しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

海向寺

2022年07月27日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県酒田市日吉町      

 


生入定(いきにゅうじょう)した”即身仏”が二体保管されている海向寺。
住民の苦しみを救うため、生きたままミイラに似た身体になり、仏になった僧。
今も庄内地方で尊崇を受けている。

 

 


「歴史と文学の廻廊1」 尾崎秀樹  ぎょうせい  平成4年発行 

即身仏

出羽三山の行者のなかには、仙人沢・荒沢などで、千、三千、五千日に及ぶ山籠修行を行い、
生涯を通して五穀、十穀を断ち、山草か木の実しか食べない木食の行を続け、
修行を助けてくれた人々の苦悩や罪障をわが身に引き受け、死期が近づくと、
生きながら塚に入り、念仏を唱えながら死を待つ者がいた。

行者にゆかりのある者は、塚の中からわずかに聞こえてくる念仏で、行がつづいていることを確かめたという。
こうして死に至った行者はミイラとなり、即身仏(そくしんぶつ)として人々の篤い尊崇を受けたのである。

 

 

酒田市役所”酒田さんぽ”Web


即身仏とは・・・?

江戸時代初期以降、飢饉や病に苦しむ人々がたくさんいました。
そのような人々の苦しみや悩みを代行して救うために修行に挑み、自らの体を捧げて仏となられた方を即身仏といいます。
即身仏になろうと決めたら途中で投げ出すことは許されず、修行に耐え抜いた者のみが即身仏になることができました。

即身仏となられた現在でも、人々の苦しみを沈めるために祈ってくださっていることでしょう。
明治時代に法律が変わり、いくつかの法に違反してしまうため、現在では自ら望んでも即身仏になることはできません。
大変貴重な仏様なのです。


即身仏になるための修行とは、どんな修行だっだの?

即身仏になるための修行は、大きく分けて「木食修行(もくじきしゅぎょう)」「土中入定(どちゅうにゅうじょう)」の2つです。
「木食修行」は、山に籠り、1,000日~5,000日かけて米・麦・豆・ヒエ・粟などの五穀・十穀を絶ち、
山に育つ木の実や山草だけで過ごして肉体の脂肪分を落とし、生きている間から即身仏に近い状態に体をつくりあげていく修行です。
「土中入定」は、命の限界が近づいたと自ら悟ると、深さ約3mのたて穴(入定塚)の石室の中に籠ります。
その中では断食を行い、鈴を鳴らし、お経を読み続ける最後の修行です。
死後3年3ヶ月後に掘り起こされ、若干の手当をしてから乾燥させ即身仏として安置されます。


即身仏ってミイラとは違うの?

即身仏ってミイラでしょう?というご質問をよくいただきますが、実は全く異なります。
一般的にミイラは死後、身体の腐敗を防ぐために人工的に臓器を取り除いて防腐処理を行い、乾燥させ、布でくるんで棺に収められます。
人工的に加工されていること、布でくるむことが大きな違いですが、即身仏になるために難行苦行と言われる修行に耐え抜かれたことがミイラとの最も大きな違いです。

 

即身仏が安置されている寺院: 海向寺

海向寺には、忠海上人円明海上人の2体の即身仏が安置されています。複数の即身仏を安置しているのは全国で唯一、ここだけです。

忠海上人は、元禄10(1697)年、山形県鶴岡市鳥居町の庄内藩の武家 富樫条右衛門家で生まれました。
中興初代住職として、延喜3(1746)年に海向寺の中興を成し遂げました。
50歳になると、人々の苦しみを救い、願いを叶えるために自ら木食行者となって即身仏になることを決意され、難行苦行の道へ進まれました。
宝暦5(1755)年2月21日、58歳で土中入定し、即身仏となられました。

円明海上人は、明和4(1767)年、山形県東田川郡栄村家根合(現山形県東田川郡庄内町家根合)の佐藤六兵衛家に生まれました。
海向寺九世住職を経て、50歳で即身仏になることを決意されました。
湯殿山仙人沢に籠り、五穀断ち・十穀断ちの難行苦行に耐え、文政5(1822)年5月8日、55歳で土中入定し、即身仏となられました。

・・・

 

 

訪問日・2022年7月11日

 

 

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蚶満寺

2022年07月27日 | 【史跡】を訪ねる

場所・秋田県にかほ市象潟町象潟島

 

高校生の時、古文の教科書で”象潟”を知り、地図を見ればはるかに離れた秋田県の秋田市からも遠い場所だった。
その象潟に初めて地を踏むと感慨を覚えた。
かつての九十九もの島々は、今も浮島のように、
緑の田園の中に松林の小山として残されていた。

 


「秋田県の歴史」  今村義孝  山川出版社  昭和44発行

象潟の景色は古くから世に知られていたようである。
鎌倉時代の歌人西行法師も遊歴の途中に立ち寄っている。
室町時代の著名な連歌師梵灯庵もまた象潟を訪れ、蚶満寺(かんまんじ)に古歌をしるした。
象潟を東の松島の風景と対比するのは松尾芭蕉の「奥の細道」をまつまでもなくさらに古かったわけである。
芭蕉によって象潟の声価がさらにたかまった。
その後も文人墨客のこの地を訪れるものは多かった。
それゆえ、六郷氏も島守をおき島内・潟端の新田開発を禁止するなど、
その維持管理につとめた。
しかし文化元年(1804)滄海桑田の変がおこった。
象潟は陸地となり、
その面影は本荘藩の画工狩野永昌の画いた「象潟図屏風」に見られるだけとなった。

 

文化の大地震と蚶満寺

(Wikipedia)

象潟は「九十九島、八十八潟」、あるいは「東の松島、西の象潟」と呼ばれたように、かつては松島同様無数の小島が浮かぶ入り江だったが、
文化元年(1804年)の大地震(象潟地震)で干潟に変わった。
陸地化した土地問題で本荘藩と紛争となったが、二十四世全栄覚林(生年不詳-1822年、仙北郡角館生まれ)は、命がけで九十九島の保存を主張した。

象潟地震後の潟跡の開田を実施する本荘藩の政策に対し、
覚林は蚶満寺を閑院宮家の祈願所とし、朝廷の権威を背景として開発反対の運動を展開、文化9年(1812年)には同家祈願所に列せられている。
覚林は文政元年(1818年)江戸で捕らえられ、1822年、本荘の獄で死去した。

 

 

訪問日・2022年7月11日

 

 

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