しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

学年全員が予科練受験=矢掛中学

2021年01月23日 | 昭和16年~19年
学年全員が予科練受験=矢掛中学


旧制矢掛中学といえば明治32年、岡山県下の公立として
岡山・津山・高梁に次いで4番目に設立された伝統校。

この名門校はとんでもない記録をもっている。
それは学年全員が予科練受験したこと。
戦時のど真ん中とはいえ極端なできごとだ。


この件(強制受験)に関する資料がみつかれば、追記したい。



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「矢掛町史」  矢掛町 昭和57年発行


中学生以上では、海軍兵学校、陸軍幼年学校・士官学校などに優等生の志望が増え
海軍甲種飛行予科練生などの志望には半強制的な指導が学年全員になされた時や所もでた。
兵士になる年齢に達しないあるいは志望しない生徒は、勤労動員で武器生産工場で働いた。
矢掛中の場合、敗戦の前年には5年生は水島航空機製作所、4年生は相生造船所、3年生は水島航空機製作所で栄養失調と病気と闘いながら勤労奉仕をした。
1.2年生は開墾・田植え・稲刈り・麦播・麦刈りなどで食糧増産に励んだ。
学年の進級には配属将校の発言力が増し、上級学校進学の内申書には、学業に代わって勤労成績が大きなウェートを占めるようになった。
敗戦の年(1945年)には1年繰り上げ卒業、4年生.5年生は同時卒業式という非常事態となり、雨天体操場(体育館)は学校工場となり、地下壕を掘り、すべてを本土決戦に備えた。

このように学校教育は全く破壊され、家庭から父を、職場や地域から青壮年を戦場へ送り出した後の家庭
社会教育もまた破壊されたといえよう。
児童・生徒・学生は、ことごとく無謀な戦争遂行のための手段とされてしまったのである。

その人的物的被害は、各種の職業軍人学校の志望状況からもわかるように、権力を持つ者よりも待たない弱い者、中央よりも地方、大・中都市よりも農・山・漁村、富豪よりも小市民、
要領のよいずる賢い者よりも生真面目で純粋な者の身の上に、戦争の経過に正比例して、大きくのしかかっていったのは、痛恨の史実であった。





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(下記は当ブログの2021.1.9をコピーしたもの)


軍国時代の教育(岡山県教育史)


昭和10年代になると、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍経理学校、海軍経理学校などを志願する中学生がしだいに増加した。
管費で陸海軍将校になれる学校は、学資にめぐまれない優秀な中学生には大きな魅力でもあった。
12年9月から海軍甲種飛行予科練習生制度が設けられ、中等学校4年修了者を入隊させ、多数の中堅幹部を養成することとなった。
太平洋戦争の拡大により、ますます航空戦力が必要となり、海軍の勧誘もいよいよ急となり、学校にその出願者の割り当てまでする状況となった。
18年8月1日から行われた甲種飛行予科練習生徴募試験において、願書は2.312通であった。
その内訳は

矢掛中 251
勝山中 120
岡山一商 114
岡山市商 104
吉備商 98
津山商 90
津山中 82
興譲館中 79
高梁中 76
天城中 70
岡山二中 69
金光中 68
興譲館商 63
閑谷中 54
笠岡商 51
(50名以下は略)





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2 コメント

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Unknown (管理人)
2021-01-23 16:35:08
校長か配属将校のどちらかが半強制で出願させたのでしょう。
どちらにせよ、あの時代とはいえ、この校長はとても教育者とは呼べません。
戦後はどんな顔して暮らしたのでしょう?
(たぶん知らん顔して・・・、最近の首相と同じですね)


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旧制矢掛中学 (killy)
2021-01-23 10:51:09
卒業生で予科練に合格したという方が町議をされていましたが鬼籍に入られました。
55年前、矢掛高校改築の時に旧寄宿舎に多くの資料があり、持ち帰り自由でした。ガリ版の郷土資料集や記念誌を持ち帰りましたが、西日本豪雨災害で水没し本が開かなく廃棄しました。
資料は、当時教員をされていた方なら持っている方もあると思います。
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