しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和13年「国家総動員法」兵隊さんのおかげです

2024年07月20日 | 昭和11年~15年

昭和12年7月、日中戦争勃発。
昭和12年11月、大本営が設立。
昭和13年4月、国家総動員法が成立。
議会の承認なしで、人も経済も物資も調達が可能になった。
内閣は軍部の代行機関ともいえる存在になった。

・・・・


「ニイタカヤマノボレ1208」 和歌森太郎他 岩崎書店 1995年発行


昭和13年「国家総動員法」

 

♪兵隊さんのおかげです 


兵隊さんよ ありがとう
兵隊さんよ ありがとう

1938年(昭和13年)の4月に、すべてを戦争のためにさしだすことをきめた「国家総動員法」がでてから、
国民の生活をしばる法律や規則がたくさんできました。
中国との戦争が長びき、はたらきてと物資が、どんどん戦争につかわれていたからでした。


まず、綿製品をつくったり売ったりすることが制限されました。
もめんのかわりに人造せんいのステーブル=ファイバーが「代用品」としてでまわりはじめました。
これをりゃくして「スフ」とよびました。
スフということばは、「代用品」「粗悪品」の代名詞のようになり、まじりけのないもめんを「純綿」といい、
これは貴重なものとなって、まじりけのないことの代名詞につかわれるようになりました。
純綿は、戦地の兵隊の軍服や下着そのほかの軍需資材としてつかわれました。

また、ガソリンが統制され、切符制になりました。
自動車の後部を改造し、木炭をたいてエンジンを動かす、「木炭自動車」ができました。
木炭では不経済だとばかり、「薪自動車」が、しりからけむりをはきながら町をはしるようになりました。

1939年(昭和14年)の6月には、昭和のはじめに日本に伝わり、そのころたいそうはやっていた女性の頭髪のパーマネントは、
戦時下にふさわしくないからと、やめることにしました。
農村の仕事着であったモンベが、都会の女性のあいだにも、もちいられるようになりました。

また、男性が、長いかみの毛は「質実剛健」でないからと、坊主がりにしだしたのも、このころのことでした。


この年の7月8日には、おおくの国民がしんぱいしていた「国民徴用令」が、ついにしかれました。
戦争に直接かんけいのないしごと、戦争にとくにひつようでないしごと、とくにいそがないでもすむしごと、
などにたずさわっている国民は、国がひつようとしたときには、いつでも、軍需工場に徴用してはたらかせることになったのです。
いつ戦争にひっぱっていかれるか、という不安のほかに、
このときから、いつ軍需工場に徴用されるか、という不安が、国民ふえてしまいました。
国民を兵隊として戦地へつれていく召集令状は赤紙でしたから、これを「赤紙応召」といい、
徴用は青い色をした令状でしたから「青紙応徴」などとよばれました。

このころ、都会のめぬき通りには、
「日本人なら ぜいたくは出来ない筈だ!」
という立看板が、町をいく人の目をひきました。

こうするうちに、1940年(昭和15年)の7月6日には、「奢侈品等製造販売制限規則」という、規則がだされたのです。
奢侈品とは、つまり「ぜいたく品」のことで、
たとえば、ゆびわ、うでわ、ネックレス、ネクタイピン、ベンダント、銀製の飲食器具、家具、装身具、絹レース、象牙製品などをはじめ、戦時下ではぜいたくだとかんがえられた品じながたくさんふくまれていました。
この規則できめられたものはつくらない、売らないという品じなですから、家のたんすやおしいれにしまわれてしまいました。

それまでの
「日本人なら ぜいたくは出来ない筈だ!」という看板が
「ぜいたくは敵だ!」
と書きかえられました。

毎月一日を「国民精神総動員の日」ときめられましたが、1939年(昭和14年)の9月1日からは、
毎月一日を「興亜奉公日」と名をかえ、この日は国をあげて戦争に協力するとされました。

戦争に積極的な婦人団体はまちにでて、かつやくをはじめました。
東京では、銀座や新宿などのめぬき通りに進出し、目をつけた女性には、
華美な服装はつつしみましょうなどとすりこんだビラをつきつけるのでした。

農村では、若いはたらきてをはじめ、年のいったはたらきても「赤紙」で戦地へいき、
「青紙」で軍需工場にひっぱられなどして、労力がひどくたりなくなっていました。
そのうえ、工場では軍需物資の生産にいそがしくて、肥料や農機具の生産がへっていました。
あれやこれやで、お米の産額も、しだいにへってきました。

