旅芸人は茂平にも来ていた。
番屋の隣の集会所(元小学校)に一座数人が泊まっていた。
公演の前の日は、チンドン屋風に村を歩いて”芝居”があることを知らせていた。
芝居は集会所と同じ敷地の”茂平ごらく場”で、
廻りをゴザかなんかで囲み、木戸番を置いていた。
芝居は髷物で、単純な筋だった。
非日常を感じさせれば、それでよい、と一座も観客も思っていたようだ。
公演は前日・公演・公演、の3日間だった。
旅の一座が茂平に来る時・帰る時を見たことはないが、
車ではない。
ということは、荷車を押したり、引いたり
つまり”伊豆の踊子”の一行と何ら変わらない旅姿だったのだろう。
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「昭和の仕事」 澤宮優 弦書房 2010年発行
旅芸人
ドサ回りの一座、いわゆる大衆演劇。
全国を巡業して公演を行った。
昭和10年代~昭和28年頃までが大衆演劇の黄金時代で、
全国で700を越える劇団があった。
劇は剣劇が中心だった。
劇場、集会所、お寺、庭先が舞台だった。
斬られ役は、
一回斬られると着物を着替えて、また斬られる。
セリフは
「親分あんまりだ」
「アニキ、あたしゃ辛抱ができぬ」
の二つだけ。
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「伊豆の踊子」 川端康成
トンネルの出口から峠道が稲妻のように流れていた。
旅芸人の姿が見えた。
六町と行かないうちに私は彼らの一行に追いついた。
(日活映画「伊豆の踊子」昭和38年)
男は大きい柳行李を背負っていた。
四十女は小犬を抱いていた。
上の娘が風呂敷包、
中の娘が柳行李、
踊子は太鼓とその枠を負うていた。
途中、ところどころ村の入口に立札があった。
----物乞い旅芸人村に入るべからず。
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