しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

さなだ組みの唄

2023年03月07日 | 民謡

真田組みは、老女と子供の手仕事であったように思う。

家では祖母が真田を組んでいた。
母は一度も真田をしていない。←真田をする暇がなかった。
仲買人が大冝からと、吉浜から来ていた。
管理人が高校生になるころ、真田は無くなったような気がする。


・・・・


父の話・2000・6・17

裸麦の穂をそろようた。 先は先で取り、中は中でとりょうた。
上の細いとこと、真中辺を切る。
麦は硫黄でうむして白うして、乾燥させて、真田にしょうた。
真中は潰して真田、先のエエ部分はごぶしをなようた。

子供の頃は、組んだ真田を夏休みに学校へ持って行きょうた。「一反持っけい」いわりょうた。
学校の真田講堂はそうやって何年か積み立てていた。
時には学校で皆んな寄って組むゆうこともしょうた。

今はだれもしょうらん。
麦を植える人もおらんし、乾燥炉もねぃ。

・・・

(父の話)

よう乾燥しょうたところは(稲刈りがおわった後で、株を)はねうがして、麦を植ようた。

真田麦は裸麦を硫黄で蒸して、摘んで、さらして白ぉして、それで真田を組みょうた。

2003・5・18

・・・

 

(笠岡市立城見小学校の”真田講堂”)

小学生が組んだ真田のお金で講堂が建った。

 

・・・・


「鴨方町史」  鴨方町 昭和60年発行

副業

鴨方地方には、農閑期を利用した副業が多い。
六条院を中心にして全町に広がった麦稈真田、
小坂東を中心とした素麺、
深田を中心とした箒、
日原を中心とした天秤棒、
谷井を中心とした瓦焼き、などがあった。

麦稈真田
麦稈真田は、イギリス・アメリカなど外国へ多く輸出されていた。
市場の動向に左右された。
明治41年から大正元年にかけて、飛躍的に増加した。
この当時、瀬戸内海の島々や県北から「組子」を募集する、大規模な家もみられた。

経木を原料とする経木真田、バンコク帽体へと輸出の中心の座を譲っていった。
それに伴い、
生産も老人の小遣い稼ぎとなり、現在では麦稈真田の生産は、ほとんど行なわれていない。

 

・・・

 

「矢掛町史民俗編」  矢掛町 ぎょうせい 昭和55年発行

麦稈真田
昭和40年代になると、矢掛町内で真田組みをする人はみられなってしまった。
備中南部、ことに小田郡から浅口郡地域一帯は埼玉県春日部地方と並び
日本の麦稈真田に二大産地として有名であった。
明治20年代から農家の副業として婦女子を主体に、子どもに至るまで家内中の仕事となっていた。

麦稈は麦穂をとったあとの茎である。
麦の生産価格より収入価値が大きいので、茎の成長が素直な品種を選んで作付けした。

生産された麦稈真田は仲買人(トンビともいう)が自転車や歩いて農家を回って集め、
また、仲買の人は技術指導にもあたった。
鴨方町や寄島町の問屋・貿易商社へ出していた。

 

・・・・

 

「神島史誌」  広沢澄郎編 神島協議会 昭和60年発行 

 

真田組みは、周囲を海に囲まれた島の人たちにとって、

当時の唯一の現金収入であったようだ。

 

真田組み唄

〇夏は木の下 霜夜は炬燵 離れともない主のそば

〇死ぬりゃ夏死ぬ 子のない人は アブがお経読む 蠅が手をこする

高い森木の蝉が鳴く

〇真田組んでも 養いまする 主さケンとりゃ うちが組む

〇一夜咲いても 花は花 一夜そうても 妻は妻

たとえ草履の鼻緒でも 切れてきもちのよいものか

 

・・・・・

 

「高梁川44」 高梁川流域連盟 昭和61年発行

〇さなだくみの歌
さなだくみすりゃ長者のくらし
夏は木の下 冬やこたつ
〇さんだくんでもみょうと口やくえぬ
主がけんつみゃ うつがくむ
〇さなだくんでも夫婦は食える
ぬしがけんとりゃうちがくむ
〇さなだくむとて馬鹿にしてくれるな
さんだ異国の金をとる

 

・・・


「広島県の民謡」

真田編み歌

今から七、八十年前は手内職に類した仕事がいろいろとあった。
大崎下島の久比では麦藁をさねくり器にかけて柔らかくし、それで麦干真田の帽子を作る仕事が盛んであった。
若い娘の多くがその内職に通っていた。

 

豊田郡豊町


一と二と三と四と五がわかりゃ
おさみ先生に習やせぬ

わしが神戸の楠公さんならば
ペケの真田も売りさばく

 

・・・

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 三郎島の話 | トップ | 吉舎(きさ)までユキワリイ... »

コメントを投稿

民謡」カテゴリの最新記事