しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「平家物語」厳島御幸  (広島県宮島)

2024年07月21日 | 旅と文学

高倉天皇は後白河天皇の第7皇子で、
8歳で高倉天皇となり、
20歳で天皇退位。上皇となった。
21歳、高倉上皇は崩御した。

実父(後白河法皇)や義父(清盛)が命じるような感じで
天皇になり、そして退位した。
宮島訪問は、高倉上皇の短い人生の最期の表舞台となった。

 

・・・

旅の場所・広島県廿日市市宮島町  
旅の日・2023年6月10日                 
書名・平家物語
原作者・不明
現代訳・「平家物語」古川日出男 河出書房新社 2016年発行

・・・

 

厳島御幸---三歳の新帝誕生


治承四年正月一日。
鳥羽殿には参賀に参る人がありません。
入道相国が朝臣の参賀を許さず、後白河法皇もまた気兼ねなさっていたからです。


二月二十一日。
高倉天皇はべつにこれといったご病気でもいらっしゃらなかったのに
無理にご退位させ申して、春宮が皇位を継がれたのでした。
もちろん入道相国の、「すべては思いのままになるから」となされたこと。
平家一門は、自分たちの時代が到来したぞとばかり、みな大騒ぎです。
高倉天皇は高倉上皇となって、
灯火も減り、宮中警固武士たちも途絶え心細いのでした。
新帝は今年三歳。
幼帝も幼帝。まさに幼君。
「ああ、このご譲位はあまりに時期が早すぎる」

 

 

治承四年三月。
高倉上皇が安芸の国の厳島神社へ御幸なさる話が伝わりました。
人々は不審に思いました。
なぜならば、
天皇がご退位になった後の諸社御幸の初めには、
八幡、賀茂、春日などへお出になるのが常の習いでした。
遠い安芸の国までの御幸とは不思議でならないからです。

三月二十九日。
高倉上皇は今年おん歳二十。
お姿はひとしお美しくお見えになるのでした。
鳥羽の草津という船着場からお船にお乗りになりました。

 

 

 


還御---帰路の風雅

三月二十六日。
上皇は厳島へご到着になりました。 
入道相国がたいそう寵愛された内侍の邸が上皇の御所となりました。
中二日ご滞在なさって、御経供養や舞楽が行なわれました。 
導師は三井寺の公顕僧正であったということです。
この僧正が高座に上り、鐘を鳴らし、表白の詞に
「九重の都を出て、八重の潮路を分け、はるばると参詣なさったおん志しの、忝さ」
と高らかに申されたので、君も、臣も、みな感涙を流されましたよ。
高倉上皇は本社の大宮や客人の宮をはじめ、各社残らず御幸になりました。
それと大宮から五町ばかり山をまわって、滝の宮へもご参詣になりました。
公顕僧正は一首の歌を詠み、その滝の宮 拝殿の柱に書きつけられました。

三月二十九日。
上皇は船出の用意を調えられて帰途に就かれました。
しかし、どうにも風が熟しい。そこでお船を漕ぎ戻させて、厳島のうちの有の浦というところにお泊まりになりました。
上皇はお供の公卿や殿上人におおせになります。
「さあ、皆の者、厳島大明神とのお名残りを惜しんで、作歌しなさい」
そこで少将藤原隆房が詠みましたのは、この一首。

たちかへる 
なごりもありの 
浦なれば 
神もめぐみを 
かくる白波

 

 

夜半になって波も静まり、あの烈風も収まりましたので、上皇はお船を漕ぎ出させ、
その日は備後の国の敷名の泊にお着きになりました。
今日が何月何日かと申せば、もう四月の一日。
「そうか、今日は衣更えの行なわれる日だ」と、上皇も供奉の人々もそれぞれ都のほうを偲んで、お遊びに興じられます。


四月二十二日。
この日、新帝のご即位の儀式が行われたのです。
安徳天皇でございます。

 

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「平家物語」富士川の戦い  (静岡県富士川)

2024年07月21日 | 旅と文学

斎藤実盛(さねもり)といえば、
岡山県では「実盛さま」と呼ばれ、田んぼの虫送り行事で知られる。

奥の細道では、芭蕉の句も有名。
【むざんやな甲の下のきりぎりす】

元はと言えば、斎藤実盛は平家物語に多く登場する。
富士川の戦いでも、主役をつとめていると言っていい。

 

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旅の場所・静岡県富士川
旅の日・2022年7月9日
書名・平家物語
原作者・不明
現代訳・「平家物語」 長野常一  現代教養文庫 1969年発行

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富士川

その日の暮れ方、平家の陣の前を、急ぎ足で西の方へ行く下男の男があった。
怪しいと見て、平家の兵はこの男を捕え、侍大将忠清の前へひっ立てて来た。
すぐに尋問がはじまる。
「そちはどこの何者か。」
「はい、常陸(今の茨城県)の源氏、佐竹太郎殿の下男でございます。」

「して、どこへ行く。」
「はい、都へ参ります。」
「時に、そちは鎌倉を通って来たであろうが。」
「はい、通って参りました。」

「では尋ねるが、鎌倉には源氏の軍勢がいかほど集まっておったかの。」
「さあ、私のような下郎の身は、四、五百、千までは数えられますが、それから上は数えられませぬ。」
「いや、そちがいちいち数えなくとも、人のうわさでは、どれくらいと申しておったか。」
「はい、たしか二十万騎とか申しておりました。」
「なに、二十万騎!」

「それはたんに人のうわさであろうが.........」
「もちろん、うわさでございます。しかし、私がここまで参ります間、八日九日と歩きつづけて参りましたが、
野も山も海も川も、みな源氏の武者で埋まっておりました。」

 

 

平家の遠征軍の中には、斎藤別当実盛という老武者がひとり加わっていた。
彼はもと源氏の家来であったのだが、今は平家につかえているのである。
平素は武蔵の国に住んでいたので、坂東の事情に詳しかった。

大将軍維盛
「いかに実盛、坂東八か国には、そちほどの強い弓を引く者が、何人くらいあるかな。」
そうはあるまいと思って、雑盛は尋ねてみたのであった。


実盛
「はっ、はっ、はっ。」

大将軍維盛
「実盛、どうしたのか。急に笑い出したりして。」

実盛
「殿はこの実盛の弓を強いと思われますか。
矢の長さはわずかに十三束にござりまする。
坂東に強弓矢と申しますは、十五束以上をさしまする。
かような大矢に当たりますと、鎧の二つ三 つは、ぶつりと射通されてしまいまする。

だいたい、東国の大名は、ひとりで五百崎の敵を相手にいたしまする。
それに坂東武者はみな馬の達人、どんな足場の悪い悪所をかけても、馬を倒すことはありません。
いざいくさともなれば、たとえ親が討たれ、子が討たれても、その死骸を乗り越え乗り越え戦いまする。
それに比べ西国のいくさは、
親が討たれれば引き退き、その仏事供養をすませてから戦います。
子が討たれれば親は泣き、もはや戦う気力もなくなってしまいます。
兵粮米が尽きればいくさはやめ、夏は暑いとていくさをきらい、冬は寒いとて出陣いたしません。
こんなことでは勝てるいくさにも勝てません......」


そこまで話して実盛はひと息つき、並みいる平家の武士たちを見まわした。
恐ろしさのために青い顔をしたのもあり、恥ずかしそうに下うつ向いているのもある。
かくするうちに、源氏の軍勢がようやく富士川の対岸にあらわれた。
あとからあとからと、それはつづく。平家の赤旗に対して、源氏の白旗が野にも山にもへんぽんとひるがえった。
十月二十四日の卵の刻(午前六時)に、源平の矢合わせが行なわれることになった。


その夜半、富士川付近の沼におびただしく群がっていた水鳥が、何に驚いたのか、いっせいに ぱっと飛び立った。
何千、何万という水鳥の羽音が水面にこだまして、雷のように聞こえた。
平家の兵たちは、これはてっきり源氏が夜討ちをかけてきたものと思い込んだ。

「おお、夜討ちだ! 夜討ちだ! 源氏が押し寄せたぞ!」
「親が死んでも子は知らぬという坂東武者だ!」
平家の陣営は上を下への大騒動になった。だれかがどなっている。
「取りまかれては全滅だ。逃げろ!」
と、ひとりが言い出すと、あとはもう総崩れだ。

弓を持った者は矢を持たず、矢を持った者は弓を忘れる。
他人の馬には自分が乗り、自分の馬には他人が乗る。
中には瓶につないだままの馬にあわてて飛び乗って、馬の尻をひっぱたいたからたまらない。
馬は枕のまわりをグルグルとまわる。こうして平家軍は、一兵も残さず、夜なかのうちに逃げて行った。


平家が戦わずして逃げ帰ったといううわさは、すぐに京都や福原へも聞こえてきた。
平清盛は、ひたいに太い青筋を立てて怒った。
「なんというぶざまな負けようだ。維盛は鬼界が島へ流してしまえ!忠清は死罪にしてしまえ!」 
と思いたが、なだめる者があって、それまでの罰は行なわれずにすんだ。

 

 

それにしても、水鳥の羽音に驚いて逃げたという例は、今までの歴史にないことだ。
そのただ 一つの例を作った平家の軍勢は、後世の物笑いになった。

 

 

 

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風林火山  (長野県川中島)

2024年07月21日 | 旅と文学

第二次世界大戦中、
皇居や大本営や政府機関を、東京から日本本土の中央部分に移転することが決まった。
その工事は完成をみないうちに終戦となった。
今は一部が「松代大本営跡象山地下壕」として一般公開されている。

信玄と謙信の川中島の戦いの場所は、
その「松代大本営跡」と数キロと離れていない。
つまり、信玄と謙信の両雄は、日本の中央部分で華々しく戦ったともいえ、
戦国時代を代表する合戦として現在まで語り継がれている。

 

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旅の場所・ 長野県長野市小島田町 「川中島古戦場」
旅の日・2014年7月19日
書名・風林火山
著者・井上靖
発行・新潮社 2006年発行

・・・

 

 

信玄の本隊一万は予定通り十八日に古府を出発すると、二十日に大門峠を越え、南信の部隊三千を加え、二十一日に腰越に到着、その夜は上田に宿営した。
海津城からの急便は次々に到着した。
謙信は 千曲川を渡り武田陣の背後に廻り、自らが退路を断った形だった。
二十九日、信玄は再び千曲川を渡り、全軍を海津城に収容した。
妻女山の謙信と海津城の信玄は指呼の間に相対峙したまま九月を迎えた。

 

九月九日の重陽の節句の日、海津城の将兵は本丸付近に集まり、そこで祝宴が張られた。
高坂昌信の率いる一万二千の大部隊が、卯の刻(午前六時)に妻女山の謙信の陣営を衝くために、
深夜、城を出て丘陵の急坂を登って行ったのは月の出の少し前であった。
広瀬で千曲川を渡った。
平原には濃霧が立ちこめていた。
武田の旗本軍はその霧の底を這うようにして、次第に幅広く横隊となって展開して行った。
信玄の本営が陣したのは八幡原であった。
風林火山を初めとする何十本の旌旗は霧の中に立てられた。
「まだか」
妻女山の方向を注意させていた。
依然として霧は深く、一間先きの見通しは利かない。
「上様!」
「前面の部隊は越後勢と見受けます。推定一万数千」
言った時、烈しい銃声が西方で起った。

 


いつか霧は上がろうとしていた。。
勘助は見た。
それは彼が生を享けて初めて見る世にも恐ろしいものであった。
勘助は思わず息を呑んだ。
はっとして見惚れていたいような、見事な敵の進撃振りであった。

敗退した武田隊に替って前線に出た山県隊は、左翼から中央へかけての広い戦線に亘って長い間攻勢を持していたが、これまたいつか守勢に立ち、一歩一歩後退の余儀なきに到っていた。
こうした情勢下に、右翼では諸角豊後守が乱戦の中に討死した。
大将を討たれて、右翼方面 は一度に浮足立った。

 


「山本勘助、首級を頂戴する」
ひどく若々しい声が聞えた。
勘助はその方を見ようとした。何も見えなかった。
突き刺された槍の柄を握ったまま、勘助は三尺の刀を大きく横に払った。手応えはなかった。
烈しい痛みがまた肩を走った。
勘助は半間ほど、突き刺されている槍で手繰り寄せられるようによろめき、松の立木にぶつかった。
勘助はそれに寄りかかりながらなおも刀を構えていた。 
勘助の一生の中で、一番静かな時間が来た。 
相変らず叫声と喚声は天地を埋めていたが、それはひどく静かなものに勘助には聞えた。
血しぶきが上がった。
異相の軍師勘助の首は、その短い胴体から離れた。

 

 

 

そして、またその時、越軍の総帥謙信は、金の星兜の上を、白妙の練組をもって行人包みにし、
二尺四寸の太刀を抜き放つや、いままさに月毛の馬に鞭を入れようとしていた。
単身信玄を襲い、いっきに宿敵と雌雄を決せんとするためである。
平原はその頃から全く表情を改め、
陽は翳り、西南にはどす黒い雨雲がもくもくと沸き起りつつあった。

 

 

 

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