しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

漢口攻略戦・漢口から石家荘へ

2016年07月29日 | 父の話
談・2000.7.2

南京から浦口へ行き、平漢線で石家荘へ行った。

石家荘では
ええこともしとる。
町から町へ道路を造る。
現地人を雇って、牛をもってきてローラーを引いてもろうた。
土地代は出さず、人と牛には金を払うて。
そうゆう道を町から町への道を残してきた。今も使うとるはずじゃ。
(それまでの中国の道は)土地から低い処へ道があった。
それは雨が降ったら、川になる。


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「岡山県郷土部隊史」より

※昭和14年(1939年)
師団は11月29日漢口に着き、翌30日鴨井丸・黒姫丸等4隻に乗船下航し、12月5日南京に着き浦口より徐州を経由して12月11日石家荘に着く。北支についた各部隊はそれぞれ、石家荘を中心として南北の各主要都市に分散して守備につく。昭和14年にはいって第一期粛清作戦を四次に分けて行い、第二期粛清作戦を行う。8月11日復員下令をうけ、9月下旬から石家荘付近に集合し、10月初旬青島を出発して10月中旬晴れの郷土に帰還した。
  
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漢口攻略戦・大別山を越える

2016年07月28日 | 父の話

談・2000.7.2

よお歩いた。
みな歩いた。
歩くばあじゃった。

漢口までは皆歩いて行った。

岡山、鳥取、部隊部隊は違う道を行った。


ワシらの部隊は漢口でのうて信陽が主じゃ。

信陽の時は犠牲がようけい出た。
二大隊は大隊長以下がやられた。
助けにいけなんだ。
八中隊は全滅してしもうた。

大別山は、向こうが攻撃してきた。
逃げもできん地形のとこで攻撃された。
生きとるもんはわずかじゃった。
戦闘能力もなんもねぇ。青白い顔をしておった。
全滅じゃった。
上から大砲で撃ってくる。
こっちは機関銃で撃つ。
鉄砲じゃない、砲で撃たれてふっ飛んだ。
(攻撃後)敵は引いてしもうた、
上におった日本人は逃げずに(にげれず)やられぱっぱなしじゃった。

戦争は作戦が主じゃ。
道は開けとる、逃げ道を開けとかないと(日本軍、支邦軍とも)犠牲が出る。

らんぶう(欄封か?)から信陽へ歩いた。
信陽が落城して、大別山を越して、漢口じゃ。

11月か?12月か?漢口に着いた。

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徐州会戦

2016年07月28日 | 父の話

父は徐州会戦の最中に現地軍に到着した。昭和13年5月15日。


談・2000.7.2


宇品から、塘沽。天津に行った。
塘沽は遠浅じゃった。
天津からは汽車で(本隊へ)行った。

黄河
大河では(河川敷で)南京豆のようなものを作りょうた。
水がくれば(作物はおじゃん)しょうがない

13年の5月、
斎南から歩いた。

微山湖を渡った。

攻撃は、
城壁を取るまでが戦争じゃ。
徐州を中心に町があり、町の回りを砦がある。
城壁があり、大きな門が四つある。
大砲を撃ってぶちめぐ、
城壁をぶちめいでから城門から入りょうた。
この方の城とはぜんぜん違う。

(敵軍は)しまいには足を鎖でくくって機関銃と弾をおいとる。
逃げれん。
そりゃあ可哀想なんじゃ。白旗も降れん、死ぬまで撃つしあかない。
いっちゃん可哀想だ。

ぶちめいだ城門から兵は入りょうた。
馬に乗った偉いんが写真ように門から入る。



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家の新築

2016年07月26日 | 父の話


昭和35年、家を新築した。
麦藁屋根の古い家を壊す、その場所に瓦屋根の家を新築する。
大勢の茂平の人たちの手助けがあったが、
今になって思えば
最後の“村社会“を見たような気がする。


