しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

リンゴ村から  ~青森県りんご発達史~

2021年10月18日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
子どもの頃、
昼飯と晩飯の間に腹にとおすものといえば、
ふかし芋やあられのような自給品を戸棚から出して食べていた。

”おやつ”とは町の子が3時ごろに食べるお菓子のようなものを想像していた。
ある時、母に
「皇太子(←今の上皇)が食べるおやつはどんなものかなあ?」と聞くと、
「リンゴやこじゃろうなあ」
リンゴは、現物を見たことはなかった。絵本で見て桃のような形で赤い果物だった。
皇太子は一つのリンゴを兄弟で等分して食べるのではなくて、一個まるごと一人で食べるんだろうな、と子ども心にうらやましく思ったりもした。



(長野県小布施町にて 2017.9.26)

「リンゴ村から」 作詞:矢野亮,作曲:林伊佐緒、歌:三橋美智也

リンゴ村から
覚えているかい 故郷の村を
たよりもとだえて 幾年(いくとせ)過ぎた
都へ積み出す まっかなリンゴ
見るたびつらいよ 俺(おい)らのナ 俺らの胸が

おぼえているかい 別れたあの夜
泣き泣き走った 小雨のホーム
上りの夜汽車の にじんだ汽笛
せつなく揺するよ 俺らのナ 俺らの胸を

おぼえているかい 子供の頃に
二人で遊んだ あの山・小川
昔とちっとも 変っちゃいない
帰っておくれよ 俺らのナ 俺らの胸に



三橋美智也の歌は大ヒット、
映画化され(赤胴鈴之助の)梅若正二で、映画も(小)ヒット。




(青森県黒石市から見る岩木山、秀麗な形は雲に隠れても魅力があった 2018.6.28)





「地方の時代」 山田宗睦編 文一総合出版 昭和53年発行

青森県りんご発達史  波多江久吉

りんご栽培の大集団地 

青森県のりんご栽培は昭和50年に年間45万トンで、青森県と言えばりんごが連想されるほどの主産地を形成している。
その成立のいきさつは偶然ではない。
気候風土などの自然条件の適地性発見に出発しているし、
その地方の人々の取り組み、育てあげてきた集団の長い間の努力の蓄積されたものであることを見落としてはなるまい。

日本のりんご百万トンも、その半分は青森県の生産で、青森県が百年かかって日本のりんご生産を成立させたものであり、
食品消費の習慣もまた同時に創造開拓しながらの産地形成であった。

その8割が津軽に集中している。
津軽平野と岩木山山麓の一帯は、水田でなければすべてりんご園で、
少し高い所にあがれば一望数千ヘクタールの大集団が展望できる。
よくもこれほど植えたものだというほどの大集団である。

風と雪のきびしさのなかで
青森県は雨、雪、風という気象条件からいうときびしい環境のもとにある。
豪雪地帯に欧米のりんご園はない。
致命的なのは台風の襲来で収穫の前に大量の落下をする。
にもかかわらず、りんごのふるさとになったのはなぜか。
それは、ここに住む人々は生きる道をりんごに求めざるを得なかった、
稲作の冷害凶作から逃れる唯一の道としてりんごを発見し、りんごに命運を託した。
過去250年間に70数回の冷害凶作があった。凶作のたびに数万人の餓死者が出る地帯であった。


文明開化の落し子

北海道開拓使の黒田清隆次官がアメリカから莫大な種苗を持って帰った。
このなかに75品種のりんご苗木もまじっていた。
開拓使は、次の年から接木をして苗木の国内生産を始めた。
この接木作業に従事したのは、東京の植木屋で、江戸時代からのすぐれた接木技術が早速応用された。
江戸時代の植木屋は和リンゴを接ぐのにカイドウを台木にして接げばよく活着することを知っていた。
接木繁殖した苗木は59府県に配布した。
各県とも失業旧士族に配布され、青森・秋田・山形・岩手などが反応した。
旧弘前藩の菊池盾衛という熱心な士族が先頭にたって栽培を始め、
明治13年(1880)には、この地方の産業となる確信を得るまでになった。

士族と地主とキリスト教

アメリカ人宣教師イングが信徒にりんごの実を食べさせた。
信徒はりんご栽培に大農場の「敬業社」を創業し、高収益をあげた。
士族は自分たちが作った苗木を地主たちに売りつけた。
士族は苗木業者として生活の自立を得た。
西南戦争後、政府は初期の園芸保護から米麦・養蚕農政へと転回した。
とり残されたりんご栽培は、かえって士族の指導の手にゆだねられ活躍の場を与えられた。
病害虫はじめとする障害を研究し、指導した。うまくいかないと苗木は売れない。
「品評会」を開き、消費者の高い品種をえらび出し、「りんご1本、米16俵の収入」という誇大宣伝まで行われた。
当時見放されていた失業士族が、反官僚的気性の強さをもってりんご栽培に情熱を傾けた気風が、その後の主産地形成の精神的風土になった。


最初の繁栄から挫折へ 

日本鉄道会社の開通

明治以前には、東方地方から移出される商品は米・馬・砂金などであった。
北前船で、下関・瀬戸内海・大坂までの航路が開けていた。米はこの航路で運ばれた。
明治になって、りんごのような腐敗性食品を中央に運搬する手段はなく、せいぜい一地方の自給的商品としてとどまる以外になかった。
ところが思いがけない繁栄の道をたどることになる。
日本鉄道会社の上野青森間が、1891年(明治24)に開通した。
これほど早く開通したのは帝政ロシアのへの北方国防対策として促進されたものであった。
また北海道開発のためにも開通は急がれた。
にちに東京の文化は、東北を素通りして北海道へいったと評された。
東北線によってりんごが東京に出荷されるようになったことは、青森県にとって大きな恩恵だった。
直通列車が、わずか26時間で上野に到着するのであるから輸送革命である。
津軽平野の農村から馬車を連ねて青森駅へりんごを運んだ。
3年後青森・弘前間が開通した。
日清戦争後の賠償金ブームは都会における消費の旺盛をもたらし、これに乗り青森県のりんごは最初の繁栄期が訪れた。


挫折と再建

全国いっせいに出発したりんご栽培は、明治30年代続々と脱落が始まる。
病害虫の発生である。
弘前城下の士族の邸宅の畑はすべてりんご園、夏の日に樹の下をくぐれば白衣が黒く汚れるほどの惨状となった。伐り倒す以外になかった。
九州四国の暖地のりんご県は20年代末に脱落。
東北も後退、青森と北海道が孤塁を守るにすぎなかった。
日本のりんご栽培は終わったかもしれない。
立ちがったのは、
稲作だけに頼っては生きていけないとの信念を持つ多くのりんご栽培農家である。
伐木から始まり
国光・紅玉など経済品種に改植された。
樹列間隔も従来の二間半を三間半に改めた。
害虫駆除のため、樹によじのぼりタワシで樹洗いをした。
果樹の一つ一つに紙袋をかぶせた。
この人海戦術でどうにか切り抜けたのが日露戦争後の1906(明治39)年である。
もうこのとき、青森県と競合する産地はなかった。


農政と農学への不信

明治期以降の農政は国際収支の改善にすぐに役立つ米麦・生糸・茶・綿・煙草などの奨励であった。
果実の栽培などは一種のぜいたく品で国益になる農産物ではないとの考えが強かった。
国益農産物には政府の手厚い保護が加えられ、青森県にも桑苗の配布、養蚕教師の派遣などが繰り返し行われた。
園芸方法もフランス流の整枝法をまねてもさっぱり実はつかなかった。
学者の説く栽培法は信ずるに足らず、自らの経験のなかから技術を生み出す以外になかった。


技術体系の成立

1911(大正14年)から大発生した落葉病は「夏の土用に一葉をとどめず」くらい落葉し、第二回目の挫折となった。
県の技師によるボルドー液の散布によって防いだ。
これにより科学への目が開かれ、害虫駆除や剪定法など農と学が共同して技術体系を作り上げた。
栽培を初めてから50年の歳月を要した。
大正末期、一度はりんご栽培をあきらめていた諸県が再び始めた。
大正12年長野県でも栽培が始まった。


りんご産業の成立から戦時荒廃へ 

農村恐慌

昭和初期、日本は経済恐慌のどん底に落ち込む。
昭和2年金融恐慌、
昭和4年世界恐慌、
昭和6年東北地方の米の大凶作、満州事変が始まった。
米の冷害凶作は昭和7年、9年、10年と青森県を襲い、いわゆる”昭和農村恐慌”を現出した。
朝鮮・台湾米もなだれ込み米価は急落した。
農家は冷害と暴落の二重苦を受けた。
りんごの価格も低落したが、りんご農家には娘の身売りも欠食児童も出なかった。


りんご産業の成立

日本のりんご栽培が産業として成立したのはこの時期であった。
一方、肥料・農薬・農機具などの生産手段も急速に発達した。
農薬・農機具工業が成立したのもこのときである。
青物問屋から、中央卸売市場の公開セリ制度に移ったのも昭和初期である。
県営検査制度を実施したのは昭和8年、不公正な取引を追放した。


国賊扱いされたりんご作り

昭和15年には待望の一千万箱生産を実現した。
ところが、翌昭和16年に太平洋戦争に突入してからのりんご栽培農民は国賊扱いに近い統制の抑圧を受ける。
りんご生産が、戦力増強のための米麦主要食糧の増産に役立たないばかりか、
その妨げになるという非難からである。
昭和16年から本格的な配給統制にはいったが、取締りのきびしい大都市を逃れて中小都市に流れた。
警察はもとより大政翼賛会まで監視摘発の目が厳しくなり、
ついに国家総動員法の適用によって、田植え優先、田の三番除草(7月上旬)が済まないうちにりんご作業をしたものは検挙される、という有様であった。
昭和18年頃のりんご村では、
村の駐在巡査が火の見やぐらの上にあがって双眼鏡でりんご園を見張り、
木にあがって袋掛けをしているのを見つけ次第走って行って検束、留置するという厳しさであった。
このためりんご園は放任され、
おびただしい害虫の繁殖となり、樹は食い荒らされて廃園状態になった。
昭和20年には最高時の2割出荷となった。
戦争がもう2~3年続いていたらりんご園はほとんど枯死したであろうといわれたが、そのぎりぎりのところで平和が戻ってきた。


戦後のりんご園 

りんごの唄

復員や引揚で戻ってきた労働者がすぐに廃園復興の作業に立ちあがった。
折から、
日本中にはサトウ・ハチロー作・並木路子唄の”りんごの唄”が大流行していた。
廃墟となった灰色の町で、ヤミ市に赤いりんごの実がどれほど人々に平和の尊さを感じさせたことであろう。
りんごはヤミ市で飛ぶように売れた。
農地改革で、りんご園が自分のものになった喜びが訪れる。
戦後わずか3年、昭和23年には戦前の最高水準を突破の生産をあげるにいたった。


安定生産運動

青森県のりんご栽培には、風土病とさえいわれたモリニア病という病害がある。
花腐れ病ともいう。
この病菌は空中飛散するので、自分だけでは守り切れない。
りんご協会は一大人海作戦を展開した。
春先の清掃、
5日に1回の薬剤散布、
人工授粉、
摘果作業、
これをみんなにやってもらう意識改造運動と巡回講座が毎週ひらかれた。


高度経済成長

農村の労働力は半減した。
りんごの生産の方向は”量より質”への時代に移る。
大量な大衆果実より小量の高級果実が、生産・流通・消費とも支持される情勢になった。
昭和43年約二百万箱も売れ残って腐敗した。
ここで国光・紅玉に見切りをつけて、スターキングとかふじに切替える高接ぐ更新を始めた。
回復までの数年間は大都市の土建労務者となった。


りんご百年祭

昭和49年、青森県ではりんご百年祭が催された。
アメリカからりんごの恩人イングの遺族らを招いて盛大に祝い、
将来への決意を表明された。
りんごを守ることがまず生存を守る道であることを三万戸の農家は信じている。
納得しなければ動かない、この人間集団が”無意識の組織”として数多い挫折の歴史をくぐり抜けてきた。
ときによみがえる伝統が危機にのぞんでものをいうことであろう。




(青森県平川市津軽SAから見る岩木山、この日も岩木山は雲だった 2018.6.29)



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