しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

5・15事件、統帥権干犯

2021年04月01日 | 昭和元年~10年
5・15事件 日本の歴史14」研秀出版 1973年発行 


この事件はあくまで、それに先だつ
10月事件・3月事件、血盟団事件、その後につづく神兵団事件・226事件という一連の事件の関連の中でとらえなくては、明らかにできない。
犬養内閣でなくても、このような事件はおきたであろう。

犬養内閣は、陸軍青年の憧れの人ともいえる荒木貞夫を陸相とする内閣であった。
では、なぜに政党というものは彼らの目の敵にされたのであろうか。
5・15事件の檄文に、
「日本国民よ!刻下の祖国日本を直視せよ。
政治・外交・経済・教育・思想・軍事、
何処に皇国の姿ありや。
・・・
天皇の御名において君側の奸を葬れ。
国民の敵たる既成政党と財閥を倒せ!
横暴極まる官憲を膺懲せよ!
奸賊、特権階級を打破せよ!
農民よ労働者よ全国民よ、祖国日本を守れ。
起て!起って真の日本を建設せよ」

と既成政党とそれと結んだ財閥が日本を堕落させた元凶だと思い込んだのである。
だから犬養内閣であろうとなかろうと、殺される運命にあった。

それというのも、打ち続く凶作で、農村の貧しさは極限に達していた。
岩手県では餓死するのみという農家が10万戸のうち7万7千、全人口の半数に達する始末。
ナラ、トチの実を袋に入れて持ってくる児童。木の実まで不作で持ってくることのできない児童。
教室で空腹のあまり卒倒する学童は100人にのぼる有様。
娘を東京方面に売る者は後をたたない。

日本の政治経済をたてなおすことは左翼右翼に関係なく、当時国民の待望するところであった。
日本の農民を救うことを目的としていた。

事件は海軍将校有志を中心として、陸軍士官候補生の有志、血盟団残党、愛郷塾一派、が起こした。
4組に分かれて襲撃、
東京を暗黒街にするという目的は果たさなかった。
引き揚げた後東京憲兵隊に自首。
成果はあまりに少なく、単に犬養首相を殺したにとどまった。
ただ、その空気に軍部が便乗し軍部独裁への道をひたばしることになった。




統帥権干犯 日本の歴史14」研秀出版 1973年発行 


1930年(昭和5)1月から4月まで、
ロンドン海軍軍縮会議は、統帥権問題などはまったく論議のまとになっていなかった。
ところが幣原外相の外交演説が導火線になり、軍令部は無視の越権行為であり統帥大権を侵犯するものだと非難した。



犬養政友会総裁や鳩山一郎は軍令部の後押しをした。
政党人である犬養や鳩山が軍令部の主張を支持して政府を攻撃するなどは政党政治の自殺行為であった。



議会は連日統帥権論争に終始し新聞は派手にこれを報道した。
軍令部長は統帥大権侵犯を糾弾する上奏文をもって直接天皇に辞意を表明した。
6月、軍令部長と海軍大臣は意見の一致を必要とする覚書を確認し一応落着した。

11月14日、陸軍大演習に参加の途次浜口首相は右翼青年・佐郷屋留雄に射たれて重傷を負った。
”屈辱条約締結と統帥権干犯”がその動機であった。


・・・・





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天皇②天皇制の内なる危機

2021年01月19日 | 昭和元年~10年
昭和の初め、天皇制は世継ぎがなく危機を迎えた。(下記の①②③)
令和の始め、やはり世継ぎが不安定で①②③に加え、結婚しない自由④が追加され懸念は一層高まる。


・・・・



(大正10年皇太子訪欧)



日本の歴史14 「いのち」と帝国日本」  小松裕著 小学館 2009年発行

天皇制の内なる危機


治安維持法は、マルクス主義者を天皇制にとって最大の政治的異端とあぶりだし、徹底的に弾圧した。
こうして天皇制はさらに強化されたようにみえるが、天皇制の真の危機はその内部にあった。

皇太子裕仁は1921年(大正10)のヨーロッパ外遊で目の当たりにしたイギリスやオランダなどの皇室のありように、
大きな影響を受けて帰ってきた。

帰国後、皇太子は女官制度の改革に取り組むが「近代家族」への憧れがあった。
これまで、生まれた子供は里子に出すのが通例であったが、これからは自分の手もとで育てたい、
「家庭的団欒」を女官に気兼ねすることなく楽しみたい、というのである。
皇太子には一夫一妻制への強い意思があった。

天皇家が一夫一妻制を採用することになると、当然跡継ぎの問題が出てくる。
一夫一妻制の夫婦の間には、
①男児が生まれる②女児しか生まれない③どちらも生まれない、という三つの可能性しかない。
そのために皇室典範には、「庶子」の皇位継承について定められていた。
つまり、天皇が側室を置けるようにしていた。



1929年(昭和4)9月30日に第三子が生まれたころから、側近のなかに漠たる不安が生じ始めた。
そして、
1931年3月7日に生まれた第4子も女児だった。
周辺はざわめきはじめた。
たとえば、
宮内大臣は、元老西園寺公望に「養子」制度の可否を諮問した。
さらに、
「胎中天皇」の皇位継承の可能性、つまり皇后のお腹に子供がいる間に不幸にして天皇が亡くなった場合の皇位継承についても検討を開始した。
まぎれもなく天皇制の危機であった。

ところが1933年12月23日明仁親王が誕生したことで、皇位継承の危機は脱した。
こうして、②③のケースにどのように対応するかという問題は先送りされ、現在に至っている。



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昭和恐慌と養蚕業 (鴨方町史・笠岡市史)

2021年01月10日 | 昭和元年~10年
「鴨方町史本編」鴨方町 平成2年発行


昭和恐慌化の鴨方

1930年3月から株式市場も一斉に下落をはじめ、物価の下落に連動した。
生糸55%、綿糸52%、米50%の下落を記録。
米と繭の日本農業を直撃することになった。
産業界は極度の不振に陥っており、首切り・合理化の嵐の中で失業者が急増した。
出稼ぎ者の帰村が始まり、農村は農産物の下落と帰村者の増加によって負債をかかえる農家が増加。
農村恐慌に突入することになった。


鴨方町および六條院村では、麦稈真田の輸出減退により価格が大暴落した。

生糸の輸出減退は養蚕農家に甚大な影響を与えたが、
鴨方町では昭和期に入って急激な普及をみせていた矢先の不況到来であった。
養蚕農家数を見ると、
1912年(大正元) 7戸
1920年(大正  20戸
1926年     171戸
1930年     449戸

繭の価格は1929年上繭一貫 7.6円
     1932年     2.80円。
次第に養蚕から手を引く農家が増え。1939年には105戸まで減少した。


農家副業としての麦稈真田の不振と養蚕業の低迷から抜け出す方法は、
制帽工業と葉煙草に見い出そうとする農家が増えた。



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「笠岡市史第三巻」

昭和初期の小田郡の養蚕業の動向


城見村・昭和3年 69戸 871貫 5.522円
城見村・昭和5年 80戸 1.100貫 4.268円
城見村・昭和7年 74戸 661貫 1.784円
(管理人記・養蚕農家は大冝・用之江が多く、茂平は少ないと思える)


昭和恐慌は、特に生糸と繭の暴落に始まる農村恐慌となって現れた。
岡山県下でも上繭貫当たり平均価格が、昭和4年の7.46円から翌5年の3.70円と半値に下げている。
昭和5年、米価も全国的に急反落した。
「大学は出たけれど」と大学卒業生も仕事にありつけず。

笠岡の製糸業を始め、小田・後月郡一帯の養蚕農家にとっても大きな打撃となった。




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井原の製糸・養蚕

2020年11月27日 | 昭和元年~10年
井原の製糸・養蚕

「井原市史Ⅱ」 井原市史編纂委員会  平成17年発行


桑園

明治23年(1890)の桑園面積を基準にした場合、昭和4年(1929)は全県で8.9倍に面積が拡大している。
後月郡は37倍、
小田郡は20倍にもなってもいる。

桑畑の畑地に対する比率は昭和4年の全県28%。
後月郡27%、小田郡22%と県平均に近い。
全県の桑園に占める比率を見ると、小田郡が8.2%、後月郡が4.2%であり、小田郡は県内でも桑園面積の広い地域であった。

岡山県の場合、養蚕はあくまで副業であり、水田率の高い地域が桑畑の対畑地比率が高い傾向にある。
つまり畑地の比率の高ければ、畑地で食料生産をしなければならず、桑園の拡大には限界があった。


中備製糸

明治26年(1893)に設立された中備製糸株式会社は、その後順調に発展する。
大正2年、創業20周年記念祝賀会が開催された。
女子従業員のための裁縫などの夜学校を開始した。
職工数は大正7年には237人まで増加した。
大正11年には350釜となった。





原料繭は県外から次第に県内、やがて井原の周辺地域中心になった。

損益状況は、かなりの変動がみられる。
繭の不出来、糸価の低落、経済一般。
第一次大戦で乱調子。
大正15年から生産調整。昭和4年以降は赤字続き。
昭和7年に解散した。
昭和初期、多くの製糸場が倒産し、郡是・片倉を頂点とする大手製糸会社への集中がすすんだ。

購繭時期には、井原の中備製糸の前には、繭を売りに来たり、運んできた農民たちで大変賑わった。
製糸女工たちは給料で井原の商店で買物をし、商店の経営を潤した。
昭和7年の解散時には、
「農村並びに商店街も不況にあえぐ折柄、いっそう不況が深刻化するであろう」と報じられた(山陽新報)。


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和服の女子・洋服の男子 (昭和4年の城見小)

2020年09月09日 | 昭和元年~10年
父の小田郡城見村立「城見尋常小学校」の卒業記念写真。

男子児童数が37人・・・全員学帽・学生服
女子児童数が38人・・・1名が洋服、37人が和服。

この2年後くらいには女子も全員洋服になったと思われる。




父の話などで推測すると、
男子はこのうち、半数が高等小学校、半数が中等へ進学。
中等学校進学の半数が神辺実業。残りは笠岡商・金光中・福山中(誠之館)。
高等教育は、大学なし。陸軍士官学校1~2名。

※管理人の卒業写真は父と同じ場所。最前列がイス、男女は右・左だった。驚くのが、父の方が生徒数が多い。


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「目で見る岡山の昭和」 蓬郷巌著 岡山文庫 昭和62年発行

昭和2年 学童服が普及

大正末期から児島で始まった学生服の大量生産で、学童たちの服装が、和服から学童服へと急速に変わっていった。
昭和13年ごろには10.000.000着と、全国の90%のシェアを誇り「学生服王国」となった。

女子学童の和服姿も少し遅れて洋服への転換が進み、昭和4年ごろにはほとんどが洋服になった。


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軍警抗争事件・・・福山市

2020年07月22日 | 昭和元年~10年
「福山市史・下」 福山市史編纂会編 昭和58年発行 より転記


昭和8年(1933)4月14日午前1時20分ころ市内のカフェーで福山連隊の中尉が暴行事件を起こし、
これを鎮めようとした巡査2人と衝突、かけつけた応援の巡査とともにとり押さえ、憲兵隊に引き渡した。

ところが憲兵隊長は「現役将校に手錠をかけ留置場に入れたのはけしからぬ」と逆ねじをくわせ、第五師団の安岡参謀長も
「中尉の行為は悪いが、侮辱した点を警察は謝罪せよ」と迫った。
結局軍の横車がとおり警察が謝罪して「円満解決」した。

軍の横暴ぶりを端的に示した事件といえる。
連隊長は地方都市では小大名的存在であっただけに、時流にのった横暴事件が徐々に目立つようになっていった。


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「満州事変」・・・福山市

2020年07月22日 | 昭和元年~10年
「福山市史・下」 福山市史編纂会編 昭和58年発行 より転記


昭和6年9月19日、関東軍が南満州鉄道の一部を爆破したいわゆる柳条溝事件で、
以後15年におよぶ戦争のきっかけとなった。

事件が発生すると、これを支持する支配層・軍部の意向をうけて、
新聞ラジオがその全機能をあげて写真展・映画会・慰問袋・○○金(読み取り不可)・肉弾三勇士
などのキャンペーンを行ったので、福山においても、そうした動きが活発になった。

9月24日朝日新聞社の主催で市内三か所(大黒座・盈進商業・誠之館中学)で開催された満州事変映画会には、
平日の昼間に2.000人以上の観客がつめかけ、夜間も昼に劣らぬ盛況で「銀幕に映る我軍の活躍に拍手の波」がわき起こったといわれる。
新聞やラジオによって中国への敵愾心を燃やしていた市民は、じかに「我軍の活躍」ぶりに接して狂喜したのであろう。
こののち、陸軍省が全面的にバックアップした写真展・展示会・排日資料展や第五師団・四十一連隊・在郷軍人会などが主催した軍事・国防講演会などがひらかれるが、9月28日福山公会堂に5.000人以上を集めたのをはじめとして、以後各地でも満員の聴衆を集めたといわれる。

このようななかで、市民の側からも積極的な動きが出てくる。
「我が満蒙派遣軍の正当なる行動を支持する」という在郷軍人会福山支部の決議を皮切りとして、
9月30日には千田村で500人参加の「対支問題」の強硬な決議を採択。
福山市では11月23日、天守閣広場で市民大会が開催され、当局を支持激励し、東洋永遠の平和を宣言採択した。
11月末になると、「満州事変号外を生徒へ!学童へ!」という目的で、福山師範、誠之館・盈進中学、福山・門田・増川高女と東・西・南・霞小学校に、アサヒ学校ニュース板が作られ、
「係の先生が平易に解説して、児童にわかりやすく書いて効果を挙げ」るようになった。

12月18日第五師団に出動の下令あり、四十一連隊からも若干部隊の出動が命じられた。
福山はわきたった。
12月19日午後6時から市民の提灯行列で門出を祝った。
12月21日午前3時の派遣部隊の福山駅出発にあたっては、沿道・駅頭ともに見送り人が殺到したという。

翌昭和7年1月6日に南小学校で錦州入城映画が公開されたのをはじめとして、つぎつぎと映画会が行われた。
郷土部隊の「活躍」もあり、寒夜にもかかわらずいずれも超満員で、アンコールが出るほど市民は熱狂した。

2月24日「肉弾三勇士」の第一報がもたらされると、たちまち大ブームとなり、各学校で終身の時間を割いて三勇士の話を生徒に聞かせた。
娼妓連は軍服姿で三勇士踊りを披露するなど、「どこもかしこも肉弾三勇士が大もてで、
市も4月17日公会堂で肉弾三勇士の会を開催した。

4月にはいると出征兵士が徐々に帰還し始めた。
遺骨となって帰還もあったが、当時の新聞はこれを「悲しいもの」としていることが注目される。


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春秋園事件

2020年05月05日 | 昭和元年~10年
2年ほど前、大横綱だった貴乃花親方が、別の部屋の力士による弟子への暴行で相撲協会を告発したら、逆に貴乃花親方が悪者になって、相撲協会から追放されてしまった。

プロ野球はメジャーリーグを見習って、選手や試合や経営を時代に合わせながら変革しているが、
相撲は見本やライバルが存在しないうえに、経営まで元相撲取で行っているので、どんどん時代から取り残されている。

昭和7年の「春秋園事件」から88年、相撲協会は今まで何をしてきたのだろうか?

「昭和史3」研秀出版 平成7年発行 より転記

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春秋園事件

昭和7年1月6日、
天竜・大ノ里・武蔵山ら29人は相撲協会に要求書を提出した。
相撲協会の会計制度を確立すること
相撲茶屋を撤廃すること
年寄り制度を漸次廃止すること
地方巡業制度を改革すること
力士の収入を安定ならしめること
など。

起こるべくして起こった事件といえる。
天竜は「今度のようなことは、もっと前に先輩がやるべきことだった」と語った。

鏡岩・男女ノ川(当時・朝潮)ら東方力士も呼応、革新力士団を組織して協会から脱退した。
国粋会が調停に乗り出し、武蔵山と出羽ヶ嶽が部屋に帰参した。
力士側は態度を硬化させ、全員マゲを切り決裂した。

新興力士団はファンの人気を集めたが、協会から各地の勧進元へ手をまわしていたので、地方巡業は不入りがつづいた。
協会へ帰参する力士が増え、新弟子の加入も少数で、結局昭和12年12月解散やむなきに至った。

天竜は協会に詫びをいれ、全員を帰参させた。
盟友・大ノ里を亡くし、寂しく満州国へ去っていった。

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昭和10年10月5日 笠岡男子校・女子校運動会

2019年09月10日 | 昭和元年~10年
里庄町にお住いのOさんから借りた画像。

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幼稚園




女子校の玉入れ





高等科男子の箱飛び



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昭和10年8月1日・笠岡女子校のラジオ体操(古城山)

2019年09月10日 | 昭和元年~10年
里庄町にお住いのOさんから借りた画像。

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昭和10年8月1日 小田郡笠岡町・古城山にて
         笠岡女子校のラジオ体操






体操が終わると解散。


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