パンは「アンパン」しか知らなかった。
小学校の3~4年生のころ、「完全給食」と呼ばれる学校給食が始まってから
「コッペパン」というパンを知った。給食がある日にはコッペパンを食べていた。
人造バターでコッペパンを食べていたが、時折、小さく切ったほんとのバターが付いていた。
バターは美味かった。
中学2年生の時、何かの授業中「家で朝、パン食の人はいるか?」の問いに
3人(クラスの生徒数57~58人中)が手を挙げた。
日本人は家では「麦めし」か「米のめし」しか思ってなかったので、
パン食の家がある事にびっくりした。
3人のうち、1人は城見小学校出の人だった。城見にもパン食がいることにまた驚いた。
3人は「食パン」というものを焼いて食べているということだった。
・・・
「パンと昭和」 小泉和子 河出書房新社 2017年発行
終戦後の混乱期の学校給食は、
調理の人手も調理器具も不足しており、ほとんどの学校が
用務員室で湯を沸かすのに使っていた大釜などを代用し、
手に持った大きなへらでかき回しながら粉乳を溶かしていた。
よく乾燥してサラサラした質のいい粉なら溶かすのも楽なのだが、
質も悪く輸送中の管理も悪い粉乳は、船便で届く間にカチカチに固まっていたりした。
全校生徒分の大量のミルクは、溶かしきれずに釜の底で焦げつき、
なんともいえない臭いがしたという。
飲みなれないミルクでお腹を壊す児童も続出したが、なんとか飲ませなくてはならない。
そこで「三角食べ」が編み出されたのである。
ミルクとパンとおかずを交互に食べ進むよう指導された。
「鼻をつまんで無理やり流し込む」ようなしろものではあったが、
豊富な栄養源(とくに動物性タンパク質)のおかげで、
子どもたちの体格は大きく向上していった。
・・・
昭和30年代はコッペパン世代、40年代は食パン世代
その学校給食は「コッペパン」から始まった。
コッペパンは戦中から戦後にかけての配給時代に広まった日本独自のパンである。
当時の献立表には「パン」としか書かれていないが、ほぼ毎食コッペパン。
1971年(昭和51)「コメ余り」を背景に学校給食施行規則が改正され、米飯が導入された。
・・・・・
「日本の食はどう変わってきたか」 原田信男 角川選書 平成25年発行
水車の発展と粉商売
中世後期まで、水車を製粉の動力として用いたような形跡はうかがえず、
水田稲作が優先された日本では、揚水が目的であったと思われる。
全国的にみても、各地に水車が出現するようになるのは17世紀末頃のことで、
大都市では膨大な蕎麦が消費されていたが
まさに水車による製粉の開始は、こうした麵食の普及に対応するものであった。
粉食の展開
粉食は、製粉という過程を経なければならず、非常な手間を要することになる。
その意味では、粒食が可能である米をわざわざ粉食とするのは、
いわばハレを演出するための工夫であった。
すなわち正月儀式や人生儀式などに、餅・菓子が供されるのは、
同じ米を用いながらも、節目にはケとは異なった味覚を楽しもうとする目的があったとすべきだろう。
・・・
索麺
索麺は、小麦粉を食塩水で練って紐状とし、これに綿実油を塗って細くのばして熟成させた後、天日で乾燥させたもので、長期保存が利くことから、
乾燥地帯では農家の冬期の副業として広く生産された。
うどん
うどんは、小麦粉に塩を入れて打つが、夏と冬では冬に水を多くすべきで、
煮ぬき汁、垂れ味噌が合う、としている。
・・・・
軍事と軍隊
肉食と洋食の展開に果たした軍事と軍隊の役割は見逃すわけにはいかない。
肉食によって強健な身体をつくることができる。
卵や乳製品の栄養分も啓蒙された。
しかし毎日毎日の白い米の飯は、もともと米食を悲願としてきた人々からすれば、憧れの実現であった。
脚気のため、
陸軍では玄米を混入、海軍ではパン食を導入、肉食を増やすことにした。
陸軍では魚肉の缶詰、とくに牛肉大和煮缶詰は、米飯との相性も良く、栄養価も高く保存性・簡便性にすぐれて需要が高まり、日露戦争ではほとんどが牛肉大和に煮であった。
多くの民衆が軍隊で肉食の味を覚えたのである。
大正期の食文化
大正にはいると、都市には新たにサラリーマン階層が生まれて、
洋食文化が広く定着するようになった。
いわゆる三大洋食とされるトンカツ・コロッケ・カレーのほか、
オムレツやシチューも流行をみた。
ただ大正9年の国勢調査では就業男子の80%が農林水産業で、
食文化の大きな特徴の一つに地域差・階層差が著しいという傾向がある点に、留意しておく必要はあろう。
・・・・・
「日本の食探検」 長友麻希子 京都新聞 2007年発行
アンパン誕生
パンの伝来は、ポルトガル船が種子島に漂着した時といわれています。
パンが再び脚光を浴びたのは幕末になってからです。
携行に便利な兵糧として見直されたのでした。
米を炊く余裕のない戦場では、すぐ食べられるパンは貴重な食品です。
明治元年、薩摩軍は黒ごまパンを食べたそうです。
一気に普及したきっかけは、明治7年のアンパンの誕生。
木村安兵衛が考案したもので、
日本人好みのまんじゅうに似たアンパンは、たちまち評判になり、一般にもパンが親しまれるようになったのです。
・・・・・・