しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

陽明丸とシベリア出兵⑫笠岡市図書館の陽明丸船長「茅原基治」コーナー

2020年03月13日 | 大正
笠岡市図書館2fにある茅原基治コーナーには、B5サイズで茅原船長の航海図と顕彰のチラシが置いてある。





その航海表と歴史本のその時代とを重ねてみる。
国をあげて反ロシアをあおる最中に、陽明丸が人道的な行動を起こすことができたのだろうか?

・・・・・・

笠岡市図書館のチラシ

大正8年(1919)9月アメリカ赤十字はロシアの子供たちを船に乗せてロシアを離れ、混乱が落ち着いたらロシアの親元に返すという救出計画をたてました。
世界中の船舶会社に救援を依頼しましたが、引き受けてくれるところはどこもありませんでした。
この困難な呼びかけに応じたのが、勝田汽船の社長であり、船長に茅原が選ばれました。
大正9年(1920)7月9日、
ウラジオストク港から、陽明丸はロシア人の子ども779名をはじめ、ロシア人女性など合計960名を乗船させ出航しました。

・・・・・・

「近代日本戦争史・大正時代」平成7年 監修 奥村房夫 紀伊国屋書店発売

1920年3月12日午前2時、
日本軍および自警団合わせて400名。赤軍派は、中国人、朝鮮人、労働者など含めて約4000。
日本軍は夜襲、市街戦となったが、共同出兵の支那砲艦四隻からも集中砲火を浴び、13日には領事館が包囲された。
石田副領事は家族と共に自決した。
残った隊員は投獄され労役につき5月25日、
アムール河畔で生存者病人、居留民を含め計122名虐殺され放棄された。

3月13日閣議は尼港救援隊派遣を決定したが、尼港に到着したのは6月3日だった。
惨状を知った政府は6月29日の閣議で、同事件の保証としてサハリン州の占領を決定、北樺太に混成旅団の配置を決定したのである。


・・・・・


「日中戦争全史・上」 笠原十九司著 2017年 高文研発行

4月になって日本軍尼港守備隊全滅の情報を得た日本政府は、ただちに尼港救援隊出動を決定。
2.000人の部隊を小樽から派遣したが、アムール川河口は結氷のため、接近できず、解氷期の5月になってようやく軍事行動を開始した。
日本軍が尼港に進撃すれば、俘虜として収監されている日本人の生命安全が危うくなることへの配慮はなされず、パルチザンから尼港奪回の大義名分にこだわった。
日本軍を阻止できないと判断した赤軍司令官は、5月24日から25日にかけて、約130人の獄舎の日本人捕虜は、アムール河畔に連れ出されて殺害された。
尼港から撤収したパルチザンは、市の大部分に火を放って破壊した。

この事件は、「尼港の惨劇」の悲報として、日本国内でセンセーショナルに報道された。
一次尼港事件(3月)
6月25日・大阪朝日新聞
最後の最後まで我が軍は死力を尽くして奮闘した、領事が妻子を銃殺した時の胸中や如何。
街区に横たわる死骸。
居留民は3月13日以来毎日門口に引き出されて惨殺され、420名中残ったのは僅かに8名であった。
二次尼港事件 (5月)
6月7日・大阪朝日新聞
凶悪言語に絶する尼港の過激派、邦人130名を殴殺する。
残留民を悉く殺戮。
尼港の虐殺五千名。アムール川の氷上に投棄されし同胞。
児童は岩石に叩きつけて打殺し、女は凌辱後裸踊りさして銃殺。
板壁に残る絶筆「5月24日午後12時を忘れるな」。
という大中の見出しをつけて報道された。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする