しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

戦争期の桃太郎

2023年12月06日 | 学制150年

戦時中の子どものヒーローといえば、「桃太郎さん」や、無敵の「双葉山」や、忠君「楠木正成」。
今も変わらず日本中の子どもに親しまれているのは、桃太郎さんだけ。

現代では話は少し変わり、
「金銀珊瑚綾錦(きんぎんさんごあやにしき)」を持っての凱旋帰国でなく、元の所有者に戻したり、
鬼は改心して良い鬼になるようだ。

 

・・・

(広島県福山市新市町「吉備津神社」 2023.11.29)

 

・・・

「ビジュアル版 学校の歴史」  岩本・保坂・渡辺 汐文社 2012年発行


A.戦争期の桃太郎

「サクラ読本」と呼ばれた1933(昭和8)年の「小学国語読本 巻一』(尋常科用)では、
22ページという1年生向きとしては大変多くのページをさいて、桃太郎を学習する内容となりました。
教科書がカラー版でさし絵も
1おばあさんの洗濯、 
2桃太郎の誕生、
3出陣、
4犬との対面、 
5猿、との対面、 
6鬼ヶ島の城門を猿薙が越える、 
7戦闘場面、 
8鬼の大将が謝る、
9凱旋、
と絵本教科書ともいうべき内容になりました。 

ちょうど満州事変後で日本が中国との戦争に入っていたので、桃太郎は、兵士を従え、
りりしく戦に立ち向かう大将みたいだと子どもたちが考えるようにされていったのです。

 

 

さし絵は鬼の顔がどう見ても欧米人の顔に似ています。 
アメリカやイギリスとの戦争に入っていくことを意識したのでしょうか。
そして凱旋する桃太郎を迎えるおじいさんやおばあさんは、日の丸の小旗を振っています。
まるで戦場から帰ってくる兵士を出迎えている光景です。 
こうして桃太郎は「八紘一宇」のスローガンの下で大東亜共栄圏 をつくる英雄として学習されるようになっていったのです。

 

・・・

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男女共学⑪昭和22年男女共学前夜(笠岡男子国民学校・女子国民学校の場合)

2023年05月27日 | 学制150年

笠岡には明治時代から昭和42年まで、
同じ敷地内に二つの小学校があった。
戦前は男女別の学校で、戦後は東西に区分けして男女共学になった。
男女共学後、両校は競いあい、
田舎の小学校の生徒は、西小や東小には何をとっても勝負にならない、と思っていた。

 

・・・

奉安殿・男子校

 

 

奉安殿・女子校

 

 

大楠公像・男子校

 

楠公母子像・女子校

 

・・・・・

国民学校

昭和16年4月から昭和22年3月まで施行された。
国民学校は、
「皇国の道に則り」、「皇国民の基礎的錬成」を目的とした。
小国民を皇国民に練磨育成する。
従来の「教授学校」から「国民錬成の道場」に替わった。

「教育史」 柴田・斎藤共著 学文社 2005年発行

 

・・

 

 

・・・

 

「岡山教育史」

昭和19年11月7日
「校地の高度利用に関する件」を指示し、
校地を高度に田園化することを至急実施されたいとして、次の事項を命じている。

田園化すべき面積
其の外を田園化する

中学校・青年学校
体操教練に必要なる最低面積
国民学校
初等科総数一人当たり0.8坪、高等科1坪。

観賞植物等は、食料農作物に転換すること。
至急作付けを行うこと。

 

・・・・・・・


「岡山県史・現代1」 岡山県 昭和59年発行


戦時色の一掃


戦後の学校は、軍国主義から民主主義へと180度の方向転換の努力を続けながら、
教育を再開していった。
1945年(昭和20)9月20日文部省は、国防軍備などを強調した教材、
戦意高揚に関する教材などの全部、またはその一部を削除することの通牒を発した。
教科書に墨を塗って使ったのはこのときのことである。
当時、GHQの指令は至上命令であった。
修身・歴史・地理の教科書は焼き捨てられた。
校地内にある御真影・奉安殿・忠霊塔・忠魂碑・和気清麻呂公胸像等の撤去は、
形跡を留めない状態とされた。
御真影はそれぞれ地方事務所を経由して県庁へ奉還し、吉備津神社で焼却した。
教育勅語は、1949年国会で失効が決議され、同年回収された。

 

新しい小学校教育

1947年4月、一連の学校制度の改革が始まった。
国民学校は廃止され、元の小学校に呼び名が改められた。
教育の課程は現場の教師によって自主的に編成されるべきものであって、
文部省の示す「学習指導要領」は参考書にすぎない、という建前をはっきりと打ち出した。


「岡山県史・現代1」 岡山県 昭和59年発行


・・・

(昭和42年)

・・・

 

「笠岡小学校百年史」 笠岡小学校 昭和48年発行

新学制による男女共学の想い出


(昭和22年)
10月1日全児童が運動場に出て、各クラスとも東小から西小、
西小から東小に行く児童、そのまま残る児童と二列に並び、
行進曲でいっせいに講堂の前で同学年の児童がいっしょになるようにして別れていった。
本日をもって実質男女共学となった。
最初どちらも気をつかい、男子は男子だけ女子は女子だけで集まって行動することが多かった。
どちらもライバル意識を持ち勉強、遊びに対抗意識が強かった。
しだいに学校全体の空気が和らいできた。
なかには学校が変わらうのをいやがり住所変更をする児童もいた。

・・・

「笠岡市史第四巻」 笠岡市 平成14年発行

これまで「男女七歳にして席を同じゅうせず」との意識が一瞬にして覆されて男女がともに机を並べる現実に、
笠岡町立東小学校(旧男子校)と笠岡西小学校(旧女子校)では、
西小から東小へ487名、東小から西小へ503名が移籍することになった。
昭和22年10月1日、東西両校で児童の移籍の為に式典をとりおこない、
相手の学校に送る児童、迎える児童には担任の教師がついて送迎を行った。

これまで見られた男尊女卑の風習が解消され、その名残であった東・西小学校の格差といったものもなくなって、二校が対等、平等に評価されることに変わって、
この二校間は何かにつけ良い意味での競争が始まった。

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男女共学⑩新制中学校

2023年05月27日 | 学制150年

明治20年代生まれの祖父は、中学校のことは終生”新中”(しんちゅう)と呼んでいた。
その時代に生まれた人にとって「中学校」は別世界の人が通うところで、
戦後に出来た新しい「中学校」は、誰も皆が行く学校。
そのギャップが、よほど大きかったのだろう。

 

・・・

「岡山県史第13巻」 岡山県  昭和59年発行

制中学校制度(発足時)

昭和22年。
新制中学校第一学年は、現在の国民学校第六学年を終了する児童を収容し、
第二学年、第三学年は非義務制とし、
国民学校高等科一、二年生および、
青年学校普通科一、二年生などのうち、希望する者を収容するとした。
さらに、男女共学・独立校舎・専任校長などが、新制中学に要求されている。

・・・

「岡山県史・現代1」 岡山県 昭和59年発行
新制中学校の発足
1947年(昭和22)
第一学年だけ実施。
第二学年、第三学年は非義務制で、
国民学校高等科一、二年生および、
青年学校普通科一、二年生のうち、希望する者を収容する。

学校規模は6学級以上20学級以下を標準とする。
通学距離は片道6km程度をもって限度とする。
校舎は独立建築を原則とする。
男女共学制を完全に実施する。

戦後の混乱と生活不安が、人々を取りまいていた当時では、無用の施設としか考えられなかった。
その日その日をいかに生きるかを血眼になって求めていた時代である。

新制中学校の性格
これまでの小学校高等科的感覚か、
旧制中学校的感覚で把握するか。
岡山市では当時の教育課長が
「小学校高等科の延長であるより、中等学校的である」
と中等学校から教師を集めることに主力が注がれている。

教員組織は、
「小学校・青年学校・中等学校からの転勤組と新採用教員とで構成された寄せ集めで
毎日毎日新しくぶつかることばかり」
校長は、多くの苦労があった。

世間は、
「女の子が中学校へ行くそうな」「男女共学じゃそうな」「みんな無試験」「授業料はいらぬそうな」とわいわい騒いだ挙句の果て、
『新中』という半ば侮蔑的な名称をた奉った。
古い中学校の観念しか持ち合わさない人々にとっては、
いろいろな意味において驚くべき存在であったことは間違いない。

・・・

中学校創立当時の苦心

毛利章一(当時金浦中学校長)
中学校長を命ぜられ、開校するまでの一か月、
半数以上そろっていない各教科の教員を集めること、
三か所の小学校と青年学校をまとめる交渉からスタートした。
学校の位置は三か町村の意見が対立し地方事務所長や県会議長まで仲介にたたれたが、まとまらず分裂寸前まで追い込まれたこともあった。


・・・

「教育史」  柴田義松・斎藤利彦  学文社 2005年発行

占領軍のとった教育政策

設立趣旨
教育の機会均等化
6.3.3.4制への学校体系
授業料無償
男女平等・共学
住民選挙による教育委員会の設置
社会科の創設などによる「民主教育化」の、基本構想。
こうして1947年(昭和22年)から戦後日本の「新学期」がスタートするのである。

・・・

 

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男女共学⑨青年学校

2023年05月27日 | 学制150年

昭和10年から昭和24年まで、日本の教育制度は幾度と改編された。
昭和10年頃、城見村には「城見尋常高等小学校」を卒業後、進学しないで就労の人たちは「城見青年訓練所」(いわゆる青訓)に通っていた。
この青訓が昭和10年制度化され「城見青年訓練所」となった。昭和14年義務化された。
昭和17年政府は「小規模校を統合」して「独立校」への指示を出した。
なお学校規模は中隊(約240人)訓練が出来ることが目途とされた。
金浦青年学校は国民学校(高等科の意味か?)の校舎と共に昭和17年1月20日落成した。
城見青年学校は昭和10年に改称、昭和17年から独立校である組合立金浦青年学校に統合して消滅。
金浦青年学校は学制改革により消滅して、新制の「金浦中学校」に吸収された。

参考・岡山県史・笠岡市史

 


・・・


「新修倉敷市史6」

青年学校

青年学校は昭和10年の「青年学校令」によってうまれた。
昭和16年には児島・倉敷・玉島の繊維工場に女子青年学校が開設されている。
三菱重工水島航空機製作所も昭和17年、工場建設に先がけて青年学校や寮の建設が行われ、4月開校している。

昭和14年青年学校令は改正され、軍部の強い圧力のもとで所定の学校に在学するものを除いて、年齢満12歳を超えて満19歳までの男子は、
その保護者が就学させる義務をもつことになった。
義務制実施に伴って昭和16年度からつぎつぎと青年学校が開設されたが、翌年からは教員不足の問題もあり、
全国的に統合が進められた。
戦時教育下での青年学校は軍国日本のために、甲種合格が目標とされた。

軍事訓練は陸軍の強い指導で重視された。

 

・・・

「岡山県教育史」 岡山県教育委員会  昭和49年発行
青年学校

青年学校は独立校が少なくて、町村の組合立が多く、
校長は小学校の兼務が普通であった。
昭和16年以後は
「各週概ね2日とし昼間、
自三時至六時三時間を標準とす」
と定められた。
義務制になるとともに就学、出席の督促がきびしくなり、
理由なくして二週間以上欠席した場合は市長が督促し、
さらに出席しないときは県知事、さらには憲兵隊へと報告されたといわれる。
義務制実施に伴って、昭和16年度から各地方につぎつぎと青年学校が設立された。
学校数の増加に伴い、最も大きな問題は教員の不足ということであった。

・・・

「昭和③非常時日本」  講談社  平成元年発行

小学校と兵役をつなぐ
青年学校のはたした役割

昭和10年4月1日、「男女青年に対し、其の心身を鍛錬し徳性を滋養すると共に職業及実際生活に須要なる知識技能を授け以て国民たるの資質を向上せしむる」ことを目的とした青年学校令が公布され、同年10月10日から青年学校が開校した。
この青年学校は、すでに存在していた実業補習学校と青年訓練所を一つの教育機関に統合したものである。

実業補習学校は
明治26年制度化されたもので、小学校卒の勤労青少年を対象に、修身・読書・習字・算術など小学校教育の補習と併せて、職業上の簡易な知識・技術を授けることを目的とし、その数は昭和9年には15.315校に達していた。

青年訓練所は、
大正15年(1926)4月20日に公布された「青年訓練所令」によって設立された、陸軍省と文部省の管理下に置かれた軍事教育機関だった。
対象は16才から20才までの勤労青少年(男子)で、実業補習学校終了から兵役までの空白期間を埋める形になっていた。
同年7月、公私合わせて15.523校が一斉に開設された。
 義務教育終了後の全青少年を直接管理し、「帝国臣民」としての公民教育を施そうとしたのである。
ところが、小学校の校門には、高等小学校、実業補習学校、青年訓練所の三つの看板がかかげられるのが通例となり、教育制度体系に混乱を引き起こすもととなった。
このため、青年訓練所発足後1年足らずして、実業補習学校との合併論が浮上し、昭和5.6年頃になると、青年期教育全体の再編成構想の一環として双方を合併し、新たに青年学校を設置する案が文部省で策定される。
文部省原案による青年学校は、社会的教育機関という性格が強かったが、これに軍部が反発し、逆に「合併して青年訓練所となす」案を強硬に主張した。論議は平行し10年になってようやく制度下にこぎつけた。

青年学校の課程
普通科と本科からなり、普通科が2年、本科が男子5年、女子3年で、地域の状況により男子4年女子2年とすることもできた。
普通科は尋常卒、本科は高等小学校卒業者だった。

青年学校の義務教育課
昭和12年7月、日中戦争の勃発とともに、日本は本格的な戦時体制へと突入していった。
この情勢のなかで4月、「青年学校令」が改正され、男子青年学校は義務制度化された。
高度国防国家体制の確立が叫ばれるなかで、国体観念の強化、兵士予備軍の育成、軍需生産体制への適応を、いっそうおしすすめるためだった。

これによって、満12歳以上19歳未満の上級進学者以外の男子はすべて青年学校へ就学しなければならなくなった。
また義務制度にともない、工場・事業所など企業内の私立青年学校が奨励された。
義務化実施には私立青年学校の普及が必要だった。
しかし義務制化は、同年から一学年ずつ実施していき、20年に完了するはずだったが、戦争の激化と敗戦によって、完全な実施をみることはなかった。

・・・


「笠岡市史第四巻」 笠岡市 平成14年発行

敗戦

学校では神国日本はいかなる時にも戦争に負けることはないと日々教えられ、
将来の夢は立派な軍人になることを教育されてきた子どもにとっては不安よりも驚きの方が大きかった。
大人にとってはその逆で、これからの生活はどうなるのか、占領軍のさまざまな情報がその気持ちをよけいに煽り立てた。

GHQの指導により単線型の学校体系、男女共学の一大変革が大きな柱となった。
荒らしい学制はまず、高等科の廃止、新制中学校建築や移行であった。

・・・




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男女共学⑧井原実業(精研高校)の場合

2023年05月24日 | 学制150年

六・三制度が始まる前の中等教育機関は、
男子校や女子校が大半だったが、男女がいる学校もあった。

 

父は岡山県小田郡から広島県深安郡にある、「神辺実業」学校に通った。(片道15km)
・・・


父の話・2002年4月6日

(女生徒はいたのか?)
おった。
女(おなご)は女子部で校舎が違うとった。
男の校舎は北側、女の校舎は南側。
女がエエ南側じゃった。
家庭科じゃ。男は農業科じゃ。


・・・


同じ学校の同じ敷地でも、男女間の交流は・・・運動会など含めても・・・たぶん、全くなかったようだ。

精研高校が実業学校時代も、”共学”の面では神辺実業とほぼ同じと思える。
これで”共学”といえるかどうか不明だが、校内に彩があったのは確かなような気がする。

 

・・・

 


「精研 六十年の歩み」 精研高校 平成7年発行

 

 

(昭和19年3月第一回卒業生)

・・・


昭和21年家政科卒・在校生だった4年間

入学した時は、すでに第二次大戦が始まっていました。
唐鍬をかついで、尾根づたいに上野の山の開墾にかよいました。
校庭で育てた薩摩芋の苗を植えたのです。
母の着物で作ったモンペをはき、藁草履をはいた姿です。
3年生の時は、学徒動員で航空機の生産に励みました。
凍りついた様な工場でジェラルミンを削りました。
足が冷たくなっても履く靴下もなく、はぎれで足袋を手縫いしたものです。
小さな防空壕に避難して、敵機が飛んでいくのを見た日もあります。
食べ物も少なく、ひもじい思いを随分味わいました。

4年生の8月に終戦を迎えました。
図書室に少しばかっかりあった本を、焼却処分しなければならない命令で、
あの本がほしい、とジーっと見つめていました。
卒業はしたもの、
「思いきり勉強したい!」という夢が消えませんでした。

 

・・・

 

終戦の詔勅を受けて、学徒動員、防空演習などが即刻廃止され、
銃器、連合軍を敵視したビラ、ポスターの撤去などが急いで進められ、授業が再開される。
昭和20年9月15日、文部省は「新日本建設の教育方針」を発表し、
この方針に基づき、銃剣道や教練などの軍事教育の学科が廃止され、
昭和21年1月には修身、日本歴史及び地理の教科書は回収され、
他の教科書も軍国主義的記述は墨で塗りつぶされた。
また奉安殿は撤去され、教育勅語の奉読も中止された。

昭和21年3月後月実業学校は後月農学校と改称した、
昭和22年4月学制改革により付属中学を設け、2.3年生は付属中学の所属となった。
昭和23年4月井原高等学校芳井校舎となり、8年間の幕を閉じることになる。
昭和24年3月井原実業学校として独立認可。
昭和24年5月井原実業高等学校芳井分校となる。
昭和25年2月精研高等学校芳井分校に校名変更。

・・・

(年度不明)

 

・・・


「精研 六十年の歩み」 精研高校 平成7年発行
旧職員

昭和20年7月1日付で後月農学校に奉職することになりました。
8月15日、終戦。1億国民茫然自失、全く虚脱状態でした。
国民生活は窮乏のどん底で食べることにも事欠く有様で、
食糧増産が唯一の目標でした。
生徒は男女を問わず、毎日勤労作業に追われて、
農園作業に、開墾作業にと明け暮れました。
民主主義の理念もまだ不鮮明な中から、新制中学校の誕生、あい住まいを余儀なくされ、窮屈な時代を過ごしたこともありました。
続いて新制高等学校の誕生で、後月農学校は自然閉鎖、井原高等学校芳井分校の誕生、
さらには精研高校芳井教室となりましたが、昭和37年井原校舎へ統合されました。

・・・

 

 

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男女共学⑦井原高校の場合

2023年05月24日 | 学制150年

井原高校は昭和23年4月1日設立され、
翌、昭和24年3月が第1回卒業生。
(昭和24年3月)第一回卒業生は、井原高女5年+井原高1年=6年間就学
(昭和25年3月)第二回卒業生は、井原高女4年+井原高2年=6年間就学
(昭和26年3月)第三回卒業生は、井原高女2年+中学1年+井原高3年=6年間就学
(昭和27年3月)第四回卒業生は、井原高女1+中学2年+井原高3年=6年間就学
(昭和28年3月)第五回卒業生は、井原高3年=3年間就学

誕生した高校は、旧制中等学校の当時の4年生、5年生が、そのまま新制高校に進み、
看板だけ変えた面があった。
全国の新制高校にいえるが
事実上、初めての入学試験があった昭和25年4月入学(第五回卒業生)が、
新制高校のスタートだった。
男女共学のスタートも、その時から。

 

 

・・・

 

「創立100周年記念誌 萩の道」  井原高校 2004年発行

 


女学校最後の入学生
昭和27年卒


終戦の翌年、女学校最後の入学生です。
それは初めて女性が選挙に参加し、投票できた年でもありました。
最初にいただいた教科書は、今の新聞紙に一日分くらいの印刷物で、
それを各自切って折りたたみ、製本しました。
数ある楽しい思い出のトップは、映画鑑賞です。
先生の引率で、長蛇の列を成して、町内の映画館へ行くのでした。
「青い山脈」「秀子の応援団長」「銀座カンカン娘」等々・・・。
食糧の乏しい時代なればこそ、一層、健全な映画で精神のやすらぎと充実感を味わったのです。
高2になって新入生を迎えた時は感激でした。
6・3・3制への移行で、
3年間新入生を迎えないまま、年毎に先輩は卒業され、在校生は減少するばかりで、
5年目にしてやっと上級生になれた喜びは大きく、思わず顔がほころびました。
又、開校以来の”女の園”へ異色の男子学生の御入校と遭って、俄然、活気が張り、
そのかもしだす雰囲気に心弾んだのを覚えております。

・・・

・・・
 【男女共学に再編成】


昭和24年8月31日、男女共学の井原高等学校として再編され、再発足することになった。
昭和25年3月22日、女子学生179名、初めて男子学生121名に対して入学が許可された。
ここに女子教育の場として続いた井原高等女学校時代が終わりを告げ、
昭和25年度からは男女共学の高等学校として、地域の期待をにないながら踏み出すことになったのである。
この時の募集定員は普通課程250名、家庭課程50名であった。

・・・

男女共学始まる
昭和28年卒 男

私が井原中学校を卒業して、新制井原高等学校に入学したのは昭和25年4月。
私は試行錯誤に終始した中学3年の次に我々を待つ高等学校とはいかなるものであろうかと思案しつつ、その前途に期待と不安を胸に校門をくぐった。
この年井高は男子生徒を初めて受け入れた。
従来の女学校に男子も通学することで地域社会の話題にもなった。
又学校当局におかれても婦女教育の伝統と男子の処遇をいかに調和さすか大層気を配らせたと聞いた。

 


・・・

 

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男女共学⑥昭和22年男女共学前夜(旧制・井原高女の場合)

2023年05月23日 | 学制150年

井原高等女学校。

 

奉安殿の前、

昭和17年5年”菊組”の生徒。

 

しかし、

この年(昭和17年4月)に入学した女学生は、

スカートからもんぺ姿になり、

昭和20年8月、4年生で終戦。

 

卒業は選択制で、

昭和21年3月・4年で卒業、

昭和22年3月・5年で卒業、という同学年の同級生が二分されれた。

 

・・・

「創立100周年記念誌 萩の道」  井原高校 2004年発行

 

女学校時代の想い出


昭和22年卒(女学校5年卒)
昭和20年8月15日終戦となり、私たちは学校に帰り、学徒動員は解かれ4年生になっていました。
なつかしい学校に帰りましたが、学校は学童疎開の児童のために校舎の1/3は使用できず、
私たちは教室に入れるだけ詰め込まれて、
何の授業ということもなく、憲法の解釈を聞かされたり、新聞を読んでもらったり、漢字のテストをしたりして何日かが過ぎました。
着る物も食べる物もなく、教科書さえない学生生活でしたが、
誰も不足をいう人もなくみんな仲良く勉強しました。
そして4年生が終わりそのまま卒業する人と5年生に進み卒業する人と二つにわかれました。

 

必勝ハチマキの大和なでしこ。

昭和19年6月は、まだいくらか余裕がある。

 

・・・


昭和23年3月卒(女学校5年卒)


8月15日の終戦。
やっとみんな学校に戻り学業に専念することになりました。
廃止になっていた英語の授業も復活しました。
又放課後のクラブ活動も盛んになりました。
6・3・3制になり、私たちは5年生で卒業か、後1年高校3年に残るか、分かれました。
中止になっていた修学旅行が出来るようになり、お米持参で四国琴平宮と栗林公園に行った思い出、みんな感激しました。
私たちは昭和23年3月に高等女学校最後の卒業をしました。
戦前・戦後の両方の教育を受け、一番波乱に富んだ時代であったと思います。

・・・


昭和24年3月卒(女学校5年卒)

昭和19年4月、あこがれの女学校へ入学した年はまさに激動の渦中でした。
学校が海軍病院になるため、当時実業学校(現在井原小学校)へ一時移転することになり、机や椅子を長い列をつらねて運びました。
頭上にはB29が不気味な音をたてながら旋廻してゆきました。
暑い陽ざしがじりじりと照りつけたことを今でも忘れません。
神州不滅も神風も空しくついえた戦争の終結に時代は変転し、
自由主義・民主主義の言葉がすべてを支配してゆきました。
学生改革により、24年3月第38回の本科卒業生の私達は、女学校最後の卒業生として巣立ってゆきました。

・・・

 

 

・・・

 

昭和21年秋の運動会、

新しい時代が感じられる。


・・・・

岡山県立井原高等学校時代 昭和23年(1948~)

昭和23年4月1日、本校は高等学校として発足し、岡山県立井原高等学校と改称。
全日制普通課程(終業3年)が設置された。
また芳井分校の併設が認可された。(昭和24年5月10日、井原実業芳井分校として分離独立した)

・・・

 

 

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男女共学⑤笠岡商業高校の場合

2023年05月23日 | 学制150年

「笠商70年史」 吸江会 昭和46年発行


昭和22年4月1日 学制改革により募集停止
昭和23年4月1日 笠岡第一高等学校と改称し、商業・工業・普通の三科を設け
        定時制商業科をも併置する

昭和24年9月1日 笠岡第二高等学校と合併して笠岡高等学校と改称し、吸江校舎、千鳥校舎の二校舎となる
昭和25年4月1日 商業・機械の2課程を置き、定時制商業課程を併置する。
        商業課程の定員200名となる。
        学区制が設定せられ男女共学になる。
昭和28年4月1日 吸江校舎・千鳥校舎を分離独立して、
        笠岡商工高等学校と改称し、商業・機械の二課程を設置する
昭和36年4月1日 工業課程を分離して、笠岡商業高等学校と改称する

 

・・・

女子第一回生

終戦から5年経ち、世相が少し安定した様子がうかがえる。

門柱・左「岡山県立笠岡高等学校」

門柱・右 「吸江校舎」

 

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「笠商百周年記念史」

 

昭和21年8月23日 奉安殿の破壊作業始まる。この日まで我々は朝夕礼拝していた。教育の基本理念もここに一大転換を遂げたのである。

昭和22年4月、新制中学校が誕生。本校は第一学年募集停止。併設中学校を設置。

昭和23年4月、新制高等学校発足。「岡山県立笠岡第一高等学校」。
発足したばかりの新制高校ではありましたが、早々に再編成への動きをみせます。
それはGHQの戦後の教育改革の理念である「総合制・学区制・男女共学制」の三原則を満足させるものではなかったからです。
実情は、旧制中学校の校名を変えただけでそのまま新制高校へ移行させたケースがほとんどでした。
1・校名、学校差がないことを示すため一高、二高などのナンバー制にしない。・
2・職業課程を示す名称はつけない。
3・男女の教育機会均等のため性別校名にしない。

軍政部の強い勧告を受け本校も、
昭和25年4月の入学式で51名の女子生徒を迎え入れます。

 

・・・


元校長


私が御校に赴任したのは昭和24年8月31日付でした。
この年GHQから全国各地の高校は地区ごとに統合して一校となし、
一人の新しい校長で経営するようにと勧告があり、
笠岡では二校を統合し、笠岡高等学校とし、吸江校舎・千鳥校舎の二校舎とし、
校長補佐役として部長を一人づつおくということになりました。
私は矢掛第一高校からこちらの初代校長として就任を命ぜられました。
両校舎で生徒数は二千人位、職員数も100名に達していたかと存じます。
生徒数二千人というのは県下随一でした。
両校舎連絡のため畑の中に連絡道路を作り、
その道が掘れる位私や職員生徒が往復して一つの壮観でした。

・・・

 

「笠商70年史」 吸江会 昭和46年発行

 

新制高等学校への歩み座談会】

 

私は笠商女子第一期生です。


昭和25年の入学で総合制高等学校時代でした。
吸江千鳥校舎をもつ大規模な学校でした。

坂道を登りながら、校門にはいるまで恥ずかしい思いで顔があげられなかったのを懐かしく思い出します。


共学になったといっても女子は少数で50名くらいでしたから先生や上級生にずいぶん大切にされたり、モテたりしたものです。
家庭科教室がないので千鳥校舎まで足を運んだりしました。



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「創立八十周年記念誌」 笠岡商高・吸江舎 昭和56年発行

回想笠商
元教諭

私が笠商に赴任したのは昭和25年4月で高等学校が男女共学と総合割を旗印として再編成された年で当時の第一高等学校(笠商)と第二高等学校(笠女)の二校が合併して県立笠岡高等学校と改め商業科と工業化を持つ二科制の吸江校舎としてスタートした年であった。
以来14年間を笠商でお世話になった。
この間に千鳥校舎が分離独立し、数年を経て工業科が分離独立するという変動期にあたる。
当時入学した女子生徒は各クラスに均分されて一クラス(50名)に12名くらいであった。
体育の時間は男女合併の授業で、授業の展開には苦労が多かった。
当時はとても物が不足した時代で体育授業も学生服で行われた。


・・・


昭和25.6年頃の想い出
元教諭

私は昭和24年9月から31年8月まで7年間本校に在職しました。
赴任当時は、笠岡高等学校吸江校舎と呼ばれ、
商業科、工業科と普通科男子のみ2年生までと、定時制が併設されていました。
最初に担任した普通科男子1年B組のホームルームは講堂裏の細長い部屋で、
25名ほどであったが通路もうまく歩けないような狭い暗い教室であった。
教室不足から止むをえなく、倉庫がわりの教室へ、一学年50名を二分して収容していたので、誠に気の毒なホームルームであった。
昭和25年4月普通科男子が2年、3年にそれぞれ進級し、1年から3年まで揃い、千鳥校舎に移った。
私の授業も半分は千鳥校舎で行うことになり、
吸江校舎西端から畑の中の特別通路(今は元の畑になっている)を通って千鳥校舎の南端へたどり着く最短コースを往復したものである。

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(昭和26年卒業アルバス)

 

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49期生のころ
第49回卒

昭和21年4月笠岡商業学校入学
昭和22年4月笠岡商業学校併設中学校編入
昭和23年4月笠岡第一高等学校併設中学校編入
昭和24年4月笠岡高等学校商業課程入学
昭和27年3月同校同課程卒業
6年間も「笠商」へ通った。
年ごとに学校の名前も帽章も変わり、教科書や先生の言われることも変わった。

笠商に入学してから高等学校の2年生になるまでの4年間は、
学生改革のあおりをくって終始最下級生、後輩がまったくいなかった。
2年生になってはじめてできた下級生達は、笠商はじまって以来の男女共学で、
誠にうらやましかったことが、今でも印象深い。

今は代議士としてご活躍の加藤六月先生も、黒い詰襟の学生服を着てかなりオクターブの高い左傾した社会科の講義で、幼い我々を魅了しておられた。
当時はたしか教員組合の書記長か何かで今とはまた違った方向で、ご多忙であったように記憶している。

また「日の丸梯団」の一員でシベリヤ抑留から帰り教壇に立たれた名越二荒之助先生も、体験の中から精力的な話しぶりで、共産主義の国を語り、
シベリヤは寒い、日本の真冬はあつい、はだかでも十分すごせると活を入れられてたのは今でもはっきり覚えている。

 

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「笠商百周年記念史」
われら笠商51期生
51期 (男)

我等笠商51期生200余名が、伝統ある憧れの笠商の門をくぐったのは
昭和26年4月、笠岡高等学校でありました。
吸江校舎には商業課程、工業課程、及び定時制が、
千鳥校舎には普通課、家庭課程があり教科によっては校舎を往復した想い出があります。
歴史ある笠商で男女共学が始まったのは一年先輩の50期生からでした。
我々51期生の女子生徒は二回生です。
ABCD4組のうち、AB組は男女共学組、CD組は男子組、
同級生で一度も共学に組替されず残念がった者も多くおりました。

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男女共学④昭和22年男女共学前夜(旧制・笠岡商業の場合)

2023年05月22日 | 学制150年

笠岡商業学校は、岡山県で二番目に古い伝統校だが、
戦時中には無理やり「笠岡工業学校」に転換させられた。

戦後は”商業”と”工業”を持つ「笠岡商工高校」時代が昭和36年までつづいた。
その間、新制高校誕生時には、いっとき近接する笠岡高校と統合していた。

 

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「笠商70年史」 吸江会 昭和46年発行

昭和5年11月13日 大演習及び観兵式拝観部隊の編成を行う
昭和5年11月15日 特別大演習を見学する(金光付近)
昭和5年11月17日 観兵式を陪観する
昭和8年12月23日 皇太子御降誕奉祝会を行う
昭和14年4月5日 報国農園を設定する(笠岡町2段3畝、金浦町2段2畝)
昭和15年11月10日 紀元二千六百年記念式典を行う、式後全校旗行列を挙行す、
                                 記念事業として大井村に2段3畝の造林を行う
昭和18年9月27日 予科練他軍関係に多数の生徒が志願して転出する
昭和18年12月27日 特別措置による繰上卒業式を挙行する
昭和19年4月1日 工業学校に転換、校名を笠岡工業とし、機械科定員600名となる
昭和20年2月9日 呉海軍工廠造機部を誘致して学校工場化を契約する
昭和20年3月28日 戦時特別措置として四年制度となる
昭和20年7月5日 工作機械の搬入を終了する
昭和21年4月1日 商業学校と工業学校を併置して夫々約100名の第一学年の新入生を募集する
昭和22年4月1日 学制改革により募集停止
昭和23年4月1日 笠岡第一高等学校と改称し、商業・工業・普通の三科を設け、定時制商業科をも併置する
昭和24年9月1日 笠岡第二高等学校と合併して笠岡高等学校と改称し、吸江校舎、千鳥校舎の二校舎となる
昭和25年4月1日 商業・機械の2課程を置き、定時制商業課程を併置する。
        商業課程の定員200名となる。
        学区制が設定せられ男女共学になる。
昭和28年4月1日 吸江校舎・千鳥校舎を分離独立して、
        笠岡商工高等学校と改称し、商業・機械の二課程を設置する
昭和36年4月1日 工業課程を分離して、笠岡商業高等学校と改称する

 

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「笠商70年史」 吸江会 昭和46年発行

 


元教頭
(「私の回顧録」に代えて)

昭和21年度学事報告


戦時中、国家の要請により昭和18年工業学校に転換いたしました。
終戦にともない昨年4月より生徒定員500名として、元の商業学校に復活いたし今日に及んでいる次第であります。
本年度卒業生は98名でありますが、
入学致しましたのは昭和17年4月5日216名でありました。
勉学運動にいそしむことは少なく、
農繁期の食糧増産、肥料の増産、
心身の鍛錬規律の訓練、
昭和19年3年に進級したが、遂に学徒の動員を見るに至ったのです。
この3年生から上級生の後を追って三菱重工業の水島製作所に動員されました。
昭和20年第4学年に進級したものは181名でした。
終戦の下りで、14ヶ月振りに学校へ帰ってきたわけでありますが、
工員風が沁み込んでいるものも幾分ありました。
尚3年及び4年在学中終戦までに予科練または特幹等に入隊した者が系計16名ありました。
これら軍関係に入ったものは次々に復校致しこの学年より上級生をも加えまして52名の多数に上ったのであります。
加えて疎開の為転入学者が8名ありました。

昨年度は戦時中の学生改革により4ヶ年をもって卒業するのが本体でありましたが、
過渡期の措置として卒業するもまたは5年に進級するも、それは本人の希望によることになりまして、
結局227名のうち、
卒業した人が130名、5年に進級したものが95名、2名休学。
そして5年になりましてから更に復員復校したものありまして99名が本年度初めの在籍数でありました。
尚本年度は5ヶ年皆勤、精勤のものが1名もいませんが、動員関係のためこれが皆無になりましたことは遺憾に存じます次第でございます。

卒業後の志望は、
就職者50名、内訳は銀行38名、会社11名、官庁1名。
上級学校進学志望者が22名、自家営業12名、他。

昭和17年4月入学以来今日までの、あわただしい5ヶ年を顧みまして、
このクラスは一番太平洋戦争に因縁の深い組でありまして、
学業の上においては最も大きないわば戦災をこうむったものであります。

あとがき---
笠商在籍11年を振り返り、このもっとも激動した日本の歩みの中で
ここに述べた昭和22年3月の卒業生の歩みは私にとってもわすれることが出来ない深い思いでがいっぱいありすので、
ここにこの学事報告を当時をしのぶよすがとも思い、
あえて原文のまま載せていただき、わたくしの「回顧録」に代えさせていtだきますのでご諒承を願います(1971.10.14)

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「笠商70年史」 吸江会 昭和46年発行

 

教諭

思い出

昭和20年8月笠商へ赴任しました。
就任2週間後に終戦になり、
極度に緊張した息詰まる焦燥感から解放されたあの時の異様な感情、
それに続く虚脱放心の状態、物資欠乏の窮状など
当時の余りにも厳しかった思い出は忘れようとしても忘れることはできません。

校庭は耕されて畠に変わりました。
紙や印刷の粗末な教科書、
試験問題を印刷する原紙もなく問題を板書したので出題にも一苦労でした。
答案用紙もなく、古い答案の裏を使ったものです。

寒くなっても職員室にはストーブがなく、職員が交代で木をひいて燃料をつくってたいたので天井はすっかりすすぼけてしまいました。
弁当の盗難、職員のオーバーの盗難、ないないずくしの連続で明け暮れたひどい時代でした。
そういう中に徐々に新教育の精神が確立し、
新制高校への移行統合など激しい陣痛によって現代の笠商は誕生したのです。

 

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「笠商百周年記念史」

 


昭和21年8月23日 奉安殿の破壊作業始まる。
        この日まで我々は朝夕礼拝していた。教育の基本理念もここに一大転換を遂げたのである。
昭和22年4月 新制中学校が誕生。本校は第一学年募集停止。併設中学校を設置。

昭和23年4月 新制高等学校発足。「岡山県立笠岡第一高等学校」。
      発足したばかりの新制高校ではありましたが、早々に再編成への動きをみせます。
      それはGHQの戦後の教育改革の理念である「総合制・学区制・男女共学制」の三原則を満足させるものではなかったからです。
      実情は、旧制中学校の校名を変えただけでそのまま新制高校へ移行させたケースがほとんどでした。
      1・校名、学校差がないことを示すため一高、二高などのナンバー制にしない。
      2・職業課程を示す名称はつけない。
      3・男女の教育機会均等のため性別校名にしない。

軍政部の強い勧告を受け本校も、
昭和25年4月の入学式で51名の女子生徒を迎え入れます。

 

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男女共学③笠岡高校の場合

2023年05月22日 | 学制150年

昭和23年発足した「笠岡第二高等学校」。

第一高校・普通科に男子生徒が55名入学し、、
教室が足りず倉庫のようなところに一クラス27~28名*二クラス=55名が借り住まいしたようだ。

高校3年生の時、55名の男子生徒は初めて千鳥校舎に移転、女子と共学することになった。
その第一回共学「笠岡高校千鳥校舎・普通科」の生徒は、各クラスに均等に数人ずつ分かれたようだ。

 

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「笠岡高校70年史」 笠岡高等学校 昭和47年発行

(終戦後)
昭和23年4月1日 学生改革により、笠岡第二高等学校として発足。
昭和24年3月16日 旧制高等女学校の最後の卒業式を行う。
    9月1日 笠岡第一高等学校と統合、笠岡高校千鳥校舎。組合立笠岡高等学校を併設(←定時制)
昭和28年4月1日 独立校となる、「岡山県立笠岡高等学校」。
昭和35年3月31日 併設の笠岡市立笠岡高等学校廃止。

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当時の吸江校舎から、普通科3年生55名の男子が、千鳥校舎と呼称された現在の笠高に編入されたのが昭和25年の4月であった。
男女共学の第一弾である。
勿論その前年から両校「統合」の名の下に、クラブ活動とか男女学生の交流はあったが、文字通り「女の城」に入り込んでの学生生活が始まったのである。

 

(昭和25年卒業)

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「創立八十周年記念誌」 笠岡商高・吸江舎 昭和56年発行

「教師時代の思い出」
元教諭 加藤六月

弱冠22歳、浅学非才の身で笠商の教壇に立ち、前途有望な笠商生徒に対して、果たして立派な先生であっただろうかと言う反省であります。

当時は旧制商工学校から新制高校に変わったばかりで、3年生の「社会」の教科書はありませんでした。
文部省の指導要綱を読みながら、毎晩、翌日教える内容を一生懸命勉強して整理し、それを教壇で読みながら生徒にノートして貰いましたが、
週5時間分を書き上げる努力は大変なものでした。
途中私自身、勉強の行き詰まりを感じ、翌日3年生の「社会」の教壇に立つのが恐くて眠れない夜もありました。

当時は映画の最盛期で、よく学校全体で観賞会を開きましたが、
全生徒を講堂に集めて、その映画テーマの社会的背景、歴史的問題等につき、説明を行いましたが、よくまあ心臓強く、しゃあしゃあと講演したものだと反省しています。
私の青春時代、故郷笠岡での2年の教師時代は加藤六月にとりましてまさに「青春の宝庫」の時代であります。(現衆議院議員)

 

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「笠岡高校70年史」 笠岡高校  昭和47年発行

昭和22年4月新制中学校が発足したため、第一学年の募集が停止された。
昭和23年4月新制高等学校が発足、笠岡高等女学校は岡山県立第二高等学校となった。
昭和23年9月、笠岡第二高等学校は笠岡第一高等学校と統合し、
岡山県立笠岡高校千鳥校舎と称した。第一高等学校は吸江校舎となった。
千鳥校舎は普通課程600名、家庭課程300名。
これは旧笠岡高等女学校の定員750名をうわまわるものであった。
ことに男女共学によって男子が普通課程に入学するようになったことは、
同課程が上級学校進学の課程として選ばれたことと考えあわせて、
明治以来男子の高等普通教育機関をもたなかったこの地域にとっては大きな意義をもつものであった。

施設設備は旧高等女学校のものを使用する状態であったが、当時最も急を要する問題となっていたのは、県下にその例をみないといわれた狭隘な運動場の拡張であった。

・・・

 

(昭和27年卒業アルバムより)

共学二年目の卒業アルバム。

一クラス50人、うち男子生徒7~8人。女子の制服はばらばら、男子の頭は長髪だ。※笠岡商・笠岡工は昭和40年代まで坊主頭)

 

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