームを性の防護器材としており、「衛生サック」ないし「サック」の名称で呼んでいた。
明治の陸軍での性病予防としては、軍医が兵営で「衛生講話」として、性病の恐ろしさとコンドームを用いた防護手段を口述した。
大正期に入ると、積極的な性予防の手段としてコンドームの使用が奨励され、休日の外出に際しては、外出者全員にコンドームのしない行為を厳禁した。

軍に納入されるコンドームには民間とは別に「突撃一番」という名称がつけられ、一つずつ紙製のパッケージに納められていた。
昭和以降になると、コンドーム以外にも「星秘膏」(せいひこう)という防護クリームが出た。

昭和12年の支那事変以降、兵力の拡大と共に慰安施設の規模も増大するが、それに伴って性病の感染も多発した。

軍では、
コンドームの使用を絶対義務として布告し、
定期健診の強化、
妓娼の局部洗浄機器の設置を奨励している。


なお、戦争の末期にもなると、コンドームは
輸送船沈没時に備えて貴重品の防水や、爆破器材の防水等、本来の使用法とは全く異なるものの必要不可欠な機材として日本陸軍を陰で支えた。




軍自慰器材

性欲処理の最も簡単な方法は「手淫」である。
「こんにゃく」を女陰部に見立てて使用する方法もある。
市井では、「ダッチワイフ」が販売されていた。


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戦場の衣食住②現地自活

2020年09月28日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「帝国陸軍 戦場の衣食住」 学習研究社 2002年発行 より転記

現地自活



支那事変では、部隊単位での本格的な「現地自活」が開始される。
戦闘の激化に伴う補給困難から、副食のための各種野菜の畑栽培、
養豚・養鶏、燃料の炭焼き等の本格的な「現地自活」が開始されたのであった。
多くの場合、各師団司令部の経理部の下に「自活隊」を編成して行われた。


野戦献立の一例

野戦での糧食給与は、次のコンセプトで行なわれていた。

・手数がかからず簡単に調理ができるもの。
・分配容易で携行に便利なもの。
・保存性が良いもの。
・追走品および現地で入手容易な材料を使用すること。

これに従い「野戦炊具」で簡単に作られる料理としては、主食では米麦飯以外に五目飯・福神漬飯・缶肉飯・蒸パンなど、
副食では煮豆・佃煮・味噌煮・鉄火味噌・塩昆布・甘露煮・味味噌・唐揚げなど、
漬物としては早漬けなどがある。


背嚢

背嚢に収納する物品は「入組品」と呼ばれ、着替え用の下着、携帯口糧、被服の手入れ具、私物などを入れる。
さらに背嚢の周囲には、飯盒・携帯天幕・毛布・外套(コート)・雨外套(レインコート)・携帯工具等を状況に応じて組み合わせて装着する。
作戦の長期化によって、兵員は携帯口糧を携行することが決められており、それ以外は通常「大行李」より提供を受けるものとされていたが、
実戦では補給困難や強行作戦のために、数日分の糧食を携行することが多くなってきた。

・・・・


陸軍野戦糧食史




昭和13年の「細則中改正」の糧食を品目ごとにみていく。


主食

乾パン
戦闘中の非常食の代表であり、小麦粉を主体として製造されている。
圧搾口糧
圧搾膨張玄米は、玄米と丸麦を圧搾した。

副食

牛肉缶詰
携帯口糧の副食の代名詞。牛肉の大和煮。

兎肉缶詰
兎肉の大和煮。

調味料
・味噌
・粉味噌
・携帯粉味噌
・醤油
・粉醤油
・携帯砂糖
・携帯食塩


加給品
・粉飲料・・粉飲料ラムネほか
・清酒
・関東煮缶詰

祝賀品
・きんとん缶詰
・口取缶詰
・酒

その他
・軍粮精(ぐんりょうせい)・・疲労時の栄養食品。後に「元気食」に改名。
・精力餅・・餅にビタミンやバターを混ぜたもの。


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「満州事変から日中全面戦争へ」 伊香俊哉著 吉川弘文館 2007年発行

戦争栄養失調症

1938年春の徐州会戦に参加した兵士の中から、下痢症状が長くつづいたあげくに死亡するというケースが多発した。
軍医らが死亡原因の特定に努めた。
見解は、アメーバ赤痢が原因とするものと、実質的な餓死であるとするものに分れた。
「戦争栄養失調症」という病名に落ち着いた。
中国戦線においてもかなりの餓死者が出ていたのである。

O軍医は「当時私たちが栄養失調と呼んだ病気のなかのあるものは重症脚気であり、又あるものは全身の機能の衰えであった。
激しい労働と、偏った食糧、その絶対量の不足によったのは言うまでもない」

中国南部ではマラリアに感染する兵士も多かった。
キニーネという特効薬が配られてはいたが十分な量ではなかった。
40度を超す発熱が数日間つづき、治ったと思えば一ヶ月で発作や発熱が起きる。
行軍中であれば、高熱を押してでもついてゆかねば、栄養失調とも重なって命を落とす兵もいた。




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戦場の衣食住①飲料水・便所

2020年09月27日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「帝国陸軍 戦場の衣食住」 学習研究社 2002年発行 より転記




飲料水の工夫

水の補給が困難な戦場では、兵員各自が腰につけている水筒が命の綱になる。
軍隊の行進は、50分間の行軍ごとに10分間の小休止を取ることになっている。
この休憩時に水分を摂取する際、注意すべき重要なことがある。
激しい行軍で体内の水分が失われているため、急いで一度の水を飲むと胃痙攣(いけいれん)を起こす場合がある。このため一口ずつゆっくりと噛むように飲むことが教育されていた。
また余裕のある場合には、3%濃度の食塩水をいれることが奨励されていた。



野戦での便所の構築

野営ないし露営を行う場合の排泄への対応は、マニュアルである「築営教範」に規定されている。
短期間と長期間に大別し、

短期間の場合は
大便と小便は共通した厠で行われ、兵員30~40名に対して幅30cm、深さ50cm、長さ1mの溝を掘る。
長期間の場合は、
大便と小便は別の設備が設けられ、大便用には12名に対し幅・深さ・長さ、それぞれ1mの溝を掘り、20cm間隔で踏み板を設置する。
短長期ともできる限り既存の資材を利用して囲いを作り、屋根をつけることが理想とされた。
衛生面ではクロール石灰の散布、ないし土をかける。
行軍中や戦闘中の用便は、衛生と防諜の面から地面に穴を掘ってからの排泄が義務付けられていた。
「落とし紙」は毎月150枚配給された。


陣地の便所

野外での排泄時に臀部を蚊に刺されることが原因で、マラリアにかかる患者が急増した。
このため蚊取り線香や火縄、軟膏が開発された。
地下陣地
高温多湿なため、陣地より離れた地上に設けることが多かった。地下にこもる戦闘では一斗缶を臨時の便器にした。



野戦の日用品給与

手ぬぐい 2ケ月毎 1筋
石鹸 同上 1個
歯ブラシ 3ヶ月毎 1袋
落とし紙 毎月 150枚
鉛筆 同上 1本
私製葉書 2ヶ月毎 20枚
角封筒 毎月 10枚
褌 毎月 1筋





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陸軍の軍用馬・軍用犬・軍用鳩

2020年09月18日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「帝国陸軍 戦場の衣食住」 学習研究社 2002年発行 より転記


日本陸軍①軍馬

日本陸軍の軍馬に対する依存度は大きなものだった。
馬を利用した戦闘兵科は、
騎兵、砲兵、輜重(しちょう)兵に代表される。

後方支援では兵站が中心、食糧・弾薬・資材の運搬に従事した。



帝国陸軍②軍用犬

日本陸軍で利用された軍用動物といえば馬が一番だが、それ以外に軍用犬や軍用鳩が存在した。
犬は人間の感情を理解し、言葉を聞き分ける能力があることから、各国の軍隊で伝令、捜索、警戒、補給といった重要な任務に利用していた。

日本陸軍では軍用犬の任務を、
警備任務の「警戒犬」
伝令任務の「伝令犬」
荷物運搬の「運搬犬」
医療任務の「衛生犬」
の四種に分けて運用した。

犬の種類はシェパード、ドーベルマン、エアーデル・テイアの三種類が中心である。

犬の条件は、
体格が50~70cm
年齢は2~6歳
性別は、極力雌犬
を選ぶようにしている。

日本陸軍では1931年の満州事変以降本格化し、
警戒犬は広範囲の守備地域を持つ人員不足の守備隊などで多用された。
伝令犬、運搬犬ももた通信部隊の補助任務と弾薬補給を行い、負傷者の捜索や救出、医療品輸送の衛生犬も活躍している。

軍用犬の運用は、軍犬兵一名と軍用犬一匹が常時ペアを組んで行動する。


帝国陸軍③軍鳩

鳩は、生まれつきもっている帰巣本能を利用することで、太古の昔より広く通信に用いられてきた。
大正8年急遽、鳩通信班が編成され、シベリアに派遣された。

固定鳩は、
発信する地点まで携行して通信文を持たせ、鳩舎へ帰還させる。通信能力300km。

移動鳩は、
着信地を固定せず、鳩舎を移動する方式で、司令部等の移動に合わせて鳩を鳩を適宜訓練しつつ通信を行う。通信能力40km。

往復鳩は、
生活用の棲息鳩舎と食事用の鳩舎を鳩が往復するのを利用して通信文を持たせる。通信能力30km。

夜鳩
性能優秀な鳩を夜間訓練し、夜間通信専門に用いる。夜鳩(やばと)と呼称した。通信能力5km。


戦争末期は電波妨害を受けないことから多用された。


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戦争とは歩くこと・・・・

2020年06月03日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父と同じ歩兵10連隊の記事があるので転記する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

「一億人の昭和史・日本の戦史4」1978年 毎日新聞発行より
棗田博(作家)


塘沽に上陸した。
初めて実包(実弾のこと)が支給された。
合計120発、ずしりと重い。
被覆もすべて新品、背嚢(はいのう)も新品である。

雑嚢と水筒、手榴弾3発と三八歩兵銃。
通常、完全軍装はおよそ8巻目といわれていた。

行軍にはいって、しばらくの間、陽気にしゃべっていた兵隊も、もう今はだれ一人ものを言う者はいない。
汗は出尽くすと、もうまっきりでなくなり、手のひらを顔に当てるとざらざら浮いている。
肩は背嚢の負い革と銃の重みで感覚をなくしていく。
「小休止」の命令が待ち遠しい。

やがてわかってきた。
行く手に銃砲声が聞こえると、カンフル注射でも打たれたように、へとへとの身体が緊張してしゃんとなる。
足取りが早くなり、駆け足もできる。

野砲の弾道の下を前進するとき、一種の酩酊状態のような極度の昂奮のみがある。
恐怖の心理など入り込む余地はない。

内地では、命令がない限り、襟のホックや上着のボタンなど勝手にはずすことは許されないが、戦地では勝ってであった。
銃の「替え銃」も、戦地ではてんでんばらばらに替え銃をする。

眼を楽しませる変化のない風景は行軍を単調なものにし、足取りを重くする。
行軍の影響は季節により違う。
夏が最もつらい。
日射病で倒れるものが続出した。死亡する者もあった。
秋は、防寒帽と防寒胴衣が支給された。

夜行軍はやりきれない。
「落伍せず、命がけで睡魔と戦え」
歩きながら眠れるし、夢まで見れるのである。
二日目三日目になると、転落兵が続出した。
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