しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満州事変と爆弾三勇士

2024年07月28日 | 昭和元年~10年

36人が各3人1組となって導火線の点いた爆弾かついで敵の鉄条網へ向かった。
ところが、そのうちの1組が途中でこけた。
それを見た隊長は、「戻るな!」と命令。
それで戻れず3人は爆死した。


その二日後の新聞記事。
隊長「国の為に死んでくれ」
隊員「皇軍万歳」
と叫びつつ3人は壮烈無比なる戦死を遂げた。


新聞と同時に国民は熱狂した。
新聞、ラジオ、芝居、銅像、歌、玩具、雑誌、映画に、
軍神であり英雄であり知らぬ人のない著名人となった。

子どもたちは”三勇士ごっこ”で遊び、
運動会では”三勇士競争”。


・・・

三人で爆弾をかかえた勇士のことは、
(我が家では)戦後もつづいた。
母はよほど感動していたのか、
小学生である管理人に何度も同じ話を聞かせてくれた。

・・・

 

(Wikipedia)

・・・

「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行


爆弾三勇士


軍部は鉄条網爆破の三人の死を誇大に報道することになった。
この三兵士は爆弾三勇士、あるいは肉弾三勇士と呼ばれるようになった。
そして、新聞紙が別々にたたえる歌を募集、競作になって三つの歌ともに国民に歌われるようになった。
なかでも有名になったのは当時詩壇の長老、与謝野鉄幹の作詞「爆弾三勇士」(『東京日日新聞』選定)である。
そして 劇化されて上演される。
やがて、銅像もつくられる。
日清戦争の木口小平、日露戦争の広瀬中佐(海軍)、 橘中佐(陸軍)につぐ昭和の軍国美談になった。
戦場の激戦が連日報道されると、銃後が湧く。
緊張もひろがる。

愛国号献納運動は上海事変の戦況報道でさらに拡大した。
ほとんどの飛行機献金はこの上海事変期間中に飛躍的に伸びた。
実際に上海戦では航空機の動きが目立ち、両軍の空中戦闘もあった。
それが銃後に反映されたのである。

・・・・

「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行

 

新聞の役割

もう一つの慰問金運動については、新聞の役割がもっとも大きかったことを認めておかなければならない。
新聞は一方で戦況を伝えて戦争をあおる役割を果たしつつ、
多数の一般市民を献金に動員した。
その献金の届け先は陸軍もしくは海軍で、その取扱いにあたっては在郷軍人会の全国組織が利用されたわけである。
こうして、新しい戦争イベントの中に在郷軍人分会は地域の大衆の一部分として、また在郷軍人会の全国ネットの枠組みの中での役割をえたというべきであろう。
こうして、この時期、在郷軍人会は銃後の要に位置するようになった。


映画の役割

また、この時期の”情報”においては映画の役割にも注意が必要である。
三原分会が活動写真会を開い観衆を集めたように、
在郷軍人会は国防思想の普及宣伝に映画(活動写真)を利用した。
講演と同じくらいに在郷軍人会本部は映画フィルムを貸し出している。
1931年以後年々増えて、1934年には1434回に及んでいる。
映画の利用は大正末期から始まっていた。
満洲事変の原因の一つにあげられる中村大尉事件が開戦後すぐに映画化されていたのに驚かされるが、
当時の映画製作は短期間で事件の余韻のあるうちに上映された。
1932年に入って上海事変が起きると、 爆弾三勇士の劇化映画化もそのスピードで行なわれている。
そして、“活動写真”でありさえすれば大衆は先を争うように見に行った。
大衆動員の大きな道具になったのである。


銃後の形成

新聞社の慰問献金は1931年10月16日の『朝日新聞』(東京・大阪とも)社告ではじまったようである。
2ヶ月後には約23万円、さらに半年後には約45万円に達した。
これが満洲事変の銃後形成に果たした役割は大きい。
愛国機献納運動の嚆矢(こうし)は10月下旬、東京市駒場青年団の10銭拠金だが、軍用飛行機献納運動は府県と大都市の地方行政機構に献金の主導権が移った。そうでなければ実現不可能であった。 
こうして満洲事変ではじめて「銃後」の形成をみた。

