しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「父の野戦日誌」 徐州戦争①

2017年03月22日 | 父の話
火野葦平と父は大陸で遭遇していた可能性がある。
「麦と兵隊」には無論比較外だが、
それでも
父が残した野戦日誌は、生の歴史を感じる事では、葦平文学と並ぶような気もする。



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江南の熱風は深く悠々、新アジアの動きは日一日と深刻を極めている。
いよいよ、壮士・先輩・諸賢のもとに至る日が来た。
(昭和13年)5月6日、待ちに待った出征の日は来た。

○○の声に送られつつ、懐かしい兵舎を後に戦友に別れを告げ自動車にて駅頭に向かう。
早朝より降る雨は矢の如く、僕らの出征を祝福するかのようにからりと晴れ、汽車はプラットホームを離れた。
時まさに岡山駅零時16分。
ああこれが最後だ。
歓送の音楽が耳に響く、これが彼女と最後の別れか。

汽車は一路南下しつつある。
なつかしの母校(城見小学校)を眺め、小学校の歓送に感謝の涙にむせびつつ、汽車は大門駅に着く。
1時30分。
御両親に最後の別れを告げ
故郷を後に一路汽車は進んだ。

福山駅で姉妹に会う。。
ああこれで最後。故郷よさらば。
ご両親よ健康。
姉妹よ健康に。


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とうやんの話

2017年03月21日 | 父の話
父の話・2003.8.31
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とうやんの話
(病棟跡に住むとうやんは年の瀬に城見の家々を回り恵みを受けていた)
あそこへ隔離病舎があって、村がしょうたけい番人がいった。
番人を長ぅしとったので、(病舎後も)そこへ住みついた。


茂平の写真屋
(黒船とも写真屋とも呼ばれていた)
夜灯のつーさんが同級生じゃった
大きいええカメラを持つとった。
(母屋の前の)道のほとりに店をもとった。
(自分の)結婚写真もそこに頼んどる。

城見の醤油屋
(大正4年頃の資料に、城見に醤油屋が二軒と載っている)
家で作るのは多いが、売りに出すほど作る人は?

油虫(ゴキブリ)
昔はおりゃあせなんだ。
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ツボキの話

2017年03月21日 | 父の話
父の話・2003.8.31

ツボキの話

便所からツボキへもっていって腐らす。
家のねきなら臭いけえ、たいがい家から離れたところにもっとった。
ウチには新涯へあった。
腐る時分に畑へ使ようた。

注記・ツボキは「肥溜め」または「野壺」が標準語



干しイチジク

白トウガキをうむし小屋へ、練炭と硫黄をいれる。
晩に火をつけて入れると朝には燃えてしもうとる。
7~8段にしてうむす
(次の日から)毎日天日で干す。
晩は重ねて夜はしもうて、朝また干す。
最初はちょっともんで、硬うなるほどよぅもんで。
11月で寒うなってくりゃあ(白い糖ぶんが)つきょうた。


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父の進学先

2017年03月14日 | 父の話
父は、農家の長男で小学校卒業後、神辺実業へ進学した。

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おばの話・談・2017.2.9

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兄は笠商へいきたかった。
じゃけどじいさん(父)が、あの頃のことじゃけえ
「お前が跡をとる。次男の〇〇が跡を継ぐはずがねぇ。
お前が跡を継がにゃあ跡が絶える」
それを聞きょうた。
それで神辺(実業)にいった。

(父の末弟は笠商卒業後、国鉄に勤め、その後進学した)
(末弟が高松経専にいた時)
子供が出来んので四国へ参りに行った。その帰り道、夫と高松の下宿に寄った。
下が店で、二階が下宿じゃった。
二階へあがったが、弟はちょうど居なかった。
飯ごうの中には麦飯ばああった。
少し小遣いをおいとかにゃあいけなんだが、あの頃のことじゃけえ、それができなんだ。
それが今でも・・・(心残りになっている)

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キセル

2017年03月06日 | 父の話
おばの話・談・2017.2.9


キセル

(管理人の世代は、親は大正生まれ、祖父母は明治生まれ、とほぼ決まっていた。
成人になりタバコを吸うのは「フィルター付きタバコ」、
親は「両切りタバコ」、
祖父は「刻み」とこれまた決まっていた)

キセルは利三郎じいさんも吸ようた。(管理人の曽祖父)
火鉢でコンコンと叩きょうた。おいしそうに吸ようた。
安かった。

(タバコの種火はのえではどうしていたか?)
家でしか吸ようらなんだ。畑で吸うことはなかった。
おおタバコ吸いではなかった。



奉安殿の思い出

(奉安殿がない、奉安室の記憶は?)
記憶にない。


ブタを飼う
(戦後のこと)

兄貴がウチヘ豚の子を呉れた。
豚の子は七匹ぐらい産むんじゃって、それで
「これを大きゅうせぇ、そしたら小遣いくらいにゃあなる」
もってきてくれた。

牛小屋の前にこおまい豚小屋を作って、そこで飼ようた。そしたらまた五匹くらい産む。
(臭いがあるが)
残り物をなんでも食うのがえかった。
それで、残ると「豚にやれぇ」ゆうて食わしょうた。


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リンゴの話

2017年03月06日 | 父の話
おばの話・談・2017.2.9

リンゴの話

リンゴをいっぱい作りょうた。
それで、わたしらはリンゴで学校へ行かしてもらようたもの。
(その後)
ほかした。
土地柄がいけなんだ。


麦の米の比率

半々よりもコメが多いぐらいじゃった。


警鐘台は

豆腐屋のいわさん方の北側にあった(今と同じ、今は火の見櫓)


えべすんき

えべすんきは茂平に二軒あった。先生方とウチで、
「えべすんきのみーちゃんどこいきょうるん?」ゆうて言わりょうた。


黒船(写真屋のこと)
船に乗りょうた人がおった。


とんまの土手の龍王のこと

龍王さんの祀りは、
太夫さんがきて二人ぐらいで、こまい太鼓を叩きょうた。
記憶がほんのりある。



“ろうまん“のこと---労研饅頭(ろうけんまんとう)---
(おばに「ろうまん」のことを問うと)

あの硬い、あんころの入っていないパンのことじゃろうか?
労研パンなら知っとる。
硬おうて美味しゅうない、細長い。ろうけんパンようた。
安い、硬い、おいしゅうない。


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茂平の除虫菊・薄荷・養蚕の話

2017年02月11日 | 父の話
父は生前、茂平に養蚕農家はなかったと言っていた。
果物が盛んなこと、田んぼや畑に塩分があること、などが理由で
「養蚕」「葉たばこ」がみられないのが特徴と思える。

おばの話・談・2017.2.9

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畑ゆうたら「麦」「芋」「除虫菊」が多かった。

除虫菊はめんどくせぇ。(刈ったあとで)
菊の花を落とす。
植えるのは新涯の畑が多かった。
カド(家の庭)へひろぎょうた。
雨が降ったらいけんので畑には干さんようにしょうた。
どこの家にも除虫菊はつくりょうた。


薄荷は、

新涯に薄荷を植えて、吊るして乾かしょうた
ヒヤ(の軒下に四方を)干しとった。
仲買人が買いにきょうた。


八朔

はたびらではミカン、八朔を植えとった。
うんしゅうじゃあなかった。


(さつま)芋

おじいさんが俵にして、農協へ出しょうた。


養蚕

茂平も城見もおぼえておらん(養蚕はなかった)。

小平井へ嫁に来た時。姑が「飼ようた」ゆうてようた。
(嫁に行った時には、既に養蚕はしてなかった)
「その頃はのう、上座にも寝られん。畳をあげて・・」
寺で寝ょうたん?じゃろうか。
あれをせんとお金になるもんがなかった
養蚕をせんと食べていかれんようた

茂平の山に桑畑が一本あった。(弟の)まさしが「実を食べれる」、いってまさしと食びょうた。


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水落(みぞおち)の段々畑

2017年02月11日 | 父の話
この話は、どこにでもある瀬戸内地方の昔話。
管理人の実家も、海から山へ向かった段々畑でミカンや麦や芋を作っていた。

ここで農船がでていくるが、おばの時代は個人所有で「こまい船」
管理人の時代は「おおけえ船」で、三軒共同所有だった。


おばの話・談・2017.2.9

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(水落の畑に)行きしなにゃあ山をとおて、
帰りは海をとおて戻りょうた。

(水落の畑には)麦を植えて
麦を刈った後にゃあ芋を植ようた。

(水落の畑は、山の)上から下まであった。
波があるところまで畑じゃった。

麦を刈った後、株のあいだに(芋の)苗をうようた。株はうがさんで、そのままにしょうた。

ゲシにはお茶を植えとった。
お茶は買わずに、そのお茶を飲みょうた。(買えば)お金がいるけぇ。

麦を刈った後は、畑にひろげていて
実だけを唐人袋にいれて、船で持って帰りょうた。


船は、こめい(手漕ぎの)船じゃった。
こもうて一軒でいっこ(ひと船)じゃった。


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(以下は姉の話)

お父さんが福山か尾道まで買いに行った。

(管理人が乗っていたのは、この船の事のようだ。
茂平波止に繋がれた船では、いちばん巨船だった。
漁船のようにエンジンは無いし、形はだるまに似た、格好はよくない船だった)


談・2017.2.9
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昭和初期の茂平の女の子

2017年02月11日 | 父の話
女の子も元気がえかったようだ。

おばの話 談・2017.2.9

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小学校の時は毎日泳ぎにいきょうた。
浮き輪が無いけい、
利三郎おじいさんが、桐の木を切ってきて
皮を剥いで、
鑢ですって。

みんな桐ノ棒(きりんぼう)じゃった。

戻りは、トウガキ畑の池にドボンと飛び込んで
(身体に付いた)潮をおとしてから帰りょうた。

(管理人の時代は共同井戸があり、そこで釣瓶で水を汲み潮をおとして帰っていた
、危険で怖くなかったか?の問いに)
(女の子)みんないっしょだった。

オトコンコは、
「今日は神島迄行くか」
「競争していくか」
ゆうほど元気がよかった。


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大門~茂平

2017年02月09日 | 父の話
おば(父の妹)は小平井に住んでいる。
久しぶりにおばの昔話を聞いた。談・2017.2.9

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女学校時代の帰り道(昭和12~13年頃の事)

(おばは福山の増川に通学していた。大門~福山は汽車通学。
自宅から大門駅までは徒歩。
茂平~大門は、
山越え(林越え)、
河口池、
坂里峠、の3ルートがあった。)

運動会の時など、遅ぉなることがあった。
何処をいのうか?

山は真っ暗なるし、
どこを通てもきょうてぃ。

坂里を通れば、なんやらが出て山の中え連れてい行かれる、言ぅし。

結局、河口池の方になる。
たまに車が通ることがある。
車が来たら(ライトで)明るうなる、通ったらその後を駈けってついていくんじゃが、(車は去って)じきに暗ぅなる。

用之江まで帰れば、今は(茂平まで)ええ道なんじゃが、その頃は曲がりくねった道で
田んぼや、池があり、
独りでいぬるのはこわかった。

親は知らん顔をしとったが、それが当たり前の時代じゃった。
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