しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

河豚(ふぐ)のドフ(はらわた)

2016年07月12日 | 父の話
談・2000.6.24

河豚の刺身を食べたらおいしいゆうて、ついでにハラワタ、どふじゃ、あれを食べた。
あれを炊いて食べた。汁が旨いんじゃ。
ハラワタでも悪いとこと、悪うないとこがあり。キモやこ食うちゃいけんゆうて棄ちょうた。
汁が美味いゆうて、余分に炊いたんじゃ。それで・・・当たったんじゃ。
よう焚いたんじゃけど、あたった。(ドフの量が多くて)

最初汁が旨ぅて、あんまり旨いんでもう一回炊いたらしい。
そしたら(家族みんな)あたった。
ひーちゃんも寝込んだ。
いちばんぼっこう食うたオヤジ(しずやん)に毒が多かった。

しずやんが死んだので(河豚を食べる注意の)宣伝にはなった。
それでみんな食わんようになった。
昔からあたることはありょうたが、ちょっと寝込めば治りょうた。


※この事があり、以降母は異常とも思えるくらい河豚汁に時間をかけて炊くようになった。

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達磨船(農船)

2016年07月11日 | 父の話
管理人が少年の時、茂平の波止にぶかっこうした手漕ぎの百姓船が一艘あった。
実は、その船は三軒が共同で使用する農船だった。

談・2000.6.24

やとうとさぶろうさと三人で船をもっとった。
水落の畑に行くもんが共同で買うとった。

芋を積んで帰ってきょうた。

芋を積んでもどるんで、
漁師の船のように長いんでなく、横に広い。
大きょうて低い。
ごちいんで、よう行かないのう(遅い)。
手漕ぎ。

とんまの土手で干して、船をつっぱってごみをもってきて焼きょうた。

漁師の船はスマート、網の間をまわらにゃあいけまあ。

使わんようになって(波止場に)ころがしとった。
そしたらじきに腐る。
ほっといたら腐る。
それで(船は)焼いた。

買うたのは・・・?
昔からあったからのう。
買い替えたりしょうたんで、いつからあったのかわからん。
おじいさんの時からあった。
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茂平の漁師

2016年07月11日 | 父の話

談・2000.6.24


(漁師だけで生活はできたか?)

漁師だけのはもとやんだけ。
あとは皆、百姓と兼務じゃ。

朝はよう(海へ)いき、
茂平の場合はほとんどが坪網。
壺網が岬にみなあった。
それで泳いできたやつをかかるようにしとった。
ほとんど年中網をしとった。

一年来たら場所を変えるんじゃ。
クジを引いて場所を変ようた。

苫無の釜
てっつぁん方の前にもあった。
こーちゃん方の下、にも二つあった。
網が腐らんように釜へ入りょうた。


コールタール
端の方のロープをコールタールをつけとった。
網をひっぱるところ。
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城見漁業協同組合

2016年07月10日 | 父の話
談・2000.6.24

組合長はまあさんが長いことしとって、その後は“はなや“にしとった。
(漁協の建物・事務所は)組合長の自宅じゃった。
事務は専門でたーさんがしょうた。

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昭和32年の資料では組合員が32人、漁船が14。

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組合員は一軒に二人づつおったウチがある。
組合員を増やせゆうことがあったんで。

隣じゃあ、かーさんとお姐さん(かーさんの妻)が組合員になっとる。

本当の漁師のほかに、
漁師をしょうらん組合員が
とっさん
まーさん
漁業をせずに灘を管理しょうた。
せいで多ゅうなっとる。

(他にも)
昔は船をもって漁師をしょうたが今はしょうらなんだ“おか”がおった。
いわさん
しょうちゃん
等じゃ。

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徐州戦争・スランコの話

2016年07月06日 | 父の話

談・2000.4.30

塘沽から天津、それから部隊へは
自動車や汽車で移動した。

部隊についたら、そこからは皆あるきょうた。

大釜で炊いた飯をもろうて食びょうた。
弁当箱へ詰めて歩く。
便所は穴を掘ってそれでやりょうた。
陰だけはつくりょうた、尻が隠れるくれいの。(山はなく)平たん地ばかりじゃ。
行進中は別じゃ。
ささっと済まして隊へ戻る。わやくそじゃ。
(戦闘を避けて留守の)家の便所を使う。赤柴隊が通た後はきたないゆう評判じゃった。
鳥取や神戸はまじめじゃった。
姫路の師団でも岡山は強い言わりょうた。
岡山県のがいちばんスランコじゃようた。
敵に対する機転が利く、それで強い。

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ピー屋で遊ぶ話

2016年07月06日 | 父の話
談・2000.4.30


師団長は篠崎さんがおって赤柴部隊がおって、
赤柴さんが(外地から内地へ)帰って毛利部隊になった。
姫路の下へ岡山の連隊があった。

兵隊が下士官になったらいろいろ変わる。
伍長からが下士官。
給料もあがる。

ワシは県の技術員をしとったら30円、
軍曹なったら35円。貯金もできる。
外泊もできる。
営舎外のところへ寝泊まりできる。
奥さんでももろうて外へ家でも借りると、営外手当てをもらえる。


(外地での給料は)
日本円。
占領地は使える。占領してないところは使えん。
交換はいつでもできる。

休み(駐屯地では)
駐留地ではオイッチ、オイッチにでおしまい。
連係を重点の訓練。

自由時間は
食うて遊ぶだけ。
あんまり食うところも遊ぶ場所もない。
それでピー屋へ行く。
ピー屋は女郎屋じゃ。よおけえできるんじゃ。
それでそこへ行って遊ぶ。
日本人が3円、朝鮮が2円、支邦人が1円。
へいから、そのへんのころびょうる女としたら50銭や70銭。おばんじゃ、日本語は話せん。
10代が多かった。
日本人はおばあばあじゃ、20代じゃ。
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茂平水落のサッポロビールの浄水場

2016年07月06日 | 父の話
談・2000.4.30


茂平水落のサッポロビールの浄水場

茂平の地権者は10人ほどいた。
市でなく県の工事で、
水をきれいにして札幌に売り込むつもりじゃった。
今は笠岡港へ(水を)送っとるはずじゃ。


茂平のラブホテル建設反対運動

業者が上手なんじゃ。
地区の役員を(坂里に)呼んで、部屋をいろいろ見せてもろうて、いっぱい飲ませて食わせて・・・(それでもう)反対できゃあへん。


昭和44年頃・スモン病

神辺や高屋で流行りょうた。そこから出身の人がなりょうた。


昭和48年のオイルショック

(農家にはどうゆう影響があったか?)
べつに、コレゆうもんはなかった。


昭和38年越県合併

(岡山県から兵庫県になった)福浦に行った。
それから県会議員の中川のところに行って、市会議員を世話してもろうた。


昭和33年赤線が消える

戦後の伏越遊郭には行ったことがある。


昭和31年ごろ、笠岡駅の花売り娘

知らん。


農協理事の仕事は?

合併が主(おも)じゃった。
次々に合併した。
最初が金浦と、
次に笠岡と
次に矢掛と
次に倉敷と
企業合併と同じじゃ。
合併メリットがあるんで文句をゆうもんはおらん。


茂平生産組合

農協や市からは何の援助も補助もない。
県くらい、
県と国がおんなじとこにあった。(振興局)
みんなワシがやったんじゃ。


オキシダント広報

放送があるだけじゃ。
行政からもNKからもなんも(補助も寄付も)ねえ。

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(城見小の)疎開児童

2016年07月06日 | 父の話
談・2000.4.30


(城見小の)疎開児童

こん。きてない。


闇市

ようすなやこから
船で来て、
魚を出して、芋をくれ、麦をくれ、あるもんをくれ。
(金でなく)ぶつぶつ交換して帰りょうた。


天皇の全国巡回

福山には来た。笠岡には来とらん。


シベリアからの帰国者

(城見にも)おったけど死んでしもうた。


妹のこと、吉林のこと

吉林は(義弟の)のぼるさんの部隊があった。
仕事も吉林で、妹もそこへ行った。
(戦争に負け)
逃げ駆けりょうて子供は死んだ。
みな、そんな状態だった。
戻らんので(甥を)見た事はない。
帰る時は鍋を背中に背負うてじゃ。
服は兵隊のを着て帰った。


物々交換

着るものが無い時分は町から売りにきょうた。
芋をやったり、麦をやったりして替えことをしょうた。


食用蛙

食用蛙はおおけえ、この方のもんも食ようた。
食うてみたら美味かった。


パラチオン

最初軍がびらん性で開発した。
稲の予防に使ようた。薄めても、きつかった。
呼吸困難になる。
よう手(ちょう)洗うて食ぇようたが、洗わん人が病気になりょうた。


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子供の時に小池の水が浸水した

2016年07月05日 | 父の話
談・2000.5.6


子供の時に小池の水が浸水した

水が(敷地まで)へいた。それで背中に背負うてもろうて吉本のところに逃げた。
家から荷をだいぶ運んだ。


しんやんの火事

家が燃えるのみて震ようた。子供じゃけぇ。


消防のポンプ車

昭和17~18年頃じゃ。いっぺんに3台買ぉた、茂平、用之江、大冝。
自動車じゃあねえ。
ポンプにエンジンが付いとる。(以前は手押し)
紐がついてひっぱって行きょうた。
さばって行って(着いたら)、そこでエンジンをつきょうた。

いざゆうときに掛かにゃあいけんのでエンジンは(時に)かきょうた。

今の(火の見櫓の詰所)前は観音さまの入り口のとこにあった。



炭焼き

したことはある。



鉄砲撃ち

4~5年まで(うつろの)山まで来ようた。

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神辺実業

2016年07月05日 | 父の話

談・2000.5.6


神辺実業

神石から来る人は寮に泊まりょうた。
千田の人は歩いてきょうた。
こっちの方からの(進学者)は、城見や陶山や高屋。
笠岡の東の方からは来ょうらなんだ。
実習場があった。


(映画館の)弁士のこと

おじいちゃんも聞いたことがある。
弁士がええ。
上手をゆうから面白い。
トーキーになったら寂しかった。
映画を見るのは福山か笠岡じゃ。


花見

つーさんやかずっさんらと連れのうて千光寺へあがって、輪をつくって飲みょうた。
尾道の方が眺めがええ。


お祭りの当番

当番の家が狭ぇ家じゃったら大きい家に替わってくれぇようた。
それで集会所でするようになった。

神楽

4年に一回、戦前からそうじゃ。


城見小学校の映画

PTAにゃあ金(かね)がねえじゃろ。
それで安い映画を頼んで、せいでTPAに使ようだ。

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