しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

夢の暮らし、誰もがあこがれた主婦の一日  ~雑誌「主婦の友」~

2022年03月08日 | 昭和元年~10年


「ニッポンの主婦100年の食卓」  主婦の友社  2017年発行

夢の暮らし、誰もがあこがれた主婦の一日

夫はサラリーマンで、朝家を出て夕方まで帰らず。
妻は自分の裁量で家事をこなします。
当時の女性にとっては、夢の暮らし。

お見合いや家どうしの約束で結婚を決めた当時、
未婚女性は「箱入り」にされ、自由を制限されていました。
でも、
理解と収入のある夫と結婚して「主婦」になれば、
旅行やスポーツも楽しめます。
当時の記事には、山登り、海水浴、スキー、テニス・・・レジャー記事が満載。
まさに「青春」だったのです。






昭和6年

20歳前後の若い花嫁と、サラリーマンの夫。
「朝はクリームと粉(おしろい)で簡単にお化粧」
「朝食はパンと紅茶、果物」
「小鳥を飼う」
などリッチな感じ。
「買い出しは御用聞きにまかせる」
「寝る前には家計簿」
などは、大正時代から『主婦之友』が強調している賢い主婦像であった。


・・








・・・・・
管理人記・
リッチなのか、性付家政婦なのか、はっきりしない。
ちょっと世間離れしているような思いがする。

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満州帝国の日本人

2021年12月01日 | 昭和元年~10年
満州国の建国については、史書に必ず出るのが石原莞爾の思想や、日清・日露戦争からの利権に関する日本の国家的犠牲者数と膨大な国費であって、
けっして
そこに住む異国民のことが考慮されたことはなかった。

そのため、1945年の悲劇が生じたが
悲劇の人はまた加害者であった。
が、それを言う人は2022年の今も誰もいない。





満州帝国

「いのちと日本帝国 14」 小松裕 小学館  2009年発行

日本では不可能な使用人を置いた派出な生活。
そんな満州で育った日本人小学生が日本に修学旅行に来ると、
日本の女性はなぜあんなに働くのだろうと不思議に思い、
人力車夫や荷物運搬夫などを見ては、
日本には日本人の苦力(クーリー)が多い、と感じたという。

お金を稼ぐことを目的に満州に来た日本人が多かったので、
その目的が達成できれば帰国する人が多く、人口の流動が激しかった。

そのような満州の日本人社会をリポートした水野葉舟の「満州で見た日本婦人」が、
『婦人公論』1926年11月号に掲載された。
水野は、満州の日本人が、自分たちの区域のなかに
<まるで牡蠣のようになって閉じこもって、鎖国>
していることを指摘し、
現地の生活に適用しようとはせずに、酷寒の満州に行っても和服で通して身体をこわす日本婦人などの姿を描いた。

水野のレポートに触発された山川菊枝は「日本民族と精神的鎖国主義」と題する文章を、『婦人公論』1927年(昭和2)1月号に発表した。

山川は、この世に生まれたときから、日本は<地上の楽園>であり、
日本人は世界一優秀な民族で、それ以外の国や民族は<辺土>であり
<皇化に浴せぬ蛮人>であるということを聞かされつづけてきた日本人が、
植民地に行って<どうして虚心坦懐、謙抑平静な心をもって、異民族に学び、
異郷の風土に適順しようとする心持になりえよう?
敵意と排他心以外の感情を持って、他国と他国人に対することがどうしてできようか>
と述べた。

そして、日本人にとっての真の問題は、
<植民地的能力の問題>以前に、
<偏屈な郷土愛的愛国心と民俗的優越感の問題>
であるとして、
それが
〈日本人自身の解放の最大の障害になっている>
と指摘したのであった。

植民地で生活した日本人にほぼ共通することであったが、
満州の日本人にとっては、
異文化に適応し、異民族から学ぼうとする姿勢が、決定的に欠けていたのである。


「いのちと日本帝国 14」 小松裕 小学館  2009年発行






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婦人の公民権獲得運動

2021年08月28日 | 昭和元年~10年
婦人の公民権獲得の運動は、魁の人たちは世の人から、たいへん冷ややかな目でみられていたであろう。その中で活動した。

戦前・戦中・戦後に代議士を務めた星島二郎さんは、婦人運動に理解が深かった。
首相にまでなった犬養木堂さんは、婦人運動については名が出てこない。江戸時代に育ったのが原因か、それとも多岐にわたる政治活動で、婦人問題まで入り込めなかったのであろうか。



(戦前~戦後、婦人の地位向上に尽力した星島二郎(第一次吉田内閣時の写真)商工大臣、後列一番背の高い人。その右に田中耕太郎文相、更に右に和田博雄農相)




「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編  山陽新聞社 2000発行

岡山の婦人参政権獲得運動

岡山県特別高等警察課の調査資料によると、
1922年(大正11)4月の治安警察法改正に際し、これを記念して岡山市内の劇場で中国民報社主催のもとに、阪神から婦人弁士を招いて坂本鶴子(代議士の義妹)らの出演により、婦人参政問題を議論したことがある。

1926年(大正15)9月に婦人参政権獲得同盟(会長河口愛子、顧問安達内相婦人、鳩山一郎夫人)の岡山支部が発足し、
東京から会長らを招いて岡山、西大寺、倉敷の各地で演説会を開き、一部世人から軽蔑と嘲笑をうけながらも「婦人解放」の呼び掛けを開始した。
以来、支部長坂本鶴子、横山正江らを中心に月2回の婦人問題研究会やお茶の会を開き、パンフレットやビラをつくって宣伝につとめ、
各地に遊説して女性の自覚を促し、総選挙に際しては星島二郎、鶴見祐輔ら婦選に理解のある候補者の応援演説に駆け付け、議会に対して本部とともに請願書を提出するなど、熱心に運動を続けてきた。

1929年には岡山県会に公娼廃止建議案を提出、通過の瀬戸際まで行っている。
1929年4月現在の支部員は60数名。
婦人公民権は本年5月10日衆議院で可決されたが、13日貴族院の審議未了で実現しなかった。





「戦前昭和の社会」  井上寿一 講談社現代新書 2011年発行

「婦人」の登場

『家の光』の発行部数は、「婦人」の地位向上と連動していた。
これには大きな理由がある。

戦前における女性解放運動は農村の無学な女性たちがその歴史的な前提条件を築いていたからである。
農家の女子は一家の衣食の世話を引き受けてすることは勿論、田畠の仕事をする、一家の会計も多くは主婦の任ずるところだ。

この論考は、日本の主要な輸出品である綿糸や絹織物の生産がもっぱら女性の「勤勉労働」によるものであることに注意を喚起する。
「日本国は日本の男子は我が婦女に対して深い感謝を表すべきである」。

要するに農村においては、女性が男性と対等の労働力だったのだ。
そこから男女間の社会的地位の平準化が進んでいく。


「働く婦人」

男子普通選挙制度が確立する。
つぎは女性参政権ということになった。
まず政友会が「婦人選挙法案」を持ち出す。
ついで民政党も地方レベルでの「婦人参政権」で対抗する。
欧米の主要国で女性参政権がないのはフランスとイタリアだけであり、
日本においても女性参政権は時間の問題に過ぎなかった。
問題は選挙権の付与にふさわしい「社会からの敬意に答えようとする」女性になれるかだった。

農村の女性は身近な生活実感レベルからの男女同権をめざし、
参政権には漸進主義的な態度をとっている。
たとえば『家の光』昭和7年7月号には、
「参政権よりももっと大事な問題は、家庭内でもっと自由を与えられ、
女といえば奴隷のようにされる境涯を脱出したいのです」
着物を仕立て直し、機を織り、養蚕がだめならクルミの栽培で借金を返す。
福神漬けを茶菓子の代用とし、夜なべ仕事で得たわずかな額ではあっても貯金をする。
恐慌化の農村を支えていたのは女性たちだった。


恐慌が促す社会進出

参政権といった政治的な地位向上よりもさきに、女性の経済的な地位向上が進んでいた。
助産婦、女優、看護婦、女給はもとより
美容師、裁縫師、タイピスト、電話交換手、会計、車掌、教員、事務員、飛行家、医師、そして巡査までにも、
どしどしと領域を広め男の領域をも侵略しつつある。
なぜこうなったか。
恐慌が女性の社会進出を促した。
夫の収入を補うためにやむなく仕事に就く。それが事実として、女性の地位向上をもたらすことになった。

同じ1931(昭和6)年、満州事変が勃発した。
国防婦人会が誕生し、「エプロン」(割烹着)が制服になり軍部の支援を受けた。
主な活動は出征兵士の見送りなど、停滞期が訪れた。







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満州事変、若槻首相が越境出兵を承認

2021年05月19日 | 昭和元年~10年
「日本の歴史14」 研秀出版 1973年発行

事変の展開

鉄道爆破の下手人は、当時満州におかれていた日本の関東軍であったが、
この軍隊はこれに対して「暴戻(乱暴で正しくない)な中国兵」の仕業であるとして即夜いっせいに起ちあがり、
翌19日早朝までに奉天城を難なく占領した。
引き続き、やや苦戦ののち長春を陥れ、奉天軍を武装解除した。
そしてふらふら腰の若槻内閣や陸軍省が打ち出した不拡大方針は完全に無視されて、
関東軍は事変拡大の一路をたどった。







満州事変  「軍国日本の興亡」 猪木正道  中公文庫 1995年発行


当時の首相若槻礼次郎は、『古風庵回顧録』の中に”命令を聞かぬ軍隊”と題して正直に告白している。


その年(昭和6年)の9月のはじめのある朝、
私は驚くべき電話を陸軍大臣(南次郎)から受けた。それによると、昨夜9時ごろ、
奉天において、わが軍は中国兵の攻撃を受け、これに応戦、敵の兵舎を襲撃し、中国兵は奉天の東北に脱走、
わが兵はいま長春の敵砲兵団と戦いを交えつつある、という報告であった。

そこで政府は直ちに臨時閣議を開き、事態を拡大せしめない方針を定め、
陸軍大臣をして、これを満州のわが軍隊に通達せしめた。
これはわが国が9ヶ国条約や不戦条約に加盟しているので、
満州における今度の出来事が、それに違反するかどうかを確かめる必要があるので、
その間事態の拡大を防ぐのが当然であるから、右の措置をとったのである。


元来軍隊は外国に派遣するには勅裁を受けなければならないのに、朝鮮軍司令官は、この手続きを経ないで、
派兵してしまった。
そこで参謀総長は参内して、事後の御裁可を仰いだ。
陛下は、政府が経費の支出を決定しておらないというので、御裁可にならない。
参謀総長は非常な苦境に陥った。

しかし出兵しないうちならとにかく、
出兵した後に、その経費を出さねば、兵は一日も存在できない。
だからいったん兵を出した以上、私は閣員の賛否にかかわらず、すぐに参内して、
政府は朝鮮軍派兵の経費を支弁する考えでありますと奏上した。
出兵の勅裁を受けた。その時に陛下から、
”将来をつつしめ”とおしかりをこうむった。


抜群の秀才として有名な若槻首相は、一生懸命になって弁解しているが、右の措置により、
朝鮮出兵の政治的責任は、若槻首相が負うことになった。
若槻は心を鬼にして、満州への無断越境をした朝鮮軍を少なくとも一時的に見殺しすべきであった。
もしそうするだけの勇気が若槻首相にあったとしたら、
日本は自殺的戦争に突入することはなかったはずである。



「軍国日本の興亡」 猪木正道  中公文庫 1995年発行




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犬養木堂⑤5・15事件後

2021年05月15日 | 昭和元年~10年




「犬養毅 党派に殉ぜず、国家に殉ず」 小林惟司 ミネルヴァ書房 2009年発行


5・15事件の裁判
5・15の軍事裁判は、横須賀の軍事法廷で行われた。
求刑は、死刑の大方の予想を裏切って、大半が無期であった。
減刑嘆願にことよせて軽くなり、
ついに禁固15年が最高刑であった、いっぽう民間人は求刑通り無期となった。



国民感情
犬養の暗殺犯は海軍中尉らの軍人であるが、
間接的に葬ったのは当時の日本の民衆である。
当時の日本の世論は、満州国の即時承認を強く要求していた。
その先頭に立ったのはマスメディア、とりわけ新聞だった。

満州や中国への侵略は軍閥・官僚だけが推進したのではなく、それと併せて日清戦争の頃から
国民の間に徐々に浸透してきた東洋人蔑視の感情があったことは見逃せない。
当時は幼い少年までが中国人を蔑称で呼んだりしていた。


助命嘆願
事件の実行犯への国民の熱烈な助命嘆願が澎湃(ほうはい)として日本全国にひらがった。
彼らを救国の英雄とまで祀り上げ、自らの小指を封筒に入れて助命を乞う人まで現れた。



内務省は5月16日、
「事件の性質お余りに重大なるに鑑み、直に公安維持の必要あり」という理由で
犯人の氏名経歴その他の発表を禁じた。
事件から1年を経た昭和8年5月17日、
司法・陸軍・海軍の三省から公表文が発表され,記事差し止めもようやく解除された。







「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公新書  1995年発行

いわゆる革新将校の規律違反を、
張作霖の爆殺事件の時も、
3月事件、
満州事変、
10月事件等に際しても、
厳罰に処することができなかったところに、最大の禍根があった。

5・15事件についても、
犯行の動機が純粋であるとか、
愛国の至情に出たものであるとか同情論ばかりが強調されて、
厳罰は行われなかった。



事件の1年余り後になって公表された司法、陸軍、海軍三省の共同声明は次の通りである。

 本件犯罪の動機および目的は、各本人の主張するところによれば、
近時わが国の情勢は、政治、外交、経済、教育、思想および軍事等あらゆる方面に行きづまりを生じ、
国民精神また頹廃を来たしたるを以って、現状を打破するに非ざれば、帝国を滅亡に導くの恐れあり。
しかしてこの行きづまりの根元は、政党、財閥および特権階級たがいに結託し、
ただ私利私欲にのみ没頭し、国防を軽視し、国利民福を思わず、腐敗堕落したるによるものなりとなし、
その根元を剪除(せんじょ)して、以って国家の革新を遂げ、真の日本を建設せざるべからずにあり。

今日冷静な頭でこの共同声明を読めば、1933年頃の日本人がすでに発狂していたと断定しなければなるまい。
共同声明と同時に発表された荒木陸軍大臣の次の談話は、されに驚くべき内容である。

 純真なるこれ等青年が、かくのごとき挙措に出たる心情を考えれば。、涙なきをえない。
真にこれが皇国のためになると信じて行ったことであるが故に、
この事件を契機として、再思三省を以て被告の心事を無にせざらんことを切望する。

これではまるで、虐殺された犬養首相の方が悪人で、
テロリストは「皇国のためになると信じた」愛国の志士だということになる。

そもそも荒木陸軍大臣は、11名もの陸軍士官学校の士官候補生が反乱罪を犯して犬養首相を襲撃し、射殺したからには、
当然その責任をとって辞職しなければならないはずである。
ところが反乱罪の被告たちを”純真”とか”愛国のため”とか、醜悪な運動をした。


5・15事件はほぼ確立された議会政治を葬り、帝国議会に基礎を置かない超然内閣時代に逆行させた。
そして荒木陸軍大臣のような無責任きわまる野心家がはばをきかせる時代が到来した。

5・15事件の被告をほめたたえて減刑しようという運動は、全国的規模で展開された。
被告たちを義士扱いにして、全国から被告たちを激励する手紙や贈物が送られてきた。
被告に結婚を申し込んだ女性も少なくなかった。

5・15事件は、日本国民の少なからぬ部分が精神に異常を来たしていることを示した。





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犬養木堂④5・15事件

2021年05月15日 | 昭和元年~10年
「犬養毅 党派に殉ぜず、国家に殉ず」 小林惟司 ミネルヴァ書房 2009年発行


犬養暗殺の前奏曲

満州で関東軍が成功した後の陸軍は、すっかり逆上して正気ではなくなっていた。
犬養が、いつかやられるだろうという空気は、当時すでに横溢していた。

当時の政治家という職業は、軍人に比べて、さほど割が合わなかった。
当時の政治家の多くは憂国の至情に燃え、私財を投じて活動し、「井戸塀」と呼ばれた。
死んでみたら井戸と塀しか残っていなかった。

兵隊たちが血相をかえて土足で闖入してきて犬養にピストルをつきつけた時
「話せばわかる」と何回も言い続けた。
彼は終生議会主義の権化といわれた筋金入りの政治家だった。
「いや、わしは逃げない。そいつたちに会おう」と悠然としていた。


日本の軍国主義

昭和6年12月13日~翌年5月15日に至る犬養内閣ほど、激流する荒波に翻弄されたものはない。
満州事変、上海事変、満州国建国、リットン調査団。
国内的には、虎ノ門事件、前蔵相井上準之助の暗殺、総選挙で民政会が未曽有の大勝、三井合名の団琢磨の暗殺、そして5.15事件で終止符を打った。




「5・15事件  日本の歴史14」研秀出版 1973年発行 

この事件はあくまで、それに先だつ
10月事件・3月事件、血盟団事件、その後につづく神兵団事件・226事件という一連の事件の関連の中でとらえなくては、明らかにできない。
犬養内閣でなくても、このような事件はおきたであろう。

犬養内閣は、陸軍青年の憧れの人ともいえる荒木貞夫を陸相とする内閣であった。
では、なぜに政党というものは彼らの目の敵にされたのであろうか。
5・15事件の檄文に、
「日本国民よ!刻下の祖国日本を直視せよ。
政治・外交・経済・教育・思想・軍事、
何処に皇国の姿ありや。
・・・
天皇の御名において君側の奸を葬れ。
国民の敵たる既成政党と財閥を倒せ!
横暴極まる官憲を膺懲せよ!
奸賊、特権階級を打破せよ!
農民よ労働者よ全国民よ、祖国日本を守れ。
起て!起って真の日本を建設せよ」
と既成政党とそれと結んだ財閥が日本を堕落させた元凶だと思い込んだのである。
だから犬養内閣であろうとなかろうと、殺される運命にあった。

それというのも、打ち続く凶作で、農村の貧しさは極限に達していた。
岩手県では餓死するのみという農家が10万戸のうち7万7千、全人口の半数に達する始末。
ナラ、トチの実を袋に入れて持ってくる児童。木の実まで不作で持ってくることのできない児童。
教室で空腹のあまり卒倒する学童は100人にのぼる有様。
娘を東京方面に売る者は後をたたない。

日本の政治経済をたてなおすことは左翼右翼に関係なく、当時国民の待望するところであった。
日本の農民を救うことを目的としていた。

事件は海軍将校有志を中心として、陸軍士官候補生の有志、血盟団残党、愛郷塾一派、が起こした。
4組に分かれて襲撃、
東京を暗黒街にするという目的は果たさなかった。
引き揚げた後東京憲兵隊に自首。
成果はあまりに少なく、単に犬養首相を殺したにとどまった。
ただ、その空気に軍部が便乗し軍部独裁への道をひたばしることになった。











サンデー毎日(2017.11.26号)「憲政の神様」  保坂正康

議会の誕生と共に岡山県から当選し、ただの一回も落選することなく、その座を守った「憲政の神様」。
議会政治家として使命を全うし、テロの犠牲になった悲劇の政治家であった。

5.15事件は奇妙な事件であった。
とくに軍人側には存分に法廷で弁明の機会が与えられた。
自分たちは自分自身のことなどこれっぽちも考えていない。考えているのはこの国ことだけ。軍の指導者は、この国の改革について考えてほしい。
テロの決行者は英雄だとの受け止め方が一気に広がった。
テロの犠牲になったはずの犬養家のほうが社会的な制裁を受けることになったのだ。

事件当日、首相官邸にいた11歳の少女は祖父の死をどのようにみたか?
道子氏はこのような歪な日本社会を具体的な作品に書き残している。
昭和6年12月、政友会が与党になり、その代表であった犬養毅は元老西園寺公望の推挙もあり、天皇から大命が降下される。
満州事変から3ヶ月ほどあとのことだ。
満州事変解決を目指して動くと、森恪内閣書記官長は激越な調子で食ってかかった。
「兵隊に殺されるぞ」森は閣議後に、捨てるように言った。
『兵隊に殺させるという情報が久原房之助政友会幹事長の筋に入っている』、父(犬養健)が外務省から密かな電話を受けたのはその晩であった。この情報は確かだったのである。

道子氏は、こうした動きを当時から聞きとめ、メモに残していたのである。
「あの事件は本当にひどい事件でした。テロに遭った私たちのほうが肩を狭めて歩く時代だったのですから。何か基軸になるものが失われていたのですね」。






「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公新書  1995年発行

犬養首相の射殺

1932年5月15日午後5時半ごろ、首相官邸の表門と裏門との二組に分かれて侵入した暴徒は、
首相官邸日本館食堂で犬養首相を発見し、
日本間客室へ首相を連れ込み、拳銃で首相を射殺した。
犬養首相の死亡時刻は5月15日午後11時20分であった。








「狼の義 新・犬養木堂伝」  林・堀川共著 角川書店  2019年発行



昭和7年5月15日、第29代内閣総理大臣、犬養毅は軍の凶弾に斃れた。
内務省は、当局にによる取り調べが終わるまで一切の報道を禁じた。
『九州日報(現・西日本新聞)の菊竹六鼓だけが軍閥を批難する執念の記事を一年にわたって書き続けたが、
他の新聞社はおしなべて沈黙の時に入った。
死に体となっていたのは政党だけではなかった。
記者魂も、とうに死んでいたのである。


午後5時半、二台のタクシーが総理大臣官邸に到着した。
一台は表門、もう一台は裏門近くである。

「旦那様、大変です、大変です!」
今度は護衛の巡査が血相を変えて飛び込んできた。
「総理、大変です!暴漢が乱入しました、避難してください!」
そうしているうちに、何度か拳銃の発砲音が響く。
「総理、逃げてください、逃げてください!」
「いや、逃げん」

「なあに、心配はいらん。そいつらに会って話を聞こう」
「君らはなぜ、このようなことをする。まず理由を聞こう」
「ああ、そのことか。それならば話せばわかる」

犬養は応接間に入った。
客人用の煙草入れを開けた。
「君らもどうだ」
「おい、靴ぐらい脱いだらどうじゃ」

三上中尉が言葉をひねりだした。
「何か言い残すことがあれば、早く言え」
「撃て!撃て!問答はいらん!」
パン ダン
「引き揚げろ!」

「旦那様、傷は浅いです」
「テル、煙草に火をつけてくれ」
「テルよ、今の若いもんをもう一度,呼んでこい。よく話して事情を聞かせる」

「お父さん、どうしました、健ですよ」
「おじいちゃま!おじいちゃまあ!」
祖父の枕元で声を限りに泣き叫ぶ道子を、健は止めなかった。
「テル、帰ろう」
二度繰り返された言葉が最後となった。


事件の11日後、海軍元大将斎藤実を総理大臣とする挙国一致内閣が誕生。
4ヶ月後の9月15日、日本政府は満州国を承認した。

その死から13年間、この国が焦土と果てるまで、政党政治が復活することは二度となかった。







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犬養木堂③満州国

2021年05月14日 | 昭和元年~10年



満州事変起こる

「昭和6年9月18日全天降るような星空であった。
河本中尉は部下数名を連れて柳条溝へ向かった。
河本は自らレールに小型爆薬を装置して点火した。
爆破と同時に大隊本部に届き、
中隊長は直ちに兵を率いて南下、北大英に突撃を開始した」(関東軍参謀花谷少佐・手記)
北大営の中国軍はひとたまりもなく敗走した。

こうして柳条溝事件がはじまり「15年戦争」の幕は落とされた。

翌9月19日、長春・奉天など沿線諸都市を占領。
朝鮮軍は中央の命令なく独断で越境出兵した。
その日の閣議は、既成事実押して認め、「満州事変」と名づけた。

中国は、日本軍の侵略行為を非難して国際連盟に提訴した。
連盟は緊急理事会を開き、事件の不拡大、両軍の撤兵努力を勧告した。
だが解決には無力であった。
その間、日本軍は錦州を爆撃し、チチハルを占領し、ハルビンを占領した。



”王道楽土””五族共和”

満州事変が勃発して2週間もたたない昭和6年10月2日、
関東軍は「満蒙を独立国とし、これを我が保護下におき、国防・鉄道の管理は日本が担当する」
という満蒙問題解決案を決定した。

すなわち満蒙に日本のカイライ国家をつくるのが関東軍の意図だった。

天津で暴動をおこし廃帝溥儀を混雑にまぎれて、強引に旅順へ護送し建国を待った。
昭和7年3月1日建国宣言を発表、「王道楽土」「五族共和」という綱領をかかげた。


朝鮮抗日パルチザン

満州事変は植民地朝鮮の経済を一変させた。
日本窒素の野口遵は朝鮮窒素肥料を設立し大陸侵略の兵站基地につくりかえられていった。
土地を失った朝鮮の農民の窮乏は目をおおおうほどであり、労働者賃金は日本の1/5にも足らなかった。
大規模な小作争議が起こり、それは民族独立闘争と結びついた。
また多くの農民は流民となり、吉林省間島地方に移住した。
指導者は若い金日成であった。


「教養人の日本史5」 藤井松一 現代教養文庫 昭和42年発行









満州の陰謀者

柳条湖事件(満鉄戦爆破)が石原莞爾や板垣征四郎らの計画的陰謀であることは、こんにち広く知られている。
石原は、
「満蒙問題は之を我が領土にすることによりて初めて解決する」と述べ、
それは日本のためだけでなく「在満蒙諸民族の幸福を保護増進すべき正義の使命なり」との見解を示している。

犬養は早くから中国問題に関わった大陸派という側面がある。
中国国民党にも知人が多い。
したがって満州事変の収拾にすいても、ある程度の成算があったものと思われる。


1932年1月、上海事変(第一次)が起きた。
海軍陸戦隊は大苦戦した。
同年3月「満州国」の建国が宣言された。


「帝国の昭和」 有馬学  講談社2002年発行





(爆弾三勇士の現場)



城山三郎「落日燃ゆ」新潮社

「関東軍は、もはや日本の軍隊ではない。別の独立した軍隊ではないか」
という独立説までささやかれた。
関東軍司令官本庄中将は、事変勃発以来、参謀たちの手で軟禁同然の目にあい、信仰三昧の生活を送らされていた。
暴走したのは関東軍だけではなかった。
朝鮮軍司令官林銑十郎大将は、天皇の御裁可も届かぬ先に、勝手に鴨緑江を越えて朝鮮軍を満州に送った。

軍は参謀総長が外務大臣あたりに文句を言われてはおもしろくないので、閑院宮載仁親王を担ぎ出した。
海軍もこれにならって、伏見宮を軍令部長に戴いた。

関東軍は独走し続け、三月には満州国建国宣言が行われた。
五月、犬養首相は海軍の一団に襲われ斃れ、軍部の無言の威圧が、また強まった。





(関東軍)




「犬養毅 党派に殉ぜず、国家に殉ず」 小林惟司 ミネルヴァ書房 2009年発行

辛亥革命と犬養
日本に亡命してくる中国人を庇護、助力をし、とくに孫文との関係は深かった。
明治29年三国干渉があった年以来である。
その2年後辛亥革命が起こる。
西園寺内閣は革命軍に反対した。

大正14年5月、逓信大臣を辞し、同時に議員も辞した。
信州に隠棲。
昭和4年7月補選があり、選挙民が再選さした。

昭和4年7月田中義一首相が辞職、3ヶ月後死亡。
昭和4年10月政友会総裁に決定。

昭和6年9月満州事変。
昭和6年12月若槻内閣が組閣後8ヶ月で退陣。
元老西園寺は悩みに悩んで、76歳の犬養毅を天皇に奏請した。

昭和7年1月、天皇の車列に爆弾(桜田門事件)。
昭和7年2月、衆院解散・総選挙。絶対多数獲得、304名。
昭和7年1月~3月、上海事変。


レットン調査団

昭和7年2月、来日。
昭和8年10月、「日本軍の行動は自衛行為と認められず。満州国は純粋な独立運動によって出現したものではない」
既成事実を狙って、その直前の9月日本は満州国を承認していた。








「福山市史・下」 福山市史編纂会編 昭和58年発行 


昭和6年9月19日、関東軍が南満州鉄道の一部を爆破したいわゆる柳条溝事件で、
以後15年におよぶ戦争のきっかけとなった。

事件が発生すると、これを支持する支配層・軍部の意向をうけて、
新聞ラジオがその全機能をあげて写真展・映画会・慰問袋・○○金(読み取り不可)・肉弾三勇士
などのキャンペーンを行ったので、福山においても、そうした動きが活発になった。

9月24日朝日新聞社の主催で市内三か所(大黒座・盈進商業・誠之館中学)で開催された満州事変映画会には、
平日の昼間に2.000人以上の観客がつめかけ、夜間も昼に劣らぬ盛況で「銀幕に映る我軍の活躍に拍手の波」がわき起こったといわれる。
新聞やラジオによって中国への敵愾心を燃やしていた市民は、じかに「我軍の活躍」ぶりに接して狂喜したのであろう。
こののち、陸軍省が全面的にバックアップした写真展・展示会・排日資料展や第五師団・四十一連隊・在郷軍人会などが主催した軍事・国防講演会などがひらかれるが、9月28日福山公会堂に5.000人以上を集めたのをはじめとして、以後各地でも満員の聴衆を集めたといわれる。

このようななかで、市民の側からも積極的な動きが出てくる。
「我が満蒙派遣軍の正当なる行動を支持する」という在郷軍人会福山支部の決議を皮切りとして、
9月30日には千田村で500人参加の「対支問題」の強硬な決議を採択。
福山市では11月23日、天守閣広場で市民大会が開催され、当局を支持激励し、東洋永遠の平和を宣言採択した。
11月末になると、「満州事変号外を生徒へ!学童へ!」という目的で、福山師範、誠之館・盈進中学、福山・門田・増川高女と東・西・南・霞小学校に、アサヒ学校ニュース板が作られ、
「係の先生が平易に解説して、児童にわかりやすく書いて効果を挙げ」るようになった。

12月18日第五師団に出動の下令あり、四十一連隊からも若干部隊の出動が命じられた。
福山はわきたった。
12月19日午後6時から市民の提灯行列で門出を祝った。
12月21日午前3時の派遣部隊の福山駅出発にあたっては、沿道・駅頭ともに見送り人が殺到したという。

翌昭和7年1月6日に南小学校で錦州入城映画が公開されたのをはじめとして、つぎつぎと映画会が行われた。
郷土部隊の「活躍」もあり、寒夜にもかかわらずいずれも超満員で、アンコールが出るほど市民は熱狂した。

2月24日「肉弾三勇士」の第一報がもたらされると、たちまち大ブームとなり、各学校で終身の時間を割いて三勇士の話を生徒に聞かせた。
娼妓連は軍服姿で三勇士踊りを披露するなど、「どこもかしこも肉弾三勇士が大もてで、
市も4月17日公会堂で肉弾三勇士の会を開催した。

4月にはいると出征兵士が徐々に帰還し始めた。
遺骨となって帰還もあったが、当時の新聞はこれを「悲しいもの」としていることが注目される。





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犬養木堂②統帥権干犯

2021年05月14日 | 昭和元年~10年






「サンデー毎日」 2017.11.26号 

5.15事件「憲政の神様」と「統帥権干犯」発言・保坂正康

犬養毅は「憲政の神様」といわれ、日本の議会政治の申し子とされている。
しかしミステークもまた何度か犯している。

たとえば、昭和5年のロンドン海軍軍縮では対米英7割を不満とした軍令部長に、
政友会の犬養や鳩山一郎が「統帥権干犯ではないか」と攻撃を続けた。
つまり軍部の力を借りて政府を攻撃するという構図になった。

軍部に伝家の宝刀があることを教え、
つまるところ日本が戦争に入っていく武器になった。




「岡山人じゃが2009」 岡山ペンクラブ  吉備人出版 2009年発行

ロンドン条約をめぐっては、時の右翼だけなく政友会までが、
議会で浜口内閣が条約を成立させたことは「統帥権の干犯である」
として激しく追及した。

政友会総裁の犬養毅は「用兵の責任に当たっている軍令部長は、この兵力量では国防はできないと断言している」
と浜口首相に質問した。
政友会幹部の鳩山一郎は
「国防計画は統帥府の責任である、政府が変更するのは一大政治冒険だ」と追及した。
これ以降「統帥権干犯」の言葉が軍部だけでなく政治世界のなかに急速に一人歩きを始めた。


これはもともと海軍内部の海軍省派(条約派)と軍令部派(艦隊派)との覇権争いであるが、
以後海軍だけでなく陸軍を含めた軍部への批判に対しては、
「統帥権干犯だ」と反論して「泣く子も黙らせる」極めて有効な脅し文句となった。


「憲政の神様」といわれた犬養毅が浜口首相の民政党に対する攻撃という政争が目的だったとはいえ、
結果的に軍部の強権な行動に手を貸し、
軍部独裁体制を助長することになったことは、まことに残念である。







統帥権干犯 日本の歴史14」研秀出版 1973年発行 


1930年(昭和5)1月から4月まで、
ロンドン海軍軍縮会議は、統帥権問題などはまったく論議のまとになっていなかった。
ところが幣原外相の外交演説が導火線になり、軍令部は無視の越権行為であり統帥大権を侵犯するものだと非難した。

犬養政友会総裁や鳩山一郎は軍令部の後押しをした。
政党人である犬養や鳩山が軍令部の主張を支持して政府を攻撃するなどは政党政治の自殺行為であった。

議会は連日統帥権論争に終始し新聞は派手にこれを報道した。
軍令部長は統帥大権侵犯を糾弾する上奏文をもって直接天皇に辞意を表明した。
6月、軍令部長と海軍大臣は意見の一致を必要とする覚書を確認し一応落着した。

11月14日、陸軍大演習に参加の途次浜口首相は右翼青年・佐郷屋留雄に射たれて重傷を負った。
”屈辱条約締結と統帥権干犯”がその動機であった。







(川崎の煙突男)






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犬養木堂①木堂と笠岡

2021年05月14日 | 昭和元年~10年
犬養木堂は明治の初め、小田県庁に勤務し笠岡に住んでいた縁と、衆議院選挙が1区2区制のときは笠岡も木堂の選挙区内だった。





「犬養毅 党派に殉ぜず、国家に殉ず」 小林惟司 ミネルヴァ書房 2009年発行

若き日々

犬養毅は安政2年(1855)備中国賀陽軍庭瀬村川入に大庄屋犬飼家の二男として生まれた。
維新前後に犬飼家は没落し、姓は犬養となった。
明治5年、17歳になった犬養は小田県庁で地券局の書記に勤めることにした。
この当時の犬養は、県庁の小使や給仕に対して極めて親切で、菓子などを買ってやったり、
とにかく目下の者には親切であった。
これは犬養の晩年になっても変わらぬ特徴であった。

小田県では西洋書の論議が流行っていた。
明治7年小田県庁を辞め、西洋書の英語原書を読むためには、どうしても東京に出なければならない。
上京した、明治8年21歳のとき。


東京では、「郵便放知新聞」に原稿を書き、慶応義塾に入った。
明治10年、西南戦争の特派員で「戦地直報」で文名をあげる。

慶応義塾を退学し、東海経済新報で経済学者になる。
東京府会議員になる。
朝野新聞社の幹部になる。
衆議院議員で初陣を飾る。

明治23年(1890)、
36歳になった犬養は、この年7月実施された第一回総選挙に
郷里岡山県第3区、改進党から立候補。
当選、それ以降連続19回の当選を果たした。





(小田県庁門 2021.3.31)



犬養木堂(小田県時代)

明治5年2月、政府は全国に地券の発行を公布したが、小田県は同年9月地券局を設置し、9人の官員を任命した。
この時、若干の筆生を募集したが、犬養毅も応募して採用された。
木堂はどのような条件で小田県庁に奉職したのであろうか。

休暇願によると一か月契約のパートであったことが判明する。

明治45年に記した自叙伝によれば、
学費をつくるためであったが、予想に反して月給わずかに6円であった。
食費と雑貨をまかなうのがやっとであった。

しかし、その間に「書を読み、文を綴り、独学のできる」限りを全力でしたという。

県庁所在地の笠岡に居住したため、新しい洋学を習得する機会に恵まれた。
大きな影響を与えたのは坂田丈平(警軒)と多田省一であった。
「漢学」を棄てて、洋学という「新学問」を修めることをつよく決意した。
慶応義塾の福沢諭吉から洋学を学ぶ決意をするにいたった。
笠岡は彼の新しい思想形成・学問構築の出発点になった。

「おかやま人物風土記」 岡山県広報協会  平成14年発行








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NHK・英雄たちの選択「5・15事件」 

2021年05月13日 | 昭和元年~10年
日時・NHKBS「英雄たちの選択・5・15事件」  2021.5.12 20:00~21:00



広い岡山平野で、岡山市と倉敷市の市境ふきんに犬養木堂生家がある。
今は地域の人により記念館として保存され、憲政の資料館も兼ねている。

昨日、NHKで木堂の番組があったので見た。







一口に言って、60分では番組構成に無理があった。時間が足りない。
新聞の番組表には「5・15事件」と載っていたが、それにしぼっった番組作りの方がよかった。








なぜなら、
木堂先生の政治キャリアは非常に長く、明治憲法の第一回選挙から、大正、昭和とつづいて、
最後は5・15事件で幕を閉じた。


番組は長年の事件や活動を羅列したため、見て理解する方も頭が分散してしまった。





尾崎行雄と憲政活動。
宮崎滔天と大陸での孫文ほか人脈、その経過。
普通選挙。






軍国主義やテロの横行。
自身が失政した統帥権干犯問題。


最後は首相に上りつめたが、間もなく「話せばわかる」の言葉を残して死んだ。






やはり木堂先生をテレビで放送となれば、NHK大河ドラマが一番適しているように思う。
すくなくても1年間は必要。

岡山県内では戦国時代の”後北条”や、幕末の”山田方谷”の運動があるが、
”犬養木堂”の方がいい。
なにより歴史としての重要度が、北条や方谷とは、まったく比較にもならない。


弱者によりそった一生は称えられ、
親や祖父母が生きた時代を、リーダーとしてどのように悩み・指導・決断したのか
国民は知りたい、知らなければいけない、と思っている。






コメント (1)
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