談・2000.6.25


家の新築

壊す
組(銅山)のもんが壊した。
村中の元気なもんが壊した。
壁の土は畑にもっていった。

大工と左官
棟梁、
左官(しゃかん)も茂平。

柱は(母の出所の)賀山で切って製材してもってかえった。
四角にして、トラックで。
大けぇ長いのは馬でひいて帰った

他の木は
(所有する)尾越の山の木を切って、

引くのは福山(の業者に)たのんで、大工はカンナで仕上ぎょうた。

若いもんがドロをあげ瓦をあげ、左官のてごをした。
瓦の計算も工事も左官がしょうた。

ドロはお宮の山土と堂面からとった。
屋根はお宮の、
壁は堂面のを使ぉた。

テゴをする人は
酒を飲ませてメシを食わすだけ。

大工と左官は日当。

建具屋は(棟梁でなく)ワシが頼みょうた。



≪それから10年ほど後の事》

庭は
隣のお姉さんの弟の“あらさん”がしてくれた。
あらさんが大けえ池の庭を造った。石を積んできて、堀をこしらえてた。

※昭和45年前後、日本の農家から庭(かど)が消えていった。その頃
家には電話、カラーテレビ、車が普及し生活様式は激変していた。

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城見の漁業・農業

2016年07月26日 | 父の話
談・2000.6.25


漁師

(鋼管や笠岡湾干拓で)
漁師は百姓の専門になった。
(茂平の漁師は元から、漁業100%でなく半農半漁だった)

農地の少ない家もあったが、既に子供は(サラリーマンとして)勤みょうた。
それで食うに困る家はなかった。

漁業補償金で投機として吉浜などの土地を買うた人も何人かいた。
茂平では売ってくれる土地がない。

(漁家でない住民が採るものは)
ツブやアサリや大貝(おおがい)くらいじゃ。
シャコもちいとおった。



養蚕
茂平には・・・・なかった(戦前戦後)
大冝や用之江のものは作りょうた。



葉煙草
茂平はすくなかった。尾越のIさんが水落の方に畑をもっとった。



藺草
茂平はない(きっぱり)
用之江も大冝もない。



井戸
浅い深いの違いはあるがどの家にも井戸があった。
てっつぁん方の(近くの)井戸は共同井戸じゃ。



池の水抜き
池には世話係がおったんじゃ。
じいちゃん(管理人の祖父)は大池と尾越池の世話役をしょうた。
大池が主じゃ。
大池はおきの田まで。
尾越池はまあさんが主じゃ。

(田植えの後では)9月に要るので、それまでは抜かんようにしょうた。溜みょうた。
水がなければ穂がでんの。

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関東大震災、常夜灯の擬宝珠が落ちる

2016年07月26日 | 父の話

談・2000.10.30

関東大震災、常夜灯の擬宝珠が落ちる

大正12年、小学校へあがる時分じゃ。
ワシが六つ、七つ。覚えとる。
常夜灯(やとうさん)の擬宝珠がうちの庭に飛んできた。
まだ道が狭かった。
庭に落ちるほど揺れたんど。
(擬宝珠から下の部分は大丈夫だった)



ドイツの飛行船・ツェッペリン伯号

ツェッペリン伯号が日本に来たゆうのは(ニュースとして)知っとる。
日独親善でやってきた。



昭和天皇御大典

あったようだが・・・パンでももろうて戻ったんじゃろう?



エノケン・アチャコ

有名じゃった。



おこし

小学校の時、嫁入り前の裁縫をしょうるんは(高等科の女性のことか?)はいとらん。
(当然1~6年生の女子は、全員おこし)



双葉山69連勝

(69連勝でストップは)知らなかったが、軍に利用さりょうるのは感じとった。
※当時、父は野戦中。



極東軍事裁判

(国民はぎりぎりの生活で)無関心のようではあったが、
そうゆう、・・・大勢の死んだ人・・・がいるがゆうことは、(軍や政治家のトップに対して)いい感情をもっていなかった。
(※父の話は憤懣声になった)


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茂平の駄菓子屋

2016年07月26日 | 父の話

談・2000.10.30


茂平の駄菓子屋

浜にひとつあった、おばあさんがしとった。
かんさん方にあった。あきらさん方の東、下に降りたとこじゃ。
番屋。
鉄砲玉、芋ようかん、酒やこ売りょうた。



肉食

馬肉を自転車で売りにきょうた。ちいとしわい。
吉田からおっさんが時々売りにきょうた。
(肉は他に)うさぎを殺して食ようた。



家にある電化製品

ラジオと電球



郵便屋

今もいっしょじゃ。自転車に乗って配りょうた。



おやつ

芋や、豆。
コメをぱっちんはじかせたやつ、ぽんポン菓子。
芋が主。



子供の祭り

5銭から10銭ほど小遣をもらようた。
鉄砲玉や飴玉を買うて食ようた。
何ばあ買えんが、自分で買えるゆう気持ちのもんじゃ。
お粗末なもんでも買うて喜びょうた。
親が子供に小遣を出すゆうのは他に(祭り以外)なかった。



少年倶楽部

冒険だんきち、冒険が主じゃ。
親が買ぅてくりょうた。
ねだれて買ぅてもらようた。

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木綿橋(もめんばし)

2016年07月16日 | 父の話
談・2000.10.30


もりさ方に大きい船をもっとった。
雁木のところへ茂平中の果物をもってきて、それで積んで福山へ晩に着く、荷を揚げる。
宿があるんじゃ。
船宿が。
それで泊まって、明けの日に戻ってきょうた。
泊まる時にゃ、活動写真を見たりしょうた。

夏の果物が出る時は二日に一回ほど行きょうた。

3~4人行って、市場へよいしょ、よいしょ、運ばにゃあいけん。
市場のもんも取りにくる。

3~4軒の店へもっていく。
いしかわ、はしもと、いまがわ
ゆう茂平の専属のような市場があった、それに売ってもらようた。
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用之江の山陽自動車教習所

2016年07月16日 | 父の話
昭和40~45年頃(と思うが)用之江に自動車教習所があった。
時は城見の家庭に自家用車所有の勃興期。
この教習所の利点は近い・安いで
泣き所は岡山まで実技試験に行く必要があった。
自動車学校の普及により各地にあった自動車教習所は次第に駆逐された。

談・2000.10.30


大冝のときさんがやりょうた。

あそこは、個人個人の山と畑があった。
鋼管ができるころドロを捕ってへいたんになった。
そこを借りとった。

学校ができたんで、いかんようになった。

それで止めたんで持っとるもんに返した。
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福山空襲

2016年07月15日 | 父の話
談・2000.8.6

(福山空襲は)
岡山から、あっちの方が明るう見ようるのう、ようた。


(福山空襲・母の話)

真っ赤になった。
だいぶ近くまで燃えとるゆうのはわかりょうた。


(津之下空襲・母の話)
津之下のはやれんきた感じがした。
ぷつっと降りてきた。。。。
忘れられん。
ありゃあよう忘れられん。


(高松空襲は)
高松の時は(福山より)もっと明る。ぼーと明るうなった。



(岡山空襲は)
奉還町と蕃町は燃えなんだ。
ミッションスクール(清心)があったから燃えなんだようた。



(広島は)
原爆の時は岡山からも応援に行った。



防空壕

防空壕は家ごとに皆ほとった。
こまい(4~5人も)入れん。

(母)どこの家にも掘とった思う。
掘れぇゆうことじゃったけえ。
防空頭巾と上に綿をいれたかけるもんをもっとった。



黒塗りの家

飛行機から白ぉ見えたら攻撃目標になる言わりょうた。
黒ぉ塗ったらわかるまあ、それで
(雑に塗っていったのは?)
うるそう言われるので、しょうことなしに塗っとった。
それで雑にしとる。

せんもんもおった。
罰則はなかった。みんなで気を付けてやりょうた。


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