満州に行けばいいことがある。
労働者に仕事はいくらでもある。
農民は広い土地をもらえる。といわれて
それを実行したら、たしかに都市労働者には豊かな暮らしがあり、
農民は大規模農園を営むことが出来た。
ところが、
異国や極寒の冬にもやっと慣れたころ、戦争が始まった。
そして棄てられた。
・・・
「満州開拓団の真実」 小林弘忠 七つ森書店 2017年発行
満州行きを勧誘するポスターが、頻繁に全国の農村に貼られるようになったのは、
昭和13年から14年にかけてであった。
「満州に行けば必ず20町歩の地主になれる」
との心をそそる文句もあった。
そのうえ補助金がもらえるというのだ。
せいぜい6~7反歩しかない小作農家のほとんどが、
単位の違う田畑の広大さに目を見張り、いっそ花を咲かせに大陸へ旅立ちたいと、
胸を波打たせた。
関東軍の「移民方策案」
満州支配の関東軍の意図は、満州を新国家と位置づけ、入植によって
帝国日本の「生命線」を確保する。
満州移民は日本の「国防上最重要事項」であるとし、
移民は入植者であると同時に、対ソ防衛の軍事的補助要員であり、
日本帝国主義の先兵の一員である。
昭和7年試験的に移民団が募集され、集まった423人が出立している。これが第一次試験移民といわれる人たちである。
国策として正式に満蒙移民の推進がはかられたのは、2.26事件のあった昭和11年、
広田内閣の時である。
ソ連兵来る
8月9日、吉林省にある長野県からの「高社郷開拓団」の場合。
10日ぶんの食糧をもって宝清まで避難せよとの指令が出た。
団の協議は「ソ連軍と戦い、団を死守する。敗れれば自決。婦女子は最初から自決」、結論はそういうことだった。
自決用に新しくカミソリが渡された。
青酸カリは、診療所の医師が用意していたが、古くなったためか、犬が死なないことがわかったので使わないことにした。
苦しまないで、ほぼ確実に死ねるのは銃殺である。
銃は大切であった。しかし弾がなくなれば、死ぬこともできないので、弾はもっと貴重であった。
弾丸は、相手を倒すより日本人、しかも同郷人の自決を幇助する殺害の必須用具に変わっていた。
解団式が行われた。
8月15日
連合軍はマッカーサー元帥を連合国最高司令長官に任命。
マッカーサーは重慶放送を通じて
「なるべく速やかに戦闘行為を停止するため・・」と大本営に向けてメッセージを送った。
翌16日「日本軍の戦闘停止を命令する」。
15日には、トルーマンが全軍に戦闘停止命令を出し、イギリス、インドも停止を発令した。
ソ連軍は15日以降になっても戦闘を停止せず、満州では日本側も抵抗した。
満州の中心部、新京ではこの日から無政府状態となり、各所に銃声が響き、
中国人による略奪も相ついで、市民の多くは公共の建物に避難するのが精いっぱいだった。
8月20日以降
ザバイカル方面軍の先遣隊が日本軍総司令部のある新京入りした。
連日数百人単位で続々とやってきた。
通信網が遮断されたため、総司令部と部隊間の連絡手段がなくなり、これより
「停戦も武装解除も無統制のバラバラとなって、各地で混乱が起こった」と、
『満ソ殉難記』は記す。
ソ連軍が治安を維持するとの口実で、傍若無人のソ連兵による略奪、暴行が相つぎ、
とくに女性が大きな災難を被った。
ソ連軍兵の暴威、暴状はやむことがないどころか過疎度を加え、
兵隊たちが「野獣的」になった例は、枚挙にいとまない。
ソ連兵は群れをなして、都市部の日本人家庭、事務所に侵入し、
手当たり次第に金品を略奪した。
抵抗すれば射殺し、集団的婦女暴行も堂々と行われたため、
女性は頭を丸め、顔に墨を塗ったりして男性を装ったが胸をさわられて助成と分かり、集団でいたぶられた。
吉林省敦化の日満パルプ会社の社宅では、男子と女性社員が分離され、170人の婦女子社員を監禁して連日暴行。
23人の女子社員が青酸カリで自殺した。(敦化事件)
(つづく)