吉井川の高瀬舟は、河川舟運の開発者として有名な”角倉了以”のモデルにもなった。
現在でも、その流れを見ていると理想的な舟運の河川であるように感じる。
(柵原ふれあい鉱山公園)
高瀬舟(たかせぶね)
説明板
柵原のある美作の国は山国でしたが、
吉井川の高瀬舟によって瀬戸内地方との交流ができたので、
経済活動が盛んでした。
江戸時代の柵原には6ヶ所の船着場があり、
高瀬舟は160隻、船頭も480人いました。
高瀬舟は年貢米をはじめ、
木炭や薪など、この地方の品物を積んで吉井川を下り、
帰りには様々な生活用品を積んで、吉井川を上ってきました。
この高瀬舟は、1992年に再現したものです。
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高瀬舟
「加茂町史」
古代以来明治にはいるまでの陸上交通手段は、人畜力のみであったから、
人肩馬背により四方を囲む山々の峠道を越えて行われた。
なかでも年貢米の輸送は、津山あるいは樽河岸へと陸送されるのが常であり、
その納入期には人々の長蛇の列が各輸送路に続いた。
こうした重量貨物で一時に多量の輸送を必要とするものは、
道路輸送よりも荷痛みも少なく、運賃も割安であった水運によって輸送しようという試みが各地で行われた。
高梁川の場合14世紀初頭には、支流成羽川で広島県境ふきん(備中町小谷)まで難工事のうえ通行していた。
当時本流では、数なくとも高梁までは通航していたと考えられる。
旭川・吉井川についても、それぞれ勝山・津山・林野までは中世末期に通航してたと考えられる。
この中世の船路が近世大名たちによって開発された。
航路の維持には、年平均1.000人の有償労働賦役を繰り出して川堀りし、藩の課題となった。
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「せとうち産業風土記」 山陽新聞社 昭和52年発行
今から500年前の室町時代に、早くも岡山県下三大河川には、
中流当たりまで高瀬舟が上っていた。
江戸時代になると、中国山地の山ふところまで航路が伸び、
高梁川は新見市、
旭川は真庭郡久世、落合両町、
吉井川は英田郡美作町、苫田郡鏡野町と奥深く進み、
まさに「舟、山に登る」といった感があった。
舟の長さは12m、幅2m、高さは1.1mほど。
どんな急流でも、幅5mの水路さえあれば自由に通航できたという。
船頭3人は、櫂、櫓、帆を巧みに操りながら下っていく。
江戸時代、高梁川には常時183艘もの舟が往来していたという記録が残っている。
高瀬舟は1艘で、
米なら35俵、
人なら30人運べ、
馬20頭分以上の働きがあり、物資輸送の花形だった。
鉄道が開通し、陸路が整備されると、客と貨物を奪われ
旭川、吉井川から次第に姿を消していった。
昭和3年、伯備線が全線開通するとともに、
高梁川でもその姿は見られなくなり、
河川交通の主役としての長い歴史を閉じる。
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(周匝)
「柵原町史」 柵原町 第一法規出版 昭和62年発行
高瀬舟のさし声
一、
ほほい ほい ほい
瀬口じゃ 瀬口じゃ 引きずりまわせいや
ふにゃー(舟は)
おきい(沖に)
向いとるじゃないかいや
ろろ へいろー いへん
二、
おうい
お最中じゃ ないかいや
ぐいと引いちゃりやー
こいへ へいろー いへん
三、
おーい
引いちゃりやー
ふにゃー頭んばあじゃいわいや
ろろ へいろ いへん
(注)
決まった歌詞はなく、その場に合わせて即興的に歌ったそうである。
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「鏡野町史・通史編」 鏡野町 ぎょうせい 平成21年発行
年貢米の輸送はもとより商品輸送においても、
牛・馬を使っての陸路輸送に勝る輸送力をもつ高瀬舟は、
当時において第一の極めて有利な輸送手段であった。
そこで、
領地が山間部にある地域では、そこに谷筋が深く入り込む河川航路の開発は重要な意味をもつことになる。
したがって、更に上流へと航路の開発が企てられることになった。
河川の氾濫等により変化する航路維持には、大変な労力を必要とした。
川沿いの村々では、川底を掘り下げて航路を維持・確保するための川除けを、村々の責任において毎年毎年行わなければならなかった。
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(津山市三浦駅ふきん)
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撮影日・2022.4.5 岡山県赤磐市・美咲町・津山市
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