不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

天皇①宮中某重大事件

2021年01月19日 | 大正
宮中某重大事件


管理人が小学生の時は、毎年の身体検査で必ず色盲検査があった。
大正天皇の後継者の婚約者は色盲でないが、その家系に色盲者がいたようだ。
元老の第一人者である山県有朋は、それを理由に「婚約破棄」を迫り
”宮中某重大事件”と呼ばれる騒動になった。
結果山県の横やりは通らず、失脚した。






・・・・・・・・・・

「教養人の日本史(5)」 藤井松一著 社会思想社 昭和42年発行


大正天皇は、大正8年12月の議会開院式に出席がなく、病気がかなり重いことがわかった。
国民の間にもさまざまな噂が流れ、不治の脳病であると取りざたされた。
国民の期待と関心は皇太子裕仁親王にむけられるようになった。

その皇太子妃には、すでに婚約に久邇宮良子女王が内定していた。
皇太子と女王の婚約について暗い噂が流れた。
これは「宮中某重大事件」といわれ、ひそやかに国民につたえられた。

良子女王の母方である薩摩藩島津家には色盲の系統があるので、
天皇家の神聖を護るため婚約を破棄すべし、という運動が
長州閥の元老、枢密院議長山県有朋を中心に進められた。
「長閥の陰謀」を攻撃する久邇宮家や薩摩閥の松下正義の婚約推進運動も活発化した。

けっきょく大正10年2月、
「種々の噂あるやに聞くも、何ら変更なし」と宮内大臣の発表が行われた。
直後に宮相は辞任し、
山県有朋は辞表を出した。
時の首相原敬は、老練にこの事件をさばき、色盲事件は下火となった。

事件が収まったこの年3月、皇太子はヨーロッパ諸国訪問に旅立ち、9月帰国した。
11月、皇太子は摂政に任じられた。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

籠の鳥

2021年01月16日 | 大正

(島原大門  京都市下京区 2020.1.31) 


「日本の歴史14 「いのち」と帝国日本」  小松裕著 小学館 2009年発行

自由廃業運動

自由廃業運動が全国的に盛んになったのは、函館蓬莱町の遊郭丸山楼の娼妓坂井フタが、楼主に対して廃業届への捺印を求め、
それを拒否されたために訴訟を起こしたのが契機である。
1900年(明治33)に勝訴を勝ちとった。

廃娼運動の盛り上がりのなかで、その根拠は、文明国にあるまじき「国辱」という点に力が置かれ、娼婦たちの「人権」擁護という観点が薄かった。
娼妓を不道徳な存在として「醜業婦」(しゅうぎょうふ)と呼ぶ感覚だった。
ハンセン病への取り組み開始が、「国辱」意識にあったことを思いおこされる。

楼主たちは暴力団などを使って、自由廃業や廃娼運動に対抗した。
性病予防につながること、
一般婦女の「性の防波堤」になっているなどを理由に,公娼制度の必要性を強調していった。

性病を理由に兵役免除になる割合がもっとも高かったのは九州で、久留米師団では1.000人中58人にものぼった。
これは帝国の根幹をゆるがしかねないゆゆしき事態であった。
私娼に対する厳重な取り締まり、娼妓の検梅制度が強化されていった。



性の二重基準

内務省によれば、1924年(大正13)、全国の娼妓数は52.256人にのぼった。
こうした公娼制度を、日本は、植民地台湾と朝鮮にも輸出した。

山室軍平によれば、海外の日本人娼婦は、1914年で22.362人存在していた。「からゆき」さんである。
その数は、海外に在住する約300.0000人の日本人の1割弱におよんでいた。

女工も坑夫も娼妓も、前借金(せんしゃくきん)に縛られた存在だったが、
「籠の鳥」であった娼妓は、逃亡もままならない境遇に置かれていた。

女性に貞操を強制しておきながら、
男性が妾をおいたり遊郭に登楼したりする性的放縦を許容していたのである。
それは、帝国日本が典型的な男性中心社会であったことの証明でもあった。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

対華二十一ヵ条要求

2020年12月19日 | 大正
「日本近現代史講義」 山内昌之・細谷雄一著 中公新書 2019年発行




対華二十一ヵ条要求


要求の起源
二十一ヵ条要求は、かなり広範にわたるもので、日本の中国権益を一挙に拡大しようとするものであった。

なぜ日本政府は、このように弾圧的な要求を突如提出したのであろうか。
1905年、ポーツマス条約でロシアが満州に持っていた権益(遼東半島の租借権、南満州鉄道の経営権など)を獲得し、大陸国家となった。
朝鮮半島と地続きの「特殊な関係」を持つ土地として、また日本の商工業進出や移民開拓のための土地として観念されるようになった。
1905年、北京条約で南満州の鉄道や鉱山、炭鉱の権益を拡大していった。
その結果、満州の在留邦人は日露戦前の4.000人から1910年には76.000人を超えるまでに膨れ上がった。