「節米運動」ではまにあいません。
そこで「代用食」をたべることになったのです。
うどん、そば、パンなどはいいほうで、
ジャガイモ、サツマイモなどをごはんにまぜたり、そのままたべたり、すいとんをたべたりするようになりました。

興亜奉公日の東京では、食堂や料理店はお米の食事をださないことにし、ふつうの日でも、売る時間を制しました。
飲食店では、昼間からお酒をだすことをやめ、あまい歌やアメリカ調・ ヨーロッパ調の歌のレコードをかけることもやめるようになりました。

そのころのレコードは、軍歌や軍国歌謡(軍国調の歌謡曲)がはんらんしていました。
それにまじって、道中ものとか股旅ものといわれる「やくざ渡世」の歌。
軍歌や軍国歌謡は、
政府(内閣情報局)
軍部(陸海軍省)
新聞社・放送局(NHK)が募集し選定して、レコード会社とむすんで国じゅうにひろめました。

 


・・・・


「金光町史・本編」  金光町  平成15年発行


国家総動員体制

国家総動長期化する戦争に対して政府は昭和12年9月軍事機密保持のため使途を明示しない臨時軍事費特別会計を設けて膨大な戦費調達をはかった。
そのため軍事費は歯止めがなくなり、財政の軍事化が進んだ。
また同年9月10日には軍需生産を優先させるため、軍需工業動員法の適用に関する法律を公布し、
同日に輸出入品等臨時措置法を公布し(戦時における貿易・物資統制の基本法)・臨時資金調達法等を制定し、
戦時統制経済を強化した。

このような中で 昭和13年4月1日国家総動員法を公布した。
これは議会の承認を得ることなく勅令によって戦争に必要な人的・物的資源を動員できるものであった。
これ以降勅令が、
国民徴用・価格等統制令・賃金臨時措置令・小作料統制令などつぎつぎと制定され、
労働力・資金・価格・報道など全てのものが統制され、戦争に動員されていった。
議会は形骸化し、軍部が実権を握り政府の力は強まっていった。

このような軍事力強化の政策は物資・労力を不足させた。
そこで政府は生鮮食料品などに公定価格制を導入し、
ついには配給制度・切符制度を実施して消費の抑制制限を行った。

昭和13年7月4日『合同新聞』によれば、浅口郡の産業組合郡部会では「産業組合報国貯金」と銘打って各組合の貯金割当額を示し、 
占見2万8千円、金光2万6千円が割り当てられている。
同年12月21日の同紙は「農家貯金激増 農家は朗らか」と伝えている。

同年5月1日にはガソリンが配給制になり、 木ガスで代用することを奨励し始め、木炭自動車がみられ始めた。
農家にとっては重要な化成肥料が配給制になった。
浅口郡では昭和15年7月20日から砂糖が切符制となり、
マッチは1日1人4本の切符制が実施された。


また、この年頃から金属献納運動が始まり、
金光教本部でも全国の教徒に対して「退蔵金属献納運動」を呼びかけたと報道された。 
このような戦時体制のもとでは輸出産業は壊滅するのは当然であった。
昭和13年3月15日の『合同新聞』によると
「バンコック帽子輸出全く頓挫す 全工場の打撃甚大」と報じ、
婦人・子供の作業も入っていた家内工業が壊滅していく不安を伝えている。

翌昭和13年1月30日には、金光町軍人後援会主催による「時局講演会」が金光小学校遙南講堂にて行われた。
このような時局講演会や映画会、慰問活動などが、この頃から町内でも多くみられるようになり、
日中戦争下町民への教化活動が行われた。

 

・・・・

「福山市史下巻」 福山市史編纂会 昭和53年発行 

国家総動員体制


昭和12年に各市町村に銃後会・軍人後援会・恤兵会・軍友会などの組織が相ついで結成された。
この年11月には 備後地方3市10郡8万人を統合して大日本国防婦人会福山支部が発会し、「銃後の力」になることがうたわれた。
13年には福山高女勤労報国団、福紡福山工場の防諜団紅眼、
14年に福山警防団、
15年には福山市銃後奉公会・福山地方産業報国連合会などが結成されている。
これらのうち銃後会は、急成長したために、各地に専任の職員がおかれるに至った。

銃後会や後援会はおおむね市町村長が会長、
学校長が副会長となることが多く、有力者を幹部として市町村をあげて組織運営された。

・・・

 

「岡山県史第12巻近代」 岡山県 平成元年発行

銃後奉公会の設置

日中戦争勃発以後、県下各地に銃後後援会・軍人援護会などが生まれてそれぞれ活動していたが、
戦争の長期戦の様相をみて軍部と政府(内務・厚生省)は銃後団体の統一を市町村を単位にはかろうとした。
岡山県は1939年(昭和14)1月、市町村に対して銃後奉公会の設置を通達した。
会長は市町村長、部落代表者・各種団体代表者を評議員に、市町村内の世帯主を会員として、町村補助金・寄付金・会費をもって、
兵役義務心の高揚、隣保相の道義心の振興、現役・準召傷痍軍人や留守家族の援助、労力奉仕や家業の援助、
弔慰と慰問、軍事思想の普及などの諸事業を達成しようとしたものであった。

・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和12年【国民精神総動員運動】が始まる

2024年07月20日 | 昭和11年~15年

昭和6年(1931)の満州事変で、戦時心理が国民に植え付けられ、
昭和12年(1937)の盧溝橋事件で、”国民精神総動員”となり、以後昭和20年まで
戦時体制がつづいていった。

 

・・・


「福山市史下巻」 福山市史編纂会 昭和53年発行 


国民精神総動員運動 

日中戦争開始後、近衛内閣が起こした戦争協力の教化運動として有名な国民精神総動員運動は、
県下では昭和12年(1937)10月13日からの第一回国民精神総動員運動週間でスタートを切った。
そして、その後さままざな強調週間が設定され、「一億の心に染めよ日章旗」などという標語を選定するなど、
多彩な行事が繰りひろげられた。
この運動は、「学校生徒児童勿論、男女青年団員、婦人会員、其他一般民衆」を対象とし、
市町村長・学校長・青年団長・婦人会長を推進者として、思想面だけでなく、
衣食住に至るまでさまざまな面から市民生活に統制を加えた。

この地方では、昭和12年10月18日に福山市で国民精神総動員県民大会が開かれ、 
翌年2月15日には沼隈郡青年団総動員大会が、2.000人を集めて松永小学校で行なわれた。
運動は人心収攬のために大きな役割を果たしたが、精神運動であっただけに、スローガン倒れに終わったり、
押し付けがましさによる反発も少なくなかった。


・・・


「金光町史・本編」  金光町 平成15年発行


国民精神総動員運動

昭和12(1937)年7月7日、蘆溝橋で日中両軍が衝突、日中戦争が始まった。
これにともない、 岡山県(伊藤武彦知事)は、7月20日県知事諭告(第三号)を発し
「国民心を一つにし、愈忠君愛国精神を発揚し、銃後の支援を完うする」よう県民の奮起を促した。 
そうして、同年7月30日、岡山県国民精神総動員実行委員会規程を設けこれを実施することとした。
実行委員には、
官公庁職員、
市町村長、
各種団体代表、
通信報道機関代表、
教育家、
宗教家、
社会事業家、 
実業家その他民間有力者が選出されたが、
その運動実施要項の市町村に関する事項には、
実施計画の樹立実行、各種団体の動員、講演会・協議会・映画会等の開催、軍事扶助団体、勤労奉 仕団体等の活動促進が含まれていた。
これと前後して、金光町では、同年7月28日、平田良平町長のもとで緊急町会を町役場で開催、
「充員応召者ならびに鮮満部隊慰問に関する件」を可決した。

時局講演会や映画会、慰問活動などが、この頃から町内でも多くみられるようになり、
日中戦争下町民への教化活動が行われた。

昭和14年11月、岡山県は国民精神総動員運動をさらに拡大強化するため、
市町村・町内各地区・職場などを単位とする実践網組織として、
それぞれ常会を開いて各種協議を行うよう指示し、県下各地で指導者講習会を開催し、趣旨の徹底を図った。
県の指導した常会の組織要項には、
常会月例会の開催、
また常会の組織としては、市町村常会、部落(区) 常会、町内常会などがあった。
町常会は、町長の下で月一回開催、各種委員会関係者、各種団体代表、部落代表者その他指導的人物に集合が掛けられた。

当時の常会では、
特に精神作興(神社参拝、宮城遙拝ほか)、
簡素生活実践(生活の切下、各種儀式の簡素 化、節酒ほか)、
消費節約(節米、燃料節約ほか)、
物資愛護(廃品回収ほか)、その他生産力拡充、勤労増進、 体位向上、戦時貯蓄、銃後後援の徹底などが協議されたことが報告されている。
この時期の常会の慣行は、外形的には戦後の今日まで各区で続けられている。


・・・


「岡山県史第12巻近代」 岡山県 平成元年発行


 昭和12年「国民精神総動員運動」の展開

県実行委員会の発足
1937年(昭和12)9月24日、岡山県国民総動員実行委員会が結成され、翌日、委員70人の委嘱が県知事より行われた。
国民精神総動員運動は、日中戦争の全面化にふみきった第一次近衛内閣が国民の思想的統合と団結をはかり、
国民を自発的に戦争体制に動員しようとした思想運動であった。
すでに中央では、9月11日比谷公会堂で政府主催の国民精神総動員大演説会が開かれ、
またその後、10月12日に至って国民精神総動員中央連盟が結成されて全国的に推進されることとなった。 
県民130万人を結集し、一大精神運動をはかろうとする同会には、内務省から4574円、文部省から5127円、計9746円が支給され、
委員には
重要官公庁職員17人、
市町村長6人、
貴衆両院議員4人、
県会議員2人、
各団体代表者16人、
通信報道機関代表者5人、
教育家9人、
宗教家4人、
社会事業家4人、
実業家3人、
以上70人であって、表面的には民間人中心の運動という体裁をとっていた。


国民精神総動員週間

1937年10月13日から19日までの一週間、全国的に国民精神総動員週間が設定されて、日本精神の高揚がはかられた。
13日夜には、
岡山市公会堂で講演と映画の会が開かれ、
知事の「国民精神総動員について」 
小谷代議士の「北支軍閥の消長を語る」、
呉鎮守府海軍大佐の「今次事変と国民の覚悟」の講演
とニュース映画があり、精神総動員の趣旨が県民に対して強調された。

この強調週間には、県下各地でいろいろな団体による取り組みがなされた。 
岡山市連合青年団では、青年団・女子青年団・婦人会が中心となって2.000人の団員を総動員することに決定し、
次の事業を計画・実行した。
すなわち、
13日を「時局生活の日」として時局講演会へ参加する、
14日を「出征将兵へ感謝の日」として正午サイレンを合図に一分間黙禱する、
15日を「非常時経済の日」として金品節約による金を献金する、
16日を「銃後の守りの日」として町内・学区内の遺家族を訪問して家業を補助する、
17日を「報国勇士を讃へるの日」として奥市招魂社に参拝する、
18日を「報国の日」として町内学区内の神社・ 仏閣・街路などの美化作業をする、
19日を「非常時心身鍛錬の日」として学区別に小学校でラジオ体操をする、などの諸事業を行った。

岡山県庁では強調週間に協力するため、知事以下800人の職員が、
毎月一日神社参拝をして皇軍の武運長久を祈る、
毎月一日と十五日を「出征軍人の労苦をしのぶ日」として「日の丸弁当」を用意して生活を簡素にする、
愛国貯金を励行する、など申し合わせて実行することを誓った。


女子義勇隊

1937年11月になると、銃後の守りを強固にする新しい団体として、
女子青年団・婦女子義勇隊の編制と新しい対応人会を統制して市町村単位に女子義勇隊を編制することが行われた。 
地域によっては数斑に分け、防空・防火訓練を柱に、平時・戦時両時の構えで公共奉仕の精神と技能を体得することが行われた。
 
愛国婦人会や国防婦人会も国民精神総動員への対応をはかっていった。
愛国婦人会岡山市分会は11月7日岡山市公会堂で総会を開催し、
日本精神の高揚、非常時における国策遂行の貫徹、銃後における国力の根幹の培養に励むことを宣言し、
夜は出征軍人の慰安会を挙行した。
「非常時突破は銃後から、銃後は婦人の力から」をスローガンに結成された国防婦人会も、
1937年11月には県下に407分会・会員数18万に達し、県下3市・380余町村中で未設置町村は15町村に過ぎなくなっていた。
この間、県内の国婦活動は、
1銃後の守りを堅固にするための婦人国防、
2軍人遺家族の救護、
3傷病兵の慰問、
4出征凱旋勇士の歓送迎などの任務に励んできた。

 

・・・

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする