しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

台湾沖航空戦⑤レイテ沖海戦、特攻へ

2022年01月22日 | 昭和16年~19年

日本が、マリアナ沖海戦で敗れサイパン島を失ったところで、太平洋戦争の勝敗は、ほぼ決していた。
本来、冷静な立場にたてば、ここで和平を乞うという道もあった。
それでも、あきらめきれずに、なんとか一回大勝利をおさめ、有利な条件で講和に持ち込みたいと願いつつ決戦を呼号していたのである。
それが、なまじ
台湾沖航空戦で大勝利をおさめたと発表してしまったために、日本は戦争に負けているのではなくて、勝っていることになってしまった。

以後、大本営発表による幻の戦果の連呼のもとで、日本は絶望的な戦いをつづけることになり、
沖縄や本土空襲や原爆投下やソ連参戦など、数々の悲劇を生むことになる。



(海軍鹿屋基地)




もうひとつ、特攻作戦に与えた影響を指摘しておきたい。
大本営発表は、もはや歯止めがきかなくなった。
レイテ沖海戦以降、頻繁に行われるようになった航空機による特攻も、
そのつど大戦果が報じられた。
しかし、特攻の事態はと言えば撃沈した空母は商船改造の数隻にすぎなかった。
にもかかわらず大本営はアメリカ軍空母部隊を殲滅するほどの大戦果があがっていることを自ら信じ込むようになっていく。
そして、その結果、さらに大規模な特攻を企画するようになり、特攻が常態化し、
ついには一億総特攻、つまり国民すべてが特攻という掛け声が生まれるのである。
もし特攻が、
その犠牲の大きさに比して、さほど大きな戦果をあげてはいないと冷静に分析することができていれば、事態はちがったものになっていたにちがいない。

特攻という常軌を逸した戦い方が、後の日本人に対する世界の人々の目を、どれだけ偏見に満ちたものにしたか。
それを考えると、特攻を肥大化させ助長していく一因となった幻の大戦果創出のメカニズムがもたらしたものの大きさに、あらためて愕然とせざるをえない。






「幻の大戦果 大本営発表の真相」  辻泰明  NHK出版 2002年発行





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台湾沖航空戦④大勝利後の国民大会

2022年01月21日 | 昭和16年~19年

昭和19年10月20日、東京の日比谷公会堂で国民大会が開かれ、
壇上、小磯国昭首相は次のような演説を行なった。


「諸君。
我々国民、待望の的であった決戦の幕は切って落とされました。
敵の空母、戦艦、巡洋艦、駆逐艦40数隻を撃沈、殲滅せられたのであります。
古来、戦史にその類例を見ざる、限りない輝かしさであると言わねばなりません」
その話しぶりや表情、しぐさを見るかぎり小磯首相は戦果を信じきっていたと判断せざるをえない。





一国の首相が知らされないとすれば、太平洋戦争中の大日本帝国は
外見は軍部独裁でありながら、その内容は自分の属する組織の利害のみにとらわれて、
ばらばらに行動し、なんの連携も統率もないまま、迷走をつづける奇妙な機械のような国家にすぎなかったのではないかと思わざるをえない。

小磯首相が演説した翌日の10月21日、
海津美治郎参謀総長と及川古志郎軍令部総長は、宮中に召され、天皇から御嘉尚の勅語を賜った。
海軍が戦果の誤りを、ともに戦う陸軍はおろか、首相にも天皇にも知らせなかったとすれば、
ましてや国民に真相が伝えられることはなかった。








真相を国民に知らせかったのは、知らせた場合、パニックがおきることを恐れてのことだったのか、
事態の責任を追及されるのが怖かったのか。
しかし事態はますます悪くなったのである。
国民は疑心暗鬼におちいり、政府や軍部のいうことを信用せず、面従腹背の行動をとるようになる。
そして日本は、いよいよ崩壊への道をたどることになる。

10月22日、レイテ決戦に反対していた山下大将はレイテに兵力を派遣せよという命令を申し渡された。


「幻の大戦果 大本営発表の真相」  辻泰明  NHK出版 2002年発行



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台湾沖航空戦③搭乗員が見たもの

2022年01月20日 | 昭和16年~19年
搭乗員が見たもの

陸攻機長だったTさん(83才)
電探(レーダー)の能力が悪いんですよ。目で見た方が早いの。
「我、燃料なし、自爆する」というような無線がはいりますし、
結局攻撃はできずに沖縄に帰っていたんです。

・・・
どうやって、敵艦隊を見つけることができたのか。
それは、なんと、敵艦が打ち出す対空砲火によってだった。

・・・

陸攻、副操縦士だったOさん(76才)
主砲みたいなのを撃つわけですよ。
青白い光がパーッと出るんですよ。
機銃がザザザザっとこう撃ってきますから、ああ、いるってわかるんです。

空母を攻撃せよというのが至上命令だったです、もしくは戦艦と。
空母は17隻というから、一つや二つはやれるかと思ったけれども、それが全然見えない。
ただ出てくるのはグラマンばかりでしたね。
今思えば、ちょっと考えられない無謀な作戦でしたね。
向こうはレーダーでこちらを捕まえるんですから。
われわれは「行ってこい」と言われれば、必ず行かねばならないですからね。







本来ならば、避けなければならない対空砲火を逆に目印にして、その中に突っ込んでいくことしか敵艦を攻撃できなかった。
しかも米軍の高射砲にはVT信管が装着されている。
一式陸攻は、わずかな被弾でも、すぐに燃料に火がついて「一式ライター」とあだ名されていた。
そういう一式陸攻の群れが、猛烈な弾幕の中に突入したのである。
日本軍機は次々に撃墜された。



鹿屋基地飛行要務士(参謀の秘書役)Aさん(79才)

「われ雷撃す」というような無電が一本入ったきり。
報告する前にやられちゃったの。
無電を打つ前に落とされちゃたのが多いんじゃないですか。


一式陸攻の副操縦士Hさん(当時19才)

鹿屋を出発したのは12時半か1時ごろ、戦場到着が4時半か5時ごろか。
--対空砲火は、かなり激しかったですか。
かなりなんていうもんじゃなかったですね。
想像していたより、もっとひどかったです。
夜間ですから、曳光弾というのが、それが火の玉みたいに尾を引いてずっとつながって飛んでくるわけですよ。
花火の五連発、七連発、あれを何十本も何百本もパーっとやるのと同じような感じです。
その中を機首を上げ下げして、くぐったり飛び越えたりしていくわけです。
考えたら、当たらなかったのが不思議という感じです。
--戦果の確認は。
見ていないですね。仮に命中したとしても、われわれの落とした魚雷であるとかいうことは全然わかりません。


--沈んだかどうか
とても確認できませんよ。
もうそれよりも逃げるが勝ちですからね。
--轟沈
5分以内に沈むのを轟沈だといいます。
まずないと思いますよ。
魚雷一本で沈むほどやわくは(敵艦も日本軍も)ないですから。





参加した搭乗員の大部分は初陣である。
異常な心理状態である。
赤い尾を引く曳光弾や、1分間に10万発と俗にいう、
猛烈な対空砲火の弾幕のなかをくぐりぬけて生還してきたばかりの彼らにとって、あたかも地獄の底から戻ってきたばかりのような心理状態であったろう。
自分たちが見た火柱や水柱の正体がなんであったのか、冷静に判断ができない人がいたとしても不思議ではない。


戦果報告の過程

I機長の報告
空母(推定)を雷撃命中、その他火柱二を確認せり

・・・

その報告書に、新たに二隻の戦果が書き加えられている。
艦型不明の轟沈を認む
艦種不明の轟沈を認む

・・・

高雄の司令部で艦種不詳は空母の算大なりに変化した。

航空参謀と搭乗員のやりとり

参謀「ほかには何か見なかったか」
搭乗員「遠くでオイルタンカーか、空母が燃えていたかもしれません」
参謀「空母だろう」
搭乗員「そうかもしれません」
参謀「空母が撃沈されていたのだな」
搭乗員「そうかもしれません」
こうした一種の誘導尋問がおこなわれていた。

あまりに未帰還機が多く、直協機や隊長たちが帰ってこなかった。
初陣の若い搭乗員とのやりとりをもとにせざるをえなくなった。

夜間の攻撃で目標を誤認しやすい状況下におかれた搭乗員が、
味方機が墜落して発した火柱や対空砲火の火焔などを敵艦の火災や魚雷の命中と見誤り、
それを一種の誘導尋問によって、実際にあげた戦果であると誤断するという経緯のもとに生み出された。


「幻の大戦果 大本営発表の真相」  辻泰明  NHK出版 2002年発行


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台湾沖航空戦②台湾沖航空戦の大勝利

2022年01月20日 | 昭和16年~19年



昭和19年10月19日、大本営は台湾沖で、敵の過半の兵力を壊滅したと発表した。

日本海軍は、日露戦争における日本海海戦で歴史的大勝利をとげたが、
その再現ともいうべき快挙だった。

戦果
撃沈・・・空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、その他。
撃破・・・空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、その他。


我が方損害
未帰還機312機

戦争は勝ったも同然との気分が広まり、
新たに作られた『台湾沖の凱歌』(サトウハチロー作詞・古関裕而作曲)という歌がラジオから流された。

昭和天皇は大戦果をあげた部隊に対しお褒めの言葉を賜った。
「朕が陸海軍部隊は緊密なる共同の下、敵艦隊を邀撃し奮戦、大いにこれを撃破せり。朕深くこれを嘉尚す」






その当時ハルゼー大将率いる母艦は、改造軽空母を含めても17隻だった。
これはいったいどういうことだろう。
数え間違いか、勘違いか、あるいは重複して数えたとか。
数え間違いがあった、どころではない。

そもそも、大戦果はまったくの幻だったのである。
現実には、撃沈した敵艦は1隻もなかった。

日本軍は航空部隊の過半を失ってしまった。
しかも、この幻の大戦果を、現実のものと信じた日本陸軍は、既定の方針を変更して、アメリカ軍に対して無理な決戦を挑み、悲惨な敗北を喫することになる。


「幻の大戦果 大本営発表の真相」  辻泰明  NHK出版 2002年発行



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台湾沖航空戦①「絶対国防圏」とサイパン陥落

2022年01月20日 | 昭和16年~19年
昭和19年10月の台湾沖航空戦の”大勝利”の前後をまとめた。



絶対国防圏

1943年9月、日本軍は「絶対国防圏」を設定、
戦場を縮小するかわりに、これより内には米軍を一歩も入れないとの決意を示した。
マリアナを失えば日本列島の大部分はB-29の航空圏内に入り、戦争継続は不可能となることが分かっていたからである。
東部ニューギニア、ソロモン、マーシャル方面には多数の陸海軍部隊が残っていたが、事実上見捨てられた。


サイパン陥落

1944年6月、米軍は空母15隻を基幹とする機動部隊の援護のもとマリアナ諸島サイパンに上陸。
迎え撃つ日本機動部隊(空母9隻)とマリアナ沖海戦が起こった。
米軍は高射砲弾にVT信管を使用、日本機動部隊は事実上壊滅した。
孤立無援となったサイパンは陸海軍2万人、民間人1万人の犠牲と共に陥落した。
つづいてテニアン、グアム両島も「玉砕」陥落した。
東条内閣はサイパン失陥の責を負って総辞職した。

これより先の1944年春、日本軍は二つの大作戦を開始した。
3月インパール攻略作戦を開始した。

参加兵力10万人中、死者3万人、戦傷病者数4万5千を出して総退却という惨憺たる敗北に終わった。
4月大陸打通作戦を開始した。
約41万もの日本軍が約2.000キロの距離を南下、
いちおう作戦は完了したものの、補給の軽視・貧弱な衛生施設のため多数の戦傷病者・餓死者を出した。
しかも作戦中にマリアナ諸島が失陥し、B-29が日本本土に発進していたから無意味な作戦であった。

日本軍の補給軽視は前戦線に共通のものであった。
日中戦争、太平洋戦争における広い意味での「餓死」者数は、全戦死者数230万人中の実に過半数、140万人にのぼったとの推計がある。


「日本軍事史」 吉川弘文館 2006年発行




(「幻の大戦果 大本営発表の真相」 NHK出版)


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「歌と戦争」

2022年01月18日 | 昭和16年~19年
「歌と戦争」  櫻本富雄  アテネ書房 2005年発行

音楽の戦争貢献

日本にレコード会社が創設されたのは1909年の日米蓄音器商会といわれている。
コロンビアレコードの前身である。

1934年(昭和9)には次のような会社が設立されていた。
日本ビクター、日本ポリドール、キングレコード、テイチクレコード、タイヘイレコード。
レコード文化や歌謡の隆盛の烽火に油を注いだのは映画の出現であった。
いわゆる映画主題歌の出現である。
松竹映画『愛染かつら』の「旅の夜風」
東宝の『熱砂の誓い』の「馬」
松竹の『蘇州の夜』の「蘇州の夜」
東宝の『燃ゆる大空』の「燃ゆる大空」
東宝の『決戦の大空へ』の「若鷲の歌」・・・
などの主題歌を続出させた。




音楽は、戦争推進に多大の貢献をしたのである。
ところが、それらの音楽を生産した「死の音楽商売人」の責任はほとんど問題に
されていない。
「音楽挺身隊長」の山田耕筰は文化勲章を授与され、
おびただしい軍歌や戦時歌謡を作曲した古関裕而は「日本の行進曲王」などと称されている。


米英音楽の追放

1940年(昭和15)は、国中が「紀元2600年」で大騒ぎした年だが、
この年、内務省は俳優などの芸名から風紀上面白からぬもの、不敬にあたるもの、外国かぶれのものなどの追放を指示した。
俳優・藤原釜足は藤原鎌足を冒涜する名前とされ、ディック・ミネは三根耕一となった。
学校の授業から「英語」が追放される。




堀内敬三は『音楽の友』1942年新年号で、
「ここに米・英の音楽を閉め出すべきことを提唱する」とのべ
「音楽家にとっても戦いである。皇軍と共に我等はたたかわねばならぬ」と、
内務省と情報局が本格的に「敵性語」「敵性音楽」を始める前に、音楽家の方から政府の排外主義を先取りした。
「米英のジャズ音楽、米英の匂いをぷんぷんさせて、それで米英に勝とうというのか。
日本人として出直すことが先決問題だ」
レコードは音盤と呼び変えられ、
ポリドールは「大東亜」、コロンビアが「ニッチク」、キングが「富士」、
ビクターが「日本音響」に改名した。
「アロアオエ」「星条旗よ永遠なれ」「スワニー河」などを廃棄した。








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池澤夏樹・作 「また会う日まで」

2022年01月11日 | 昭和16年~19年
昭和20年、学校工場と化した片山女子(現・倉敷翠松高等学校)の女学生だったおばは学校でハンマーを叩いていた。
先生は言う、
「最後の5分まで闘う、そうしておれば・・・(神国日本には)必ず神風が吹いて、最後には日本が勝つ」

この小説にある秘密兵器とは、たぶん、神州不滅の幻想のことだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


朝日新聞 2021年12月23日  文化蘭連載小説
池澤夏樹・作 「また会う日まで」 影山徹・画

希望と失意 22

「1941年の段階で陸軍は支那の平定だけでなくソ連へ進撃することも考えていた」とMは言った。
「それに海軍が南方か。三正面とは忙しいことだ」
「戦争の基礎は物資だが、これについて楽観論と悲観論がまぜごぜになっていた。
そして現場に近い者ほど悲観論に傾いていた。
開戦のすぐ前に鈴木企画院総裁という人が閣議で『食糧も大丈夫也』と言ったと伝えられる。
しかしそれは朝鮮や支那、それに台湾から仏印までの生産を当てにしての話だ」
「調達できても輸送の問題がある」
「そのとおり。
日本は島国だから物資は船で運ばなければならない。
南方からの長い航路を輸送船で運ぶにはどうしても護衛が要る。
敵の潜水艦と空母艦載機の脅威は大きい。
石油や鉄鉱石、ゴムなどのために蘭印を占領してもそれを運べないではなんにもならない。
初めから占領などしない方がいい、という意見もあった」



「そのとおりになったわけだ」
「我らの敬愛する井上成美さんがこう言っておられた。

---国力・国情を比較するに、米国が我が国を海上封鎖するのは不可能ではない。その場合、我が国は物資窮乏に陥るだろう。
しかるにこちらが米国を封鎖することは可能か?


こういう考えをするのところが井上さんらしいのだが、
考察の結果はもちろんノー。

まず米国の海岸線は太平洋と大西洋の両方にあってとても長い。
我が艦隊で封鎖するのは無理だ。
次に陸地の国境が北と南にあるのでこれも封鎖不可能。
そもそも、
米国は物資が豊かだ。
自国内の生産で需要をすべて賄って残りを輸出できるほどなのだから封鎖そのものが無意味。


これを井上さんは開戦の11ヶ月前に言っておられた」
「現実主義だな」
「戦争に現実以外のなにがあるか?」
「幻想。

小さな幻想は小さな事態についての楽観的予想。
うまくいくことを前提に話をすすめる。
それを積み重ねると大東亜共栄圏のような大きな幻想ができる。


当事者は幻想とわかっていても国民は信じてしまう。

秘密兵器で一気に戦局をひっくり返すという噂が終焉直前まであった」




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開戦決意

2021年12月07日 | 昭和16年~19年
昭和16年の日米交渉だけをみれば、開戦原因はアメリカにある。
そこになぜ至ったのかをみれば、開戦原因は日本にある・・・と、自分は思っている。




・・・・・・・・・・・・・

「岩波講座・日本歴史21」   岩波書店 1977年発行 


開戦決意

米英蘭の対日資産凍結と石油禁止が実施されると、まず海軍のなかから日に12.000トンづつ石油がなくなり、戦わずして屈服に追い込まれると対米開戦論がおこった。
7月29日、永野軍令部総長は「この際打って出るの外なし」と上奏し天皇を驚かせた。
陸軍でも対ソ開戦が薄れるにつれ対米開戦論が強まった。
参謀本部は8月9日「11月末を目標として米英作戦準備を促進す」る方針を立案した。
日本の新聞もABCD包囲網を連日非難するようになった。

他方、近衛内閣は戦争の危機を前に日米交渉の促進に懸命になった。
政府は統帥部と相談していては間に合わないとして独自に動き始めたのである。

陸軍は、
三国枢軸堅持
大東亜共栄圏遂行
撤兵せず
の三条件を固守する。

9月6日には秘密裡に御前会議が開かれ、
10月下旬を目標に戦争準備をする。
10月上旬になっても外交交渉の目途がない場合には対米英蘭開戦を決意する。

外交上の要求としては、
日本が仏印以外に武力進出しないかわりに、
米英はビルマルートの閉鎖、対中国援助打ち切り、日本の物資獲得への協力をもとめると強めた。
これらの要求が達成される見通しはまったくなかったから、事実上の開戦決意である。

これと並行して首脳会談の交渉案が立案されていた。
10月2日アメリカはもっと事前同意を要求する回答だった。

東条陸相の、
「撤兵でアメリカに屈すると支那事変の成果を壊滅する。満州国をも危なくする、朝鮮統治も危なくする」
と交渉打ち切りを要求した。
内閣不統一で第三次の近衛内閣は退陣する。

宮中では第四次近衛内閣が優勢であった。
宇垣内閣も有力で、宇垣自身も工作した。
天皇も重臣も陸軍を抑えることで対立が深刻化し、部分的にせよ中国からの撤兵は方向転換できにくかった。
重臣会議で宇垣・東条が推薦され、御前会議を白紙に戻す条件で東条が決まった。

野村大使を助けるためあらたに来栖三郎大使をアメリカに派遣した。
ハル長官は悠長な交渉態度をとった。
中国蒋介石は対日経済封鎖を解除しないようアメリカに訴えた。

日本の攻撃を知っていたハルはハルノートを野村大使に手交した。
日本に満州事変以前への復帰をもとめるものである。
12月1日の御前会議は「帝国は米蘭豪に対し開戦す」と決定した。

おりからドイツ軍は12月6日に始まるソ連軍の反攻を受け敗北を喫していた。
12月8日の真珠湾攻撃はアメリカを開戦へと一致させ、第二次世界大戦へ参戦した。
1942年1月1日には、米英ソ中を中心とする26ヶ国によって連合国宣言が調印された。


・・・・・・・・・・・・・・

「日本軍事史」  高橋・山田・保谷・一ノ瀬共著 吉川弘文館  2006年発行

対米開戦の決意

対米戦争が広大な太平洋上での戦争である以上、
海軍が対米戦は不可能といえば本来戦争はできないはずであった。
しかし、海軍は決してそうはいわなかった。
一部の強硬派をのぞき多くの者が内心では勝利の見込みに乏しいと思っていたのだが、長年アメリカと戦うからといって多額の予算を獲得しておきながら、
いざとなったら戦争はできないなどとは、官僚機構として存在意義に関わることであり、到底言えなかったのである。
「総理が判断してなすべき」だと発言して責任を回避したのも、こうした事情にある。

そんな海軍にとって石油の禁輸は重大な意味をもった。
対米戦に内心反対でありながらそれを押し通せなかった近衛首相は10月16日、
内閣総辞職の途を選んだ。

11月26日、
「支那及び仏印」からの撤兵、
汪兆銘政権の否認、
三国同盟の死文化などを記したハルノートを突きつけられ、
12月1日ついに開戦を決定するに至った。

もし撤兵となれば、陸軍が過去4年間にわたって国民に負わせた犠牲はいったい何のためだったのかということになる、
だから絶対不可というのである。



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弾圧、干渉による「翼賛選挙」

2021年08月27日 | 昭和16年~19年
翼賛選挙に非推薦で立候補した人、その家族や支援者は、世を敵に回しての苦しい選挙活動だったと思える。
あの時代でも、非推薦候補の得票総数は全体の約35%あり、当時の表面的な支持にくらべ意外に批判票が多い。

この選挙で非推薦の立候補者(当選・落選問わず)が戦後の日本政治をリードした。
主な非推薦立候補者
鳩山一郎(首相)
三木武夫(首相)
芦田均(首相)
片山哲(首相)
河野一郎
安部寛

・・・・・・・・

「昭和 第6巻」  講談社 平成2年発行

弾圧、干渉による総力戦体制の確立
選挙戦なき「翼賛選挙」


昭和15年10月に結成された大政翼賛会は内務官僚と警察が実験を握り、
単なる「上意下達」の行政補助機関と化していた。
これを不満とした東條英機首相は「大日本翼賛壮年団」(翼壮)を創設させた。
翼壮は翼賛選挙の忠実な実戦部隊となった。
昭和17年、マニラ占領、シンガポール陥落などが次々に報じられ国民は戦勝気分にわきあがっていた。
4月30日が選挙日と決まった。
この選挙は戦時下の選挙であり、かつ議会を政府に協力させる体制の確立を目的に行われたため「翼賛選挙」と呼ばれた。

東條内閣は、帝国議会を政府に協力的な議員で独占したいと考え、異例の推薦候補制度の導入を発表した。
しかし帝国憲法で公選制がうたわれている以上、政府自ら候補を推薦することはできない。
そこで翼賛政治体制協議会(翼協・会長阿部信行陸軍大将)という「政治結社」が設立され、政府に変わり国策遂行に都合のいい人物を推薦することになった。

翼協は帝国在郷軍人・市町村長・大政翼賛会支部役員など地方の有力者で構成され、
各道府県単位に支部を置き、推薦候補の選考と選挙運動の推進にあたった。
議員定数に当たる466人の推薦候補は4月9日までに決まったが、
このとき活用されたのが『衆議院議員調査票』である。
同調査票は、選挙に向けて警察が現職議員を調査し、内務省がまとめたもので、
現職議員は甲乙丙に三分類されており、当落予想まで併記されていた。

猛烈な選挙干渉と、その結果
4月4日に選挙が公示され、466議席に対して推薦候補466人、非推薦候補613人が立候補し普通選挙始まっていらいの激戦となった。
政府は翼賛会・翼壮・在郷軍人会・大日本婦人会・町内会・隣組などのあらゆる組織を通じ推薦候補を後押しした。

選挙期間中、非推薦候補は政府や軍部、警察の指導する、あらゆる組織を動員した選挙妨害を受けた。
非推薦候補者とその支持者に対しては「非国民」呼ばわりや「配給を停止する」など露骨な選挙干渉が行われた。

選挙演説も批判的言論が禁じられ「国民士気抑揚」のための官製演説が強制された。
一方、推薦候補には臨時軍事費の中から資金援助が行われた。

選挙運動は全体に低調だった。
しかし有権者が組織的にかり出されたため、投票率は全国平均83.1%と高かった。
開票結果は、
推薦候補 381人(当選率81.8%)新人195人 翼壮40余人
非推薦候補 85人 主な当選者町田忠治、安藤正純、鳩山一郎、尾崎行雄、浅沼稲次郎、西尾末広
落選者も含む非推薦候補の得票総数は全体の約35%を占めており、
東條内閣に対する批判票が相当多いことが証明された。

翼協は選挙後に解散し、翼賛政治会(会長阿部信行)が発足した。
議会からはほぼ全員が参加し、ここに東條内閣にたいして「イエス」と言うだけの「翼賛議会」が成立した。






「革新と戦争の時代」 井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行

昭和17年「翼賛選挙」

東條英機首相はこの機を捉えて、議員構成を東條政権に有利な方向に誘導しよと考えた。
昭和17年2月17日「翼賛選挙貫徹運動基本要綱」を閣議決定し、
推薦候補導入による議会コントロールに乗り出した。
政府の指導の下に翼賛政治体制協議会(翼協)が結成され、候補者の選定にあたることになった。
各道府県に支部が置かれたが、支部長の多くは軍人や大政翼賛会・大日本翼賛壮年団の幹部であった。
翼賛議員同盟は翼協に働きかけ、466名が推薦された。

しかし、鳩山一郎・安藤正純ら同交会の議員は「官選議員出現の虞あり」と反対声明を発し、官憲の推薦参加は憲法違反と断じて翼協の解消を要求した。
中野正剛の東方会も推薦を拒否し、国家主義団体にも推薦制に反発する動きがみられた。
総選挙は4月4日に告示され、非推薦614名を含め1.080名が立候補した。

内務省は演説会で戦争・軍・翼賛選挙を批判することを禁止し、
推薦候補には政府側から資金援助が行われた。
また、非推薦候補が官憲から各種の妨害を受ける例がみられた。
干渉の主役は内務省であったが、一部では憲兵の干渉も認められた。
投票は4月30日に行われ、推薦候補381名、非推薦候補85名が当選した。
推薦候補の議席占有率は8割を超え、東條政権は議会方面でも足場を固めた。

なお、非推薦議員や立候補断念に追い込まれた政治家は、戦後にいたって「軍部」あるいは「軍国主義」に反対したものとして追及を免れ、一変した中央政界で飛躍の機会をえるケースが少なからずみられた。






第21回衆議院議員総選挙・投票日昭和17年4月30日
当選者
(Wikipedia)
岡山県 1区
岡田忠彦・久山知之・森谷新一・片山一男・逢沢寛
岡山県2区
小川郷太郎・ 星島二郎・犬養健・小谷節夫・土屋源市

太字が非推薦者
星島二郎さんは戦後・大臣や衆院議長
犬養健さんは戦後大臣





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松根油の増産

2021年08月16日 | 昭和16年~19年
「革新と戦争の時代」 井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行

石油の不足

石油代用品として大豆油・落花生油・ヤシ油・ヒマシ油が産業用に向けられ、
メタノール・エタノール・アセトンがガソリンに代用された。
民間の馬鈴薯・砂糖・酒類はアルコール原料として供出させられ、生ゴムから油を取ることも考えられた。
海軍はついに松の根から油を作る松根油計画に着手し、
農商省は昭和19年10月に松根油急増産大綱を決定した。
「200の松根は一機を一時間飛ばせる」というスローガンで、
農業会を通じ全国民が松根掘りに駆り出された。
一日当たり125万人を動員し、約4万7千の乾溜窯が全国に作られ、
昭和20年6月には松根粗油は月産1万1千キロリットルに達した。

精製技術上の難点はついに克服できず、
敗戦時までに生産された航空機用ガソリンは海軍第三燃料廠(徳山)での480キロだけで、四日市の燃料廠に集められた松根油は精製前に空襲を受けて無駄になった。
松根油にはタール分・灰分が多く、いったん濾過したものでも燃料タンクに放置すると、濾過器がつまる
敗戦後アメリカ軍が試験的にジープに用いたところ、数日でエンジンが止まり使い物にならなかったといわれる。





「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編  山陽新聞社 2000発行

松根油の増産
昭和19年

前年末から松の根を乾留してガソリン代用の軍需燃料にする松根油増産が始まった。
本年10月農商務省が「松根油緊急増産対策要綱」を決定し、松の根掘りに主婦や生徒児童を動員した。
岡山県も町村ごとに「堀取り挺身隊」を組織して動員した。
12月には乾留釜462を主要地区に設置する計画を立てた。
翌年2月山林局に松根油課が新設され、7月から松根油増産完遂運動が始まった。

しかし、輸送力不足と乾留釜設置がはかどらぬまま敗戦となった。
敗戦後、県内の山々にも掘り返されたままの巨大な松の根が散乱していた。





「福山市津之郷町史」 ぎょうせい  2012年発行

国民学校

昭和20年になると、松やに採取のために、大きな松の木の幹に鋸目を入れ、
そこから流れ出る液を竹の筒に受けるようにしたものを毎日、
集め回ってそれを学校に持って行くようになっていた。

松やには飛行機や戦艦の塗料の原料とされた。

松根油株割兵士が同年6月から講堂に宿泊し、現在の保育所の北方で、
周辺で集められた松の根を割って、乾留して松根油を採取した。
松根油から飛行機燃料などが製造された。




「新修倉敷市史6」

松根油の大増産のため

昭和19年暮れ、政府はにわかに軍用機燃料の原料になる松根油の増産に力を入れ始めた。
翌20年2月314基の乾留釜を新設し、既存の137基と合わせて大増産する計画で、
児島郡では11基、浅口郡で7期、都窪郡で6基新設計画になっていた。
ところが釜の新設が終わらないうちに次の増設割り当てが届くありさま。

松根油は「肥松」と呼ばれる老松の根が原料。
倉敷市では町内会単位に割り当て、市街地周辺の向山、足高山、酒津山などで掘った。
まもなく老松は底をついたが、増産要求は容赦なかった。
翼賛壮年団・警防団・在郷軍人会の会員らを動員し松の根を掘っている。
山の中から松の根を掘り出し、堅い根を割り砕いて乾留するのが重労働だった。
戦争末期には予科練習生少年航空兵も従事した。
それでも増えなかった。




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