しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠岡市でプロ野球の試合があった

2022年07月23日 | 令和元年~

日時・2022年7月23日 13:00試合開始

場所・岡山県笠岡市走出 古代の丘スポーツ公園「どんぐり球場」

 

 

去年に続いて二度目、笠岡市の「どんぐり球場」でプロ野球があった。
プロ野球といっても1軍の試合ではない。
2軍(ウエスタン)の試合でもない。
ソフトバンク3軍vs四国IL高知の試合で、両チームともプロ野球。

前半は両チーム、白熱した試合だったが、次第にソフトバンクが押して、7対0で勝った。
ホームランが2本出た。

ソフトバンクの選手は有名どころが多く出場した。
1塁の中村晃、DHの牧原。
投手では嘉弥真、甲斐野、それに入団したばかりの秋吉。

 

(入団したばかり、秋吉投手)

 

試合の中盤にくじがあり、当選者となり、景品をもらいに行ったら「今治タオル」1枚だった。
なお、観衆は約250人。
入場料は1.000円。

両チームの選手が命がけで勝負のプレーしているのを目の前で見ることが出来た。
よかった。

 

(ヒーローインタビュー「まだ17歳」の選手)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニコライ堂   

2022年07月23日 | 【史跡】を訪ねる

場所・東京都千代田区神田駿河台 

 

初めて、近くでニコライ堂を見た。
高層ビルに挟まれ、更にも高層ビルが建築中の神田駿河台のニコライ堂だった。

 

 

「日本近代建築大全・東日本篇」 米山勇 講談社 2010年発行

日本ハリストス正教会教団復活大聖堂(ニコライ堂)

わが国では珍しいビザンチン洋式の教会堂。
ニコライは文久元年(1861)にロシアから来日。
最初は函館、明治5年に東京に居を移す。
駿河台を布教の拠点と定め、大聖堂を建設することにした。
明治24年に完成。
ところが、関東大震災で大きな被害を受けた。
昭和4年に復旧工事を完了したのが、おおむね現在のニコライ堂の姿である。

 

 

「大江戸発見散歩」   松本こーせい  アーク出版  2002年発行

ニコライ堂

聖橋の向うにニコライ堂のドームが姿をのぞかせている。
聖橋は、
関東大震災復興事業の一環として昭和2年に架けられた。
聖堂とニコライ堂の二つの聖堂を結ぶことから聖橋と命名された。
ニコライ堂のある駿河台は、本郷台地の南端部だ。
御茶の水のランドマークだったが、周りをビルに囲まれてすっかり目立たなくなった。

御茶の水は、
将軍家御用の水になったために、その地名がついた。
神田川は、
空堀だったが、神田上水の余水をこの谷に流して、東京湾から舟を入れる工事を伊達綱宗に命じて神田川が誕生した。

 

 

訪問日・2022年7月10日

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北前船

2022年07月23日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県酒田市南新町  日和山公園 

 

北前船は瀬戸内海では、最初沿岸沿いに航海し、後に「沖乗り」と呼ばれる航路を通った。

しかし、東西からの潮の満ち引きに、最適な条件を持ちながら笠岡や白石島に、北前船が寄港することはなかった。

現代でもそうだが、港間の競争は、江戸時代もそうとう激しいものがあったように思える。

 

「瀬戸内諸島と海の道」編者・山口撤 吉川弘文館 2001年発行

西廻り航路の発達

「沖乗り」をおこなうようになった背景には海上輸送量の飛躍的増大があった。
幕府や大名の財政は、年貢米を大坂や江戸に運んで売却することで成り立っていた。
酒田から下関をまわって大坂・江戸を結ぶ西廻り航路が整備され、これ以後
西国だけでなく東北・北陸地域からも続々と年貢米を積んだ廻船が瀬戸内海にやってくるようになる。
やがて年貢米だけでなく各地のさまざまな特産品も大坂に集まり、大坂から桧垣廻船や樽廻船で江戸に回送されるという構造ができあがっていく。
塩飽の廻船は幕府御用船として寛文から元禄にかけて栄えた、のち特権的地位を失った。
年貢米に代表される領主的流通が中心とされるが、後期には広範な商品生産の展開を背景とした商品流通のうねりが押し寄せてくる。
たとえば、畿内・瀬戸内地域にひろがる綿作地帯では大量の魚肥を必要とし、従来の干鰯(ほしか)のほかに北海道産ニシンの〆粕(しめかす)などが求められた。

初夏、あるいは秋に蝦夷地の産物を積んで西廻り航路を瀬戸内海にやってきた北前船は、船頭の裁量で積み荷の米・ニシン・数の子・〆粕・昆布などを各地で売却し、大坂でひと冬越したのち翌年春には、大坂周辺あるいは瀬戸内各地の塩・砂糖・紙・木綿・古手・甘藷などの産物を積んで北国に向かう。
また大坂・瀬戸内各所の廻船も北国・蝦夷地とを結ぶ交易に進出していく。
九州・中四国と大坂を結ぶ廻船もいっそう盛んに往来した。

 

 


酒田市役所”酒田さんぽ”Web

「北前船」を見に行こう

北前船は単に荷物の運搬をしていたわけではなく、
寄港地で安くて良い品物があれば買い、船の荷物に高く売れる物があればそこで売る。
さまざまな商材を取り扱い「商売」をしながら日本海を航海する、まさに「総合商社」と言える船です。

また、北前船は「米を1千石(150トンの米)積むことができる大きさ」という意味から千石船ともよばれ、
北前船史上最大の船は、2,400石も積むことができ、巨大な帆1枚で逆風でも進むことができる、すぐれた帆走性能のある船です。

北前船の国内最大1/2スケールの模型船が日和山公園で見ることができます!

 

 

 

北前船

東廻り航路と西廻り航路で使用された主要な船舶は、
船の型からもっぱら「弁財船」(べざいせん)と呼ばれ、
東北・北陸ではこの呼称が多く使われた。
ただ大坂や瀬戸内の商人の間では「北前船」と呼ばれる。

とくに大型の「千石船」は、全長80尺(24m)、船体の幅30尺(9m)、
帆の横幅は63尺(19m)、積載量は1000石(約150トン)、
船員は15人ほどであった。

北前船は時代が進むにつれて輸送量の拡大や操船技術の向上によって大型化が進み、
最大級のものでは積載量が2400石(約360トン)もあったという。

航行速度は、潮流や風向きが理想的な海域では3~4ノット(時速5.6~7.4km)、
最大6ノット(時速約11.1km)ほどであった。

廻船業者は「一航海千両」といわれるほどの巨利を得ていた。

 

訪問日・2022年7月11日

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小鵜飼(こうがい)船

2022年07月23日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県酒田市山居町 「山居倉庫」

 

酒田市のシンボルでもある「山居倉庫」に行くと、小鵜飼(こうがい)船が新井田川沿いに展示してあった。

「小鵜飼船」は、それまで「ひらた船」のライバルとして最上川水運に登場しスピードを武器に栄えた。

明治以降は自由化によりさらに発展したが、鉄道の登場ともに、船は消滅し、水夫は失業していった。

 

・・・・


「流域をたどる歴史二東北編」 豊田武  ぎょうせい 昭和53年発行

 山形県のおよそ8割を潤す最上川は、全長229km、流域面積7.040km2の大河である。
人々は山形県の「母なる川」と呼んでいる。

ひらた船


ひらた線には5人乗り米350俵積の大船、縦横18.2m*2.7m、
の他に中船、小船があった。
大船は今の、10トン積トラックの2台ぶんの輸送力である。
元禄10年頃大小652艘の船が最上川に浮かんでいた。
城米は赤字で、商荷輸送でカバーしていた。

 

小鵜飼(こうかい)船

江戸末期になると、最上川の急流に適合する改良船が増加した。
これが小鵜飼船である。
阿武隈川で導入され、舳先がとがり、スピードも出て、上流向きであった。
ひらた船が左沢~酒田間を往復1ヶ月かかったが、小鵜飼船は10~12日間と大幅な短縮であった。
特に明治になって河岸場の統制が解かれてから、需要が高まった。


明治30年代にはいると蒸気船が航海するようになり、
明治32年には鉄道が山形県まで延長され、大正2年酒田まで延長された。
船運は急速に衰えた。

 

 

(三人乗り、生々しい迫力があった)

 

 

「山形県の歴史」  誉田・横山共著  山川出版社  昭和45年発行


最上川舟運


西廻り航路の発達とともに、最上川舟運も一大発展をみた。
幕領、諸藩の年貢米のほとんどが上方へ運ばれた。
輸送路に恵まれない米沢藩は、仙台や新潟など一定していなかったが、巨費を投じて難所黒滝を開削をして、最上川下しとした。

 

鵜飼(こうがい)船時代

酒田港は、江戸時代以来、山形県唯一の物資の集散地であり、表玄関であった。
庄内をはじめ、最上川流域にある内陸の物資の大部分は、この酒田港を通過したのである。

なかでも大半は米であるから、米倉庫と米会所は、酒田におけるもっとも重要な経済的機能をもっていた。
庄内藩の新井田(あらいた)蔵は、維新後官有になり、地租の金納化で減少したので豪農への払い下げを経て、のちには本間家の手にわたっている。
米商会所は、明治26年のちに山居倉庫と呼ばれる保管蔵を新築した。
山居の米は他の納入米と区別して、格差を設けて取引された。
山居倉庫は、明治26年の創立当時は7棟であったが、明治30年には15棟、
羽越線各駅に設けられた支庫をふくめると大小62棟をかぞえた。

明治5年、最上川運行の大小船は自由とし、藩船は廃止された。
明治7年の県の調査では、ひらた船101艘にたいし、小鵜飼船274艘に増加している。

 

奥羽線の開通


米沢に明治32年、新庄に明治36年、秋田県とは明治38年全通した。酒田線は大正3年に開通した。
最上川水運でにぎわった河岸場町のさびれようははなはだしかった。
本合海は、火が消えたようにさびれ
大石田は、船乗り・船大工は人力車夫や荷車引きになったり、移住していった。

 

 

訪問日・2022年7月11日

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする