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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

金浦病院・金浦青年団・国防義会金浦支部・金浦青年学校等

2019年01月23日 | 昭和元年~10年
「金浦要覧」編・増成松平 昭和11年6月発行より転記
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金浦病院
本県社会課の構想により町長は気運の促進を図る。
町財政を考慮し小規模の施設となし、意見もあった。
幾多の障壁を辿り、昭和8年1月開院式を挙行せり。
町民の利用は勿論、隣接各町村の診察を求むるもの増し、健全なる発達を遂げつつ今日に至れり。


金浦消防組
明治32年、団員154名。明治44年341名。昭和2年394名。

金浦町青年団
本町在住の15歳以上25歳以下の学籍にあらざる青年を以って組織す。
現在団員総数三百余名に達せり。
本団の創立は昭和4年、各にあったものを大日本連合青年団の一町一青年団の方針に則り、統一せられり。
弁論会、体育会は近県青年の大会を挙行し、且つ「若人」を発刊して地方文化に貢献し傍ら社会奉仕の作業に懸命に努力をしつつあり。

金浦町婦人会
昭和6年に至り、従来の主婦部、処女部を分割し主婦部のみを以って金浦町婦人会を組織し現在会員243名。
婦人の資質向上、賢母良妻家庭婦人の修養となるべき講習会講演会の開催、農繁期の託児所、敬老会を開く。

金浦町女子青年団
本町在住の満12歳より満25歳までの未婚女子を正団員とし現在団員総数67名。

岡山県国防義会金浦支部
昭和8年1月29日現在会員、1487名に達し、本町の補助金を受け設立以来在郷軍人分会、青年団、婦人会等と連絡を保持し左記事業を実施しつつあり。
1・皇室の尊崇忠君愛国心の振起を図るため、祝祭日には率先祝意を表し努めて拝賀式参列す。
2・国防に関する普及を期する。有識者より聴取す。
3・戦時事変の際に於ける町民の訓練。

金浦小学校
明治32年高等科を設置し金浦尋常高等学校と改編、
同年5月裁縫専修科を附設す、34年廃して裁縫専修学校を附設す。
大正4年,実家学校を附設す。
大正9年実科補習学校を附設す。
児童数は尋常科927名、高等科198名。

金浦青年学校
大正9年小学校に附設農商補修学校として開校、その後水産課を加えた。
昭和6年金浦実業学校へと改称す。
昭和10年勅令により、
金浦実業学校、金浦青年訓練所を廃して、金浦町立金浦青年学校を設立す。
生徒数は110名、
本科の教授及び訓練期間は、普通科2年、本科は第一第二とも5年、研究科1年である。
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招魂社及忠魂碑

2019年01月09日 | 昭和元年~10年

「小田郡史・下巻」 昭和16年小田郡教育会編纂より転記する。

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招魂社及忠魂碑

維新以後国事に斃れたる烈士の霊を慰めん為、日清戦役後本群連合にて、笠岡町威徳寺付近天神社境内に忠魂碑を建設し、北進事変後第二忠魂碑を建設せしが、日露戦役後之を改めて招魂社造営の議を決し、廃棄したる昭忠碑は有志者の奉仕により古城山頭に移転し、其跡に社殿を造営して、日清戦役以後各戦役忠死者の霊を合祀し、茲に本郡招魂社を見るに至れり。然るに昭位置は狭隘にして不便なるを以って、後之を古城山に移転し以って今日に至れり。

各町村多くは忠魂碑を建設し例祭を行ひて忠霊を慰むるの方法を講ぜり。
其建設の年月左の如し。
(城見村はなし)※一部抜粋する
金浦町 大正11年5月10日
陶山村 昭和3年11月
大井村 昭和4年5月
笠岡町 明治29年12月(日進役) 明治34年10月(北清役)

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日本の国連脱退②松岡洋祐代表

2019年01月08日 | 昭和元年~10年
「昭和」3 非常時日本 昭和7~9年  平成元年講談社発行より転記

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昭和7年11月、すでに「満州国」を承認していた日本は、連盟を脱退してでも満蒙の支配権を守るため連盟理事会に臨んだ。
松岡は、理事会でリットン報告書を激しく非難し、中国側代表と対立した。

8年に入ると日本は熱河省への侵攻を開始したが、連盟の対日感情を悪化させた。
2月14日、19人委員会はリットン報告書は満州国不承認を内容とする報告案を全会一致で可決した。
この報に接した日本政府は、総会で採択されたら連盟を脱退することを閣議で決定した。
2月24日の連盟総会で42対1(日本)対棄権1(シャム)で採択した。

脱退に至るまでの内田外交を、宇垣一成は
「昨夏以来帝国の外交当局は果して何を為し来たりしや。
軍部一部の短見者流の横車に引き摺られて青年将校でも述べそうな事をお先棒となりて高唱し何等の策も術もなく押しの一手一天張り無策外交の極致。
松岡の饒舌振りを発揮せしめて列強の感触を害して極度に事態を悪化せしめた」と日記(2月18日)に記している。

松岡の帰国を迎え、群衆は熱狂的な歓迎騒ぎを繰りひろげた。
しかし、日本は、この時から国際的孤立の道を進むこととなった。
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日本の国連脱退①「共同宣言」

2019年01月08日 | 昭和元年~10年
国連での、日本への支持派がないことにいら立った新聞各社は「共同宣言」を発表した。
新聞社が、まっさきに狂い、国民を扇動したことがわかる。

「昭和」3 非常時日本 昭和7~9年  平成元年講談社発行より転記
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「共同宣言」

満州の政治的安定は、極東の平和を維持する絶対の条件である。
而して満州国の独立と其健全なる発達とは、同地域を安定せしむる唯一最善の途である。
東洋平和の保全を自己の崇高なる使命と信じ、且つそこに最大の利害を有する日本が、国民を挙げて満州国を支援する決意をなしたことは、まことに理の当然といはねばならない。
ひとり日本のみならず、真に世界の平和を希求する文明諸国は、ひとしく満州国を承認し、且つ其成長に協力するの義務ありといふも過言ではないのである。
然るに国際連盟の諸国中には、今尚ほ満州の現実に関する研究を欠き、従って東洋平和の随一の方途を認識しないものがある。われ等は、かかる国々の理解を全からしめんことを、わが当局者に要望すると共に、苟(いやしく)も満州国の厳然たる存立を危うするが如き解決案は、たとひ如何なる事情、いかなる背景に於て提起さるるを問わず、断じて受諾すべきものに非ざることを、日本言論機関の名に於いて茲(ここ)に明確に声明するものである。

昭和7年12月19日

日本電報通信社 報知新聞社 東京日日新聞社
東京朝日新聞社 中外商業新報社 大阪毎日新聞社
大坂朝日新聞社 読売新聞社 国民新聞社 
都新聞社 時事新報社 新聞連合社
外百廿社(イロハ順)

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靖国神社の北木石の大鳥居

2019年01月07日 | 昭和元年~10年
靖国神社には大鳥居が九段下から何本も建っているが、すの全てが青銅など鋼材で出来ている。
大村益次郎銅像の場所から南側、青山方面の「駐車場入口」に石の鳥居がある。
石の鳥居はここのみなので、さがすのは簡単。

昭和8年、北木島産の石が靖国神社の鳥居になった。
昭和」3 非常時日本 昭和7~9年  平成元年講談社発行より転記
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靖国の大鳥居
高さ11メートル
東京九段の靖国神社に石の大鳥居と狛犬が完成し、4月13日、奉納式が行われた。
これらは、製糸業で知られた片倉合名の片倉一族が奉納したもので、鳥居の高さは約11メートル、狛犬の高さは約2.3メートル。写真は、同神社で組み立て作業が進められる大鳥居。
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満州の日本人

2018年06月27日 | 昭和元年~10年
管理人のおば(父の妹)は、結婚と同時に満州に嫁いだが、おばが話す満州吉林市の生活は、ほぼ下記の本の記述に重なる。
おばたち満州の日本人は、全員が満州にとどまることが出来なかった。それほど、日本人は嫌われていた。


「いのちと帝国日本・14」小学館2009より転記する。
それにしても、昭和初期の「婦人公論」は、内容が冷静で、かつ出版も可能だったことにも驚く。
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南満州における日本人の自由な居住が承認されたのは、対華21ヶ条要求を受けて、1915年に締結された南満東蒙条約によってであった。
1914年には約3万にすぎなかったが、1931年には9万人が住むようになった。
だが日本人が多いのは奉天と営口だけで、ほかは中国人の方が多かった。
日本人は広大な満州の一部分に、へばりつくように生活していた。
通貨は中国人社会とは別に日銀券を使用し、日本人のみを相手にしていた日本人商店で買い物をするのが日常的だった。
中国語も学ぼうとせず、日本では不可能な使用人を置いた派手な生活を送っていた。
お金を稼ぐことを目的に満州に来た人日本人が多く、その目的が達成できれば帰国する人が多く、人口の流動が激しかった。
1920年時点で在満日本人14万のうち、10年以上は20%、62%以上が在満5年未満であった。


婦人公論「満州で見た日本婦人」1926年11月号、
満州の日本人が、自分たちの区域のなかに鎖国していることを指摘し、現地の生活に適応しようとはせず、極寒の満州で和服を通す婦人や、内陸部にいながら刺身などの新鮮な魚にこだわる日本人の姿を描いた。

山川菊枝は「日本民族と精神的鎖国主義」と題する文章を「婦人公論」1927年1月号に発表した。
山川は、この世に生まれ落ちたときから
日本は「地上の楽園」であり、
日本人は世界一優秀な民族で、
それ以外の国や民族は「辺土」であり「皇化せぬ蛮人」であるということを聞かされつづけてきた日本人が、植民地に行ってどうして異民族に学び、異郷の風土に適順しようとする心持になりえよう。と述べた。
日本人にとっての真の問題は、植民的能力の問題以前に偏屈な郷土的愛国心と民族的優越感の問題であるとした。
植民地で生活した日本人にほぼ共通することであったが、満州の日本人には、異文化に適応し、異民族から学ぼうとする姿勢が、決定的に欠けていたのである。


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昭和初期の農村(和気郡佐伯町)

2018年06月24日 | 昭和元年~10年
第一次世界大戦では、日本に成金者が出た事が知られているが、田舎の生活も大きく変化したようだ。

和気郡「佐伯町史」より転記する。

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生糸の輸出が好調の為、佐伯地方にも養蚕を中心とする農家が増えた。
すなわち、大正3年(1914)から大正8年までに一挙に4倍はね上がった。
水田を桑畑にするもの、畑の多いところは一面桑畑になった。
まゆ生産は年3回もできるという好条件で農村経済を大きくうるおした。

農民の生活も大きく変化した。「からさお」や「干歯こぎ」による原始的な脱穀方法はすたれ、足踏みの脱穀機が普及しはじめ、動力による「モミスリ機」も登場した。
肥料も「過リン酸石灰」をはじめ、化学肥料が使用されはじめた。
衣類も木綿や麻の手織り、手染めが中心であったが、好景気をさかいにして姿を消した。
はき物でもゴム底の地下足袋があらわれ、小学生も藁草履をはずかしがり、ゴム裏や麻裏をねだるようになった。

食料以外の生活必需物資はほとんど買い入れるようになり、自給自足を原則とした農村経済は大きくくずれ、資本主義的生産関係が農村にも深くしんとうしてゆくのであった。
そのため農村の古い民族や習慣がすたれ、若い者は村に伝わる昔話や伝説を知らないようになった。


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昭和8年の笠岡伏越港発の定期船

2018年02月21日 | 昭和元年~10年

航路が時代を感じるので転記する。
「神島史誌」より

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伏越港発時間表(笠岡合同廻漕店)

午前
7:40 玉島行
8:00 豊浦行
8:30 多度津行
9:45 外浦、白石行 隔日
11:10 外浦、白石行 隔日
11:50 高島行
午後
0:30 金風呂行
0:50 正頭行
1:10 楠行
1:30 外浦行
1:50 北木島
2:00 白石行
2:30 真鍋行
2:50 北木島
3:00 白石行
4:00 外浦行
4:45 北木島
5:00 豊浦





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満州事変 「福山市史」④小国民の暖かい心

2018年02月01日 | 昭和元年~10年

「福山市史 下」福山市史編纂会著 昭和58年発行 より転記する。

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昭和6年11月26日の朝日新聞は、「この寒いのに兵隊さんはお国のために一生懸命に忠義をつくしてくだされ、本当に有難うございます。
このお金は僅かですが、どうぞ兵隊さんに水飴でも買ってあげてください」
と、3円の為替を呉鎮守府に送った西小学校の一児童の「美談」を大きく報道した。

こうした「美談」は子供から大人まで巻き込み、その後も児童が小遣いを貯えたり、麦稈真田を編んで行った献金や、在郷軍人会福山南分会の「タッタ一銭国のため」運動などが相ついで新聞に報じられている。

慰問袋は
愛国婦人会や在郷軍人会・新聞社などが扱い、日用品のほか子どもたちの図画や作文がその中に入れられた。
その数は愛国婦人会扱いだけでも6年11月中旬までに1市3郡で1.843個にのぼり、新聞社扱いも4日間で呉鎮守府へ24.086個が発送され、そのすままじさは、軍部が「物品より金銭を希望」したほどであった。
このほか、春日小学校児童が「寒気と戦う満州軍の困苦をしのび、この冬には足袋・手袋などの防寒具を一切用いぬ」と申し合わせ、金江村・本郷村の少年団が松毬を拾ったり菰を作ってえたお金を寄付し、増川・門田高女生徒が千人針やお守りを送付し、看護婦従軍志願者が血書を提出して志願した。

この運動で注目されるのは成人も対象としていたが、それ以上に生徒・児童を主な対象として、教育界あげて戦争熱を煽ったことである。
「兵隊さん」への「感謝」の気持ちの他に、教師の奨励やマスコミの大々的な報道とも相まって、子どもたちの心に戦争熱や中国への憎しみを植え付ける結果にしかならなかったことは、否みえない事実と思われる。


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満州事変 「福山市史」③ 爆弾三勇士

2018年02月01日 | 昭和元年~10年

「福山市史 下」福山市史編纂会著 昭和58年発行 より転記する。

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(昭和7年・1932)

年が明けると、
1月6日に南小学校で錦州入場映画が公開されたのをはじめとして、つぎつぎと映画会が行われた。
郷土部隊の活躍もあって、寒夜にもかかわらずいずれも超満員で、アンコールの要求が出るほど市民は熱狂した。

たちまち大ブームとなり、各学校で修身の時間を割いて三勇士の話を生徒に聞かせたのをはじめ、娼妓連が軍服姿で三勇士踊りを披露するなど、「どこもかしこも肉弾三勇士が大もて」といわれるようになり、市も4月17日に公会堂で肉弾三勇士の夕べを開催した。
4月にはいると、出征兵士が徐々に帰還し始めた。遺骨の帰還は、当時の新聞は「悲しみの上陸」などと表現し、日米開戦後に比べると、戦死を「悲しいもの」としていることが注目される。

こののち、
11月17日のリットン報告排撃福山市民大会に至るまで、あらゆる催物や会合で排外熱と戦争熱が鼓吹され、戦争支持が世論となっていった。
そして、そのような世論形成を下から支え、子どもたちまで巻き込んで行われたのが、慰問運動と「美談」創出運動にほかならない。
これは上からの押し付けられた運動というよりも、一定の自主性をもって行われた面が強いことに、注意しておく必要があろう。


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