しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

パンと昭和

2023年04月15日 | 食べもの

パンは「アンパン」しか知らなかった。

小学校の3~4年生のころ、「完全給食」と呼ばれる学校給食が始まってから
コッペパン」というパンを知った。給食がある日にはコッペパンを食べていた。
人造バターでコッペパンを食べていたが、時折、小さく切ったほんとのバターが付いていた。
バターは美味かった。

中学2年生の時、何かの授業中「家で朝、パン食の人はいるか?」の問いに
3人(クラスの生徒数57~58人中)が手を挙げた。
日本人は家では「麦めし」か「米のめし」しか思ってなかったので、
パン食の家がある事にびっくりした。
3人のうち、1人は城見小学校出の人だった。城見にもパン食がいることにまた驚いた。
3人は「食パン」というものを焼いて食べているということだった。

 

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「パンと昭和」 小泉和子 河出書房新社  2017年発行


終戦後の混乱期の学校給食は、
調理の人手も調理器具も不足しており、ほとんどの学校が
用務員室で湯を沸かすのに使っていた大釜などを代用し、
手に持った大きなへらでかき回しながら粉乳を溶かしていた。
よく乾燥してサラサラした質のいい粉なら溶かすのも楽なのだが、
質も悪く輸送中の管理も悪い粉乳は、船便で届く間にカチカチに固まっていたりした。
全校生徒分の大量のミルクは、溶かしきれずに釜の底で焦げつき、
なんともいえない臭いがしたという。
飲みなれないミルクでお腹を壊す児童も続出したが、なんとか飲ませなくてはならない。
そこで「三角食べ」が編み出されたのである。
ミルクとパンとおかずを交互に食べ進むよう指導された。
「鼻をつまんで無理やり流し込む」ようなしろものではあったが、
豊富な栄養源(とくに動物性タンパク質)のおかげで、
子どもたちの体格は大きく向上していった。

 

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昭和30年代はコッペパン世代、40年代は食パン世代

その学校給食は「コッペパン」から始まった。
コッペパンは戦中から戦後にかけての配給時代に広まった日本独自のパンである。
当時の献立表には「パン」としか書かれていないが、ほぼ毎食コッペパン。
1971年(昭和51)「コメ余り」を背景に学校給食施行規則が改正され、米飯が導入された。

 

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「日本の食はどう変わってきたか」  原田信男 角川選書 平成25年発行

水車の発展と粉商売

中世後期まで、水車を製粉の動力として用いたような形跡はうかがえず、
水田稲作が優先された日本では、揚水が目的であったと思われる。
全国的にみても、各地に水車が出現するようになるのは17世紀末頃のことで、
大都市では膨大な蕎麦が消費されていたが
まさに水車による製粉の開始は、こうした麵食の普及に対応するものであった。

粉食の展開

粉食は、製粉という過程を経なければならず、非常な手間を要することになる。
その意味では、粒食が可能である米をわざわざ粉食とするのは、
いわばハレを演出するための工夫であった。
すなわち正月儀式や人生儀式などに、餅・菓子が供されるのは、
同じ米を用いながらも、節目にはケとは異なった味覚を楽しもうとする目的があったとすべきだろう。

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索麺
索麺は、小麦粉を食塩水で練って紐状とし、これに綿実油を塗って細くのばして熟成させた後、天日で乾燥させたもので、長期保存が利くことから、
乾燥地帯では農家の冬期の副業として広く生産された。

うどん
うどんは、小麦粉に塩を入れて打つが、夏と冬では冬に水を多くすべきで、
煮ぬき汁、垂れ味噌が合う、としている。


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軍事と軍隊

肉食と洋食の展開に果たした軍事と軍隊の役割は見逃すわけにはいかない。
肉食によって強健な身体をつくることができる。
卵や乳製品の栄養分も啓蒙された。
しかし毎日毎日の白い米の飯は、もともと米食を悲願としてきた人々からすれば、憧れの実現であった。
脚気のため、
陸軍では玄米を混入、海軍ではパン食を導入、肉食を増やすことにした。
陸軍では魚肉の缶詰、とくに牛肉大和煮缶詰は、米飯との相性も良く、栄養価も高く保存性・簡便性にすぐれて需要が高まり、日露戦争ではほとんどが牛肉大和に煮であった。
多くの民衆が軍隊で肉食の味を覚えたのである。

大正期の食文化
大正にはいると、都市には新たにサラリーマン階層が生まれて、
洋食文化が広く定着するようになった。
いわゆる三大洋食とされるトンカツ・コロッケ・カレーのほか、
オムレツやシチューも流行をみた。
ただ大正9年の国勢調査では就業男子の80%が農林水産業で、
食文化の大きな特徴の一つに地域差・階層差が著しいという傾向がある点に、留意しておく必要はあろう。

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「日本の食探検」  長友麻希子 京都新聞  2007年発行

アンパン誕生

パンの伝来は、ポルトガル船が種子島に漂着した時といわれています。
パンが再び脚光を浴びたのは幕末になってからです。
携行に便利な兵糧として見直されたのでした。
米を炊く余裕のない戦場では、すぐ食べられるパンは貴重な食品です。
明治元年、薩摩軍は黒ごまパンを食べたそうです。
一気に普及したきっかけは、明治7年のアンパンの誕生。
木村安兵衛が考案したもので、
日本人好みのまんじゅうに似たアンパンは、たちまち評判になり、一般にもパンが親しまれるようになったのです。

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ハレの日の食べもの  

2023年04月15日 | 食べもの

食べもの限定で「ハレの日」といえば、秋祭り、しか思い浮かばない。

正月はハレの日であるが雑煮と重箱(おせち)で、ご馳走といった感じはしなかった。
食べものに限れば、「ハレの日」は年に一度の秋祭りの一日だけだったように思う。
ご馳走は、田植え時の「しろみて」もあったが、ハレの日とは言わない。
運動会や遠足や学芸会の日は巻き寿司やキツネ寿司があった。


結婚式(嫁どり)や棟上げは「ハレの日」だが、そのそも何十年に一・二度しかない。

 

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ハレの日・ハレの食事



県南地方ではバラ鮨を作り、全県的に巻鮨、狐鮨、押抜鮨が作られる。

赤飯
赤飯はオコワともウムシ(蒸し)ともアカメシともいう。
糯米とタダ米(粳米)を混ぜて甑で蒸す。
別の釜で煮た小豆またはササゲを上から入れてしばらく蒸す。


正月用や節句に搗くほかクゲイ(クガイ)の贈答に用いる。
自分の家で食べる米の餅はなるべく倹約をして黍餅や粟餅を多く用いるようにした。

柏餅
カシワともいう。
米の粉の団子の中に餡をいれる。木の葉につつむ。
5月5日の節句に作る。
甑で蒸すことが多いが、羽釜の底に簀の子をいれて蒸気で蒸すこともある。

清酒
正月、節句、田植、秋祭、亥の子などの日や結婚式、建前などの他は、ほとんど買わなかった。

甘酒
笠岡地方では、旧1月11日の鍬ぞめにはカドに並べた農具や門松に甘酒を少しずつ供え、人も飲んだ。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

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秋祭

一年中での、一番のご馳走を作るのが秋祭である。
何日も前から準備し、女は忙しい。
早朝に鮮魚の行商人が魚市をたてたりする。
カニ、イカ、タコを買う。
その他エビ、鯖、ナマコを買う。
揚げ芋を必ず作った。
狐鮨、巻鮨も作った。
お客には重箱へ一杯鮨を入れ、もう一つの重箱へ揚げ芋、魚、リンゴなどを入れて土産とした。
昭和36年頃から祭の客をしない家が多くなった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

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(父の話)

さしみ
年に数えるほどじゃ。


酒を飲む

酒を飲むのは。
田植えの済んだ後とか。
収穫の秋とか。
春と、秋と・・・年3ぺんくらいかのぅ。
談・2002・9・23

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(母の話)

雑な肉でも、肉がはいっとればおおごちそう、じゃった。
祭りや正月じゃいえば、江原から肉を売りにきょうた。
安い馬肉を楽しみにしょうた。

2000・12・17

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(母の話)

昔のボニゆうたら「かんぴょう」や「さつま」や「じゃがいも」や、ボニのごちそうゆうたら決まっとった。
昔は炊いて食びょうたんじゃ。
ボニのにしめをするするゆうたら、かんぴょうがなければできんゆうてようた。
くくってなぁ、家でこしらえたのはおいしかりょうた。こりこりして。

2001年10月7日


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無塩

生魚はブエン(無塩)といって尊ばれるふうがあった。
吉備高原や中国山地の村々では塩鰯や塩鯖またはイリボシなどの干物の魚を行商人がまれに売りに来る程度であった。
刺身を食べるようになったのは明治以後のことである。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


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豆腐

たびたび買うものでなく、重労働で疲れた夕食の煮物や白和えなど作る時に買う程度だった。
「金光町史」



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「鴨方町史民俗編」

秋祭りのご馳走


祭りには普段は買えないサワラやカニやタコなどの魚類を購入し、
客を呼び、また客に招かれ、親類縁者が行ったり来たりした。
ばらずしやママカリずし、巻きズシ、赤飯を必ず作り、
里芋やゴボウ、シイタケの入った煮物、魚の煮物や焼き物、
菜種油で揚げたサツマイモやレンコン、おおばの実(シノの穂)の天ぷら、
ママカリの酢漬け、甘酒などを作り客をもてなした。
また客には、
重箱に詰めたすしや料理を土産とした。
祭りは大変賑やかで楽しみな行事であったが、
主婦は土産用のすしを見越して作らねばならず、大忙しであった。

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「福山市引野町誌」 引野町 昭和61年発行
弁当
花見、神楽の見物など人前で食べる弁当は豪華にした。
寿司、こんぶ、豆腐、煮豆などや煮物を重箱に入れ、
見物しながら食事した。

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コメント (1)
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