しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年6月23日沖縄戦終了③大和特攻その2「先哲と殉国の士・新山人物誌」 

2023年06月23日 | 昭和20年(終戦まで)

特攻の観光地、鹿児島県知覧に観光で行った人が、
特攻隊員の手紙を読んで泣く。
それは観光客の自由で、泣きたいだけ、気が済むまで
存分にいつまでも泣けばいい。

 

だが
原則、「死人に口なし」。
特攻隊員の遺書は隊員の直筆だが、
「まだ死にたくない」「負ける」とでも書こうものなら、即座に没。
「お父さん、お母さん、お世話になりました。お国のため、喜んで死に行きます」は、即座に採用。
そこだけは、前提として読んでから・・・泣いてほしい。

・・・


殉国の士を、
せめても書き残して、後世に継ぐ、
そういう著者の篤い志が伝わる郷土本が笠岡市にもある。


・・・

(新山小・奉安殿)

 


「先哲と殉国の士・新山人物誌」 山部明  新山公民館 昭和47年発行

 

私の新山村助役時代は、
支那事変から大東亜戦争(こんな言葉は使ってはいけないとかだが)の再只中で、
私は来る日にも来る日にも出て立つ、若き戦士の勇姿を、
今は無き新山駅頭に送った。
そしてその多くは彼方の地に散華され、
迎えたのは白布につつまれた英霊でありました。
このことは素朴な農夫である私の心を永久に痛ましめるものであります。
そして、
これらの方々の名前だけでも集録して、
後世にとどめておきたいという祈願が、
長く私の胸に去来し、これが本書をものした第一の動機であります。

関係のお家で、根ほり葉ほりお話を伺ったりして、
失礼な事も多いと思いつつ
それでも私にできる老後のご奉公の唯一のものと信じ、
稿を閲した次第です。

 

・・・

 

 

山部巧
生 大正9.2.22
没 昭和20.4.7(26)

山口の人。
父永三郎は、現役兵当時、聯隊きっての模範兵で、感状賞状その数を知らず。
不幸、42才で去った。
母ナツノは男5人、女2人を無事に育てた。節婦である。
功は兄弟たちと共に、母に孝養を尽くした。
昭和12年、呉海軍工廠に就職した。
昭和16年徴兵検査に甲種合格となり、現役兵として呉海兵団に入った。
海軍軍人としての教養を着々と身につけ、軍艦大和に乗り込んだ。
大和は連合艦隊の旗艦で、三千三百人の乗組員はみな
最優秀の技倆の持ち主ばかりであった。
君はその中に選ばれて、
開戦以来、全海域にめざましく活躍した。
しかし戦争末期大和は巡洋艦、駆逐艦を率いて沖縄特攻を企て、
昭和20年4月7日、
徳之島西方の海域において、二時間余の激戦の後轟沈した。
君また乗組員一同と共に南海の華と散った。
戦功により勲七等功5級を賜る。
官は海軍兵曹長。

・・・

 

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昭和20年6月23日沖縄戦終了②大和特攻

2023年06月23日 | 昭和20年(終戦まで)

戦艦大和は沖縄に出撃したが、
豊後水道で早くも米軍の潜水艦に発見され、薩摩半島沖で沈没した。

もし沖縄に突撃できていたら、上陸もかなわず飢餓地獄で戦死した可能性もある。
出撃命令が発令された時点で、悲劇しかありえない作戦だった。

せめてものとして、
3隻の駆逐艦が帰還できたこと。
なお、日本軍の戦死者総数は4.044名。米軍は13名。

・・・

「教養人の日本史・5」 藤井松一  現代教養文庫 

4月6日、大本営は航空肉弾戦と特攻艦隊のなぐりこみ戦術によって退勢を挽回しようと焦り、
生き残りの大戦艦「大和」以下10隻の艦隊に片道燃料のみをあたえて出撃させた。
しかし艦隊は潜水艦にとらえられて空襲をうけ、
大和は数千名の艦員とともに徳之島に沈んだ。
ここに日本海軍は完全に姿を消した。

・・・


「連合艦隊興亡記」 千早正隆  中公文庫  1996年発行 

4月5日、連合艦隊司令部の作戦会議に、
大和を中心とする残存部隊を沖縄に突入させる案が、突如として持ち出された。
その目的とするところは悲壮きわまりないものであった。
航空部隊がすべて特攻となって善戦しているとき、水上部隊も特攻となってこれに呼応すべきでないか、
またそうすることによってのみ、大和以下の残った戦力を戦局に寄与させることができるというのであった。
その作戦が成功するかしないかは、すでに討議の外であった。

日本海軍の最期の出撃命令を受けたのは、
大和、矢矧、雪風、磯風、冬月、涼月、初霜、霞、朝霧の10艦であった。
突如として降ってわいた必死の突入作戦の指令は、歴戦の指揮官たちをも驚愕させた。
批判的な意見すら聞かれた。
しかし伊藤整一中将の、悲壮な強い決意のほどを知らされ、全艦隊の気持ちは一つにかたまった。

豊田連合艦隊司令長官が出撃にあたって訓辞を述べた。
「皇国の興廃は正にこの一戦にあり。
ここに海上特攻隊を編成し、壮烈無比の突入作戦を命じたるは、
帝国海軍をこの一戦に結集し、
光輝ある帝国海軍水上部隊の伝統を発揚すると共に、
その栄光を後世に伝えんとするに外ならず」

4月6日午後6時、徳山湾を出港。
4月7日午前7時、大隅半島を通り抜けた。
4月7日午後0時30分、約250機の艦載機が襲う。2時間戦いを続けた後、沈んだ。

・・・

・・・
雑誌「丸」 潮書房  昭和44年11月号 

その日私は『大和』の艦橋にいた
海軍少尉・渡辺光男

待つものは死以外には考えられないものだった。
私は部下に何と説明するか考えた。
艦内のうわさをすでに耳にしていた部下たちはこわばっていた。
「心乱さず家族に心置きなく通信すること。
心身を潔める意味をかねて下着は必ず着替え、身のまわりの整理をしておくこと」
と申しわたしたのである。

食卓には酒盃がくばられ、乾杯の音頭がとられ、
いつとはなしに意気天をつく軍歌がはじまった。
今宵を最後と思う各人の心にはこめあげくるものがあるとみえ、
男泣きの涙、健闘を誓いあう固い握手が随所にみられ、海面はるかを望む者もいた。

特攻出撃の4月6日の時はきた。
三田尻沖を発進した。
豊後水道はすでに敵潜水艦の侵入するところとなっており、
”全軍警戒”の艦隊命令文がだされた。
そうこうするうち、敵潜水艦の発信を傍受した連絡がきた。
ほどなく”雷跡見ゆ”の報告が入る。

4月7日薩摩半島をすぎるあたりで白じらと明けてきた。
ふたたび故国の土を踏むことはできない。

雷撃機の攻撃をうけているのか、艦の動揺が感じられ、
広くない通路は弾薬、兵器材料を運ぶ者、
あるいは負傷者を運ぶ者に出会った。
ここかしこ血臭がただよっていた。
伝令に聞くと、第二波の来襲中だという。
数十メートルの水柱がときおり艦橋内にしぶきをかける。

二時すぎ第四波の来襲をまた受けた。
傾斜も二十度を越えてくると床上に流れている血痕と傾斜で歩行も困難になってくる。
「傾斜復元の見込みなし」
やがて、
「総員最上甲板」
の命令が出された。
大和から海中に飛び込んだ。
しばらく泳ぐうち大和の爆風、衝撃で海上にたたきつけられ気を失ってしまった。
気がついたのは雪風の士官室で寝込んでいた。

思えば、
敵攻撃は大和の左舷に集中されたようで、
その物量の差をまざまざと見せつけられた海戦であった。
巨艦の最期を飾るにふさわしい割腹自殺であった。

・・・

 

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「ひめゆりの塔」

2023年06月23日 | 「戦争遺跡」を訪ねる

場所・沖縄県糸満市  「ひめゆりの塔」
訪問日・2012年12月18日 


「日本軍事史」 吉川弘文館 2006年発行

1945年4月1日、米軍は沖縄に上陸した。
日本側の軍民あわせて170.000人近くの命を奪った凄惨なものとなり、
6月23日、牛島満司令官が自決して戦闘は終結した。











「ひめゆり平和祈念資料館」

ひめゆり学徒隊の生存者たちの思いは、
生きたい、生きたいと思いながら死んでいった同級生たちの思いを代弁したいといういうことにあった。
語るに語れない悔恨の思い出であり、
祖国防衛に燃えて闘ったという誇りなどなかった。
生存した彼女たちの多くは、戦後教壇に立ち、平和の尊さを子供たちに伝えることに努力してきた。
物言えぬ同級生たちに代わり戦争の悲惨を直接語り伝えようと努力を傾ける姿には何時も敬服せざるを得ない。
しかし、もうその時間もそう長くはないだろう。
「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房2002年発行







喜屋武岬、「平和の礎」




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