しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

大田道潅

2022年07月18日 | 銅像の人


場所・埼玉県川越市元町1丁目 川越市役所前

 

狩り装束の大田道潅、右手に山吹を一枝もっている。

 

 

「歴史と旅」 昭和54年6月号  秋田書店

大田道潅と八重山吹一枝

大田道潅は、室町末期の名将として知られ、軍事上の天才で、築城の名人であり、
江戸築城のさい、農民に地域の名をきき、
千代田・宝田・祝田の三村と知ると、
「国は武蔵、郡は豊島、地名はそれぞれ吉兆の文字ばかり。
この城は、末永く繫栄するに違いない」と喜んだという。

 

ある春の日。
雲雀の声に、数人の家来を連れて、狩りにでかけた。
突然の雨に、とある民家にかけこむと、しばらく雨宿りをした。
娘から茶のもてなしを受けながら、家臣の一人が、娘に声をかけた。
「蓑を一つ、借用したい」
自分たちはともかく、道潅を雨に打たせたくないのである。
娘はなかなか現れない。
ようやく出てきたが、
手には山吹の花を一枝もっている。
だまって、それを差し出し、ひれ臥した。

一人の家臣が、
「それは、こうゆうことでございましょう」
と説明した。
『後拾遺集』に
 ななえ八重 花は咲けども山吹の
  みのひとつだになきぞ悲しき
「蓑一つ」を所望されたが、無かったので
「みのひとつだになきぞ悲しき」という答えで差し出したのでしょう。

 

道潅は、賤が家の小娘にもおとる、わが身の教養の貧しさを悔しく思った。
以来、道灌は和歌の道にも精進したという。
雨宿りまでは武骨な男なり
この伝説は、江戸の町民たちにも広く知られた。
そこで彼らは、道灌を敬慕しつつ、こう、しゃれたのである。

 

 


撮影日・2022年7月13日

 

 

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河村瑞賢

2022年07月18日 | 銅像の人

場所・山形県酒田市  日和山公園

河村瑞賢は、江戸時代から明治中期に至るまでの、日本経済を物流面で支えた大功労者。
現在でも知られた人ではあるが、もっともっと評価されるべき人物だと思う。

 

 

・・・

「瀬戸内諸島と海の道」編者・山口撤 吉川弘文館 2001年発行

西廻り航路の発達

「沖乗り」をおこなうようになった背景には海上輸送量の飛躍的増大があった。
幕府や大名の財政は、年貢米を大坂や江戸に運んで売却することで成り立っていた。
酒田から下関をまわって大坂・江戸を結ぶ西廻り航路が整備され、これ以後
西国だけでなく東北・北陸地域からも続々と年貢米を積んだ廻船が瀬戸内海にやってくるようになる。
やがて年貢米だけでなく各地のさまざまな特産品も大坂に集まり、大坂から桧垣廻船や樽廻船で江戸に回送されるという構造ができあがっていく。
塩飽の廻船は幕府御用船として寛文から元禄にかけて栄えた、のち特権的地位を失った。
年貢米に代表される領主的流通が中心とされるが、後期には広範な商品生産の展開を背景とした商品流通のうねりが押し寄せてくる。
たとえば、畿内・瀬戸内地域にひろがる綿作地帯では大量の魚肥を必要とし、従来の干鰯(ほしか)のほかに北海道産ニシンの〆粕(しめかす)などが求められた。

初夏、あるいは秋に蝦夷地の産物を積んで西廻り航路を瀬戸内海にやってきた北前船は、船頭の裁量で積み荷の米・ニシン・数の子・〆粕・昆布などを各地で売却し、大坂でひと冬越したのち翌年春には、大坂周辺あるいは瀬戸内各地の塩・砂糖・紙・木綿・古手・甘藷などの産物を積んで北国に向かう。
また大坂・瀬戸内各所の廻船も北国・蝦夷地とを結ぶ交易に進出していく。
九州・中四国と大坂を結ぶ廻船もいっそう盛んに往来した。

・・・


「港の日本史」  吉田秀樹  祥伝社 2018年発行

北前船

東廻り航路と西廻り航路で使用された主要な船舶は、
船の型からもっぱら「弁財船」(べざいせん)と呼ばれ、
東北・北陸ではこの呼称が多く使われた。
ただ大坂や瀬戸内の商人の間では「北前船」と呼ばれる。

とくに大型の「千石船」は、全長80尺(24m)、船体の幅30尺(9m)、
帆の横幅は63尺(19m)、積載量は1000石(約150トン)、
船員は15人ほどであった。

北前船は時代が進むにつれて輸送量の拡大や操船技術の向上によって大型化が進み、
最大級のものでは積載量が2400石(約360トン)もあったという。

航行速度は、潮流や風向きが理想的な海域では3~4ノット(時速5.6~7.4km)、
最大6ノット(時速約11.1km)ほどであった。

廻船業者は「一航海千両」といわれるほどの巨利を得ていた。

・・・・

 

 

 

「海の交流」    中国地方総合文化センター  2012年発行

西廻り航路と東廻り航路

幕府の年貢米廻送のため、東廻り航路と西廻り航路が開拓された。


東廻り航路
それまでは荒浜(宮城県)から廻船で銚子まで運び、そこから川船に積み換え、利根川をさかのぼって江戸に運んでいた。
そこで瑞賢は房総半島に向かい、相模三崎に立ち寄って西南風を待ち、直接江戸湾に入るという東廻り航路を開いた。

西廻り航路
出羽国の城米を江戸に送るには、津軽海峡を経て太平洋に出、江戸に達するコースが一番近かった。
しかし津軽海峡の通過には危険も多かった。
そこで日本海を南下し、瀬戸内海を経て江戸に達する航路が注目された。
瑞賢は、
最上川の舟運を利用して城米を酒田に運び、そこから廻船に積み換えて海路をとった。
これが西廻り航路で、途中の寄港地に選ばれたのは、
佐渡の小木、能登の福浦、但馬の柴山、石見の温泉津、長門の下関、摂津の大坂、
紀伊の大島、伊勢の方座、志摩の安乗、伊豆の下田である。
そこに番所を設けて手代を配置し、航路安全を図った。
大型廻船は塩飽船が丈夫で最も多く採用された。
船も塩飽水夫も高く評価された。

 

 

撮影日・2022年7月11日

 

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荒木彦助

2022年07月18日 | 銅像の人

場所・山形県酒田市 日和山公園

日和山公園には、多くの歌碑や記念碑があり、人物像もあった。
「荒木彦助」胸像は、氏のことを知らないので、
像の隣に立つ説明板から転記する。

 

 


「米穀商荒木彦助は嘉永五年(1852)生まれ。
町会議員、商業会議所会頭をつとめ、築港、河川改修に尽力し大正七年六七歳で没す。
昭和八年有志が建立し戦後再建した。」

(荒木彦助胸像・説明板)

 

 

 

撮影日・2022年7月11日

 

 

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