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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

米騒動③小田郡笠岡町その1

2020年06月28日 | 大正

「岡山県社会運動史第三巻」水野秋著


8月13日夜、
小田郡笠岡町では遍照寺に数百人の群衆が集まった。
暗闇の中で米商人の不当を糾弾する演説の後、「篠井へ行け」という声がかかった。

西本町の篠井米店は笠岡で一二を争う大きな米穀商で、それに向かい大群衆が動き出した。
闇の中で提灯を持つのは笠岡警察署長の岩崎ひとり。
笠岡は大丈夫だろうと、児島味野の応援に出勤していた。
群衆に取り囲まれ岩崎は篠井米店へ運ばれた。
篠井米店の大戸は、呼べど叩けど開かなかった。
そのうち数人の冲仕風の男が店の大八車を引っ張ってきて勢いよく大戸へぶつけたところ、
たまりかねたように内部から開き、主人が出て平身低頭した。
その主人に語気鋭く、麦稈真田の仲買人を営む赤木佐太郎、通称「天神」と呼ばれるやくざ者が、廉売を要求した。
怒りに燃える群衆に、すっかり呑み込まれ、おびえきった篠井の主人は在庫量と廉売の約束をした。

「次はヒゲ田中じゃ」
の一声で、群衆は笠岡駅東側にある田中米店へ向かった。
ところがヒゲ田中主人は頑固で、容易に首を縦に振らなかった。
今度は、「天神」にかわって通称「ばん爺ィ」こと定兼伴次郎という浜仲仕が飛び出し、
店先に置いている米はむろん麦、豆類までかたっぱし桶ですくい路上にばらまき、群衆の歓声を浴びた。

「つぎは仁王堂の村上じゃ」
と、一夜のうちに数件の米屋が襲われた。

「天神」とか「ばん爺ィ」とか、やくざ沖仕が騒ぎの先頭に立ったのが笠岡の特徴であった。

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米騒動②富山・京都・名古屋・阪神・田川~内閣退陣

2020年06月28日 | 大正
「大正時代」 永沢道雄著 光人社 2005年発行 より転記

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富山県の出来事は新聞に詳しく報道され、富山市や県内各地に伝染し、全国に波及してゆく。
まっさきに反応したのは8月8日、岡山県真庭郡落合町。
規模が大きく、深刻な衝撃をもたらしたのは、名古屋と関西の大都市での騒動である。

京都
8月10日夜、
京都では”細民”層の死活問題となってきた。
下京区柳原の住民が400人、「米屋をやっつけろ」と丸太やこん棒を手に押し出し、一行はみるみる千人近くふくらんだ。
つぎつぎに米屋に押し込む。
検事と警官隊が出動し、柳原町一帯は戦場のようになった。
8月11日、
西陣方面では、織物工ら2.000人が北野天満宮から「米を下げろ」と市中を練り歩いた。
夜になると、あちこちの町で窮民がそれぞれ押し出し、混乱が全市に及んだ。
午後10時、知事の請求で騎兵と歩兵連隊から170人の軍隊が出た。午前0時やっと群衆が退散した。
8月12日、
前日よりもさらに不穏となった。一部の市街地は戸を閉め、無政府状態のありさま。
京都府警は「夜間外出するものは暴民とみなす」と布告。
市内各所に外米の廉売市場ができて鎮静にむかった。


名古屋
8月10日夜、鶴舞公園に5千から3万といわれる人たちが集まり、警官隊と衝突があった。
11日~12日、事態は悪化。
警官は抜剣、群衆は瓦を投げて争闘す。


大阪
8月11日夜、
天王寺公会堂で米価調整大会、参加3.000人。
その夜、今宮などで米屋がかたっぱしから襲われる。警察が介入。
8月12日夜、から13日。
騒動は暴動に展化、軍隊が出て来た。


神戸
8月12日三菱造船所の労働者が、構内で暴れ始めた。会社支給の米価が1.5倍になったのが原因。
その夜、群衆と野次馬が鈴木商店へ殺到して放火・全焼させた。
神戸市内は無政府状態。放火・略奪が横行する。
8月13日も、夕方から騒動。刀をもった者もいて警察や軍隊と闘争して双方に死傷者多数。1人死亡。
8月15日ごろ平穏になった。


福岡県田川
8月17日から宇部炭鉱を皮切りに、北九州・熊本県の各炭鉱で暴動が続発した。
宇部では炭鉱王の代議士宅が放火され、階級闘争の過激化を思わせた。
軍隊が射撃し、死者15人を出した。
田川では、労働者がダイナマイトを投げつけ、軍隊が撃ち返し1人死んだ。
その頃の炭鉱夫は、
過酷な労働の見本のように見られていた。
彼らが米価の騰貴に憤るのも無理はなかった。


米騒動は、革命前夜のペトログラードに似てなくもないが、民衆をリードする政治勢力や意識なかった。
9月中旬の熊本県万田炭鉱の暴動で、米騒動は終結した。

参加人員数百万、軍隊10万以上、検挙者25.000人以上。
近代日本で最大規模のこの騒乱が、政治的結果をおよぼさないはずはなかった。

 
寺内内閣はシベリア出兵で東京6紙、地方紙50の新聞を発禁した”実績”がある。
水野錬太郎内相は8月14日夜、米騒動の一切の記事の掲載を禁止すると通告した。
「新聞記事は治安維持の妨害あるものと認めた次第である」。
元老山県は、
とても寺内にやらせておくわけには行かない。
9月27日、初めて衆議院議員が首相になる。
政党首領の首相が任命された。


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米騒動①”富山の女一揆”

2020年06月28日 | 大正
「日本の歴史14巻 いのちと日本帝国」 小松裕著 小学館 2009年発行

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「東京朝日新聞」の米騒動の初報は、1918年(大正7)8月5日である。
「200名の女房連が米価高騰で大運動を起こす」という見出しで、
富山県中新川軍西水橋町で起こった8月3日夜の騒動の模様を報道した。
この報道を皮切りに、西水橋・東水橋・滑川町の騒動が連日とりあげられた。
富山の米騒動を全国紙が詳しく報道したことが、米騒動の全国的拡大に大きな役割を果たした。

8月9日には、
名古屋・京都・大阪・兵庫・高松・愛媛でも騒動が発生、
その後西日本を中心に軍隊を出動させて鎮圧にあたらざるをえないほどの激しい騒動となった。

炭鉱や鉱山、工場でも賃金値上げと共に米価引き下げが要求され、ストライキが発生して、一部は暴動化した。
舞鶴では海軍工廠の職工2.000余名が町民と共に精米所などを襲撃している。
被差別民や朝鮮人労働者も騒動に参加した。
当局の推定で全国70万人以上が参加、検挙者8.185人、そのうち起訴7.708人。
下層民衆がほとんどであったが、特に被差別民が狙い撃ちにされた。

米騒動の発祥地となった富山県では、明治初期より「バンドリ騒動」に象徴される米騒動が多発していた。

米騒動の基本は、集団の圧力による廉売強制にあった。
価格は、一升25銭というのがもっとも多い要求であった。
これは、ほぼ前年の価格であった。
これが米騒動前には一升50銭まで急騰したのである。

米などの略奪の例はきわめて少ない。
25銭払って一粒残らず買い取っていくのが普通である。
人びとは
「適正価格」をもっており、高い値段は「不正」であると意識していた。
米商などの「徳義(モラル)」を要求したのである。
集団の圧力で権力の代執行であり、正当な行動であるとした。

1918年9月21日、寺内正毅内閣は、米騒動の責任をとって総辞職した。
(デモクラシー運動にもより)
1925年、25歳以上の男子普通選挙法が成立した。
それが民衆の制裁暴力の発動を抑制する装置として機能していったことは間違いない。

男子たちには「一票」が与えられ、暴力ではなく選挙権で意思表示するのが国民の義務とされた。

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天皇制の内なる危機(一夫一婦制)

2020年06月26日 | 大正
令和天皇に子がいるが、女子で天皇を継承できない。

明治天皇も大正天皇も側室の子だった。
令和天皇には側室は不可能であるから、実子(愛子内親王)が継ぐのが普通だと思うし、
それがグローバルスタンダートとも思う。

21世紀の世に、子がいて継承できない制度が存在するのは日本の皇室典範くらいであろう。

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「日本の歴史14巻 いのちと日本帝国」 小松裕著 小学館 2009年発行


皇太子裕仁(のちの昭和天皇)は、1921年のヨーロッパ外遊でイギリスやオランダなどの皇室のありように、大きな影響を受けて帰ってきた。
皇太子は女官制度の改革に取り組む。
生まれた子供は里子に出さず自分の手もとで育てたい、一夫一婦制への強い意思があった。

天皇家が一夫一婦制を採用することになると、当然後継ぎの問題が出てくる。
①男子が生まれる
②女子しか生まれない
③どちらも生まれない
という三つの可能性しか存在しない。
男子が生まれるかどうかは偶然でしかない。
そのために皇室典範には、「庶子」の皇位継承について定められていた。
つまり、天皇が側室を置けるようにしていたのである。


実質的には大正天皇も一夫一婦制を実行していたが、皇后との間に男児が4人生まれ危機は浮上しなかった。

ところが、
皇太子は第四子まで女児だったのである。
皇室の近代化が皇位継承の危機を招いたのである。
不安はピークに達し、周囲はざわめきはじめた。
1933年昭仁親王(平成天皇)が生まれ危機は脱した。


こうして②③のケースにどのように対応するかという問題は先送りされ、現在に至っている。


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明治45年7月29日から大正元年7月30日へ

2020年06月26日 | 大正
「大正時代」 永沢道雄著 光人社 2005年発行 より転記

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明治天皇は明治45年(1912)7月29日、午後10時43分、永眠した。59歳。
死去は2時間ずらして、30日午前0時43分と発表された。
30日、嘉仁親王は第123代の皇位に就いた。31歳。

明宮(はるのみや)嘉仁親王、のちの大正天皇は明治天皇の第三皇子で、明治12年生まれ。
生母は柳原愛子。
正妻の美子皇后(昭憲皇太后)は子宝に恵まれなかった。
明治天皇は五人の側室により15人の皇子、皇女をもうけた。
しかし成人に達した皇子は嘉仁親王ただ一人で、10歳で皇太子となった。
男子5人のうち4人が夭折し、女子は10人のうち4人しか成人しなかった。

9月13日明治天皇の葬儀がおこなわれた。
この日乃木希典が夫人とともに殉死した。


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大正15年12月

2020年06月25日 | 大正
おじ(父の弟)は、本当は昭和元年生まれだったそうだ。本人談。
しかし城見村のような田舎でも、天皇崩御のため、出生届ははばかられた様子だ。
(同級生に昭和元年生まれはいなく、昭和2年元旦生まれが多い)


「大正時代」 永沢道雄著 光人社 2005年発行 より転記

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大正10年(1921)裕仁皇太子が摂政になってから、大正天皇は事実上の廃帝で、公式の行事にはいっさいでなかった。
皇太子の”人気”が高まり国民との一体感が醸成されていった。
大正13年頃はもう、おそらく「あー」「うー」と声を出される程度だった。
大正14年5月の時は、もう歩行もできず。
大正15年、
12月16日から宮内省は逐次発表にふみきる。
永井荷風は天皇の容体をつげる号外に暗然とする。
毎日の飲食物や排泄物のいかんまで、なぜ詳報の必要があるのか。
葉山には元勲重臣たちが続々つめかけた。
大正天皇の生母、柳原愛子(なるこ)は容体の急変に驚き皇后の看護を手伝い、深夜まで働きつづけた。

12月18日「刻々御危険」
12月22日「再び御呼吸増加」
12月24日、発表は一時間おきとなる。
12月25日となって一時間二十五分、息をひきとった。
明治帝の死去は2時間遅らせて発表したが、今度は細工はしなかった。

12月25日、午前3時15分、御用邸で「剣爾渡御」の儀がおこなわれた。
12月25日、早朝、昭和・・元化の採用。午前9時15分、「昭和」を正式決定した。
東京日日新聞は、いちはやく「光文」を報じたが、どうもそのせいでこの案を捨て、誤報になった。
昭和元年は七日間だけで二年になる。

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大正の暮らし

2020年06月24日 | 大正
管理人の家では昭和30年代前半まで醤油を作っていた。
その部分は金光町よりも、相当遅れた農家だった。


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「金光町史・民俗編」 金光町 平成10年発行


醤油
昔は家で作ったと言われるが、明治生まれの人でも作った経験はなく、醤油屋から購入した。
一升徳利をぶら下げて買いにいっていた。


塩は漬物などになくてはならないものであった。
食卓には自家栽培の胡麻を混ぜて胡麻塩を作っておき、ご飯などに振りかけて食べていた。

砂糖
高価なもので、甘いものはご馳走であった。
普段はめったに使うことは無かったが、祭りのサツマイモの天ぷらなどを作る際には購入して使用した。

子供の間食
店で売っているお菓子と言えば、煎餅(せんべい)やこんぺい糖、飴玉ぐらいで、大正時代には、二銭で大きな飴玉が四つ買えた。
子供のおやつとはいえ、お菓子を買って食べることはまれであった。
一般的なおやつには、
大豆やソラ豆をほうろくで煎ったもの
氷餅を焼いたり、あられを煎ったもの
豆餅
家の庭先や近くの野山にある、
桑の実、グミ、ユスラ、イタドリ。

大人たちの間食
沢庵を摘まみながら番茶を飲み、一息ついていた。
そら豆ができれば塩ゆでにして田んぼへ持って行き、おやつにした。

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シベリア大使・加藤拓川②松山市長時代

2020年06月20日 | 大正
「加藤拓川」成沢栄寿著 高文研 2012年発行 より転記。


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1922年5月26日、拓川は松山市長に就任した。
「大物」「田舎」市長である。
彼はすでに食道閉塞を病み、ろくに食事もとれないでいた。
郷土の知人の強い要請に受諾せざるを得なかった。

拓川の市長在任期間はわずか9ヶ月、しかも長期入院や中国旅行を挟んでいる。
彼が在任中に手掛けて実現させた懸案は、
松山城跡の払い下げがある、
(陸軍省から久松家が三万円で払い下げを受け、市に寄付)
が、その中心は私立松山高等商業学校の創設である。


・・・・・

拓川の市長就任当時、高商設立準備活動は暗礁に乗り上げていた。
拓川は大阪へ赴いて親友の、松山出身の実業家・新田長次郎(温山1857~1936)を訪問し、
援助を申し入れた。
新田は私財50万円を投じて県の補助金を肩代わりし、文部省が指示する積立金を出すほか、
先々の学校経営費の不足も引き受けると約束し、設立を激励した。
このようにして1923年5月、松山高等商業学校が創立したのである。



(大正13年)松山商科大学五十年史


設立後、
新田は学校経営にいっさい口出しをしなかった。
同時に、卒業生を自社で採用しないことを条件とした。


第二次世界大戦後の学生改革で、松山商科大学として発足する際にも新田家が資金協力した。



・・・・・・・


1922年11月12日、病院の制止を振り切って拓川は退院した。
11月22日に、摂政(皇太子)裕仁が松山に来るからである。
22日、三津浜港からパレード。
24日、謁見。好古が最初で、拓川が次いで、以下控訴院長、検事長、陸軍中将・久松伯爵、県知事、旅団長とつづいた。
これは位階勲等が高かったからである。
1923年3月26日、辞表提出して、不帰の客となった。

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シベリア大使・加藤拓川①悲劇の大使

2020年06月20日 | 大正

「加藤拓川」成沢栄寿著 高文研 2012年発行 より転記



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第一次世界大戦が終結した1918(大正7)年11月、
パリ講和の首席特命全権委員の西園寺公望と原敬首相に要請されて、加藤拓川は代表団に加わった。
日本の最大の目的は山東省の旧ドイツ権益の継承であった。
連合国の一員である中国は返還を要求し、会議は紛糾した。
日本の継承は認められたが、中国は調印を拒否した。
帰国前、拓川は西園寺から「シベリア派遣大使」を相談された。

1918年8月、12ヶ国連合軍による武力干渉が始まった。
日本は以前から、東シベリア三州(沿海・アムール・ザバイカル州)に反革命のコサックの陸軍大尉セミョーノフらを支援して
傀儡的な親日政権を画策していた。
セミョーノフ軍には日本人「義勇軍」が多くいた。

1918年8月12日、ウラジオストクへ上陸、ついで沿海州、ザバイカル方面へ発信した。
日本軍の「快進撃」は大戦景気と投機による米価高騰を招き、米騒動が拡がり、寺内内閣は9月退陣した。

原敬内閣に代わった。
外相は元駐露大使の内田康哉で、彼は革命の必然性を知っていた。
陸相には田中義一が就任した。
1918年10月末、
干渉戦争に動員した兵力は70.000人を超え、米国から抗議を受けた。

1918年11月18日、西シベリアの中心都市オムスクに旧ロシア帝国海軍中将コルチャックを最高執政官とする
「オムスク政府」(シベリア政府)が成立した。
これにより幾つかの反革命勢力が統合された。
原内閣は12月8日、
米英仏三国と協調を図る立場から、コルチャック政権に同調する。
米国の勧告により34.000人削減(第二次削減)を閣議決定した。

1919年3~4月、日米英仏軍の支援を受けたコルチャック軍はウラル戦線でボルシェビキ軍を破り、
首都モスクワへ進撃する勢いを示していた。
農民パルチザン軍の攻撃にさらされていたコクチャック軍は、4月下旬すでに敗北し始めていた。
5月には大敗。
そのためセミョーノフと和解させた。
軍規の乱れ、盗賊まがいの軍隊で農民の反感や抵抗を受けていた。
6月後退をつづけた。

1919年6月31日、原敬の日記には
拓川がシベリア派遣特命全権大使への就任要請、即日受諾が書かれている。
いわゆる「シベリア出兵」真っただ中で彼の地の外交責任者に「内定」したのである。
8月12日、拓川はシベリア派遣大使に就任。

9月2日、拓川管下の在哈爾浜総領事の外相あて電報には、
「ウラル戦線のコルチャック軍は言語道断にして、更に戦意なしというも可なり」

拓川は、1919年9月12日敦賀を出港。23日、沿海州都のウラジオストクに入港。
10月2日ウラジオから列車で哈爾浜・満州里を経由してチタに寄り、9日にイルクーツクに着いた。
オムスクに到着したのは13日である。
10月17日にコルチャックと会見し、親任状を提出した。
しかし、オムスクは革命軍の攻撃で陥落寸前であった。




10月31日、天長節の祝宴を主催し、「首相」や「蔵相」や英国の代表者らと来会した。

11月6日、英仏の代表者らと撤退について相談。
11月10日朝、大使一行はイルクーツクに向けて出発した。

11月15日、オムスクはボルシェビキ軍の包囲され、占領された。
コルチャック軍は橋を破壊して退却した。
拓川到着してわずか1ヶ月後のことである。

11月末、イルクーツクはコルチャック軍と反乱軍の戦場になった。
拓川と大井司令官は第5師団のイルクーツクへの派兵を命じた。

12月、拓川は連合国外交代表団会議を連続しつつ、居留民の引揚に尽力したが鉄道スト等で進捗しなかった。

1920年1月9日、コルチャック政権が崩壊した。
1920年1月10日、イルクーツクを出発。
チタ~満州里~哈爾浜~奉天~京城~仁川で乗船。下関入港。
31日に帰京。ただちに首相及び外相と会談している。
2月3日、閣議に出席し「彼の地の状況並びに引揚の顛末」を報告した。
2月中に、天皇皇后に拝謁し、山県に報告し、西園寺邸で労われた。

原内閣は、3月
朝鮮・満洲に対するボルシュビキの脅威からの防衛のため、シベリア駐屯の基本方針を決定した。

1920年2月
尼港を占領中の日本軍が4.000人のパルチザン軍に包囲され降伏した。
3月、協定を破って奇襲攻撃を仕掛けた。副領事を始め兵士・居留民7.000人余が全滅した。
5月、日本の救援部隊を前に日本人捕虜・反革命派ロシア人全員の殺害に及んだ。
日本は報復措置として7月に北サハリンを占領した。

1920年4月、米国撤兵完了。
1920年夏、英仏伊も撤兵完了。
米英仏伊は「赤軍」と停戦協定を結んだ。

尼港事件は各国の対ソ経済封鎖解除が進行し、通商交渉が開始されていた時期に起こった。
日本に対しても、20年2月に対日講和を駐仏大使に打診されていた。
ところが、
軍司令官大井は、ウラジオ臨時政府(親ソ政権)に対して6ヶ条の要求を突きつけ、拒絶されると、ウラジオを占領し、
沿海州の革命軍7.000人の武装解除を行った。

1920年9月、拓川は大使の任を解かれた。

1922年10月25日、日本軍のシベリアからの撤兵完了。
1925年、北サハリン撤兵。

日本は各国間で孤立化を深めた。
侵略開始から7年間に及び、敗北に終わった。

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浜街道・七隠・・・その2

2020年03月16日 | 大正
明治時代に鉄道が通るまでの日本は、人も物も、道路でなく川や海を船で移動するのが主だった。
大門~笠岡間の”七隠れ”と呼ばる道は、そのことを証明している。


(古道・七隠れ)

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「大津野のあゆみ」 平成15年 大門町誌編集委員会より転記

大門駅の設置以前から既に引野から大門を経て笠岡に至る道は通じていたが、明治8年に道路の幅員が1間から2間に拡張され、荷車や人力車の通交を便利にした。
大正に入ると「大正記念事業」として、内務省から各県郡村道の改修を施すことが指令され、福山から大門を経て笠岡に通じる道路が改修整備された。
大正11年8月に「道路法」が設置され、大門駅前を通る道路は県道となった。
更に、昭和4年には県道福山~笠岡間は第二国道に昇格している。

1920年(大正9年)旧国道2号線が大門を貫通する。以前は日和峠~横道~七隠が本村の一等道。大正15年から一部国道となる。


・・・・・・・


「野々浜むかし語り」1991年野々浜公民館発行

笠岡に行く道は、大正ごろに改修されて今の国道筋を通るようになった。
しかしそれ以前は七隠れと呼ばれる悪路だった。

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