しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

道④江戸時代の道(道路とお参り)

2023年06月27日 | 江戸~明治

茂平は前面が海、三方は山に囲まれた地形で、
陸路・隣村に行く道が二本あった。
西の野々浜に行く道、坂里峠越。
北の用之江に行く、野上峠越。

坂里峠は、管理人が小学生の時は、怖くて目をつぶるようにして走り抜けた。
野上峠は、管理人のひいひい祖父さんは、(農夫であったが)用心のため刀を差して峠を越えていたそうだ。
つまり、
茂平への出入りは峠越えで、山賊が出る(という噂の)暗くて細い峠道だった。
おそらく、
江戸時代の道は、五街道や主要道以外は、似たような狭い道であったと思われる。


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「道の文化史」  中国地方総合研究センター 2013年発行


近世
全国統一を目指した織田信長は、街道整備、関の撤廃など積極的に行った。
信長の道路政策は秀吉が次いだ。
秀吉の朝鮮出兵では、
膨大な物資や武器、大量の兵が山陽道を通った。
江戸時代は「西国街道」「中国街道」「中国路」ともいい、
江戸と長崎を結ぶ役目を担った。
参勤交代は瀬戸内海を舟で通行していたが、
享保期からは西国街道を通る大名が多くなり、幕末までつづいた。

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(山陽道・神辺宿  2022年11月6日  福山市神辺町三日市通り )


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「道Ⅱ」 武部健一  法政大学出版局 2003年発行

牛馬の蹄(ひづめ)
織田信長は路面の石を除き、牛馬の足を疲労させないよう、
路面の石抜き作業を行わせている。

橋の美化
織田信長は橋に欄干、街道に松や柳を植樹せしめた。


関所撤廃
織田信長は関所を撤廃、道路や橋をつけさせている。

山陽道建設
秀吉は九州征伐にあたり、毛利氏に対して
山陽道から九州にわたる長距離道路を建設させた。
秀吉は小田原征伐、その後会津まで幅三間の道路を建設させた。


江戸時代の道幅(五街道)
道路幅と並木敷地については間数の定めはなく、
おおよそ道幅は2間~3、4間まで、並木敷は9尺。
常識的な数字は10~11m。

路面
街道は一般に砂利道であった。
坂道では、しばしば石畳が用いられた。
箱根、金谷などが有名。

歩車分離

牛車による運送のさかんであった伏見~京都、大津~京都には、
早くから車道と人馬道とをはっきりと分離する構造がとられていた。
この大津街道では、車道の破損がはなはだしく、車牛が難儀しているようすが忍びないと、1736年
許可を得て花崗岩の白川石を敷き詰めた。
これが日本の軌道舗装の記録の初めてである。
その後幕府も、1805年蹴上~大津札の12kmを改修した。
古文書によると、
人馬道--道幅の南半分。砂利敷。
車道--道幅の北半分、
さらに輪道と牛道の三部分に分ける。
輪道は花崗岩の敷石、すなわち車石を置き
牛道の部分は敷砂利。


一里塚

一里塚の構造は五間四方(約9m)の小山上の塚の上に
一本ないし数本の榎または地方によっては松・杉・欅・さいから・檜などを植え、
一里山などと呼ばれていたと見られる。
榎については、
成長が早く、枝葉繁茂して根も広がって塚が崩れないなどの特性が見られた結果と思われる。
なお一里塚は街道の左右両方に置かれるのが通例である。


街道並木

東海道では松が主。

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(香登一里塚   2022.12.2 岡山県備前市)

 

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石橋の多い東海道
渡河については、
橋、
渡船、
徒歩、
の三方法である。

東海道の場合、
1.081橋。
うち石橋が559橋、土橋が400橋、板橋122橋である。


渡し場
川を渡るには、
橋、船越、徒歩越、馬越、蓮台越などの方法があった。
つまり、橋・渡船・渡歩の三方法である。

街道筋の管理
オランダ商館随員ツンベルグ、1776年記
この国のどこでも道路は非常によく手が入っていて、
道路も広く排水のために溝がついている。
ヨーロッパのどの国においても、
日本のように愉快かる容易に旅行することのないことは断言できる。
もっともこの国では、
ヨーロッパのように道路を破壊する馬車をもちいることを知らないから、
それだけ道路の維持は容易である。

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(鴨方往来 2021.2.13  笠岡市金浦)

 

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「道の文化史」  中国地方総合研究センター 2013年発行

鴨方往来

鴨方往来の概念
「鴨方往来」のルートは文献や地域によって異なるが、
ここでは備前岡山城下を起点に、備中を横断して備後福山へ至る道を「鴨方往来」とする。
戦国時代から近世にかけて、岡山県南部では盛んに干拓が行われた。
道は次第に南へ移っていった。
鴨方往来という呼称は地域によって異なってくる。「鴨方往来」「浜街道」等。
笠岡は古くから米蔵、綿、畳表の積出港として栄えた。

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(金刀比羅 2022.5.28 )


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お参り

「道Ⅱ」 武部健一  法政大学出版局 2003年発行

社寺参り

戦国時代になると(熊野は)伊勢神宮にとって代わられる。
その後、
西国巡礼、四国88ヶ所巡礼のような周回型に移行する。
現在でも一形態として存続している。

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「道の文化史」  中国地方総合研究センター 2013年発行

大名の旧暦の三月、四月に街道を通過した。
春以外の街道は伊勢参り、西国参り、出雲参り、金比羅参りの人々、
行商の商人、托鉢の僧、山伏、遊芸人などの人々が通行した。

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道③江戸時代の道(商品の道)

2023年06月27日 | 江戸~明治

茂平の新田である吉原は江戸時代、綿花畑がひろがっていたに違いない。
綿花は塩と米と並び、瀬戸内地方の代表品で「備中三白(びっちゅうさんぱく)」とも呼ばれていた。
明治中期に輸入綿花が入り衰退していったが、
農家にとっては換金作物であり、自給の糸・布・着物に必要な生活必需品を兼ねていた。

 

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「福山市引野町誌」 福山市引野町誌編纂委員会  ぎょうせい  昭和61年発行

「干鰯」
西廻り航路(北前船)に依って干鰯が盛んに入荷し、帰り荷には塩や古手を積んで帰る
(干鰯が入荷するまでは人糞尿、厩肥(きゅうひ)、山草などが重要な肥料元となっていたが、干鰯が入るようになると、米、木綿、たばこなどの生産力が飛躍的に上昇した)。
こうなってくると農産物自身の生産量が増加してくるし、その流通量が増加してくる。 

江戸時代から明治にかけての購入肥料は、
北海道のにしんの絞りかす、豊後いわしの絞りかす、伊予・伯耆のさわらかすの魚肥(干鰯)や
大豆かすが使われた。
しかし施肥量の主体は堆厩肥、緑肥、しば、草、木炭、人糞尿の自給肥料で、
寛政の頃かなり購入がはじまった。

明治後期から大正に入り、
魚肥は桃、葡萄などの果樹に適していることから、
稲には代わって大豆かすが重用され、また硫安、過燐酸石灰などの化学肥料が漸次浸透してきた。

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(広島県福山市鞆港 2021年10月2日 )

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「吉備路と山陽道」  土井・定兼共著 吉川弘文館 2004年発行

玉島港
玉島港が栄えたもっとも大きな理由は、
玉島周辺農村の綿作の展開である。
綿作の肥料である干鰯・油粕を販売し、
農村からは実綿(みわた)・繰綿(くりわた)を集荷して出港した。

笠岡港
笠岡は中世から海運業が盛んで、寛文11年(1671)には村内に胡町・仁王堂町など15の町が出来ていた。


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(岡山県倉敷市玉島港 2022年4月1日 )

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「江戸時代の瀬戸内海交通」  倉地克直 山川弘文館  2021年発行


塩の輸送
製塩には大量の薪が使用される。
これを塩木(しおぎ)という。
塩も塩木も輸送された。

海産物
鯛が最も多く、次いで蛸。
生物・塩物ともに大坂へ運ばれており、
大坂で商品価値の高いモノであったことがわかる。
その他に、
あわび・はまぐり・あかう・ちぬ・鰆・鰯・鯖・えそ・アミなどがみえる。

生魚を運ぶ生け簀付きの生船(いけぶね)による輸送が多い。

瀬戸内海の各地から大坂へ干鰯を運ぶ例が多い。
干鰯は急速に普及する金肥の代表格。
すでに近畿で商品作物の栽培が盛んになり、需要が高まっていたことがうかがえる。

材木・薪・炭
材木は土佐・伊予から大坂まで運ばれた。
割木・松葉
安芸・讃岐・土佐から大坂・江戸に運ばれた。
割木のうち、「塩木」は赤穂などに運ばれた。

周防・安芸・備前・伊予から大坂へ運ばれた。


農産物
灯火油の原料となる(種子・菜種)、
同じく灯火油の原料となる綿実(わたざね)が、大坂に運ばれた。
畳表・上敷・筵など備中から大坂へ移出されている。
たばこ、酒は相互流通した。
栗・こんにゃく玉・ゴボウ・大根・ねぶかなどもあった。


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(岡山県倉敷市下津井港   2019.4.6 )

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「せとうち産業風土記」  山陽新聞社  昭和52年発行

花形「北前船」


寛文12年(1672)日本海から下関に入り大坂に至る「西回り航路」が開発されると、
尾道、鞆、玉島、下津井、三蟠、牛窓などの各港は一段と活気を帯びて来た。

その年の秋口、瀬戸内海の島々に巨大な白帆を見え隠れさせながら、
千石船の一団が下津井港を目指して船足を速めていた。
「うわーっ、来たぞ」。
岸壁で出迎える港問屋、倉庫業者、はては髪結いから小間物屋まで、
港中が色めき立った。

北海道の松前、小樽を40~50日前に出発した「北前船」が初めてやってきたのだ。
「瀬戸内海沿岸部は干拓の歴史そのものでもる。
新田には有効な有機肥料が喉から手の出るほど欲しかった」。

北前船が運んできた干鰯、羽ニシン、ニシンしめかすなどが人気を集め、
江戸後期、下津井港では北前問屋が24~25軒も並んでいたという。
また、高瀬舟の終着港、玉島港では、港問屋が43軒と繁栄をきわめ、
繰綿、実綿、米が売り出され、
干鰯、茶、塩魚、菜種などが買い入れられた。

北前船の出港地は北陸地方で、
帰り荷に当時商品価値の高かった瀬戸内海産の塩を積んで帰った。
北前船は別名「塩廻船」とも言われた。

北前船は一枚帆の「大和型」から、明治に入ると「西洋型帆船」まで登場したが、
日本海が日露戦争の舞台になったのと、
北海道ニシンの不漁、
鉄道の発達などで
明治中期には姿を消してしまった。

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(広島県呉市倉橋島・鹿老渡港 2013年1月15日 )


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「瀬戸内諸島と海の道」編者・山口撤 吉川弘文館 2001年発行

西廻り航路の発達

「沖乗り」をおこなうようになった背景には海上輸送量の飛躍的増大があった。
幕府や大名の財政は、年貢米を大坂や江戸に運んで売却することで成り立っていた。
酒田から下関をまわって大坂・江戸を結ぶ西廻り航路が整備され、これ以後
西国だけでなく東北・北陸地域からも続々と年貢米を積んだ廻船が瀬戸内海にやってくるようになる。
やがて年貢米だけでなく各地のさまざまな特産品も大坂に集まり、大坂から桧垣廻船や樽廻船で江戸に回送されるという構造ができあがっていく。
塩飽の廻船は幕府御用船として寛文から元禄にかけて栄えた、のち特権的地位を失った。
年貢米に代表される領主的流通が中心とされるが、後期には広範な商品生産の展開を背景とした商品流通のうねりが押し寄せてくる。
たとえば、畿内・瀬戸内地域にひろがる綿作地帯では大量の魚肥を必要とし、従来の干鰯(ほしか)のほかに北海道産ニシンの〆粕(しめかす)などが求められた。

初夏、あるいは秋に蝦夷地の産物を積んで西廻り航路を瀬戸内海にやってきた北前船は、船頭の裁量で積み荷の米・ニシン・数の子・〆粕・昆布などを各地で売却し、大坂でひと冬越したのち翌年春には、大坂周辺あるいは瀬戸内各地の塩・砂糖・紙・木綿・古手・甘藷などの産物を積んで北国に向かう。
また大坂・瀬戸内各所の廻船も北国・蝦夷地とを結ぶ交易に進出していく。
九州・中四国と大坂を結ぶ廻船もいっそう盛んに往来した。
 

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「港の日本史」  吉田秀樹  祥伝社 2018年発行

北前船

東廻り航路と西廻り航路で使用された主要な船舶は、
船の型からもっぱら「弁財船」(べざいせん)と呼ばれ、
東北・北陸ではこの呼称が多く使われた。
ただ大坂や瀬戸内の商人の間では「北前船」と呼ばれる。

とくに大型の「千石船」は、全長80尺(24m)、船体の幅30尺(9m)、
帆の横幅は63尺(19m)、積載量は1000石(約150トン)、
船員は15人ほどであった。

北前船は時代が進むにつれて輸送量の拡大や操船技術の向上によって大型化が進み、
最大級のものでは積載量が2400石(約360トン)もあったという。

航行速度は、潮流や風向きが理想的な海域では3~4ノット(時速5.6~7.4km)、
最大6ノット(時速約11.1km)ほどであった。

廻船業者は「一航海千両」といわれるほどの巨利を得ていた。

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