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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

陽明丸とシベリア出兵⑫笠岡市図書館の陽明丸船長「茅原基治」コーナー

2020年03月13日 | 大正
笠岡市図書館2fにある茅原基治コーナーには、B5サイズで茅原船長の航海図と顕彰のチラシが置いてある。





その航海表と歴史本のその時代とを重ねてみる。
国をあげて反ロシアをあおる最中に、陽明丸が人道的な行動を起こすことができたのだろうか?

・・・・・・

笠岡市図書館のチラシ

大正8年(1919)9月アメリカ赤十字はロシアの子供たちを船に乗せてロシアを離れ、混乱が落ち着いたらロシアの親元に返すという救出計画をたてました。
世界中の船舶会社に救援を依頼しましたが、引き受けてくれるところはどこもありませんでした。
この困難な呼びかけに応じたのが、勝田汽船の社長であり、船長に茅原が選ばれました。
大正9年(1920)7月9日、
ウラジオストク港から、陽明丸はロシア人の子ども779名をはじめ、ロシア人女性など合計960名を乗船させ出航しました。

・・・・・・

「近代日本戦争史・大正時代」平成7年 監修 奥村房夫 紀伊国屋書店発売

1920年3月12日午前2時、
日本軍および自警団合わせて400名。赤軍派は、中国人、朝鮮人、労働者など含めて約4000。
日本軍は夜襲、市街戦となったが、共同出兵の支那砲艦四隻からも集中砲火を浴び、13日には領事館が包囲された。
石田副領事は家族と共に自決した。
残った隊員は投獄され労役につき5月25日、
アムール河畔で生存者病人、居留民を含め計122名虐殺され放棄された。

3月13日閣議は尼港救援隊派遣を決定したが、尼港に到着したのは6月3日だった。
惨状を知った政府は6月29日の閣議で、同事件の保証としてサハリン州の占領を決定、北樺太に混成旅団の配置を決定したのである。


・・・・・


「日中戦争全史・上」 笠原十九司著 2017年 高文研発行

4月になって日本軍尼港守備隊全滅の情報を得た日本政府は、ただちに尼港救援隊出動を決定。
2.000人の部隊を小樽から派遣したが、アムール川河口は結氷のため、接近できず、解氷期の5月になってようやく軍事行動を開始した。
日本軍が尼港に進撃すれば、俘虜として収監されている日本人の生命安全が危うくなることへの配慮はなされず、パルチザンから尼港奪回の大義名分にこだわった。
日本軍を阻止できないと判断した赤軍司令官は、5月24日から25日にかけて、約130人の獄舎の日本人捕虜は、アムール河畔に連れ出されて殺害された。
尼港から撤収したパルチザンは、市の大部分に火を放って破壊した。

この事件は、「尼港の惨劇」の悲報として、日本国内でセンセーショナルに報道された。
一次尼港事件(3月)
6月25日・大阪朝日新聞
最後の最後まで我が軍は死力を尽くして奮闘した、領事が妻子を銃殺した時の胸中や如何。
街区に横たわる死骸。
居留民は3月13日以来毎日門口に引き出されて惨殺され、420名中残ったのは僅かに8名であった。
二次尼港事件 (5月)
6月7日・大阪朝日新聞
凶悪言語に絶する尼港の過激派、邦人130名を殴殺する。
残留民を悉く殺戮。
尼港の虐殺五千名。アムール川の氷上に投棄されし同胞。
児童は岩石に叩きつけて打殺し、女は凌辱後裸踊りさして銃殺。
板壁に残る絶筆「5月24日午後12時を忘れるな」。
という大中の見出しをつけて報道された。

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毛野無羅山の植林と砂防ダム

2019年08月28日 | 大正
いったい山陽地方の山々は、どれだけはげ山だったのだろう?

「里庄町誌」 昭和46年発行より転記
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小川郷太郎教授の砂防論
新庄出身の京大小川教授は、明治39年ドイツへ留学、その後オーストリア・イタリア・フランス・ベルギーと各国を歴巡した。
ある日母校新庄小学校で講演した。
「私は子供の時から郷里の山や川を見て育った。
だから山ははげたもの、川は天井川ときめていた。
この度の留学で欧州各国の山や川を見ると山は黒々としており、川は底を流れているのであります。
はげ山の下の村では何年経っても、発展の見込みが無いという事をつくづくと感じました。
諸君!
この村の近き将来ないし永遠の将来を思って、あのはげ山を真っ黒な山にしてみようではありませんか。
わが庭に植える一本の松の木があったら、その木を山へ持って行って植えてください」と。
小川教授の話は村民に大なる感動を与えた。
大正初年、毛のむら山の砂防工事の設計がたち、県と農林省の荒廃地復旧事業となった。
山へは松とサンカイ(ハゲシバリ)をいっしょに植え、過リン酸を一株五寿ずつやったところよくきいた。
谷口には石堰堤を造ったので土砂流出の憂いがなくなった。
県知事も毛のむら山に登山した。
岡山県の砂防は全国的に有名で、視察に来ると里庄村を指ざされたので、全国や朝鮮からも視察に来た。
昭和3年、農林大臣から褒章を授与された。
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陽明丸とシベリア出兵⑪「シベリア出兵」なぜ7年も続いたのか・・・6

2019年06月22日 | 大正
この中公新書を読んでいて、その後の日中戦争とあまりに類似していると思ったが、著者もその事を最後に記している。

「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  より転記⑥
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ソ連と国交樹立へ—1923~1925
1923年8月、加藤首相が胃がんで死亡。9月関東大震災。
山本権兵衛内閣が発足。
1924年2月イギリスがソ連を承認、以後各国がつづく。5月には中ソが国交樹立。
1924年6月、加藤高明首相となる。
1925年1月、日ソ基本条約調印。
同時に共産主義取り締まりの為「治安維持法」を制定した。
1925年5月15日、北サハリンから撤兵した。

北サハリンの利権獲得
シベリア出兵で唯一獲得した利権である、石油石炭。
三井三菱などの財閥出資で「北樺太石油会社」ができた。
初期の数年は順調であったが、1930年代になるとソ連の圧力で経営悪化。
日中戦争開戦後はほぼ操業停止した。

日露の犠牲者数
7年間で戦死2643人、病死690人。
ロシアは8万人という推計もある。

日露の経済損失
国家財政は7億。
ソ連がロシア帝国の債務引継ぎを拒否したので2.9億が未回収。

機密扱い
これほど多くの犠牲を生みながら、第二次世界大戦前に、国民はシベリア出兵からほとんど教訓を得られなかった。
戦史の大部分は公表されなかった。

・・・・・・

なぜ7年も続いたのか

統帥権の独立
首相に国務大臣への命令権はない。陸相・海相と協力関係にあることが前提となる。
問題は参謀本部、
首相と陸相が連携して抑え込む。
元老も無視できない。

親日政権の樹立に失敗。
死者への債務、「土産」が必要になる。
シベリア出兵と日中戦争の類似、二重外交、広大な空間。


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陽明丸とシベリア出兵⑩「シベリア出兵」沿海州から撤兵1921年・・・5

2019年06月22日 | 大正
「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  より転記⑤
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国内の不評
1921年1月時点で戦死者は1.017名。尼港事件の興奮も冷め、各紙は批判を増した。
田中陸相は、北サハリン以外からは撤兵が得と首相に話す。

極東共和国との外交交渉
この頃、(1921年4月)
欧州ではソビエト政府を迎え入れようとしていた。
極東共和国から国交樹立の覚書が届く。
交渉が成立すれば沿海州と北満州から撤兵することを閣議決定。
撤兵の代償を求める日本と、撤兵なくして利権なしの極東共和国の、双方の隔たりは大きかった。

ワシントン会議
アメリカは自国が撤兵後も、なお出兵を続ける日本に、再三抗議していた。
国務長官は「日本がシベリアの地での利権を得る事を認めない」と幣原大使に手渡している。

原首相暗殺
1921年11月4日、東京駅で暗殺された。11月25日には皇太子が摂政に就任した。
翌1922年1月元老山県が病死した。

追い込まれる日本・・1922年
ついに日本は内外の圧力により撤兵を強いられる状況になった。
その理由は、
ロシアの反革命の敗北が必至になったこと
ワシントン会議で撤兵を明言させられたこと
国内で野党と世論が撤兵を迫ったこと

無条件撤兵
原敬後の首相は高橋是清が就任した。
閣僚たちも、撤兵の条件をいう段階は過ぎつつあることを承知していた。
高橋内閣は政党の内紛で辞職し、加藤友三郎海相が組閣した。
加藤首相兼海相は撤兵を急いだ。
1922年6月24日、
「10月に撤兵断行」が内外に発表された。

ウラジオストク陥落
極東共和国軍は、日本軍との衝突を避けようと、ウラジオストク強行突破を控えた。
撤兵期日の10月25日、
最後の輸送船に乗って撤収した。
立花司令官は、共和国軍司令官に「閣下の高明公平なる措置により、両軍矛を交ゆるの惨禍を避け」たと称えている。
こうしてウラジオストクは陥落した。
上陸してから4年3ヶ月が流れていた。

ロシア難民
約7.000人が朝鮮に上陸後、世界に散っていった。

極東共和国の清算
日本との緩衝材であった極東共和国は用済みとなった。
1922年12月30日、ソ連の成立により幕を閉じた。

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陽明丸とシベリア出兵⑨「シベリア出兵」1920年北サハリン・・・4

2019年06月22日 | 大正
「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  より転記④
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北サハリン派兵
1920年日本軍はアムール州とザバイカル州から撤退し、沿海州南部と北満州の中東鉄道沿線に兵力を集中させた。
その一方で、別の地域に派兵を始める矛盾した行動に出る。
尼港事件の謝罪と代償を求めることを大義名分としている。
保障占領は石油の保障で、日本海軍が以前より北サハリン油田を狙っていた。

尼港事件
1920年3月11日、武器引き渡しを迫るパルチザンに、日本軍が民間人と共にパルチザンを襲撃した。
ところが中国の艦隊や、朝鮮人住民もパルチザンに味方し、日本人大半が戦死した。
尼港の状況は4月になって断片的に東京に伝わってきた。
尼港事件は、パルチザンのみならず、周辺の諸民族を敵に回したなかで起きた惨劇で、日本の国際的な孤立を際立たせていた。
しかし国内ではその点に目は向かず、犠牲者に外交官・民間人・女性子供が含まれているのに衝撃が走った。
4月9日、原内閣は救援軍派遣を閣議決定する。
6月3日、事件現場の尼港に到着。街は焼き払われ、捕虜は全員殺害されていた。
外務省は、日本人735名殉難者とする文書を発表した。
7月3日、日本政府は北サハリンを「保障占領」することを宣言した。ロシアの政府が、尼港事件を解決するまでの担保としての占領を意味した。
アメリカは尼港でなく、なぜ北サハリンか疑問を呈した。

北サハリン
南サハリンから移住する人が、その年1.600人。
「都下の流浪の民をサハリンに送出」する依頼者が原首相を訪れている。
炭鉱・油田の民間資本が参入し、海軍が監督下に置いた。
海軍の船舶はカムチャッカ半島まで出動するのが日常化された。

間島への越境
1920年末になると、シベリアでは出兵を続けても先が無いことは明らかだった。
反革命軍に駒もいなかった。
原首相はウラジオストクにこだわりがあった。
植民地の朝鮮と、利権を持つ満州への、共産主義の波及だった。
1920年秋、間島へ派兵した。
間島は、中国・朝鮮・ロシアの国境が接する地方で、現在中国吉林省の朝鮮自治州。
間島には朝鮮人の抗日活動家が多く、日本領事館が襲撃された。
1920年10月7日、間島派兵が決定した。
間島の主権を有する中国が反対した。


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陽明丸とシベリア出兵⑧シベリアでの攻防1919年・1920年「シベリア出兵」・・・3

2019年06月22日 | 大正

「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  より転記③

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日本人の野心
北一輝は、レーニンに「西シベリアの割譲」を要求すべしと主張
した。
田鍋安之助は、シベリアの自由経済、鉄道譲渡、モンゴル保護国、ザバイカル州以東は親日派統治させると主張。

兵士たち
10月よりの極寒で、凍傷、睡眠、静止も不可能なことがあった。
パルチザンのゲリラ戦に翻弄された。
兵士のモラルは弛み、「北のからゆかさん」は需要が急増した。
「滅法高価だが、明日をも知れぬ我が命だと、兵隊はここに遊びに行く」、将も兵も通い詰めた。
梅毒は軍隊の最大恥辱と、申告しない兵もいた。

コルチャーク政権
海軍軍人コルチャークは英国の後ろ盾を得て、シベリアのオムスクにある「全ロシア政府」の陸海軍大臣になった。
クーデターで独裁者となり、オムスクを起点にモスクワへ進軍しようとする。
1918年12月には、ウラル山脈を越え、翌年春には13万人以上に膨れ上がる、数も装備も赤軍を上まわった。
コサックも支援した。
勢いにのるコルチャークにシベリア各地の反革命派がなびく。
ホルバートは早々に恭順し、役職を得た。
セミョーノフは独自の勢力を育てようとした。
コルチャーク軍は1919年3月大攻勢を開始した。
一か月後には「モスクワを占領する」と豪語した。
小麦と工業を奪われソビエト政府は存亡の瀬戸際に立たされた。
その勢いを見て日本はコルチャーク政権承認が決まった。
鉄道の一部譲渡や漁業権も交渉を期待できた。
大使には貴族院議員の加藤恒忠が就任した。
加藤は10月に赴任して、ハバロフスクなど政権の支配地域に領事館を開館した。
コルチャークが席巻していた頃、パリで講和会議が開かれていた。
英米はソビエトとカルチャークの両国を招待しようとしたが、
仏がボルシェビキのいような「犯罪的政権」とは、いかなる協定を結ぶことができないと拒否した。
1919年5月、日米英仏伊の首脳はコルチャーク政権支援が決まった。
しかし、時を同じくして
コルチャーク軍は急速に崩壊しつつあった。
赤軍の反撃
コルチャーク政権で、財政は混乱し、物価は上昇した。
鉄道沿線は戒厳令、令状なしの逮捕、裁判抜きの銃殺が茶飯事となった。
モスクワでは、食糧を与える条件で兵を集めた。
6月ウファを奪回した、これが内戦の天王山となり以後コルチャーク軍は、東へと後退していった。
コルチャーク軍は急速に崩壊する。
1919年11月11日、首都をオムスクからバイカル湖近くのイルクーツクへと移した。
イルクーツクへ移った加藤恒忠大使は派兵を要請した。
幣原喜重郎駐米大使はランシング国務長官にシベリア派遣軍の増強を要請したが、既に撤兵を決めていた。
1920年1月コルチャークは革命軍に引き渡され、2月銃殺された。
各国は赤軍との衝突を避けようと、撤兵を急ぐ。

撤兵
1919年2月、カナダは撤兵を決め、6月大部分が撤兵した。
1919年10月、イギリスが撤兵完了。フランスは9月から撤兵開始。

チェコ軍
1919年、チェコの独立は各国に認められ、シベリアに残る理由はなくなったが、
英国や仏国には、駒にしようという思惑があった。
日本は1920年チョコと外交関係を持ったが、チェコ軍が反革命軍という性格を失ったので現地日本軍との関係は悪化した。

日本軍の独行
1920年1月、アメリカから撤兵が通告された。
日本は、今後は単独でシベリア駐在することや、派兵や撤兵は自由にさせてもらうと伝えた。
こうして共同出兵は、最後までかみ合わなかった。
原首相は撤兵するために追加の派兵を決めた。
コルチャークの処刑後、シベリアの勢力図は瞬く間に赤軍へと塗り替わった。
1920年1月31日ウラジオストクがパルチザンに占領された。
1920年4月5日ウラジオ派遣軍がシベリア鉄道沿線を攻撃、ハバロフスクでは市街戦が繰り広げられ、結局沿海州を武力で制圧した。東京では寝耳に水だった。
その頃、ソビエトは南ロシア反革命軍やポーランドと国境線の戦があった。

極東共和国
日本が駐留をつづけるザガイカル州では日本が支援するセミョーノフが居座っていた。
現地の軍人たちは、極東に緩衝国家をモスクワに上伸した。
1920年4月6日、極東共和国の建国が宣言された。
支配区域は、
ザバイカル州、カムチャッカ州、サハリン州、アムール州、沿海州で、
それらは反革命軍や日本軍が占領する区域だった。
1920年5月24日、極東共和国と日本とで停戦交渉が始まった。
1920年6月1日、内閣はザバイカル州から撤兵することを閣議決定した。9月2日までにウラジオストクに移動した。

欧州
1920年10月、ロシア・ポーランドは休戦。
1920年秋、ヨーロッパのロシア内戦は終わった。
1920年10月19日、極東共和国軍はザバイカル州で総攻撃、支配下にした。

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陽明丸とシベリア出兵⑦「シベリア出兵」・・・2

2019年06月21日 | 大正


「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  より転記②



ロシア革命
1917年11月ボルシェビキは政権を樹立した。
レーニンは、民衆の求める「平和」を得ようと、第一次世界大戦の全交戦国に、国土の併合や賠償金の課すことのない即時講和を提案したが、各国は無視した。
そんななか、ドイツは革命で混乱するロシアへ攻勢に出た。そこでドイツに単独講和を申し入れた。
優位に立つドイツは、領土の割譲を迫る。
ウクライナの独立、巨額の賠償金などを受諾し講和条約が調印された。
独露の講和は英仏に衝撃を与えた。
東部戦線は消滅し、敵国ドイツが西部戦線に全力で投入してくることが予想されたからだ。
英仏はソビエト政府を倒して、新しいロシア政権に東部戦線を再び構築させようと計画する。

ウラジオストク港
ウラジオストクは軍港と商港、それにシベリア鉄道の起点となっていた。
連合国が供給していた武器弾薬が山となっていた。
そのウラジオストクへの出兵に白羽の矢が立ったのがアメリカと日本だった。
アメリカは1917年にドイツへ宣戦布告していた。

派兵か、自重か
当時の日本にとって、ロシア革命は対岸の火事ではない。
南サハリンや朝鮮半島とは、陸続きで起きた革命だった。
また南満州(日本勢力圏)と北満州(ロシア勢力圏)も隣接する地域で、当時の為政者にとって、切実な安全保障問題だった。
元老筆頭、枢密院議長、陸軍元帥、の山県有朋の意見が出兵を左右する。
「およそ刀を抜くときには、まずどうして鞘におさめるか、それを考えた後でなければ決して柄に手をかけるものではない」
山県は中・英・米との共同出兵を理想としていた。

長州出身の寺内正毅首相も、出兵に消極的だった。
外務大臣の本野一郎は熱心な出兵推進論者だった。英仏に武力で貢献することが列強の地位を獲得する策だった。
公家出身の元老、西園寺公望は「出兵の理由は後世の人びとをも納得させるほどでなければならない」と書く。
大学教授など9人「出兵九博士」が出兵論を緊急出版した。

ウラジオストク出兵
ロシアへの干渉は早くから始まっていた。
1917年11月29日、ソビエトが市内全域の掌握を宣言した。その翌日ウラジオストク総領事は、日本の軍艦の出動を要請した。
海軍は、在外公館から要請があれば、日本人保護を義務付けられていた。
12月31日、連合国ウラジオストク領事館は、連合国に軍艦派遣を要請した。
1918年1月3日、英国から海軍出動を通告された。
寺内首相は英国よりも先に、ウラジオストクに入港させようとした。
軍艦が無告で入港すること自体が、主権の侵略だった。
4月、日本人貿易商人が4名殺傷事件が発生し、日英の陸戦隊が上陸した。

田中義一参謀次長
陸軍の出兵中心人物は田中参謀次長である。
田中は四つの利点をあげた。
ドイツやオーストリアが東へ勢力を伸ばすのを阻止する。
中国を日本の味方にすること。
連合国への信義を果たす
シベリアに親日政権をつくり「指導」していく
田中にすれば、欧州が世界大戦の間に、大陸でさらに勢力を伸ばす一石四鳥のよい事ずくめである。
参謀本部はバイカル湖を進出の限界として、シベリア東部を掌握しようとした。
さらに北満州を支配する。

コサック兵
ロシア帝国はコサック人を辺境の防衛に従わせていた。コサックはロシア帝国への忠誠心が篤かった。
参謀本部はコサック兵を援助し、親日政権の神輿に担ごうと接触していた。

1918年2月、セニューノフを担ぎ、日本人義勇兵をつけたが、4月撃退され満州里に退いた。
1918年7月、ホルバートが参謀本部と反革命軍により担がれ「全ロシア臨時政府」を沿海州で発足させた。

チェコ軍の救出
チェコ軍とはハプスブルグ家から逃れロシア帝国に移住した子孫と、大戦でロシア軍に捕虜となったチェコ人による部隊で、ロシアに協力してオーストリアと戦う、独立につなげようとしていた。
だがドイツ・ロシアの講和でロシアに居場所をなくした。
英仏はチェコ軍をドイツ戦に利用しようとした。
シベリア経由で欧州へ向かうチェコ軍との連絡が途絶え、「チェコ軍の危機」が噂され、英仏伊は、救援の出兵を米日に求めた。


アメリカの出兵
1918年7月、アメリカのウイルソン大統領は「日米両国とも7.000人を限定した地域に派遣する」する方針を決めた。
寺内首相は、
「この際、ウラジオストクからシベリアまで出兵したい。
そうしないと、シベリアにはドイツ勢力が広がり、アメリカはシベリア鉄道を占領するおそれがある」と原敬に語った。
日本は10.000~12.000名出兵となった。
米長官は「チェコ軍の救援よりロシアに対する干渉である」と憂慮した。
出兵によりモスクワでは連合国への締め付けが激しくなり、日本総領事はモスクワを引き揚げた。
以後7年間、東京とモスクワは国交がなくなった。
出兵宣言の前後、日本各地では米騒動が本格化した。

新聞操縦
田中義一参謀次長は世論を味方にしようと機密費を新聞界に注ぎ込んでいた。
経営難だった読売新聞を強引に社論を転換させた。
シベリア出兵の「美談」や「労苦」を記者に書かせ、露骨な世論操作を行っている。
宣伝活動の陸軍組織はここから始まった。
大阪朝日新聞や中央公論など、次々に政権に牙を抜かれたていった。

 

(田中義一大将像)



ウラジオストクへの出兵
1918年8月、ウラジオストクに上陸。
ほぼ同時に英仏米が上陸した。
日本軍の兵数は突出していた。
日・・・58.000人
米・・・9.000
英・・・7.000
仏・・・1.300
伊・・・1.400
中・・・2.000
加・・・少数
なお、ほぼ同時期にキリミア半島など南ロシアに、仏英ほかの干渉軍が75.000~85.000いた。

ザバイカル州への出兵
日本軍は沿海州のみならずアムール州、さらにザバイカル州へ進軍しようとした。
9月6日、セミョーノフやチェコ軍と連携しザバイカル州の州都チタを占領した。
出兵早々、日米間に亀裂が走った。

朝鮮人への標的
19世紀から、ロシア沿海州には朝鮮人の移住者が多かった。
朝鮮半島の植民地統治を安定させるため、参謀本部はシベリア出兵という機会を逃がさなかった。
朝鮮人の武装解除をすすめ、抗日活動を弱めた。
その後、結果的にボルシェビキに身を投じて日本軍と戦う者が増えた。

原内閣
シベリア上陸40日後、1918年9月米騒動で寺内内閣が倒れ原敬が首相になった。
12月、兵数を24.000人に削減を発表した。
アメリカは日本の指揮権を認めず、共同出兵は名ばかりであった。
シベリア鉄道の管理がもめ、連合国管理委員会のもとに置かれることになった。

第一次大戦の終結
1918年11月、ドイツ皇帝は亡命し、ドイツは休戦に署名した。
ソビエト政府はプレストリトフスク条約を破棄した。
1919年2月、赤軍はキエフに入り、ウクライナ全域を支配下に置いた。
他方、連合国は干渉を本格化させたが、ロシア中央部に進撃できなかった。


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陽明丸とシベリア出兵⑥「シベリア出兵」より・・・1

2019年06月20日 | 大正
「シベリア出兵」麻田雅文著 2016年発行・中公新書  より転記①

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司馬遼太郎のシベリア出兵の評価は手厳しい。

前代未聞の瀆武(とくぶ)といえる。
理由もなく他国に押し入り、その国の領土を占領し、その国のひとびとを殺傷するなどというのは、まともな国のやることだろうか。
当時の日本にも言い分がないとはいえない。
日本は日露戦争のあと、ロシアの報復を恐れた。
このおびえが、帝政の自壊をさいわい無名の師をおこした、といえる。
ばかばかしい話だが。
------
瀆武(とくぶ)とは、道理を外れた戦争で武威を汚すことである。
「無名の師」とは、大義名分無き戦争のことで、」後世の歴史家たちがシベリア出兵を断罪する際の常套句だ。
------
司馬に言わせれば、日本のシベリア出兵は、ロシアという「恐怖心の当の相手が、やや引っ込んだように見えたから出ていった」、「実に恥ずかしい、いかがわしい」ことにはかならなかった。
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さらに司馬は、この戦争が日本の一つの転機になったことを、こう説明する。
「日本がましな国だったのは、日露戦争までだった。
とくに大正7年のシベリア出兵からはキツネに酒を飲ませて馬にのせたような国になり、太平洋戦争の敗戦でキツネの幻想は潰えた。

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陽明丸とシベリア出兵⑤米騒動

2019年06月11日 | 大正
岡山県史・近代Ⅱ 昭和62年 岡山県発行より転記

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背景
1918年(大正7)7月から9月まで全国規模で起こった、歴史的な民衆運動であった。
43道府県で発生し、参加者は延べ数百万といわれ、軍隊の出勤70ヶ所にも及んだ。
1917年のロシア革命、
中国に対する21ヶ条要求に反対する中国ナショナリズムの日本への影響。
米騒動に続き、
ドイツ革命
朝鮮の独立蜂起、中国の5.4運動などに表れていた。
米騒動は一連の民衆運動の「世界史的環境」の中で発生をみたのである。

発端
富山県の局地的な民衆行動、
名古屋・大阪・神戸など騒動の全国化、
宇部炭鉱暴動に始まり、筑豊なで炭鉱労働者を中心とした騒動の三期に区分される。

岡山県では1918年8月8日、山陽新報が「米高から女房一揆」の見出しで真庭郡落合町で騒動が始まり、津山など美作に広がり、南に下って岡山市・倉敷町など県南一帯に及んだ。
岡山市の13日の騒動は「凄惨を極め」(山陽新報)、無警察状態ともいえる状況がつづいた。ついに師団に軍隊の出勤を要請、「市民の夜間外出を絶対に禁止」し、夕刻全市は戒厳状態となり、警官、歩兵54連隊、騎兵連隊、憲兵分隊が出勤し警戒に当たった。
県警部長は、各新聞社に対し「当分の間、米騒動に関する記事一切を掲載せざる要望」をした。以後米騒動に関する報道の自由を失った。

8月14日まで後月郡井原町、小田郡笠岡町、
笠岡町では「群衆150名が某家に押寄せ、門戸を乱打して開かしめ、店内乱入。更に某肥料商の店内に乱入」した
8月21日まで小田郡吉田村・神島内村・神島外村まで及んだ。
神島では「両村煙害地被害民」が、大挙して工場長・副工場長宅を襲撃せんと、夜9時日光寺の梵鐘を乱打し、群衆二千人がこれに加わり喧噪となった。

被差別の民衆
米騒動に被差別の民衆が大きな役割を果たしたことは、全国的に指摘されている。

岡山県下の米騒動は、その後の労働・農民・水平その他の住民運動、無産運動、普選運動など県下の社会運動に大きな影響を与えた。

いずれにしても、米騒動という未曽有の住民運動に直面し、国民の蜂起を軍隊によって鎮圧するという失政のかぎりを演じ、新聞の総攻撃を受けて大正7年(1918)9月21日、寺内内閣は総辞職する。政友会の原敬が後継首相に指名され、最初の政党内閣が誕生した。


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陽明丸とシベリア出兵④尼港事件(地元の茨城県)

2019年06月11日 | 大正
尼港事件で多くの戦死者を出した茨城県では、どのように記されているのだろうと思った
スラスラといった感じの記載であった。

「茨城県の歴史」山川出版社 1997年発行より転記

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英・米など16ヶ国がチェコスロバキア軍の救済を掲げて、ソビエト政権打倒の軍隊をシベリアに派遣した。

日本も積極的に参加したが、大正9年2月に黒竜江口のニコライエフスク(尼)で、ソビエトのパルチザン兵士によって日本兵が殺害されるという尼港事件がおこった。
尼港を守備していたのは水戸第二連隊であった。
281人の戦死者を出し、県民に大きなショックを与え、深い傷あとを残すことになった。

シベリア出兵は、また、軍隊の食糧需要を狙った米穀商による米の買い占め・売り惜しみをうみ、米価が急騰する事態を招いた。
このため、大正7年8月には富山県の漁村から火を噴いた米騒動が全国各地をおそった。

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