しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

奥村五百子

2023年06月19日 | 銅像の人

場所・佐賀県唐津市東城内

・・・

「近代日本の出発」 板野潤治 新人物文庫 2010年発行

与謝野晶子が厭戦派婦人の代表であったとすれば、
主戦論派の婦人代表は愛国婦人会の奥村五百子(おくむらいおこ)であった。
東本願寺派の僧侶の娘であった奥村は、
義和団事件にさいして東本願寺の出兵慰問使として清国におもむき、
帰国後の明治34年3月、
軍人遺族や傷病兵の救援を目的とする愛国婦人会を組織した。
皇族や華族を役員としたこの会は、日露戦争中には20万人近い会員を擁する一大婦人組織となっていた。

与謝野晶子はこの愛国婦人会の活動に批判的で、
「御者」や「馬丁」を引きつれて下手な包帯巻きをする
「立派な令夫人」たちの行動を
「あなかしこ、私などの知らぬこと、願わぬこと」
と記している。

・・・


奥村五百子のことは知らなかったが、杉村春子が奥村五百子を演じた映画になるほどの人だった。
創立した「愛国婦人会」は、背景に軍人や軍国主義があるため、奥村の再評価は難しいように思える。






奥村 五百子(おくむら いおこ)
(Wikipedia)

弘化2年5月3日(1845年6月7日)-明治40年(1907年)2月7日)は、幕末・明治期の社会運動家。愛国婦人会の創設者。

経歴
肥前国唐津出身。
父は真宗大谷派釜山海高徳寺の住職で、父の影響を受けて尊王攘夷運動に参加、文久2年(1862年)には男装の姿で長州藩への密使を務めたこともあった。
同じ宗派の福成寺の住職・大友法忍に嫁ぐが死別、続いて水戸藩出身の志士の鯉淵彦五郎と再婚するが離婚する(征韓論を巡る意見対立が理由とされる)。
離婚後、唐津開港に奔走する傍ら朝鮮半島に渡って明治29年(1896年)、光州にて実業学校を創設、半島への浄土真宗布教のために渡った兄・奥村円心を助けた。
北清事変後の現地視察をきっかけに女性による兵士慰問と救護や、遺族支援が必要と考え、1901年に近衛篤麿・小笠原長生や華族婦人らの支援を受けて愛国婦人会を創設する。
以後、会のために日本全国で講演活動を行い、日露戦争時には病身を押して献金運動への女性の参加を呼びかけ、戦地慰問に努めた。






愛国婦人会(あいこくふじんかい)
戦前に国防及び戦死者の遺族・傷病兵を救うために結成された団体である。

1900年(明治33年)に起きた北清事変(義和団事件)に際し、佐賀県唐津市出身の社会運動家、婦人運動家の奥村五百子が、本願寺慰問使の一員として戦場に赴き、つぶさに前線将校・兵士の惨苦を視察して帰国。陸海軍の支援や政治家の近衛篤麿らの援助により1901年(明治34年)2月24日に創立した。

初代会長は宮内大臣であった岩倉具定の妻岩倉久子が務め、1903年(明治36年)には皇族の載仁親王妃智恵子を迎え入れた。

1920年、会長に下田歌子が就任。1927年、会長に本野久子が就任。1937年時点で、会員数311万人余に達し、内地のみならず樺太・南洋諸島・朝鮮・台湾・満州国にも地方組織が置かれていた。

1941年(昭和16年)6月10日、定例閣議において、大日本連合婦人会および大日本国防婦人会の婦人3団体の統合要項が決められた。
翌1942年2月、大日本婦人会(日婦)の結成がなされ、発展的解消をとげた。最終的に内閣の決断を仰がねばならなかったところが、統合の困難さを物語っている。


活動内容
当初は戦没将士の遺族および廃兵の救護を目的としたが、1917年(大正6年)欽定を改正して他の救護事業にも当たるようになった。
関東大震災後の救済その他救護館の設立、婦人職業紹介、花嫁紹介など、幅広い活動を行った。
また、機関誌『愛国婦人』も発行し奥村は全国遊説にあたって会員を増やした。

初期は上層階級の婦人や皇族、貴族が大半を占めていたが、日露戦争時の1905年(明治38年)には一般婦人にも拡張。会員数は46万人に達し、日本最大規模の婦人団体に成長した。
各府県支部長には知事夫人が就くなど、地域名士の夫人が役員に名を連ね、サロンの趣きがあった。





撮影日・2014年1月11日


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

感動と興奮の、映画史上最大のヒット作品「明治天皇と日露大戦争」

2023年06月19日 | 昭和の歌・映画・ドラマ

 

娯楽=映画、という時代があった。
町に住む人も、田舎に住む人も、映画が最大の娯楽だった。
その映画の全盛期に、空前絶後の大ヒット映画が生まれた。
それが「明治天皇と日露大戦争」。

その頃は茂平の人が町へ遊びに行く=映画を見に行く、ことだった。
だが、町(茂平の場合、町とは福山または笠岡を意味する)に行くことは滅多にない。
そこで金浦座が月に2度ほど、茂平の集会場に出張して映画を上映していた。
「明治天皇と日露大戦争」は東京や大阪で上映されてから2年ほど経って、茂平に来た。

茂平の会場は超満員だった。
父は、
「やっぱし勝つ映画はええのう」
というような事を言っていた。
当時の日本は、戦争=敗戦の意識が強かった。

公開後2年も経った映画でも、観客ほぼ全員が面白さで興奮したような記憶がある。
上映中、フィルムが切れて中断が20回ぐらいあったのがご愛嬌だった。


・・・

文藝春秋社の池島信平氏は、
都会人として映画の論評を遺している。

・・・

「歴史好き」  池島信平 中公文庫  昭和58年発行

「国民皆泣き」

「明治天皇と日露大戦争」という映画を見た。
見ているうちに、涙が出て困った。
ハンケチが間に合わない。
まわりの人も、注意して見ていると、みんな泣いている。
「国民皆泣き」の映画である。
いい年をして、なんでこんなに涙が出て・・・と恥ずかしくなった。
涙腺がひろがりっぱなしである。
このへんで、
ひとつ泣かせてやろう、
という製作者の計略が、手にとるように分かるものであるが、
だらしなく涙が出てくるのである。
三笠艦上の東郷大将、
水師営の乃木大将、
そして、日本の奉天入城
----みんな子供の時に絵や写真で見た通りが、
天然色で出てくるので、見ていて、何か心が安心なのである。
その間に、御製の朗読や詩吟や、小学唱歌が出てくるのだから、
タマラない。

見終わって、すっかりくたびれてしまった。
しかし、いい気持であった。
そして、次に何かバカバカしい気持ちと、
一杯やられたような、ふしぎな気持ちがしてきた。
頭がよくて、商売のうまい人が、映画会にはいるものである!!
しかし、
こんなことは、一回でいい。
二度はご勘弁ねがいたい。
--そのことを強く申し上げておく。

・・・

 

新東宝映画「明治天皇と日露大戦争」

明治天皇

 

出兵

 

 

「すぎの~ぉ! 杉野は何処!!」

 

 

激戦「203高地」

 

 

皇国の興廃この一戦にあり「日本海海戦」

 

♪庭に一本(ひともと) 棗の木 ・・「水師営の会見」

 


・・・

池島先生の「ご勘弁」は無視され、
新東宝は二匹目、三匹目のどじょうを狙った。
二作目は多少注目されたが、さすがに三作目はまったく無視され
まもなく新東宝映画は倒産していった。

 

・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

味噌

2023年06月19日 | 食べもの

味噌は、母が作る味噌しか知らなかった。

味噌汁はおかずも兼ねていた。

修学旅行に行って初めて、味噌や味噌汁が家のものとは違うのを知った。

 

・・・

「成羽町史民俗編」  成羽町 平成3年発行


調味料
味噌
味噌は自家製で、昔はなめ味噌であった。
味噌は、他人にやらぬものといわれ、それぞれの家庭でその家の特技により作られていた。
大豆、麦で作り「三年味噌」が一番良いとされ、樽に封じて三年経って食べていたが、
今では特別の家庭以外は一年位で食べるようになった。
赤味噌・白味噌の二通りで麦麹・米麹によって異なる。

・・・

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

味噌

米味噌と麦味噌があったが、戦後は米味噌中心になった。
味噌作りは冬の仕事であった。
庭があがったら(米の収穫が終わると)すぐに味噌を作った。
米味噌には小米を使うことが多かった。
まず米を蒸し、
麹の素を混ぜ紙袋に入れた。
炬燵にいれたり、風呂の蓋の上に置いて温度を上げ、麹を作った。
また刈りとった青草の上に筵を敷き、蒸した米をひろげて上に筵をかけて家の中の風が当たらないところに置き、青草の発酵熱を利用して麹を作ったこともあるという。

次に大豆を炊き、麹と豆と塩を混ぜて搗いた。
一斗も入る味噌瓶に二つも三つも作った。
三年味噌と言って三年経ったものから食べていったが、
三ヶ月から半年ぐらい経つと食べる家もあった。
高度経済成長以後、各家での味噌作りはだんだんと廃れていった。

 

・・・


「鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

日常のおかず
調味料

味噌
かつては味噌で味付けをすることが多く、
また、おかずでもあった。
重要な調味料であり、保存食であった。
原料は、大豆と裸麦の麹・塩である。
台のうえに筵を二枚敷く。
そこに蒸した裸麦を移し広げる。
タネといって麹菌を加え混ぜる。
上へ筵をかけてねかせる。
大豆を釜で煮て、からうすでついてつぶす。
これに裸麦の麹をまぜる。
両手でもみほぐしながらまぜ、味噌樽に仕込む。
一年に一回、春秋の彼岸ごろにつく家が多い。

・・・・


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


味噌
味噌の原料は、米の麹、大麦の麹、裸麦の麹で、
大豆と塩を用いる。
麹は納屋の土間に青草を敷いて、そのうえに蓆(むしろ)を敷き、
蓆に大豆、膚麦、麹のモトをまぜて、ねさせる。
麹を作るのに技術がいる。
笠岡市吉田では秋の彼岸に搗く。
南部地方では味噌は六十日味噌といって、60日すると食べ始め、翌年また新しい味噌を作って食べる。
吉備高原地方では三年味噌といって3年経過した味噌を重宝がる。

・・・

 

味噌

原料は大豆、米の麹、塩である。

味噌をつく時期は節季で、麹はこたつでねかせたという。
割合は大豆一斗、米の麹五升が四斗樽一本ぶんで、毎年一本づつつく。
三樽ほど所有していて、三年味噌といって、三年経った味噌が味が良い。

 

「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行
食事・記述は、昭和35年ごろまでの食事である。

・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする