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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

大相撲吉浜に来る

2018年01月21日 | 父の話

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2018.1.19、宴席(5名)での話。
Oさん・西本町、Iさん・吉浜、Fさん・北木島、Hさん・大島
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談・Iさん

金浦小学校で見た。
吉葉山を覚えとる。

笠岡へは、学校から見にい行きょうた。
栃錦の尻がきたなかった。若ノ花の尻はきれいじゃたけど、栃錦にはぶつぶつができていた。

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茂平の火葬場

2017年04月04日 | 父の話
父の話・談・2000年6月17日

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茂平の火葬場
水落(みぞーち)の東の一つ先の岩場にあった。
岩へ割木を積んでいって人間を焼きょうた。
番をつけていちんち焼きょうた。
焼くばあしょうたんで岩が赤ぉなっとった。
肺病や伝染病・・・移る病気を焼きょうた。
人間の下からと上にも木を置いてうむし焼きをしょた。
普通の年寄りやこが死んだのは土葬しようた。


終戦の日(昭和20年8月15日)の兄弟はどこにいたか?
次弟(大正10年)・・・野戦中(中国)か、、、国内か?
妹(大正12年)・・・既婚・満州。
いう事を聞かない男は目の前で殺されたようた。
末弟(大正15年)・・笠岡市・勤め人。


(母が来たので同じ問)
母の兄・・岡山県既婚・教員
母の姉・・岡山県既婚・金浦青年学校の先生
母の次弟・・青森県・陸軍軍人
母の末弟・・広島県・海軍軍人



引き揚げや者の家
(終戦後、空襲で家を焼失した人や復員で同居家族が増えた時)
神戸から(祖母の妹家族が)3人きて、裏へ寝ょうた。
9人ぐらいおった。

母に聞けば)
結婚した時も多かった。
夫婦、・・2人
夫の父母・・2人
夫の兄弟・・3人
夫の祖父・・1人
夫の曾祖母・・1人
計9人。
2~3年以内に、兄弟3人が結婚で出て、曾祖母、祖父が亡くなった。




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茂平の備中杜氏

2017年04月04日 | 父の話
ID:s7n1uf

なおさんやたーさんが杜氏をしょうた。
冬の仕事で、寄島からの伊予の酒屋。
あやじさん(寄島や大島の)についていって杜氏になったら、夏から行きょうた。
ええ月給取りで、住み込みで
夏は時々見にいきょうた。


昔の巡査
サーベルをぶら下げて、
悪さをすると「巡査がつれていくぞ」ゆうて言わりょうた。
家の内情を調べて台帳をこしらえとった。
よう出て歩きょうた。


お金がはいった時
講があった。
講で運用しょうた。
近所で気のおうたものどうしでしょうた。
銀行はめんどくさい。
利子は飲みょうた。
(他には・農協・農会)

ひき臼
メリケン粉を作りょうた。それでカシワやこ作りょうた。

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夜なべ(ようなべ)

2017年04月04日 | 父の話
父の話・談・2000年7月17日

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夜なべ(ようなべ)
真田を組んで、藁を切ってそろえて・・・。
裸麦は先は先でとり。
麦藁を硫黄でうむして、白うして、干して乾燥しとくんじゃ。
中は割ってうむして真田を組む。

真田講堂
真田講堂へ寄付しょうた。学校へ寄付して基金にしょうた。
時には学校へ寄って組むゆうこともしょうた。

雨カッパ
稲わらで作った箕。帽子もじゃ。
ええ河童はなかった。自分で(家で)作りょうた。

小学校の通学靴
子供の時はぞーり。竹の皮で作ったぞーり。
竹の皮だけじゃあいけんので藁を混ぜとった。軽い。

蜜蜂屋
(管理人・昭和30年代のこと)
蜜蜂屋がおかしてくれいゆうてきょうた。
終わって帰る時、(お礼に)まぜったのを呉りょうた。
ええ密はくれずに。
新涯によぅ陽が当たるので、そこへ置きょうた。10年ほど来た。
春から秋までおった。ミカンの密がいちばんええそうじゃ。
枇杷も密がある。
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12月29日の餅つき

2017年04月03日 | 父の話
父の話・談・2000年7月17日
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12月29日の餅つき
30日につくことが多かった。
悪い日(と言われる29日)はなるべく避けた方がいいじゃろう程度。
家々の都合で29日に搗くのはあった。
朝、早ぅから搗いて10時ごろには終わりょうた。


歳末の火の用心
(管理人が学生の頃、茂平では歳末に消防団がガラガラと音をたてて行進していた)
木を打って「火の用心」ゆうて歩きょうたんじゃが、
一杯飲んでから歩くんで、カンカンを引いたりして、眠気覚ましも兼ねて、鳴らして歩いて回りょうた。
昔は焚き物をしょうたけど、今はガスじゃ。煙突から火もでん。


祭りの前の道路補修
神輿が通る道を直しょうた。
舗装した道になったんで、することがぼっこうねぇ。
お宮のあがりこぐち、夜灯さん。
お船様が通るので綺麗にしておこうゆうことでしょうた。



人糞以外にも買ようた。鰊カスも買ようた。


予防
正月前まで乳剤をかきょうた。
手押しポンプで病気や虫がこんようにかけ,
桃やこは特に。
トウガキは切って白いのを塗りょうた、今は薬で虫がこんようになった。
トウガキは虫がフンして木が枯りょうた。今は枯れんようになった。えらいもんじゃ。
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城見小学校の小使いさん

2017年04月03日 | 父の話
父の話・談・2001.4.22

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城見小学校の小使いさん
(管理人が小学生当時、城見小に小使いさんはいなかった)
城見小にもおったんじゃ。
役場の仕事と兼務しておった。
大江でもそうじゃった。


宿直(当直)
(父が大江村が勤務地当時)小学校と役場はひっちいとった。
退屈なので晩の11時ごろまで話をして、それから、ちょっと回ってみて寝ょうた。
役場はこまいが、学校は広いので一巡するんもたいへんじゃ。

代用教員
(管理人が小学生当時「代用教員」と呼ばれる先生が何人かいた)
(旧制)中学校だけでて、教える要領のいいのが成りょうた。
戦後だけでなく、戦時中に先生が足りんので師範をでてのうても成りょうた。
時々集めて、教え方の勉強会をさせて、(教え方の勉強を)しょうた。


神戸船(こうべせん)
船の中へ人糞を積んで港へ来とった。
たごえ汲んで新涯の畑の壺へはねうつしょうた。
腐ったら畑へ使ようた。
(果物や野菜で合うものと合わないものはあったか?)
だいたい、みな合ようた。
イチジクは特に合ようたのう。

城見小の先生
(管理人当時の先生は徒歩または自転車で自宅から通勤だった。
記憶では城見村・金浦町・大井村・陶山村・大津野村。それ以外はなし)
近い所からつけておけい、ゆうことじゃった。


エンジン付き自転車
大江に行く時にゃあエンジンがついとった。
茂平や陶山の山をようよろ上がりょうた。
楽じゃった。


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もらい乳

2017年04月02日 | 父の話
父の話・談・2001.4.22


もらい乳

(三橋美智也の名曲に「男涙の子守歌」がある。
(詩吟「棄児行」入り)
♪木枯し寒く 夜は更けて 月はさゆれど・・・声も涙の 貰い乳

母は戦時中、近所の子に乳を飲ませた話をよくしていた。)

子供が生まれてあまり出ない人は、粉や牛乳みたいなのを買ぅて、温めて飲ましょうた。
たまに、他人からももらようた。近所の人からじゃ。

(お乳の出が少ない人は、自分・買う・貰うの三本立てだったようだ)


学校の軍人
(宇垣軍縮で余剰軍人を中等教育機関に配置したが、小学校に軍人はいなかったのだろうか?)
退役の軍人が・・・在郷軍人会が、青年団を教えるために来ょうた。
おじいちゃん(父のこと)も来てくれぃ、言われて行ったことがある。
号令やオイッチニをやりょうた。
軍人として心構えや「右向け右」という動作の統一性を教ょうた。

学校出て野戦にいかず帰っていた人を、毎月1~2度集めて訓練しとった。
終戦までそれは続いた。


学校のストーブ
(管理人の城見小学校の時代、教員室に達磨ストーブがあったが、それは戦前もか?)

そうじゃ。
戦前も終戦後も石炭ストーブじゃ。学校用に石炭を送ってもらようた。


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「父の野戦日誌」 徐州戦争④光山懸城に入城する

2017年03月24日 | 父の話
昭和13年9月20日~12月3日

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ぬかるみを歩く
2~3日の雨が降る。
本日も雨である。
急に激しくなってきた。
予定のとおり六時出発だ。
雨はますます降り、我々は身も濡れ、濡れ鼠のようになって、一路目的地へと進む。
足はぬかるみに倒れ、土は身体につく。「たいてい」の二の舞だ。
ますます激しい雨。休みつつすすむ。
6時30分に着く。
実に戦場ならではの光景。
○○にて

光山懸城に入城する
雨天の中、光山懸城に入城した。
信陽攻略の要所だ。
空爆の跡を見る。高層な健築物は無く、ただ外部の一部を残すのみ。
その他は整然として聳える○○堂、そして繁華街は昔をしのばせるおもかげは語っているようだ。
あちらこちらの家陰、木陰に、支邦軍部隊の死体がわれ等の目にはいる。
我等は降りつつ雨の中気合をいれつつ、戦闘の戦果を納めつつ意気洋々と入城した。
思えば徐州出発以来、いかなる雨天に悩まされつつ、悪天候と戦いつつ、あの日この日も休み無く。
血の攻撃、実戦悪夢。
敵の攻撃、悪戦苦闘で、今ようやく、光山懸へ入城するのだ。
その雨につけ、照るにつけ、思うのは故郷のことだ。
朋は、姉妹は如何に。
だがそのような実に恥かしい。
ただ戦闘の束の間にちらつくホンの一瞬だ。
今は光山懸城に入城する。後6日で我が氏神様の祭典だ。
ありがたき神様のご加護により生き長らえていることを誓って今日を休む。

