農村では、腹いっぱいに食えるようになったのは昭和35年(1960)前後のように思う。
それまでは腹に通ればなんでもよかった。
江戸時代の農民が食べたものと、たいして変わらないような気がする。
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農民の食べもの
農民たちは土地にしばりつけられ、生産した米の半分以上は、年貢として藩へおさめ、残った米はほとんど換金や物々交換のために用いた。
したがって平常は麦と雑穀が主食であった。
『盆がきたなら、麦に米混ぜて、それにささげをぱらぱらと』という歌のように、
ひきわり麦やよまし麦の麦飯を食べていた。
副食物は香の物・にぼし・もろみ・大根・豆等の他、自家製の野菜であった。
魚は干物・塩魚がおもで”ブエンモノ”とよばれる鮮魚は村祭りの食膳にのぼるくらいであった。
川魚や貝類では、川や池のふな・どじょう・しじみ・からす貝などが食用になった。
牛は百姓の宝であるというので、牛肉は食べなかった。
猪肉はヤマクジラとよばれ、鳥肉とともにご馳走だった。
うどん・そば・赤飯・餅などはハレの食物で、特別の日のご馳走としてつくられた。
そのほか、飢饉にそなえて
梅干・味噌・カンコロ・カイモチ・キリボシ・タカキビモチ・ずいきなどが保存されたが、これらは季節の保存食であり、平常でも副食物として欠かせないものであった。
「香川県の歴史」 市原・山本共著 山川出版社 昭和46年発行
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お殿様のご飯
幕末の浅野家の例では、42万石でも
朝食は焼豆腐に味噌、
昼食と夜食は一汁二菜で、
大名自身の好みは加味されていない。
献立表は前日に裁可しておくが、
うまいもまずいもいってはいられなかったという。
食味をする台所奉行と毒見をする近習の手前、
何のかんのとはいってはいられなかったというから
殿様の方で気遣いしていたことになる。
飯は一ぜんですませてから吸物を小姓にかえさせる。
食べ残しもできない。
調理した者の責任となるからである。
「翁草」によると、
病中の白河侯は木綿の布団に寝ており、
召使いと見まちがえたほどの夫人が、生味噌を茶碗にいれてお菜に出したという。
「百草」には、
因州の隠居松平冠山は
「御食物、客をもてなし給ふも至って粗末なる味噌汁、平器位の御料理なり」とある。
一橋慶喜の幼少時は、
「毎日三度の食膳も、一汁一菜の蔬菜、玄米にて、膳に魚肉を供するは月に三箇日に限られたり」とある。
なかには鰯を焼いて味噌汁ですませていた大名もあった。
「絢爛たる武家文化」 岡本良一 講談社 昭和56年発行
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農民の生活
農民の服装は、フダン着もヨソユキもすべて木綿であった。
綿を栽培して、夜間や農閑期を利用して、糸車を回して糸をつむぎ、
木綿糸を紺屋に持参して染めてもらい、それを機で織って使用したが、
縞やかすり模様に織り上げるようになったのは江戸時代の末期ごろからである。
仕事をするとき、男はモモヒキにハッピ、
女はたすきがけに前垂れ姿で、キャハン・手甲などつけていた。
そして手製のアシナカをはいた。
農民は朝は暗いうちに起き、夜業に藁仕事をして、一日中仕事をしても、反当収量は2石にみたず、
その米の中から、多くの年貢をおさめるのである。
その身の不心得による借財のためか、
長患いの結果か、
または癩病(らいびょう)にかかったのか、
村々を流浪する乞食の数は相当なものであった。
また百姓のなかで夫役を免除されたものは、
ちんば・眼疾・癩病・盲などで、
かれらは自然治癒をまつか、薬草にたよる以外に方法がなかった。
そのため占者・祈祷師などがはびこり迷信が流行した。
「香川県の歴史」 市原・山本共著 山川出版社 昭和46年発行
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