”夢の超特急”新幹線は、昭和39年(1964)10月、東京五輪に合わせて開業。(東京⇔新大阪)
昭和47年(1972)3月15日山陽新幹線開業。(新大阪⇔岡山)
昭和50年(1975)3月10日全線開通。(岡山⇔博多)
今日(2025.3.10)が山陽新幹線全線開通50周年。
開通前後、鹿児島県鹿屋市に住んでいた。
開通前は寝台の夜行列車で、岡山県笠岡まで帰省していた。
夜行列車は笠岡駅には停車しないので広島駅から乗っていた。
広島の流川・薬研堀で遊び、すこし酔っぱらってから午後10時頃の夜行列車に乗るのがパターンだった。
熊本県の八代あたりで朝になり、車掌さんが来てベッドを座席に転換していた。
西鹿児島に着いてからが、また遠かった。
鹿児島から船に乗って大隅半島の垂水まで行き、垂水からバスか汽車に乗って鹿屋に着いた。
鹿屋から笠岡へは、その往復だが山陽本線の車窓からは、工事中の山陽新幹線が至る所で見えた。
新尾道駅と東広島駅は後年出来たもの。
岡山県では、県内に新幹線の駅が岡山駅一つではメンツにかかわると、倉敷市が運動もしないのに「新倉敷駅」が建設された。
新幹線が博多駅まで延長開業後は、福山駅から博多駅まで行き、鹿児島本線に乗り換えていた。
全線開業で便利になったという思いはなかった。
乗り換えがめんどかった。
開通までは夜に移動、開業後は昼に移動と、時間帯が変わった。
ある年の春に兄の結婚式が笠岡市労働福祉会館であり、
それに出席するため笠岡に帰ろうとしたら(当時の恒例の)春闘の国鉄ストライキとがっちんした。
これには困った!
鹿児島市の同僚が飛行機の切符を手配してくれた。
そのとき生まれて初めて飛行機に乗った。
空から見る宮崎県の海岸線が地図と同じで、「同じだなあ」と思う間もなく福岡空港に降りていった。
降りてすぐ、生れて二度目の飛行機に乗った。
福岡発広島行の飛行機で、広島空港は現在の山間部でなく、海辺の広島市己斐。
広島空港からは高校の友人が車で笠岡まで連れて帰ってくれた。
笠岡から鹿児島へ戻る時には国鉄ストは終わっていた。(例年通りで終わるのはわかっていた)
当時の国鉄ストは多くの国民にとってほんとに迷惑だった。
国鉄労組とTV討論した海部俊樹さんは、その功績と知名度で首相にまでなった。
新幹線がない当時、下りの山陽本線が下関を過ぎると(海底トンネルになる頃)
同乗者の会話が標準語から九州弁に変ると言われていた。
下関で降りなかった人は全員、九州人または九州に行く人なので、同胞九州人になるそうだが、
自分の場合は夜行列車だったので、その現場を見たことはない。少し残念。