満洲事変の銃後は上海事変の勃発によって全国的に固まった。
上海事変は、最初、1932年1月28日の中国正規軍と上海駐留の海軍陸戦隊との武力衝突で始まった。 
陸戦隊は苦戦をつづけ、ついに陸軍の出動になる。
まず、金沢の第九師団、ついで宇都宮第一四師団、善通寺第一一師団が派遣される。 
満洲に送られた兵力より多い出動になった。
全国的な動員を見たわけである。

上海に上陸した最初の陸軍兵力、第九師団はすぐに激戦にさらされた。
攻撃路を開くため鉄条網の爆破が必要になり、
爆薬を抱いた三人の工兵がその身もろとも突っ込んで爆破に成功したという兵士の美談。


・・・


「福山市史 下」 福山市 昭和58年発行


満州事変下の福山 

昭和6年9月19日早朝、市民の耳目をいっきょに外に向けさせる事件の発生が伝えられた。
関東軍が南満州鉄道の一部を爆破したいわゆる柳条溝事件で、以後15年間に及ぶ戦。
満州事変、日中戦争・太平洋戦のきっかけとなった。15年戦争という。

事件が発生すると、これを支持する支配層・軍部の意向をうけて、
新聞・ラジオがその全機能をあげて写真展・映画会・慰問袋・恤兵金・肉弾三勇士などのキャンペーンを行なったので、
福山においても、そうした動きが活発になった。
9月24日、朝日新聞社の主催で市内3ヶ所(大黒座、盈進商業、誠之館)で開催された満州事変映画会には、 
木曜日の昼間であったにもかかわらず、2.000人以上の観客がつめかけ、夜間も昼間に劣らぬ盛況で、 
「銀幕に映る我軍の活躍に拍手の波」がわき起こったといわれる。
新聞やラジオによって中国への敵愾心を燃やしていた市民は、じかに「我軍の活躍」ぶりに接して狂喜したのであろう。
こののち陸軍省が全面的にバックアップした写真展・展示会排日資料展や、
第五師団・四十一連隊・在郷軍人会などが主催した軍事・国防講演会などが開かれるが、
福山公会堂に5.000人以上を集めたのをはじめとして、以後各地でも満員の聴衆を集めたといわれる。

11月末になると、「満州事変号外を生徒へ!学童へ!」という目的で、
福山師範、誠之館・盈進中学、福山・門田・増川高女と東 ・西・南・霞小学校に、アサヒ学校ニュース板が作られ、
「係の先生が平易に解説して、児童にわかりやすく書いて効果を挙げ」るようになった。

3円の為替を呉海軍鎮守府へ送った西小学校の一児童の「美談」を大きく報道した。
満州事変は、国民の間に起こった恤兵金・慰問袋などの慰問運動をはじめとするさまざまの行為が「美談」に仕立てられたことで、きわだった特色をもっている。
こうした「美談」は、子どもから大人までも巻き込み、
学童が小遣いを貯えたり、麦稈真田を編んで行なった献金や、在郷軍人会福山南分会の「タッタ一銭国のため」運動などが相ついで新聞に報ぜられている。
また、第五師団や在郷軍人会の首唱により、兵器献納資金の酸金も全国にさきがけて行なわれ、67万円を集めて軽爆撃機4機が献納され、
うち一機は「第33福山号」と命名された。

慰問袋は愛国婦人会や在郷軍人会・新聞社などが扱い、
日用品のほか子どもたちの図画や作文がそのなかに入れられた。
そのすさまじさは、軍部が「物品より金銭を希望」したほどであった。

このほかさまざまのことが「美談」に仕立てられた。
春日小学校児童が「寒気と戦う満州軍の困苦をしのび、この冬には足袋・手袋などの防寒具を一切用いぬ」と申し合わせ、 
金江村・本郷村の少年団が松毬を拾ったり孤を作ってえた金を寄付し、
増川・門田高女生徒が千人針やお守り袋を送付し、出征・看護婦従軍志願者が血書を提出して志願 したことなどが、
「自発的=国家主義!懸念ヲ発揮」した「時局美談」として、市町村の手で宣伝された。

・・・

 

 

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昭和6年満州事変起こる、昭和7年上海事変起こる

2024年07月28日 | 昭和元年~10年

昭和の初期、「不景気」「娘の身売り」など社会不安の中、
「満州事変」は起こり、海軍は陸軍に遅れずと「上海事変」を起こした。

戦勝の報道に、国民は興奮し旗行列・提灯行列で迎合した。
以後は一貫して太平洋戦争へと戦争の一本道。
”15年戦争”の始まりであった。

 

 

・・・


「教養人の日本史・5」  現代教養文庫 社会思想社 昭和42年発行 


満州事変起こる

「(昭和6年9月)18日の夜は降るような星空であった。
河本は自らレールに小型爆薬を装置して点火した。
時刻は10時過ぎ、轟然たる爆発音と共に切断されたレールと枕木が飛散した。 
こうして柳条溝事件にはじまる「十五年戦争」の幕は落とされた。

 

・・・


「落日燃ゆ」  城山三郎 新潮社 昭和49年発行

関東軍の独走ぶりに、政府はもちろん、西園寺公爵あたりも、「実に今日は困った状態に なった」「実に困った実情である」と嘆息をくり返した。
若槻首相は嘆き、
「日本の軍隊が日本の政府の命令にしたがわないという奇怪な事態となった」
「関東軍は、もはや日本の軍隊ではない。別の独立した軍隊ではないか」
という関東軍独立説までささやかれた。

暴走したのは、関東軍だけではなかった。
朝鮮軍司令官林銑十郎大将は、「軍司令官が管外に出兵するときは、奉勅命令による』という規定に背き、
天皇の御裁可もまだ届かぬ先に、関東軍応援のために、勝手に鴨緑江を越えて朝鮮軍を満州へ送った。


昭和6年12月、若槻内閣が「事変処理に対する政治力の欠如と内閣改造に対する閣員の意見不一を理由に退陣。
政友会単独の犬養内閣がつくられると、青年将校に人気のある皇道派の荒木貞夫中将が、まだ五十四歳の若さで陸軍大臣となった。
この荒木の人事によって、軍は参謀総長に閑院宮載仁親王をかつぎ出した。
参謀総長が外務大臣あたりに文句をいわれてはおもしろくない。
皇族であり軍の長老である閑院宮を戴くことで、統帥部として威圧を加えようというのである。
海軍もこれにならって、伏見宮を軍令部長に戴いた。
この新しい軍中央は、積極策に寛大になった。そして、 翌昭和7年1月には、事変は、上海に飛び火した。

関東軍は独走し続け、3月には満州国建国宣言が行われた。
5月15日、犬養首相は海軍将校の一団に襲われて斃れ、軍部の無言の威圧が、また強まった。 

9月15日に、日本政府は満州国を承認。
議会も満場一致でこれに賛成した。


満州における関東軍の暴走には、それだけの国民的背景があった。
日清、日露の両戦争に出兵して以来、満州は、日本人には一種の「聖地」と見られ、また「生命線」と考えられるようになっていた。
そこは、「10万の英霊、20億の国幣」が費やされた土地であり、単なる隣国の一部ではないという感覚が育っていた。
事実、昭和5年におけるわが国の満州への総投資額は16億を越え、これは満州における全外国資本の七割を占めていた。
そして、朝鮮人80万人をふくむ日本国民100万人が、すでに満州各地に移住していた。
日本の手で、長春・旅順間の南満州鉄道の整備をはじめ、大連の拡張が行われ、多くの炭鉱や鉱山の開発がなされた。
また満鉄付属地には病院・学校なども建設され、満人に開放された。
これらの地域は、関東軍や日本の警察が警備するところから、治安も良く、
それまで軍閥や匪賊に悩まされていた民衆が、他の地域から流入し続けた。
万里の長城以北に在る満州は、「無主の地」といわれるほど、明確な統治者を持たず、各軍閥が割拠し、抗争をくり返し、その間に匪賊 が跳梁する土地でもあった。

一方、日本の国内は、世界恐慌の波にさらされて、不景気のどん底に在った。
失業者は街に溢れ、 求職者に対する働き口は10人に1人という割合。
それにもまして農村、とくに東北の農村地帯は、冷害による凶作も加わって、困窮を極めていた。 
娘を売るだけではない。
事変で出征する兵士に、「死んで帰れ」と、肉親が声をかける。
励ますのではない。戦死すれば、国から金が下りる。その金が欲しい。

植民地らしい植民地を持たぬ日本にとって、満州こそ、残されたただひとつの最後の植民地に見えた。
しかも、関東軍の石原莞爾参謀たちは、これを植民地としてでなく、 
日本人をふくめたアジア諸民族の共存共栄の楽土にするという意気ごみであった。
「五族協和」そし 「王道国家の建設」がうたわれた。
ロマンチックな夢を、石原たちは抱き、これがまた、国民の多くに受け容れられる夢にもなった。

関東軍の突出は、屏息寸前の日本に 活路を拓いたという見方も強かった。
大方の新聞論調がそうであり、議会が満場一致で満州国を承認したのも、そのためであった。

 

・・・

「金光町史・本編」  金光町  平成15年発行


戦争の拡大と町民の生活
昭和恐慌

昭和4(1929)年のニューヨーク株式市場の暴落と海外金利の低下という世界経済の中で、
昭和5年1月21日、米ナショナル=シティ銀行は日本から米国に正貨(金)を現送した。
前年11月に決まっていた金解禁が現実化したのであった。
これにともなって金貨の大量海外流出を招き、日本円は円高になった。
円高になると日本製商品の価格は上昇し、輸出は減少しだした。 
世界恐慌は日本に波及し、昭和恐慌と呼ばれ、この不況は昭和7年頃まで続いた。
当時の状態を『山陽新報』でみたい。 

昭和6年5月10日から10回にわたって「浅口郡青年座談会」を玉島で開き、それを記事にしたものである。 
金光町からも2名が参加し総勢20名の座談会であった。
新聞の見出しは、
「好い副業でもなければ貧乏人は食えぬ」、
「火の消えた様な真田」
「里庄から出る酒屋働き2千人」
「漁村は全く引合はぬ」

 

満州事変勃発

金光町には
昭和4年金光温泉が開業することに決定、
昭和5年金光駅構内に公衆電話が設置、
昭和6年金光教上水道完成。東北地方は冷害・凶作となり、農村不況はさらに深刻化した。

中国では国民政府の主導による国権回復の運動が盛り上がり、
関税の自主権の獲得、
治外法権の撤廃と関東軍の撤退と満鉄の回収要求であった。

中国はまず満鉄の独占的地位の打開をめざし、東三省で日本が求めていた新鉄道の建設を拒否する一方、 
自国鉄道敷設を進め、運賃を値下げし貨客の吸収に務めた。 
満鉄の経営不振は中国鉄道との競合の結果でもあった。
ここで台頭してくるのが関東軍の軍人達で
「満蒙の権益がおかされる」という危機意識を抱く、満蒙領有構想を持つ一派であった。
彼らは「経済上・国防上、満蒙は我が国の生命線」を合言葉としたが、
マスコミもこの言葉を抵抗なく受け入れていった。
そして、満州を日本の勢力下におこうとして武力占領を計画した。 
昭和6(1931)年6月27日中村震太郎大尉事件、同年7月2日の万宝山事件を経て、
同年9月18日柳条湖事件を起こし中国軍に攻撃を加え、満鉄沿線の主要都市を占領した。 
これが満州事変とよばれたのである。

・・・

 


「福山市引野町誌」  引野町誌編纂委員会 昭和61年発行


第一次世界大戦の戦後恐慌から始まって、
関東大震災による震災恐慌、金融恐慌、更に世界恐慌の波をかぶった農村恐慌と、
大正末期から昭和初期にかけての我が国は、息つくひまもないほどの不景気のあらしに襲われた。
特に、昭和5年(1930)に入ってから、米価・農産物価格が暴落して、農村社会の貧窮は深刻であった。
このような国情の中から、満蒙地方を日本の「生命線」として、
この地帯への民族的な進出を図ることによって、国内の矛盾を解消しようとする考えが、軍部や右翼思想家を中心に強く唱えられるようになった。
こうして、昭和6年(1931) 9月、関東軍の謀略によって始まった満州事変を手始めに、日本はいわゆる「十五年戦争」の時代に突入することになった。