「10万の英霊、20憶の国ど(国の財産)」を代償に勝ち取った地としてみなされた。
1910年日本が韓国を併合。
欧米や中国では、日本が満州を「第二の朝鮮」にの懸念がしばしば表明されるようになった。

日本が獲得した中国大陸の権益は、不安定なものであった。
実は満州権益の返還期限は、遼東半島1923年、南満州鉄道は1939年に設定されていた。
日露戦争後、租借権延長は外交課題として意識されていた。

1911年辛亥革命が勃発。翌年「中華民国」が成立。
中国ではナショナリズムが高まり、列強の持つ中国権益を回収すべきだとする意見が取りざたされるようになった。
日本国内では危機感が高まった。


第一次世界大戦

満州権益の租借権延長は日本に一方的に有利で、中国にとってはメリットが全くなかった。
認めさせるのは大変困難であった。
何らかの「取引材料」が必要であった。
それを突如日本に提供したのが第一次世界大戦であった。

加藤高明外相の強力なリーダーシップのもとで、日英同盟を理由として連合国側にたって参戦した。
ドイツが持っていた南洋諸島を陥落させ、山東半島の租借地を占領した。
これによって戦後にドイツ権益の継承の発言権を獲得した。
加藤の主目的は、
山東半島の返還を取引材料として、中国からより大きな利益を得ることにあった。
”好意”を中国側に示すことによって、満州問題を解決しようとして出されたのが
二十一ヵ条要求だったのである。

外交交渉は、非常に紛糾した。

日中間の問題を網羅した感があり、過大な要求を中国に突き付けたのが根本原因である。
中国では、日本の参戦前から山東半島権益の返還を当然視する世論が盛り上がっていた。
袁世凱政権は情報を国内外に巧みにリークした。

主要部分を中国に認めさせ、初期の目的をかろうじて達成したが、
中国側の激しい反日運動を招き、
欧米の対日不信感情を増すという大きな代償も払うことになった。


中国の対日イメージは一気に悪化した

中国には、英・仏・露も多くの権益を持っていたが、二十一ヵ条要求の提出によって
日本が新国家建設を妨げる「単独敵」として浮上することになった。
その後の日中対立の原点になった。
袁世凱は日本の圧力に屈した「漢奸」(売国奴)とされ、評価は極めて低い。

二十一ヵ条要求は、短期的には利益を得たが
中国人から信頼を失うという大きな代償を払うことになった。
日中の友好や提携の可能性を狭めたと言わざるを得ない。


二十一ヵ条要求はなぜ転換点なのか

日露戦争後の日本の中国に対する優位意識、
一等国になったという意識、
日英同盟に拘束されない対中政策の展開、といった
日本の対中観、姿勢が表れた。
列強に事前通告もなかった。
中国では以後、「親日」はタブーとなった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高梁川改修事業

2020年10月08日 | 大正
「岡山県政史」  岡山県 昭和44年発行

高梁川改修事業


この工事は、内務省の直轄施行であったが、中途で第一次世界大戦の勃発があり、着工以来20ヶ年で大正15年にいたって竣工した。






高梁川東西用水組合の設立

高梁川改修工事に伴い、都窪郡清音村古池以下の都窪郡・浅口・児島の3郡19ヶ町村の6.580町歩の区域は、従来の諸用水組合を統合して高梁川東西用水組合を設立し、
酒津に統一した配水池・分水樋門・水路を設けるなどの工事を行った。


廃川地の処分

この事業によって、高梁川下流の東西両川のうち、東川は廃川となり、その廃川敷の総面積は454町歩で、
うち37町歩は地元の事情者に無償払い下げ、
残り416町歩は県費約16万円をもって道路・用排水幹線を設けるなどして将来の開発に備えた。

なお、東川廃川敷には、昭和時代になって倉敷絹織工場(後の倉敷レーヨン倉敷工場・昭和8年酒津)、
三菱重工業水島航空機製作所(昭和18年・水島)など著名工場の設置があり、
また、戦後の水島地区開発の淵源となったものである。



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

養蚕業の発展を拒む要因ほか 「福山市史」より

2020年09月03日 | 大正
「福山市史 下巻」福山市史編纂会 昭和58年発行



養蚕業の発展を拒む要因

大正期に川北・山野・中条・加茂の諸村に乾繭場を設け、大正11年駅家村に繭市場を設けた。
しかし、いっそうの発展を阻む要因も存していた。
それは生糸が海外の需要に依存し、海外の好不況が繭価の高低に決定的に作用していたこと。
および「小農」の農家副業の一環として行う零細規模の養蚕業として成立していたためである。

とくに養蚕業が主として桑の自給と結合しており、食糧自給を建前としていた当時の農家においては、
桑栽培に大きな限界を有していた。
また労働力の面においても、基本的には自家労働力に依存している限り養蚕業の発展には大きな限界があった。

養蚕業は世界大恐慌(昭和5~7)の影響によって衰退し、その後一時回復するが、第二次大戦の勃発によって急速に衰退し、
桑園は食料増産のかけ声によって掘り起こされ、薯・麦畑等に変わってゆくのである。



海外出漁

明治期後半から盛んになった海外出漁は、大正期に入っていっそう盛んになった。
第一次世界大戦中の大正5年の深安・沼隈両郡の出漁状況は、
朝鮮半島を中心に、合計143隻が出漁している。
打瀬網をはじめ、それぞれの出漁地域に応じて、多様な網漁業が展開されていた。

昭和期に入ると通漁が現地に定着したり、満州事変の影響もあって海外出漁は減少している。
しかし反面からいえば、明治期後半にはじまり安定したもいえる。

例・
昭和10年沼隈郡の海外出漁状況
無動力漁船 48隻 195人  動力漁船 6隻 151人



道路交通の発展

大正8年(1919)11月「道路法」が制定された。

福山地方では、この道路法によって、翌9年4月、従来の第二国道(県内は深安郡御領から佐伯郡大竹町)が国道に認定された。
その後路線変更が行われたが、そのなかで大きな変更は第二国道が福山市内を貫通するようになったことである。
福山市の経済発展のため国道二号線を市中へ引き入れる計画が立てられ、
昭和4年、県道広島・福山線、および福山・笠岡線の二線を国道に路線変更することとし、旧国道は県道に認定された。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米騒動⑧米騒動100年

2020年06月29日 | 大正
「米騒動100年」北日本新聞社編集局 2018年発行 



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

おかかの叫び

鍋割月(なべわりづき)
かつて富山県東部の漁師町の人々は、夏をそう呼んだ。
魚もほとんど揚がらない。
からっぽの鍋を火にかけると割れてしまう。
田畑を持たないその日暮らしの漁師にとって、一番苦しい時期だった。
「夏は命が涸れる。餓死は当時、身近にあるものだった」。

・・・

以前から、この時期に米価が高騰すると、県東部では漁師一家をはじめとして下層社会の女性たちを中心に、米の安売りや、積み出し停止要求が幾度となく起きていた。
いずれも哀願運動のようなもので、暴動や略奪ではなかった。
ところが「高岡新報」が報じて以降、全国に米騒動情報をリードした。

・・・

明治後期になると、都市人口の増加や、農村にまで米穀消費が拡大したことにより、日本米の供給が需要に追い付かなくなってきた。
その結果、米価は頻繁に上昇するようになり、その都度安価な海外の米穀が、困窮する庶民の代用食として持ち込まれてきた。
まず、ジャポニカ米に属する朝鮮米が持ち込まれ、限界に達したときは外米が輸入されていたのである。


・・・

江戸時代、在米が減り米価が高くなると加賀藩が「津留(つどめ)」(移出禁止)を命じたこともあり、女性たちは「正当」だと信じていた。

当時の男たちは「騒動は女たちが勝手にやっているもの」と捉え傍観していたようにも見える。

・・・

背景の一つに、制限選挙制度がある。
当時は、有権者は全人口の1~2%。
このため、四民平等となっても、政治を「お上のもの」の考えが根強く残った。
1920年代には男子普通選挙制度が成立し、米騒動がいかに日本の大きな転換点であったかがわかる。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米騒動⑦岩波新書

2020年06月29日 | 大正
「大正デモクラシー」成田龍一著 岩波新書 2007年発行 



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1918年(大正7)夏に、
富山県西水橋町、東水橋町、滑川町、魚津町など日本海沿岸の人口一万数千人の中小都市に暮らす女性たちが、
船で積み出される米の阻止を図り、集団で役場や詰所に押し掛けた。
男性たちは、
北海道や樺太に遠洋漁業に出かけており、女性が行動の担い手になった。
女性たちの動きを地元の『高岡新報』が伝え、さらに『大阪朝日新聞』「大阪毎日新聞』が、高岡新報による「女一揆」として報じた。

発火点
夏場の端境期で米が品薄であった。
シベリア出兵のため米の買い占め、売り惜しみがなされた。
「物価騰貴」「生活難」という言葉が、雑誌や新聞に飛び交った。
大戦景気で一定の向上が見られたときに、生活の下降が余儀なくされる。

連鎖反応
8月8日、岡山県落合町で米の移出禁止と廉売りの町民大会を開催。
その騒動は岡山県全体に拡大した。
近畿地方は、
大阪では8月11日、
天王寺公会堂で市民大会。演説の後、人々は「雪崩を打って、府庁に行け行け」と通りを行進。
日本橋に至り「付近の米屋を襲いて25銭の量り売りを始め、近隣の嬶連は、バケツや飯櫃を携えて店頭に集まり、雑踏を極めたり」(8月12日東京日日新聞)
また、
公会堂が満員のため入れなかった人びとは、露天演説を始め三千人で付近の米屋を襲ったという。
その後、さらに拡大し、市内各所で米屋が襲われ、
「大阪全市殆ど壊滅状態」(8月14日大阪日日新聞)といわれる状態となる。
神戸では、
鈴木商店が「石油缶」に火を放ち、焼き討ちしてしまう。
東京でも、
8月13日日比谷公園に数百人が集まり騒動を起こしている。



全国化
米騒動の発生件数が最大となるのは8月13日であった。
一道三府38県、
49市217町231村と29炭鉱。
九州中国では、炭鉱の暴動。
宇部では賃金増を要求して暴動。
「4.000人集合して、米商他を襲い、署を破壊、電話線を切り、炭鉱事務所・住宅等に放火、遊郭を襲い灰燼に帰せしめたり」(東京日日新聞8月19日)
また、被差別民も参加した。
津市では、主要な担い手を被差別の人々が占め、和歌山県内でも参加が指摘される。
このことは、ことさら被差別の行動を言い立て、裁判で彼らに厳しい刑を科す理由ともなった。


語る人々
日本弁護士協会の太田資時は、
①米価高騰と政府の不備による、生活不安。
②鉱夫の暴動、小作人の余憤。
③被差別の境遇上の不満。
を挙げた。
米屋の打ちこわしが目的でなく、「一升25銭で売れ」という要求を出した。行動に統制が取れていた。
石橋湛山は、
政治的危機を画するもの、とした。
星島二郎は、
政治問題・社会問題・思想問題・その他、種々なる意味が含まれている。

騒動鎮圧
寺内内閣は、緊急輸入した「外米」や白米の廉売で民心をなだめようとした。
寄付金を利用して救済も行う。天皇家はじめ、財閥、富豪が応じた。
鎮圧には警察のみならず軍隊が出動し、122ヶ所100.0000人に及んだ。
25.000人が検挙され、7.786人が起訴された。
死刑2人、無期懲役12人。
逮捕者は職工・日雇い・職人・商人、中流以下の広範な参加者があった。
米騒動は民衆の力を見せつけることとなり、統治でも転機をつくり出す。
寺内内閣を辞任に追い込むこととなった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米騒動⑥小田郡笠岡町その4

2020年06月29日 | 大正

「笠岡史談第14号」昭和50年 木下タイプ発行 より転記



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



米騒動余聞


笠岡の米騒動では篠井米店襲撃が知られているが、それより前、騒ぎ立てる民衆は、仁王堂・遍照寺の大師堂の前に何百人となく集合していた。
米屋の暴利をつき、あそこへ行け!の野次の中で、土岐其らが演説していた。
それ行け、という声で出陣、
まず篠井店に行き、閉めていた入口を大八車で勢いをつけてやぶった。
それから駅前の寺岡米問屋へ行ったが、米が無かったので、駅前・陸橋近くの内海米店へ向かった。
ここで割り木を投げて入り込み、米をばらまいた。
次に真入川筋の村上店に行ったが、うどん・米少々しかなく、話がついてあばれず、安売りですんだ。
西浜の仲仕は笠岡町東の店々が得意先なので、大したことはしなかった。
(芝勢氏談)





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米騒動⑤小田郡笠岡町その3

2020年06月28日 | 大正
「笠岡史談第13号」昭和50年 木下タイプ発行 より転記

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(県警の禁止令で)
では、その新聞に載らなかった事実を、古老に聞いてみよう。

安那氏(77才)
私が21才の時でした。
西本町の篠井米店に、大勢押しかけているという事で、私も見物に行きました。
笠岡でもいつかは騒動があるだろうと、半ば期待のようなものがあったのでしょう。
今から思えば篠井さんも気の毒でした。
ちょうど悪い時に、立派な家を新築したばかりで、群衆のねそみも強かったのかも知れません。
檜の分厚い雨戸を閉めている処へ、二、三人が石を抱えて来て、ドカンドカンと投げつけて、何枚か壊してしまいました。
見物人がだんだん増えて二百人にもなりましたでしょうか。
時の笠岡警察署長が、白服にアゴ紐掛けた巡査を連れて駆けつけてきましたが、専ら低姿勢で、
皆さんお静かに、お静かに願います、と必死で押さえようとしていました。
日頃”天神”と称するヤクザがいて、その晩、群衆の代表なような形で上がり込み、平身低頭している篠井さんに威丈高になって、文句を言っていました。
腕まくりして群衆に向かい、”お前らの気に入るようにしてやるから待っとれいょ”と肩をそびやかせていたので、覚えています。

小見山氏(77才)
私は敷紡に勤めだしたばかりでした。
昼前だと思うが、
「米騒動だ」というので、正門の前に出てみると、駅の東、陸橋の下の辺に、田中という米屋があって、ワァワァと人声がする。
店の中には、沖仲仕のバンジーと称する豪傑がいて、土間にある箱の中から桶にすくっては、表の道路へバァーと振り撒く。
見物人は手を叩くもの、もっとやれいとけしかけるもの、中には女の人なぞが、チョコチョコ走ってきては、米を拾って逃げていく者もある。
どきどきして見ていました。

・・・

天神を軽薄と呼ぶなかれ、彼には体面や保身を思う利己心がないのである。
我が身のことを忘れて乗り出してゆく侠気がある。
壮士に価する。

バンジーは浜仲仕、祭りの時、船神輿の先導をやり、もどせ、もどせで評判の悪い店先や軒を引掛けてこわした。
叡山の荒法師の痛快さがある。

篠井米店襲撃の翌日、警察の要請で消防団が召集されようとしたが、ここに一人の反対者がいた。
古田という纏持ちで、召集に頑として応じない。
「米が高くて困る我々が、何で高くなることを喜ぶ連中の番をしれやらねばならんのだ」。
幸か不幸か、その晩何事もなかった。


笠岡町からは起訴者は1名、
天神が起訴され懲役5年だった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米騒動④小田郡笠岡町その2

2020年06月28日 | 大正
「笠岡市史第三巻」 笠岡市史編さん室編 平成8年 ぎょうせい発行

・・・・・・・・・・・・・・・・・・


笠岡の米騒動については、正確な動きは分からない。

『岡山県郡治誌』によると、
8月13日午後8時ごろ、
「笠岡町民は町内の寺院に集合して、その数600名700名に及び、
警察署長の説諭に服さず、米商7戸を襲って米の廉売を強要して瓦礫を投げて表戸を破壊するなどの暴行をして
午前5時に引き揚げた」とある。

『岡山県警察史』にも、
同一記事が載っている。

『岡山県史近代Ⅱ」によると、
8月13日午後12時「群衆約150名其家に押し寄せ、門戸を乱打して之を開かしめたるうえ、店内乱入し素麺・うどんの廉売を強要し、
更に其肥料商を襲い白米の廉売及び金員の寄付を迫り之を承諾」させた。

小田郡神島内村、同外村では、
両村精錬所煙害地被害民が、米価高騰を機として大挙して工場長・副工場長宅を襲撃せんと、
15日夜9時ごろ日光寺の梵鐘を乱打し、鴨野に集合し、(山陽新報8月19日)
群衆2.000人がこれに加わり喧噪となった。
工場側は数百名を出して警戒、笠岡警察署も現場に急行し、鎮撫に努めたので群衆は解散したと記されている。

山陽新報8月25日の記事、
「笠岡町では8月13日、さっそく白米廉売を始めた。
笠岡町は、町の事業として白米一升20銭にて廉売すること、これが救済基金1万円は、町内有志よりの寄付金をもって充当することに決せり。
小田郡笠岡町にては、米騒動も平穏に服し、戎座(のちの大和座)にては、21日より演劇し、付近の村落にては盛んに盆踊りの行われて活気を呈せり」としている。


8月13日から21日まで、なぜ新聞に書かれなかったか。
それは岡山県警察著長名で「掲載一切禁止、掲載したる場合は直ちに差押」禁令を出していたからである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする