しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

浜街道・七隠・・・その2

2020年03月16日 | 大正
明治時代に鉄道が通るまでの日本は、人も物も、道路でなく川や海を船で移動するのが主だった。
大門~笠岡間の”七隠れ”と呼ばる道は、そのことを証明している。


(古道・七隠れ)

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「大津野のあゆみ」 平成15年 大門町誌編集委員会より転記

大門駅の設置以前から既に引野から大門を経て笠岡に至る道は通じていたが、明治8年に道路の幅員が1間から2間に拡張され、荷車や人力車の通交を便利にした。
大正に入ると「大正記念事業」として、内務省から各県郡村道の改修を施すことが指令され、福山から大門を経て笠岡に通じる道路が改修整備された。
大正11年8月に「道路法」が設置され、大門駅前を通る道路は県道となった。
更に、昭和4年には県道福山~笠岡間は第二国道に昇格している。

1920年(大正9年)旧国道2号線が大門を貫通する。以前は日和峠~横道~七隠が本村の一等道。大正15年から一部国道となる。


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「野々浜むかし語り」1991年野々浜公民館発行

笠岡に行く道は、大正ごろに改修されて今の国道筋を通るようになった。
しかしそれ以前は七隠れと呼ばれる悪路だった。

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樺太地上戦

2020年03月16日 | 昭和20年(戦後)
樺太は米軍の空襲も受けず、大戦中でありながら平和に暮らしていた。
昭和20年8月9日から、突然戦争状態になり混乱しつくした。
状況は満州国とほぼ同じ。


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「NHKスペシャル・樺太地上戦・終戦後7日間の悲劇」角川書店・2019年発行より転記


「宝の島」
樺太は1905年日本領土になった。
それから40年後、樺太は日本で最も豊かな地域であったという。
公務員の給与水準を高く設定していたため、全国農村から若くて優秀な若者が学校の教員などとして数多く押し寄せていた。
豊かな天然自然を生かした漁業や林業に加え、各地に製紙工場が設立され、炭鉱の開発も相次ぎ、「宝の島」とまで呼ばれていた。
鉄道網や道路網も発達、人口約40万人。
戦火に脅かされることも、食糧不足に陥ることもない、宝の島にありつづけた。
あの夏、
わずか2週間ほどの間に、樺太で人々が築き上げた暮らしや財産はすべて失われた。
ソ連軍の攻撃によって奪われた命は五千とも六千とも言われる。


陸軍第88師団(樺太師団)
8月16日、札幌の第5方面軍より「自衛戦争は継続すべし、樺太を死守せよ」の軍命令が届いた。
戦後第5方面司令官・樋口季一郎中将は戦後、
「私自身はソ連がさらに進んで北海道を侵攻することがないかという問題に直面した。
ソ連の行動如何によっては自衛行動が必要になろう」。
樋口中将が北海道占領の”防波堤”として樺太死守を命じたと考えられる。
しかし、樺太師団にはそもそもソ連軍に対抗できるだけの戦力は無く援軍もなかった。いわば捨て石の状態に置かれた。


推移
8月9日・樺太国境にソ連軍が侵攻。
8月13日・緊急疎開が始まり、宗谷丸が大泊を出港。(軍や官庁の関係者のみ)
8月14日・国民義勇隊を発令。
8月18日・占守島攻撃。
8月19日以降・局地的に停戦すすむ。
8月20日・ソ連、真岡砲撃・侵攻。
8月21日・ソ連総司令官「サハリン占領後、23日までに北海道北部占領の準備をすること。開始時は追って指示する」。
8月22日・ソ連、豊原空襲。樺太から北海道へ向かう三船が殉難。1708人死亡。樺太全土の停戦協定成立。
8月25日・ソ連、南樺太の占領が完了。
9月1日・ソ連、国後・色丹占領。
9月2日・東京湾、ミズーリ号で降伏文書に調印。
9月3日・ソ連、歯舞群島占領。



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