戦火は、翌7年の上海事変、昭和12年(1937) 7月からの日華事変(日中戦争)へと拡大し、
更に第二次世界大戦とも連動して、昭和16年(1941) 12月8日、ついに太平洋戦争が引き起こされたのである。 

・・・

 

「NHKラジオ深夜便」 2014年7月号


保阪正康の昭和史を味わう (第4回)

昭和四年から八年ごろまでの、いわゆる昭和初期、
農村は工業恐慌の影響と豊作・凶作からくる市場価格の不安定さにより、未曽有の苛酷な状態に置かれた。

昭和六年九月の満州事変は、軍部による満蒙地域の利権拡大を意図したものだが、
つまるところ日本は軍事主導による戦略で解決策をめざすことになったのである。 

・・・

 

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不要作物の作付制限

2024年07月28日 | 昭和16年~19年

古来より日本人は五穀を食べてきたが、
明治維新後洋風化が進み、
肉や野菜や果物も食べるようになった。

ところが日中戦争の勃発後より食糧が不足してきた。国家総動員法等により、農家に作物制限が行われた。
農家は”食糧生産物”のみ耕作して、
それ以外は作付けしてはいけないことになった。

作っていいものは、稲、麦、甘藷、馬齢薯、大豆。
果物も、養蚕も、野菜も、家の自給以外は作れないようになった。


不思議に思うことがある。

果物農家が、国から「果物」作りを禁止されると死活問題となるが
父母も、祖父母も、隣近所のおじさん・おばさんも、
その事についての話すのを耳にしたことがない。
何故だろう?




昭和14年~20年頃、管理人の家で耕作していたと予想されるうち、
主要なものは、(太字は作付け統制や禁止

米・麦・黍
除虫菊・薄荷
梨・桃・枇杷・イチジク・葡萄・西瓜

このうち
米・麦・黍はほぼ自給用、多少売り。
除虫菊・薄荷は100%商品。
梨・桃・枇杷・イチジク・葡萄・西瓜も、ほぼ100%商品。



下記の対応と思える。

除虫菊と薄荷は食糧ではないが、軍の需要があった。
梨・桃・枇杷・イチジクは老木の植え替えをしない。
西瓜は作付け中止。
つまり事実上、西瓜やメロン程度が制限・禁止されただけ。
野菜・芋・豆・茶等は自給用で、元から、買わないし売るほど作らない。

国家の統制に対して、甘藷の作付面瀬を少し増やした程度と思われる。
家では作ってなかったが、タバコ栽培も軍の需要で影響はなかった。

「岡山県史」では養蚕が打撃と記されているが、昭和恐慌で生産は減り、
戦時中は人手不足で農家に魅力的な商品ではなかっただろう。


・・・


「新修倉敷市史6 近代・下」 倉敷市史研究会 2004年発行

農業も厳しい統制下に


農家は昭和14年11月公布の米穀配給統制応急措置令、続いて翌15年11月から施行の米穀管理規則で、
作った米を政府へ供出しなければならなくなり、米の自由な取引ができなくなった。
さらに岡山県は昭和16年4月、農作物作付制限規則を公布して、果樹・桑・ 茶・庭木などの新植を抑え、
翌年からはスイカ・レンコン・ハッカ・除虫菊・ホオズキなどの作付けも制限した。
この作付け制限は昭和18年秋にいっそう強められ、
農家は米麦中心の農業しかできなくなったのである。

農作業の仕方も統制された。
都窪郡農会は昭和17年1月、農作物統制規程を定めて大麦・裸麦・小麦の作付け反別などを統制し、
共同作業統制規程で田畑の管理・播種・苗代・田植え・除草・収穫・脱穀。籾摺り・病害虫防除を共同で行うように決め、
人を雇ったり雇われたりして農業することも制限した。
石油発動機から噴霧器まで、農機具の使用方法も統制した。
その一方で農家は、米麦や芋類などの食糧はもちろん、軍用の梅漬けや馬の飼料まで、供出の増加を求められた。
食糧不足が激しくなると、自家米の節米・食い延ばしをして、余剰米を供出するよう要求される事態にもなった。
農家は次第に供出割当てが増える食糧の増産に追われながら、深刻な肥料不足にも対処しなければならな かった。
玉島町(現、倉敷市)では学童を動員して家庭の灰を集め、
市街地のゴミや人糞尿、蚕の糞から川底 の泥まで肥料に利用している。
同町に限らず、化学肥料が入手できない農家は同じような方法で肥料を自給 していたのである。

 

・・・

「岡山県農地改革誌」  船橋治  不二出版 1991年発行

【第一次統制】

 

【第二次統制】

かく県令をもつて戦時下不急、不要作物の作付を抑制して戦争遂行上の重要農産物の確保を企画して来たが
日華事変の進展は食糧増産の重要性を更に加えるにいたり、
ついに昭和16年10月16日臨時農地等管理令第十条 第十三条の規定に基き農林省令第八十六号をもつて農地作付統制規則の公布実施を見るにいたった、
本令は農林大臣の指定する作物をその制限を超えての作付を禁止し、
なお食糧農産物の生産拡充のため制限作物を必要に応じ食糧農作物に作付転換せしむることが規定された。
食糧農作物
農林大臣の指定する農作物並期日は次の通りである。

食糧農作物
稲、麦、甘藷、馬齢薯、大豆

 

一、第二種制限作物の第三次統制告示の改正

大平洋戦争ますます苛烈を極め時局が深刻化するとともに農村労力の戦場或は軍需工場への吸収は
農業労力の極端なる不足を見るに到り更に 農具、肥料等の生産資材の欠乏しいものがあつて、
農業生産力は必然的に減産し国民食糧は極めて緊迫を受けるにいたった。
ここに於て第二種制限作物の作付統制を更に強化する方針をもつて昭和18年11月左記の通り告示の改正を行った。

・・・

 

 

・・・


「愛媛県史 近代・下」 愛媛県 昭和63年発行
  
農業の戦時統制と食糧増産運動
第二次産業組合拡充三か年計画

昭和13年(1938)より第二次産業組合拡充三か年計画が実施に移された。
その計画立案最中の昭和12年7月、日中戦争が勃発し、政府及び軍部の意図に反して、戦争は長期戦の様相を呈していった。
非常時下における国家統制が強化されていく中で、農業の面では、産業組合が、統制のための組織として利用されることになった。
一方、産業組合運動自体からも、「戦時体制の運行を円滑にし広義国防の完璧を期し、以て奉公報国の至誠を効する確固たる覚悟を堅持する事を要す」として、積極的・意識的に国家統制に協力してゆく姿勢が打ち出された。

県内では、昭和12年11月22日、県公会堂において開かれた第七回県下産業組合長会議において、
「日支事変対策に関する件」とともに、「第二次産業組合拡充三か年計画に関する件」が決議され、
昭和13年1月より計画が実践に移されることとなった。
尽忠報国、人格陶冶、斉家治産、共存同策、八紘一宇の組合員精神綱領が採択され、
産業組合の全組織をあげて戦争協力体制が進められていくこととなった。

農業会の成立
農業会の役割は、国の農業政策に即応して食糧その他重要農産物の生産を維持すること及び農業全般に対する指導統制であった。

食糧増産運動の開始
戦時下の農政にとって、最大の眼目は戦争遂行のための食糧確保である。
米・麦・酒精原料甘藷などの重要農産物増産の、その概略を示すこととする。


米穀の増産

県では各年度ごとに米・麦・藷類・豆・雑穀などについて具体的な生産目標を立てて増産を目指したが、
米穀は、多収穫品種の植え付けによって増産を図るため、昭和17年度より、県及び農会が一体となって種籾管理計画が実行に移されることになった。


麦類の増産

麦は、米と並ぶ重要食糧であり、混食によって米の消費を節約する観点からも、その増産が奨励された。
増産のための具体策として特に力が入れられたのは、
休閑地の開墾、桑園・果樹園の転作、暗渠・客土などの土地改良による湿田の二毛作田化であった。
麦踏み、追肥、土入れの時期が指示され、増産のための具体的で細かい配慮がなされている。


甘藷の増産

甘藷は、当初酒精原料としての役割が重要視されていたが、戦争の長期化に伴う食糧事情悪化の中で、
米麦の不足を補う重要食糧として期待されるようになり、その増産に力が入れられた。
昭和13年1月、県が策定した最初の増産計画の中に、甘藷は、玉蜀黍・茶・苧麻と共に対象作物として取り上げられ、
県農会も同年より増産指導を始めた。
その後、米麦需給の逼迫とともに、戦時下食糧としての甘藷の重要性が認識されるようになり、
果樹園・桑園の転換、空閑地の開墾などによって栽培面積は急増した。
昭和19年度には、県の主導のもとに戦力増強甘藷倍加運動が展開されることとなり、
開墾地・休閑地・既栽培地利用、果樹園の転換・間作・周囲作により作付け面積増加が計画された。

その進展を図るため、中等学校・青年学校・国民学校長宛に出され、増産のための具体的方策として、
(1)校地・校下の空地などを利用し、各学校一反歩以上の甘藷を栽培する、
(2)学童生徒を通じ、学校育苗園にて育成した甘藷苗を各家庭に配布し、
一戸当たり六株以上を宅地、垣根を利用して植え付ける、
(3)学童生徒を通じ、甘藷皆作空地撲滅の県民運動を推進する、
(4)勤労奉仕などを通じ、甘藷増産意欲の高揚、栽培技術改善に努めることが指示された。
利用可能な土地は、寸土も余さず食糧増産のために活用した当時の状況がよく示されているが、
食糧事情の窮迫を如実に表している現象でもあった。
昭和18年7月には、着任直後の相川知事の発案により、県庁の庭もすべて開墾して大豆・そばを栽培し、
県自らが県民に対して範を示す措置もとられた。


食糧生産の減退

戦時下における食糧確保を目指して進められた増産政策、農業統制にもかかわらず、
労働力不足及び肥料を中心とする生産資材欠乏によりこれらの政策は所期の目的を十分達成することはできなかった。
全国的にみて、米は昭和15年、麦は16年、茶・木炭は17年から生産が漸減し始めた。
県内における耕地面積は、昭和10年ころから増加に転じ、15年に頂点をむかえたが、以後は漸減していった。
一方、作付け面積は15年以後も増加し、17年に至って耕地利用度は185%を示した。
これは、国、県などによる増産政策の成果と考えられるが、
これを頂点として、以後は耕地面積と同じく漸減をみせることとなった。
藷類を除く主要食糧作物は、減退の傾向がみられた。
全作物を通して特に19年以降の減退が激しく、物不足・人不足の中で進められた国・県の細部にわたる増産策、農民の増産努力の限界を示すものであろう。

 


・・・


「岡山県史 現代Ⅰ」 岡山県 1990年発行


蚕の衰退と畜産の復活

戦中・戦後の食糧増産対策によって最も深刻な打撃を受けたのは、養蚕および製糸業である。
戦前は桑園面積一万町歩を超え、養蚕農家も5万戸にまで達し、200万貫の繭を生産したこともあったが、
戦時経済の下で漸次減少して行き、1946年 (昭和21)には桑園面積1427町歩 養蚕戸数7.573戸、繭量約13万7千貫となり、
桑園面積で戦前最盛期の14%、産繭量では6%にまで低下してしまった。
同年養蚕復興五ヵ年計画を樹立して養蚕の振興を図ったが生産は停滞を続け、
1950年には、桑園面積、戸数、産繭量とも一段と減少している。

養蚕に代わって戦後目覚ましく進展したのが畜産である。
和牛の飼養頭数は増加に転じ1950年には11万頭に達した。また水田の裏作に牧草を栽培する水田酪農が普及し、乳牛の頭数も増加の勢を見せ始めた。


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