しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満蒙開拓団  満蒙開拓青少年義勇軍

2024年07月31日 | 昭和11年~15年

「団塊の世代」と呼ばれるのは戦後のベビーブームで、昭和22~24年頃に生まれた世代。

「軍国少年」「軍国少女」と呼ばれる世代は、たぶん、昭和ヒトケタ生まれだろう。
学校にあがる頃、急に日本は神の国になった。
世界に一つの神の国、強い国、世界三大大国、と学校で教えられて育った。

初期の軍国少年は、進学先に海兵・陸士を目指し、
中期・後期の軍国少年は、卒業待たず学校の途中で予科練や陸軍幼年学校を受験した。
後期の軍国少年で、小学校を出て働いていた少年が”義勇軍”に誘われた。

小学校を卒業し、地元で農業しながら青年学校に通う少年が勧誘の標的にされた。
勧誘の言葉は、”五族協和””王道楽土””東洋平和”。
学校出たばかりの貧しい農民である少年にとって、
先生や村長さんから甘い言葉で大義名分で勧められると、皇国民として、その気になるのははやい。

 

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「福山市史 下巻」 福山市史編纂室  昭和53年発行

「大陸鍬の拓士」 

昭和13年(1938)1月、満蒙開拓青少年義勇隊が創設された。
先述の分村計画が一戸ごとの移住を主としたのに対して、
この義勇隊は16~19歳の少年を団体で渡満させ、開拓の中堅としようとしたところに特色がある。
その人数は県ごとに割り当てられたが、第1次の1.500人の割当てに対し、県下からは福山市の40人を加え237人の応募しかなかった。
その後応募者は徐々に増加し、14年末には570人全版第、翌年7月には473人、16年4月には備後地域の247人を含め761人を送り出し、
17年以降は毎年1.000人以上の割当てをいずれも充足している。

充足率が上昇した理由は、「入植当初は10里も20里も離れたところに水田を作りに出かけたが、
今では近所に600町歩の田を開墾しています、もっとく後継者が渡満してきてほしい」という義勇隊の話が伝えられたり、
また高等科の新卒業生を集中して組織したりしたためである。
彼らの年齢はいまでいえば中学3年生の年ごろに相当するが、19年5月13日、市主催の壮行式に臨んだ藤江国民学校出身の少年は、
「大戦争のまっ最中に 満州に渡って存分御奉公し、戦争に勝抜くやうに食糧を作ります、死んでも鍬ははなしません」
と答辞している。
当時の教育がどのようなもので、どのような力を発揮したかが理解されるであろう。 

義勇隊は中隊、小隊のごとく、と軍隊なみに組織され、
茨城県内原で約二か月間の訓練を受けたのち渡満した。 
その人数は明らかにしえないが、設以来一市三郡で少なくとも1500人以上、県下では数千人にのぼったと考えられる。
最後の義勇隊は、20年3月、一市五郡下の備後中隊200人を含む新卒生650人で組織され、内原での訓練を終え、
知事から「八紘一宇」と書いた宮島杓子を記念にもらい、5月下旬満していった。
彼らの多くは、分村計画の入植者と同じく満蒙の土と化した。
その人数もまた明らかにすることができない。

 

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「笠岡市史第三巻」  笠岡市 平成8年発行


満蒙開拓青少年義勇軍

 昭和13年この制度が開始されたもので、拓務省は「日満両国の特殊関係を強化し、
五族協和・王道楽土の理想を実現して東洋平和の確保に貢献するため、
優良なる青年を多数満州国に送出し、 大量移民国策の遂行の確実かつ容易ならしめんとす」
の考えから数え年16歳~19歳で尋常小学校の課程を終えたものを対象とし、
意志強固で満州に永住を決意し、父兄の承諾を得た者を
県は人物考査・身体検査をして移民に適当なりと認め、採用者として決定した。
現笠岡市域においても各学校で募集をし、多数の義勇軍を送出したのである。 

訓練所に入所するものは、出征兵士と同様
町・村民の壮行会、
歓呼の声に送られて壮途についたのである。
内地訓練 は茨城県内原訓練所で、第一次義勇隊開拓団は4年、第八次義勇隊まで順次短縮して2ヶ月で訓練を終え渡満した。
渡満後現地訓練所で訓練をした後、
国境警備隊、
飛行機製作工場、
製鉄所、
あるいは開拓団に「土の戦士」として派遣された。

 「土の戦士」 と呼ばれた義勇軍は、
祖国の生命線は満州国開拓にあり、君たち若人の双肩に国の安全がかかっている等々の言葉に何の疑いを持つことなく応募して行った若者であった。
戦争も終結に近い昭和19年度第7次満蒙開拓青少年義勇軍として、岡山県から二個中隊編成された村上中隊(岡山市および県東部出身者) 赤木中隊(備中一円の都市部出身者は19年内原に入所、
翌20年3月、風雲急を告げる満州へ渡ったのである。
赤木中隊総勢221名、そのうち小田郡出身者は26名の(現笠岡市城出身者6名)多数にのぼるのである。
それが敗戦によって「王道楽士」の夢破れ、絶望的な飢餓と病魔の混乱の中で、集団は乱れいつ日本に帰られるか希望の持てない中で、苦力となって働くもの、
永住覚悟して養子となるもの、放浪するもの、運よく工場で待機するもの、
筆舌に尽くせぬ困難辛苦の日々を送り、ようやく21年から23年に内地へ帰るのである。

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「福山市引野町誌」  引野町誌編纂委員会 昭和61年発行

満蒙開拓青少年義勇軍


昭和12年(1937) 12月から、満蒙開拓青少年義勇軍の募集が実施され、
16歳から19歳までの少年を対照に応募させ、二か月間の基礎訓練を茨城県の内原訓練所で行い、
満州各地へ、開拓義勇軍戦士として送り出した。
昭和20年(1945)まで、五次にわたり243団の義勇軍開拓隊が入植、一般開拓団の過半数を占めた。
しかし、昭和20年8月、日本の敗戦によって、国策として送り出された約25万の開拓団関係者は、
終戦時ソ連軍の進攻により、最も大きな犠牲を強いられたのである。
引野村から出征した義勇軍は次のとおりである。
(一覧表略、16名の義勇軍がいる)

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「井原市史Ⅱ」 井原市  平成17年発行

戦争の長期化により兵力の動員が相次ぎ、また戦時経済の労働力の需要増によって、
成人の移民送出は困難となって青少年層にその代わりを求めていった。
昭和13年、新たに満蒙開拓青少年義勇軍が創設され、14~19歳の青少年が武装移民として送り出されていった。

同13年2月の「中備時報」は、「非常時局下の農山村対策」を論じた。
平時生産労働に従事していた青壮年が次々と戦線へ召集され、農村・都市を問わ 労働力の低下・不足を来しており、
しかも兵士の65~70%は農山村出身者が占め、農山村における労働力不足が極端に甚だしいと結論づけた。 
満蒙移民の主力を青壮年層におくことのできない実態がうかがえる。

同18年、小田郡では、「満蒙開拓青少年義勇軍小田郡後援会々則」を作成した。 
郡内の青少年、一般民に対し義勇軍についての啓蒙活動を行い、義勇軍・女子拓殖者を募り満蒙への送り出しをはかった。
また、義勇軍に満蒙開拓の大理想の貫徹と慰問激励を行うとした。
同19年3月には、青野村から4家族を含む36人が満州分村開拓団本隊として渡満の途についた。
村長以下の人々が岩野坂村境に参集して壮行式を挙行し、一行を見送った。


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「金光町史・本編」  金光町 平成15年発行

満蒙開拓青少年義勇軍


昭和12年7月に日中戦争が勃発すると、多くの壮年男子が召集され、開拓団を構成することが困難になると、
その補充策として、まだ兵役の年齢に達しない数え年16歳から19歳の青少年で構成する満蒙開拓青少年義勇軍の創設を行った。
昭和18(1943)年12月28日付の『合同新聞』は「割当悠有々突破 県下の満蒙開拓義勇軍合格者」という見出しで
県下一次二次の658名、浅口郡は45名と報じ、
「合格者一同は明春2月下旬内原訓練所へ入所、3ヵ月の訓練を実施、5月頃渡満するか」と記事にしている。
岡山県の青少年は昭和13年から昭和20年までに約2700人が満蒙開拓青少年義勇軍に採用され、浅口郡では131名の方が満州に行った。
これらの人々はソ連との国境方面に入植した方が多く、昭和20年のソ連軍の侵入により苦難の途を辿った事が語られているが、
金光町では果たして誰が義勇軍になり渡したか、またどのようにして帰郷したか、記録をみつける事ができなかったことは残念であった。


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「広瀬村誌」(福山市加茂町)  広瀬村誌編纂委員会 平成6年発行


満蒙開拓青少年義勇軍

昭和12年(1937) 満蒙開拓青少年義勇軍制度が確立し、16才以上19才までの男子を志願させ検査の上、
茨城県内原訓練所で2ヵ月間特別訓練の上、
満蒙(中国東北地区)に渡らせ、
現地訓練所に於て3ヵ年間訓練を施し、独立した農業経営者とすることにした。
深安郡でも昭和16年1月小学校長会に於て高等小学校卒業生の中から希望者を募集し、深安小隊を編成し、
昭和19年まで継続して送り出した。
広瀬村では小林冨貴男が内原訓練所の幹部で指導員を兼務しており、再三広瀬村に帰郷し募集に務めた。
広瀬村でも多くの方々が志願に応じた。
記録にある氏名は次の方々である。
(9名)
以上の方々であるが昭和20年の敗戦にともない開拓義勇軍の青少年も敗戦の渦中に巻き込まれ、
多くの帰らざる戦没・死没者を出したが本村出身者は全員無事帰国した。
全国では約86.000人が渡満しており、その内15.000人以上が戦没・死没している。


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