高校を卒業した春休み、
福山の日本鋼管埋立のボーリング工事のアルバイトを一週間ほどした。
それで、ボーリングとは穴掘りだと思っていた。
それから3年ほど後には、
ボーリングとは玉転がしを差し、
突然のように日本全国にボウリング場ができ、
テレビ番組もでき、スター選手もでた。
笠岡にも井笠バスセンター、ABCホール、笠岡ボウルと三つのボウリング場ができた。
自分専用の靴やボールを持っているのが自慢の人も何人かいた。
ところが、異常なブームは1~2年で終わった。
テレビ番組が終了すると、
飽きられたようにボウリングブームも去っていった。
「ダブル」とか「ストライク」という言葉も聞かなくなった。
数少なくなったボウリング場だが、固定客(常連客)を中心に集客し営業を続けている。
「失われゆく娯楽の図鑑」 藤木TDC グラフィック社 2022年発行
ボウリング
1970年代には「さわやか律子さん」を筆頭に一大ブームを巻き起こす。
日本で爆発的ブームを巻き起こしたのは1970(昭和45)年前後だった。
”人気の中山””実力の須田”と並び、男子プロも五月みどりの弟や、
”プロボーラーの矢島です”ら実力者がいた。
テレビ各局は、ゴールデンタイムに人気プロの試合を放映した。
一度は野球をあきらめかけた落合博満が、プロボーラーを目指したのもこの頃だった。
昭和47年には全国のボウリング場も3697ヶ所に達した。
最盛期には、数百メートルごとに建物の最上部にシンボルの大きなピンを立てたボウリング場を目にしたものだった。
ブームは長続きせず人気番組「スターボウリング」も昭和49年春に終了した。
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