しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

学校給食・大津野小

2015年09月09日 | 城見小・他校
参考まで、城見小学校の隣・大津野小学校。
ほぼ城見と同じようだが、
「完全給食」はどうだったか?
城見小の場合、完全給食の“完全”は遅いような記憶がある。というのは隔日での完全給食であったような気がする。


大門町誌「大津野のあゆみ」より


戦後の食糧難は極めて深刻な問題であった。
この農村地域の大津野でも学校に弁当を持ってこられない児童が多かった。
弁当を持って来れる者でもその中味は粗末なものでした。
こうした状況の中で昭和25年から脱脂粉乳によるミルク給食が始まった。
昭和29年学校給食法が設定され、これを受けて学校給食が実施されていった。
昭和30年には、みそしる給食(副食給食)が始まっている。
そして昭和36年から完全給食が実施されるようになった。
それから20年後の昭和56年には米飯給食も導入されていった。
なお、完全給食が始まった頃は、一食当たり20円くらいであったが、一ヶ月の給食費がなかなか払えない家庭もあった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笠岡駅~大門駅の路線

2015年09月09日 | 江戸~明治
山陽鉄道は金崎にトンネルを掘ることで議論はあったろうが、城見地区についてはほぼ田んぼであり、買収等に問題はなかったのではと思う。


大門町誌「大津野のあゆみ」より

笠岡~福山は明治24年9月に開通している。
当初山への迂回も考えられたが、結局金ヶ崎隧道工事(現在の笠岡トンネル)によって最短距離となった。
大津野村では灌漑用の池(河口池、海運寺池)を買収されては用水を失うので地区民が反対、紛争は長引いたが池を他につくることで話し合いがまとまった。
河口池の東南に新池がつくられたのはその事情によると伝えられている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大津野地区の空襲

2015年09月09日 | 昭和20年(終戦まで)
大津野の米軍襲撃の正式な史料はないようで、回数や被害は不明。
「大津野のあゆみ」では日付がはっきりしているのは7月2日のみ。
母は、桃の袋掛け中に襲われたと話していたが「大津野のあゆみ」6月以降と書いている。
「物資を隠す」というのも俄に信じられない。大半は勝手に持ち帰ったと思われる。


以下「大津野のあゆみ」より転記する。

6月より米軍機グラマンの大津野航空隊襲撃が頻繁に始まる。
7/2米軍機が大津野飛行場へ20機30機と4度来襲。
8/15正午、終戦。
村人、航空隊の物資を津之下の山に隠す。
11/2米軍福山に進駐、大津野の旧海軍航空隊施設を兵舎として入った。(歩兵大隊約1.000名。
11/14備後灘、大津野湾海域の機雷掃海航路啓開。機雷3ヶ処分。
11月GHQ飛行場の跡地の塩田化方針を発表。

昭和21年3/23 米軍に替わりオーストラリア軍400名が進駐。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福山空襲~進駐軍

2015年09月08日 | 昭和20年(終戦まで)

用之江の西隣、福山市大門町大門東谷の記録によると、
航空隊は守勢いっぽんだった事がわかる。
御真影や書類の焼却は軍の指示によるものと思える。
各所に分散して保管した食料は戦後、どのように処分したのか気になる。


福山市大門町大門「東谷町内会公民館新築記念・ふる里のあゆみ」より以下転記する。

大東亜戦争当時の記録

昭和20年8月8日午後8時、
福山市をB29約60機で来たり焼夷弾爆撃を行う全市火の海と化し、二時間余りにて全市殆ど焼失し、翌日も所々火煙立ち上がるつつあるたり。
防空壕に避難したる者多数焼死せりと聞く。
本村に於いては警防団が郷頭山上に防空監視所をもうけをりたり。
又、海軍航空隊は敵の爆撃を予想し部隊を上ノ坊及び東谷青年クラブ其の他村内各所に配置分宿し、航空指令海軍大佐・渡名喜氏及び飛行長海軍少佐・松島氏の両氏は下堀神原氏宅に移り、倉庫に諸食料品を蓄積し、村内の各倉庫等人家にも分散配置して敵機の襲来に備えり。

8月15日重大放送あり、終戦となりたことのみ判明す。

松島飛行長は隊内にありし御真影、軍人勅諭其の他貴重な書類全部を、下堀宅内庭の西北すみにて焼棄せりしという。

海軍保安隊10月31日解体。
本村国民学校へ残留部隊30名宿泊し、残務整理を為す。
渡名喜氏9月8日引越す。

昭和20年11月1日米軍先遣隊として10名飛行場に来る。
翌、11月2日1.200名来たり駐屯す。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福山の防空体制

2015年09月07日 | 昭和20年(終戦まで)
福山の空襲時には、いちおう反撃の砲を発射しているようだ。
門数が明確でないのも、頼りなかった事を示している。
能登原の阿伏兎山中には高射砲台座跡が残っているが、他にも遺構があるのだろうか?
偽装砲については書籍本の記事として、初めて見た。



「福山空襲と戦時下のくらし」福山市人権平和資料館より転用。

福山守備隊のB-29に対する対空砲火について、米軍の攻撃機は3機が「貧弱で不正確であったが激しかった」、20機が「中規模程度の対空砲火があった」と報告している。B-29の飛行高度は4.000m、しかも福山上空を約1分で通過する攻撃機に有効な反撃はできなかった。

福山地域に配置されていた対空兵器
鞆・海後山 1門  高射砲
鞆・仙酔島 3門  高射機関砲
一文字堤防 1~2門 高射砲
草戸・廃川地 3門 高射砲・高射機関砲
芦田川・国鉄鉄橋 1~2門 高射砲
芦田川・堤防 1~3門 高射機関砲
旧福山練兵場 3~4門 高射機関砲
横島大浜 3~5 高射機関砲
福山海軍航空隊 3~6門 高射機関砲
草戸(偽装砲) 6~8門 高射砲
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茂平の屋号いろいろ

2015年09月05日 | 父の話
談・2003・10.4

ハナ
かんのうどう
えべすんき・・えべっさんがある、銅山以外ではウチもえべすんきと呼ばれる。
まえ・・みのるさんかた
おもて
なか
うしろ・・もあった
やとう・・夜灯があるのでうちらが言うだけ
ださあ
いんきょ

よもとは屋号でなくお宮の下で地名じゃ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大池・小池の水抜き(池干し)

2015年09月05日 | 父の話
父の話・2003.9.15


樋を抜くときにはみんな来て池に入って取りょうた。
魚を取りに池を入っていた。

ウチには池の下に田んぼがあったので、池の下にいるとフナが出てきた。

フナを焼いて干して汁にしようた。出汁に使ようた。ええ味が出ようた。
フナしかおらなんだ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父の話・2003.9.15

2015年09月04日 | 父の話
父の話・2003.9.15

百姓は茂平がいちば熱心にする。果物を作るんで。
大や用之江は働きに出る人が多い。
大は吉浜の田んぼが多い。
役場にいて(農家の)仕事をじっとみょうたらわかる。


教員が不足した時代はあったか?
ない。
昔は資格をもってのうても使ぉうてくりょうた。


阿部山は戦争中に山を均したが、ちょとなかのもん、(県の)技術員をしょうたから応援に行っとったが、あんな痩せた土地を開墾するようでは(日本は)どうにもならんゆうてようた。
豚か牛を放牧するぐれいしかやっていけん。


笠岡湾干拓生産組合の事
生産組合を作って、入植して百姓することで33町もろうた。個人ではくれん。それで組合を作って、みんなに分けた。


娯楽場に芝居が来ていたが、興行元はいたのか?
老人会やこが世話をしようた。芝居好きな人が。芝居は2~3日していにょうた。


脳溢血で死ぬ人が多かったが?
暑い時に、畑から戻らずに仕事を無理してしょうた。身体が弱ってくる。せど、それでも養生せずにつづきょうた。栄養もとらなんだ。
わかっとる人は無理をしょうらなんだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大勲位の遺言②まぎれもない侵略行為だった --中曽根康弘  

2015年09月04日 | 昭和20年(終戦まで)
文芸春秋2015・9月号に「大勲位」こと中曽根元首相の寄稿文がある。
大勲位はさすがに視点が違う(高い)と思い、その記事を転記した。・・その二


文芸春秋2015・9月号


②まぎれもない侵略行為だった

第二次世界大戦、太平洋戦争、大東亜戦争と呼ばれるものは複合で、対米英、対中国、対アジアそれぞれ違った複雑な要素を持ち、決して一面的な解釈でできるものではない。
ただ無謀な戦争に突入する事で、300万人以上の国民が犠牲を強いられたという事実を拭い去ることはできない。
昭和15年企画院を中心に各省庁・軍・民間のエリートが集められ総力戦研究所が設置され、長期戦に日本の国力が耐えられず、敗北は避けられないという結論が出されている。
にもかかわらず無視する形で開戦に突入し、敗戦という無残な結果となってしまった。
国民に対する責任を考えれば、指導者の戦争責任を他者による「東京裁判」という形でなく、日本人自らが裁き、自らの責任において決着をつけるべきものであったと思う。

他方、アジア諸国の国民に対しては侵略戦争でもあった。特に中国に対しては1915年の「21ヶ条の要求」以降、侵略的要素が非常に強くなったといえる。
日本の中央政府の不拡大方針に反し現地軍が武力行為を拡大し、張作霖爆殺事件、柳条湖事件など引き起こし、中国民族の感情を著しく傷つけたと言わざるをえない。
また資源獲得のための東南アジア諸国への進出も、現地の人からすれば日本軍が土足で入り込んできたわけで、まぎれもない侵略行為だった。

先の戦争はやるべからざる戦争であり、誤った戦争であったと言える。アジアの国々に対しては、侵略戦争と言われても仕方がないものがあった。

歴史の解釈、流れというものは国際的に通用する判断で考えなければならないし、歴史の流れ全般を考えながら大局的に判定すべきものであろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大勲位の遺言①あの戦争を振り返る --中曽根康弘  

2015年09月04日 | 昭和20年(終戦まで)
文芸春秋2015・9月号に「大勲位」こと中曽根元首相の寄稿文がある。
大勲位はさすがに視点が違う(高い)と思い、その記事を転記した。・・その一


文芸春秋2015・9月号

昭和20年の秋復員して内務省に復職し、廃墟の東京で茫然と立ちつくし、この国を立ち直していけるのだろうか、国民生活は本当に回復できるのだろうか、と思ったあの日からすれば、誠に隔世の感がある。

20世紀の初頭には世界に胎動しつつあった脱植民地の潮流と相俟って国際連盟が発足する。
日本は国際連盟の常任理事国となるが、満洲国の建国を境に孤立化し、追い込まれる形で国連を脱会、世界の民主主義への正統的潮流に反する形で、無謀な戦争に突入してしまうのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする