しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

山下、本間未亡人ら来井

2020年08月23日 | 昭和31年~35年
ニュー井原新聞・縮小版 昭和34年4月11日



山下、本間未亡人ら来井

宝蔵院梵鐘等法会


(写真右が、バターン半島死の行進責任で銃殺刑となった本間中将の富士子夫人)



井原市東江原町宝蔵院(住職、モンテンルパの父加賀尾秀忍師)で、4月5日梵鐘供養、戦没刑難の○○(文字未読)、檀家回向の大法会を行い、
戦後比島で刑死した山下奉文大将の未亡人久子さん(鎌倉市61才)、同本間晴元中将未亡人富士子さん(東京都55才)らの遺族を始め、檀信徒、並びに井原市長代理山岡助役、
今井県議、藤井前県議、地元議員多数が参列。

おわって荏原公民館に安置されてあった梵鐘が、稚児60人の行列によって同院境内にある鐘つき堂まで運ばれたが、山下、本間両夫人らを始め、遺族の手によって遠く殉難の地にも響けよとばかり、平和を祈念した鐘がつき鳴らされた。

尚、この梵鐘は、加賀尾師が三年の月日と、百万円に近い浄財で、山下、本間両将軍や受刑者の真筆などを浮き彫りにした、重さ約三百キロ、高さ一、三米、直径約六十糎の大きさのものlで、京都の岩沢梵鐘会社で鋳造されたもの。


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力道山来る

2020年08月22日 | 昭和31年~35年
ニュー井原新聞によると、プロレスの王者・力道山が井原に来たことがある。
その頃、繊維・織物の景気がよかったのだろうな。

マンモス鈴木やジャイアント馬場やアントン猪木の名がない。アリリカ修行中かな。


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ニュー井原新聞・縮小版 昭和33年 12月21日


愈々22日午後2時から
世界のプロ・レス王者
力道山一行来たる
於井原市精研高校校庭

世界プロ・レスリングの王者力道山、東冨士、タニー・シルス、豊登、スタンレー・コワルスキーの一行30余名は、愈々22日
午後二時から井原市精研高校校庭で、竜虎相打つ肉体の激突を展開。
プロ・レスファン待望の世界的大試合を、生々しく眼前に繰り展ける。
主催は日本郷友連盟井原市郷友会、井原市力道山後援会(代表井上勘市氏)であるが、
井原市内所在各種団体の後援を得て、白熱的近畿を盛り上げている。
入場料は当日700円。
前売券一等500円、二等400円、三等300円となっている。


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真鍋島の花栽培

2019年02月21日 | 昭和31年~35年
笠岡市の広報などで、笠岡駅で真鍋島の花を売る昭和30年代前半の写真をよくみる。
しかし、実際に笠岡駅のプラットホームで花売り娘を見たという人には会ったことがない。

「瀬戸内諸島と海の道」山口徹編者 吉川弘文館2001年発行より転記

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花栽培の島

岡山県笠岡市の真鍋島は、昭和20年代後半、花の島として一躍有名になったことがある。
漁業の不振から畑作が注目され、1951年から県の指導で六戸の農家が花の栽培にのりだした。
阪神地方に出荷したところ、飛ぶように売れたことから、栽培地が増え、またたくまに全島にひろがった。
しかし、真鍋島の成功はほかの地域にもすぐに波及した。
香川県の塩飽諸島、荘内半島でも花つくりが盛んになり、手強い競争相手になったのである。
海上距離が長い分、真鍋島は競争上、不利な立場にあった。
それでも、需要の拡大に支えられて、瀬戸内の島々と互して花つくりを発展させていった。

能美島(現・江田島市)では、昭和20年代後半から花つくりが盛んになった。
のちに「三高の菊」として有名になる三高地区の菊つくりは、戦後の食糧難の時代にはじまった。
広島の市場で高値をよんだことから栽培農家は全島にひろがった。
1957年は生産過剰から値崩れをおこし、種類によってはただ同然となり、その後
農家の増加・生産過剰・価格の乱高下に悩まされながらも、生産は飛躍的に伸びていった。

戦後、瀬戸内海の一部の島ではじまった花栽培は、多くの島々に普及し、競争も熾烈になった。
とはいえ、
瀬戸内海内部の競争であるかぎりは、気候は同じ、地理的条件もさほどの違いはなかった。

ところが、1980年代末から沖縄からの空輸による花が大阪や福岡を経由して広島の市場にはいってくるようになる。
彼岸の菊は、能美島ではハウスで暖房して栽培するが、沖縄では露地栽培である。
軍配は沖縄にあがった。


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北木島の生活④北木島海水浴場ほか

2019年02月06日 | 昭和31年~35年
北木島町大浦出身のAさんに、北木島が一番元気な頃(人口9.000人弱)の話を聞いた。2019.2.1。
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楠は石の地区、
石船の人もおった。

(北木島・楠 2018.10.25)

楠のフグ養殖
(問)楠の北側の海にパイルが並んでいるが、あれは何?
楠のフグ養殖。
初代の村長が始めた。
ワシも夏休みにアルバイトで餌を蒔きにいきょうた。
金網で柵をして、フグのほんまもんがいっぱいおったんよ。
チヌもおったが、フグの毒素で死んでしもうた。
3年か4年かで止めた。

小学校の遠足
笠岡でサーカスがある時出て来たことがある。
他には・・・・、
弁当持って本土へ渡ったゆう記憶はないなあ。

(笠岡へ行くことは?)
歯医者じゃなあ。
内科と眼科は島にあった、歯医者だけはなかった。

小学校も中学校も弁当を持っていってない。
昼になると家に走って帰って食びょうた。

(先生は?)
学校の中へ寮があった、そこへ泊まりょうた。
(地元の)島からの先生は代用教員じゃった。


高校への通学
6時半の船に乗ったら8時前に(笠岡港へ)着きょうた。
船で通ようたが、何人かは寄宿しようた。
大浦の人は、笠高の人も、商業の人も、淳和の人も、工業の人も船で通うた。
工業の人は瀬戸の渡しで降りょうた。
豊浦と金風呂は通学船がなかった。
豊浦や金風呂からの女性は千草寮におった。


北木島の海水浴場

下浦
昭和35~36年からはじまった。
それまではなかった。大浦が(砂が無くなり)止めてから始まった。

水の浦
交通の便が悪いから人はいかない。道が無い。

大浦
流しびなのところ。
砂がなくなって、するもんがおらんようになった。
それで下浦にかわった。

楠(海水浴兼キャンプ場)
キャンプ中の人に悪さをする地元の人がいた。
それで廃れた。
それに加えて松林の松が枯れた。
両側が海で綺麗なところじゃったが。
いっときは岡山会館が国民宿舎を造るようた。
今だに土地をもっとる。

北木島の経木流し・臨海学校
府中の奥の上下の人が200~300人で海水浴に来ょうた。
経木流しをしながら。
学校の臨海学校も来ょうた。(白石でなく)大浦で。
天野屋とか、しまず、たまや、いせや、みなとや、・・おおかた10軒あった。
木造三階建てが二棟ならんどった。
金風呂や大浦にはなかったんじゃ。


土葬・火葬

30~40前、大雨で土砂が崩れ、(墓から)土左衛門が出て来た。
それから火葬しょうやあゆうことになった。
昭和47.8年か50年頃まで土葬じゃった。
それまでは、結核で死んだ人が縦(島)で火葬しょうた。



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北木島の生活③北木小・北木中学校、ほか

2019年02月02日 | 昭和31年~35年
北木島町大浦出身のAさんに、北木島が一番元気な頃(人口9.000人弱)の話を聞いた。2019.2.1。


(北木島・北木中学校)
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子供の遊び

小学校に相撲が来た。
校庭にこまい土俵を作って、吉葉山栃錦や千代の山や鏡里が来た。
昭和30年頃。

ろくせき
6種類の色を集めて、おっかけゴッコをしようた。
黄色がいちばん点数が多く、黒が一点。

秋葉山
秋葉さんへ登ってよう遊びょうた。

八幡山
景色は八幡さんのほうが綺麗じゃった。
下から見ると、山頂の木が風流に見ょうたけど、枯れてはげ山になった。

芝居
芝居をするのがようきょうた。
公民館でしょうた。

神楽
4年に一回くらいしょうた。

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大人の遊び

パチンコ
一店、金風呂にあったようた。行ったことはない。

ビアガーデン
金風呂にあった。

賭け事
博打(ばくち)
北木は、石の衰退でなく博打でつぶれた。
大金を博打に使う人が多かった。


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野菜売り
高島から週に一回船に乗って、野菜を売りにきょうた。


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井戸水。
塩っ気がある。塩水じゃ。
それで山の上の方に井戸をもう一つ掘って、そこからパイプで引いとった。
最初はポンプで、後からモーターになった。
台風の時や大潮でも、井戸に潮が侵入しようた。

北木島は石の島なんで水が溜まらない。
昭和40年頃、本土から水道が来てから水は解決した。

井戸を掘るのは金が要るので、井戸をもたんひとは貰い水をしょうた。
弱い

豊浦
幼稚園があった。島に初めて幼稚園ができた。
それで大浦の人はみんな、小学校ではじめて学校へいった。

豊浦
田んぼがある。
山が高く池も水もよく出た。


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北木小学校
家が学校の近くだったので、キンコン金がなる
二階建校舎が二棟あった。

ワシ等の時は4年生まで47.48人の一クラスじゃった。
丸岩からは峠越えで1時間くらい、7~8人いた。
浅海は海側の道で1時間ちょっとかかる。3~4人いた。丁場からも3~4人いた。
5年から楠と豊浦の分校がらきて二クラスになった。楠から27人位きた。


北木中学校
金風呂から来たが、そのまま二クラス。82名いた。
一年上も下も140人くらいいた。
その頃、北木島には8.000人以上いた。
豊浦と金風呂は徒歩で山越え、その道しかなかった。(現在の県道は狭いのでなく、道がなかった)
楠は海辺の道を徒歩か自転車できょうた。

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北木島の生活②「瀬戸の花嫁」ほか

2019年02月02日 | 昭和31年~35年
北木島町大浦出身のAさんに、北木島が一番元気な頃(人口9.000人弱)の話を聞いた。2019.2.1。


(北木島・金風呂 2018.10.25)
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瀬戸の花嫁
(問)島内結婚が多く、・・・♪島から島へと 嫁いで行くのよ~・・・「瀬戸の花嫁」はなかったのではないか?

あったよ。
お姉さん(兄嫁)は真鍋島から船に乗って嫁いできた。
大浦は真鍋島との結婚が多かった。
豊浦や金風呂は白石のとの交流があった。
白石の人は高島やこと交流があった思う。


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猫車(ねこぐるま)
(問)採石場の作業について?

猫車に石を積んで(山から海辺へ)下しょうた。一人で。
猫車は二輪車で、前を担ぎょうた。
降ろしてもって上がる時にゃあ、(子供の)ワシ等も手伝をしょうた。
子供がロープをつけて引っ張って上がりょうた。
(三輪車の)ミジェットが出来てからは手伝いをしぇんようになった。


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石切り
(最初の山の石は)発破で割りょうた。火薬でないと切れん。
次に、ノミで割りょうた。
昭和35.36年になって電動のドリルで割りだした。
最後の工程はハンマーで割る。

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加工会社
加工は昔はしてなかった。
最初にしだしたのは、中学校に近くにある山本石材が始めた。
昭和33~34年頃。
墓石を始めた。彫って、仕上げは手で磨きょうた。

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ザク石
水島の埋立が始まる頃、東京オリンピックの工事の頃、ザグ石が大量に出た(需要があった)
荒石と書いてザグ石ようた。
海の捨て石に使ようた。
ザグ船は一杯(一度の往復)で五万円ようた。給料が1~2万の頃。
一杯船主が30隻ほどおった。
大浦にもいた。

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大浦

大浦は石と農業、旅館。

大浦と、豊浦・金風呂は
大浦は昔からの住民が多い。
豊浦や金風呂は伊予から来た人が多い。大島や伯方島や生口島から。馬越、今岡、わたる、・・・
大浦は河田・牧野・奥野。


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北木島の生活①いちばんの楽しみは「金毘羅さん参り」

2019年02月01日 | 昭和31年~35年
北木島町大浦出身のAさんに、北木島が一番元気な頃(人口9.000人弱)の話を聞いた。2019.2.1。

下記は北木島の信仰の話し。


(北木島・大浦海岸 2018.10.25)
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石船で金比羅さんへ行きょうた。
(石を積む場所に)人間が乗って、昭和35~36年までは違反でしょうた。

多度津へ着くと、汽車に乗って琴平まで行きょうた。

年に一回の金毘羅参り、これが楽しみじゃった。
朝の5時ごろでて、日帰りしょうた。

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一度か二回だけ、白石の開龍寺に行ったことがある。
(北木島の金風呂ふきん)瀬戸から白石の瀬戸まで、「郵便船」で渡してもろうた。
そこからは歩いて開龍寺へお参りした。
郵便船は北木と白石の一番近いところ結んどった。
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道通さんは、商売しょうる人が行っとかもしれん。

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鞆の祇園さんは、
何度か行ったことがあるかもわからん。

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88ヶ所霊場は、
各家々にあった。
お大師さんを家でお守りしょうた。
21日には「お大師講」をしょうた。

今はしょうるまあ。
お寺の住職も福山に住んどる。




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戦前の遊女屋

2018年12月29日 | 昭和31年~35年

「グラフィックカラー昭和史・第10巻」研秀出版 1987発行より転記。

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昭和史対談「遊女屋通いの青春」

五味康祐 この遊女屋というのは、どんな階級の者でも一度はくぐらねばならない関門だったのです。五木寛之流にいうと青春の門とうわけです。
戦争というものが目の前に待っている。国民の男子としてなさねばならないことがある。そんなとき安逸な女性関係におぼれる罪の意識みたいなもは、当時の青春時代を迎えた人たちに共通にあったことだと思います。
一方、遊女屋の方には、貧しい農家に育った娘たちが親兄弟のために売られてきている。心ならずも身を苦界の底に沈めているわけです。
この両者が一夜を共にし、何か共通の心情的なものを温め合うというものがあったと思うのです。
僕らの頃は、21才になると入隊する。出征するとなると町中をあげての見送りになるわけですが、その前の入隊祝賀会の席で、その青年がまだ童貞であった場合には、おおむね女郎屋に引っ張っていかれるんですね。
戦前には庶民感情の中に相当深く浸透していたのではないでしょうか。

サトウサンペイ 一種の通過儀式のようなものですね。人間が成長してゆく過程での。
僕らの頃は、素人に手を出すのはいけないことだ、というようなモラルがありました。変なモラルでーー(笑)。
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昭和30年代頃の農村(都窪郡清音村)

2018年06月24日 | 昭和31年~35年
農作物の変化は激しい。
近年は作物の変化から、耕作地→休耕地への変化が多い。

「清音村誌」(現・総社市)より転記する

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本村の農業生産物を列記すると、
1・米
2・麦
3・い草
4・いちご
5・ふき
6・雑穀類
7・各種野菜など
であるが、
今日全く姿を消したものとして
1・綿
2・薄荷
3・大麻
4・甘蔗
5・和牛
6・菜種など
が挙げられる。

1・綿・・・昭和4年のアメリカの経済恐慌により、大暴落。栽培をかんしょ、桑に転換した。
2・薄荷・・・明治30年代頃から昭和32年頃まで栽培された。化粧香料の需要がなくなり栽培されなくなった。価格の高低がはなはだしかった。
3・大麻・・・(記載済)
4・甘蔗(かんしょ)・・・戦後の甘味料の不足が目立ち、大幅に面積が拡大し、搾り機を備えて数人で共同経営する農家も現れた。暫くして外国からの粗糖の輸入が活発となり、昭和28年頃から全く栽培されなくなった。
5・菜種・・・大正時代においては、水田裏作としてのナタネは植物脂肪の確保と植物油粕により栽培は続けられたが、満州から大量の移入が始まり大正末期から減少の一途をたどった。昭和23~25年頃復活したが所得が低下し、麦作と並行して現在の栽培ゼロとなった。
6・和牛・・・大正時代には数戸で共有が多かった。昭和の初めから一戸一頭または二戸で一頭が増加した。肥料不足を補うことも手伝って飼育頭数が漸増した。昭和30年代に入るや耕運機に代わられ、遂に昭和35年には僅か1~2頭の頭数となった。

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”赤線”の灯消える ②

2018年02月28日 | 昭和31年~35年

「流れる おかやま百年」山陽新聞社 昭和42年発刊より転記

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むずかしい転業

岡山県下では10地区、327業者、接客婦822人の転廃業が進められた。
県は、業者の転業、接客婦の更生にあれこれ知恵をしぼった。
岡山市下石井に婦人厚生施設の建設。
岡山市東中島や玉野市日比、笠岡市伏越三地区での編み物機10台を持ち込んでの講習会、婦人更生資金の貸し付け(総額64万円)などなど。
また業者には転業資金二千万円を準備し、赤線地区からの脱皮にハッパをかけた。
しかし、
元・赤線地区というムードの中での転換はむずかしく、大部分の業者は旅館業、風俗営業、貸し間業、飲食店など、いわゆる水商売にかわった。
接客婦たちは、
当初は帰郷、結婚、転職、その他と、それぞれの更生に道についたものの、
アフタケアの貧困、元接客婦という世間の目、腕に職を持たない弱み弱みなどあから
仲居、女給、ダンサーなどに転身、なかには街娼婦、コールガールに転落するケースもあった。


なくならぬ売春

その後、岡山市内では駅前から岡ビル周辺、千日前裏通りなどで街娼婦や女給の単純売春が横行。
街娼婦は阪神方面からの進出組も含め常習者20人がたむろし、警察の網にかかったのは昭和40年中に34人。
形の上での”赤線”地区は消えた。しかしザル法の悲しさか、ヤミ売春の促進という結果を招いた。




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