しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

塩田・沼井叩き歌

2023年01月26日 | 民謡

 

昭和45年頃、国鉄の松永駅に列車が停まると、

駅の北側にはイ草の田んぼが広がり、駅の南側には放ったままの入浜式塩田が海に向かってのびていた。

 

岡山県の児島小川ふきんには、流下式塩田の枝条架(しじょうか)が広大にひろがっていた。

「瀬戸大橋」の付帯工事とは、あの塩田跡の救済事業じゃあないか、と思ったりもした。

 

・・・

 

(江戸時代初期の福山藩の新田開発の大功労者・本庄重政 )

 

(浜子の像・JR松永駅前  写真右側が沼井)

 

・・・

「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行

 

沼井叩き歌  福山市松永町

「沼井」(ぬい)というのは塩田の中に切ってある四角の井戸のような形のもので、
ここに塩のついた砂を知れる。
夏、塩田を開始する前に、その沼井の側を粘土で五寸幅ぐらいに塗り固めて、塩水が漏らぬようにする。
その粘土をバイ木という板で叩く作業が「沼井叩き」、
その折りうたわれる歌が「沼井叩き歌」である。

塩作りは夏半年仕事をし、寒い半年は休んだので、「沼井叩き」は春先、主として子どもたちの内職として行われた。

 

 

備後松永ヨー塩浜ヨーイどころ
ヨーイ ヨーイ ヤレヤーレ エーイ
浜のからいは御免 御免なれ

沖の暗いのに白帆が見える
あれは紀国蜜柑船

 

・・・・

 

(松永クレーン学校は塩田跡地)

 

 

(松永の汐入川。瀬戸内地方は汐入川はだらけ)

 

撮影日・2019.4.12  福山市松永町

 

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とんど(福山市)

2023年01月26日 | 民謡


小学生の時、春休みの楽しみは福山の「とんど」を見に行くことだった。
福山の「とんど」は「桜祭り」を兼ねていた。
福山駅におりたら、まず福山城に行って桜を見て、それから街を歩いた。

大相撲「福山場所」があり、通り町の商店に力士は分散して泊っていた。
”ふんどし担ぎ”と呼ばれる幕下以下のお相撲さんが、商店街を闊歩していた。
たいていサーカスも興行してた。
屋根はなく、青天でのサーカスだったような気がするが、記憶違いかもしれない。

映画館に入ってチャンバラ映画を見て、帰るのが「とんど」見物のパターンだった。

 

・・・

 

「広島県の民謡」 中国放送  第一法規出版 昭和46年発行

とんど  福山市

「とんど」というのは左義長、つまり正月に用いた七五三縄(しめなわ)の類を燃やす行事である。
福山では、今から三百三十年ほど前、水野侯が城主となった時、
七五三縄の意味を拡充して、竹類などを集め寄せて燃やしたのが、この福山の「とんど」の起源である。
その後、燃焼物が大規模となり、ついに台輪の上に四本の竹を立て、脚を広げて尖端の部分を結び合わせたものへ、いろいろな飾りをつけ、
頂上に鶴亀とか花車とかの作り物を飾り、この巨大な「俵」を町内を引いて練り歩いて、
最後に燃やしたそうである。
現在は正月に行わず、毎年四月になって「とんど」を行う。

 

 

〇三味線のはいらない「とんど」


とんどとんどと吉津のとんど ハヨイヨイ
上は鶴亀 チョイト 五葉の松
ソラ ヨーイヨーイヨーイヤナ
ハラ リヤリヤ  コラ リヤリヤ ハー ヨーイヤナ

見たか 見てきたか 福山の城を
前はお堀でボラが住む

備後福山十万石よ
丸に鷹の羽の紋どころ

本庄土手から長者町見れば
裸馬かやくらがない

立ちよた立ちよたで昔は立ちよた
お上お仲間槍立ちよた

 

〇三味線のはいる「とんど」

行こか戻ろか戻ろか行こか ハヨイヨイ
ここら思案のチョイト木綿橋
ソラ ヨーイヨーイヨーイヤナ
ハラ リヤリヤ  コラ リヤリヤ ハー ヨーイヤナ

ここはどこどこ船頭衆に問えば
ここは箕島竹が鼻

場所じゃ場所じゃと船橋場所じゃ
出船入船宝船

四国屋島や壇ノ浦のいくさ
今にあるよな絵にかいて

色でしくじる紺屋の手間衆
浅黄染めよとて紺染めた

お前独りか連れ衆はないか
連れ衆あとから駕籠でくる

 

 

撮影日・2023.1.9

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