9月25日
光山懸城内にて
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「父の野戦日誌」 徐州戦争③済南に着く

2017年03月23日 | 父の話
昭和13年5月12日~5月15日

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一路天津に向かう
タンクーより汽車に乗り、一路天津に向かう。
車窓に映る大陸の景。広漠たる平野だ。
まったくぞくぞくする地平線の各戦跡の車窓からの眺め。
我等は元気で天津駅に着いた。

天津
天津は平穏だ。
この土地が敵国の土地だろうか。
多くの兵士でいっぱいだ。
各機関は我が思うように運転している。
支邦特有のチャーチャンが多く、馬を見る。
午後7時天津を出発済南に向かう。
5月12日


黄河渡り済南へ
途中、同輩が苦心して得た○○駅、○○駅の戦跡を、車窓に眺めながら渡る。
トーチカや銃弾砲撃した跡を眺めつつ通過していく。
各駅は警備の兵が我々の汽車を守ってくれる。
日中は大変暖かくなってきた。
広漠たる地平線、遥かなる地平線を汽車は、一路大陸へ大陸へ。
には日章旗と五色旗がひるがえっている。
農夫も点々と見られた。
子供たちは鉄道付近にきたりて、「バンザイ」「バンザイ」と叫びつつ、僕らを歓迎してくれる。
午後6時30分。東洋の大河・黄河の鉄橋にとおりつめた。
その鉄橋は影なく破壊され、むしろなにを運ぶ・・・・


【父の談話】2001年8月6日
(破壊された黄河鉄橋では)船を繋いで、その上にレールを敷いとった。
爆破しっしもおて、鉄道があったのが。
船は浮きになるんで、その上に柱を繋ぃで、仮の鉄橋にしとった


・・・・・・静かに無事汽車は通過し、午後7時汽車は済南に着いた。


済南に着く
済南は山東の都だ。建設物が勇壮で、実に平穏だ。
しかし空爆のあと、砲爆の跡、銃撃の跡が見える。
ごうけんの戦跡の霊にて合掌する


赤柴部隊本部へ
遠くのほうで銃声・砲声が聞こえる。
しかし、待ちに待った戦場へいよいよ到着したのだ。
戦車・装甲車の車輪の音。
自動車のひびき、ごうごうたる○○本部だ。
本日はいよいよ隊へ配属されたのだ。
自動車にて一路戦線へ、戦線へと進む。
途中の戦跡、戦傷者の輸送。
各隊のものものしい警備。
顔、みな悲壮な決心がうかがわれる。
無事午後1時30分、赤柴部隊本部へ到着する。
ああ戦場の為、柳の木、しょうようは散り倒れ、穴も各所に見受けられ、時々は、敵の不発の手のやつが空をじっとにらんでいる。
実に物騒なところだ。
流弾が地上をかすめる。
兵は皆、鉄帽をかぶり家の内や、穴の中に潜り込んでいる。
いよいよ、第一戦だなあ、でも赤柴隊長殿の英姿をあおぎてわれ等も元気をだす。
言葉をいただき我等衛生兵10名はそれぞれ各隊へ配属される。

赤柴部隊へ到着
自分は第二歩兵砲隊付だ。
ここにきて(同郷の)しのはらのぼるさんと会う。
彼は元気でいたが、実に転々の過去がある。
同郷の人と戦場で会う、出会う、語る。実に嬉しい。
個人のうかがいしれない感じである。
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「父の野戦日誌」 徐州戦争②大陸へ

2017年03月23日 | 父の話
(父の日誌・昭和13年5月7日~5月15日)

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軍都広島に着く
軍部のプラットホームに着く。
「ちゃのま旅館」に泊まる。
軍都広島の夜は実に美しい。
一夜を明かす。市内より午後二時、病院船千歳丸に乗り込む。

千歳丸に乗り込む
船は岸を離れた。
岸からも鳥の声も次第次第に遠のく。
春風は気持ちを良くし僕の笑顔をなぜ通る。
海上のすいきも、ああ船と共に進む。
波も僕らの眼線より消えていく。
遠く近くにとびかうかもめも、山河もこれが見納めかと思うと、さらば、おさらば母国よ。
s13・5・7日(千歳丸にて)


洋上にて
海峡にそって、ああ船はすべり目的地へ、目的地へと玄海灘をすすむ。
若者の○○は、なにものぞ。
洋上にでて、水平線上で夕陽を拝む。
さざなみのように実にうくくしい。
船は洋上の彼方へ彼方へと進んだ。
s13・5・10(洋上にて)


塘沽(タンクー)へ上陸
海上無事、タンクーへと上陸だ。
大陸第一歩の喚声やいかん。
我が先輩らが血を流して得た土地。
点在する民家も倒れ、砲撃の激しさを語っている。
ところどころに残る砲弾の跡。
だが支邦の人家は皆、土の壁だ。
もぐらか,蟻のありかのようだ。
要所要所のあんしょう(?)に銃間をつくった、
支邦保安隊の警察団のものものしい警備。

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