しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

久坂玄瑞進撃像

2022年12月24日 | 銅像の人

場所・山口県萩市江向  中央公園(萩城城下町側)

 

幕末の萩藩で、もっとも急進的な討幕派の志士として知られ、
蛤御門の変で25歳で敗死した久坂玄瑞の像。

 

 


萩市観光協会公式サイト

久坂玄瑞進撃像

尊皇攘夷の先頭に立つ、若き久坂玄瑞の立像
城下町の近くにある「中央公園」の一角に、平成27年1月に建立されました。
松下村塾の双璧と称され、尊皇攘夷派を牽引して国事に奔走し、いまから151年前の元治元年(1864)禁門の変(蛤御門の変)にて25歳の生涯を閉じた久坂玄瑞。
吉田松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と絶賛され、松陰先生の妹・文(大河ドラマ『花燃ゆ』のヒロイン)と結婚しました。

銅像の高さは1.8mで、台座を含めて3m。尊皇攘夷の先頭に立つ若き玄瑞の立像となっており、右手を上げて力強く東を指す、勇ましく凛々しい姿です。

 

 

撮影日・2022年12月19日

 

 

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佐々木義彦翁

2022年12月24日 | 銅像の人

場所・山口県萩市江向  中央公園

 

山県有朋騎馬像のすぐ近くに佐々木義彦翁の胸像がある。

山県の像があまりに立派なので、ついつい、小さくて気の毒と感じてしまう。

 

 

胸像の隣に立つ説明文を写す。


佐々木義彦

明治20年(1887)生まれ、萩中学校を経て神戸高等商業学校を卒業した。
台湾銀行を経て、帝国人絹・日本製粉・神戸製鋼などの重役を歴任し、
昭和36年(1961)東邦レーヨン社長に就任した。
萩に対しては小学校の施設整備や灌漑用水と公会堂の整備などに多額の寄付をし、
教育の充実や福祉の増進に大いに貢献した。
昭和47年、萩市の名誉市民に推挙された。
台座の文字は総理大臣をつとめた佐藤栄作の揮毫である。
               萩市

 

撮影日・2022年12月19日

 

 

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陽明丸とシベリア出兵②当時のロシア 「軍国日本の興亡」より

2022年12月22日 | 大正

猪木正道先生は、当時の状況をどのように書いているのだろうか?

・・・

 

(山県有朋像)



中公新書 「軍国日本の興亡」 猪木正道 1995年



(1914年)
ヨーロッパ列強が世界大戦に突入した時、大隈内閣の加藤高明外相は、日英同盟を口実にドイツと戦争する心組だった。

英国大使より援助を求められ、渡りに船と喜び、翌8月7日「英国の請求に応じ、ドイツと開戦する」と英国に申し入れた。
しかし英国は8月11日、日本の申し入れを正式に謝絶した。
日本は対独戦争の方針を改めず、8月23日最後通牒を発した。
8月27日久留米の第18師団が青島攻略を命ぜられた。
日本軍が青島へ進撃する際、山東鉄道を押収したので、中国は日本に抗議した。
日本は中国に対し翌年1月「21ヶ条の要求」をつきつけた。

(1917年)
11月、ソビエト政府の成立を宣言。翌年3月ドイツと単独講和を結ぶ。
ソビエトは首都ペトログラードで勝利したのであって、ロシア全土を制圧したのではなかった。
危険な共産党政権を双葉のうちに打倒しようと、英国、フランスなどは軍隊を派遣して武力干渉を開始した。
ロシア国内では反革命派もいたるところで立ち上がり、ロシアは1921年末まで、外国からの武力干渉と内乱に悩まされた。

(1918年)

英仏両国は日本に対してしきりにシベリアへの出兵を要請してきた。
シベリアで苦戦しているチェコ軍を救援するためである。
寺内首相は元老山県有朋に警告されて出兵に賛成しなかった。

山県は4月24日に次の警告を発している。
「今日本がシベリアに出兵して、はたして勝利を達しうる成算ありや。
戦線は拡張し、深く露国に侵入する必要を感ずる。
現在にしても、米穀の不足を感じ、非常の高値を出している。
これが出兵などという場合になりて、はたして食物の供給に差し支えなきや」

元老が明治維新以来の苦しい経験により、対外関係ではきわめて慎重であったのに対して、新世代に属する外相は概して強硬であった。

7月、米国は日本に、チェコ軍救援のため共同出兵を提案した。
山県や原敬のような出兵反対論者も、共同ならば異存はないということになった。
8月、日・米・加・伊・英が派遣した。
翌1920年9月まで、チェコ軍救援は達成された。

(1920年)
1月米国は撤兵を通告してきた。
日本は、撤兵の機会を逸し、パルチザンと呼ばれた現地民のゲリラ活動に悩まされた。

(1921年)
5月25日~27日、尼港虐殺事件が起こっている。

(1922年)
6月12日、加藤友三郎内閣が成立して撤兵に決し、10月完全に撤兵することができた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


シベリア出兵によって、多い時には7万3000の大軍がシベリアに駐屯し、10億の戦費も無駄使いに終わった。
日本以外にもソビエト・ロシアに武力干渉した国は少なくないが、一番長く居座って、国際的に悪評を受けたのは日本であった。

 

 

画像・2022.12.19 山口県萩市

 

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毛利元就「三矢の訓像」

2022年12月22日 | 銅像の人

場所・山口県萩市江向 萩市民会館前

 

三矢の訓は、小学校の6年生の頃学校で習った記憶がある。

有名な訓話で、日本人なら誰でも知っている訓話の一つ。

なんとなくその場所は安芸高田をイメージしていたが、萩市の市民会館前に像があった。

 


【萩市観光公式サイト】


毛利元就の逸話「三矢の訓え」

「三矢の訓え」は、萩城を築いた毛利輝元の祖父・元就が、三人の息子(隆元、元春、隆景)にあてた教訓状をもとに作られた説話です。
元就が息子たちに書状を送った年(弘治3年(1557))は、
大内氏を倒した陶晴賢・大内義長の軍勢を打ち滅ぼし、防長両国を支配下に置いた年であり、
大内氏に代わって中国地方から北九州にかけて大きな勢力を持つ戦国大名にのし上がるきっかけを作った年でした。
大きくなればなるほど一族間での争いが生じることは戦国の世の常である。
毛利家の将来のため、一家の頭領として三人の子どもに一致団結を切々と説き
「1本の矢なら簡単に折れるが、3本まとめて束にすれば折れない。それと同じように、3人が力を合わせれば、誰にも負けることはない」
と諭したと伝承されています。

萩市民館前に建つこの銅像は、萩出身の彫刻家・長嶺武四郎が製作したものです。
また、城下町建設の測量起点にした基準石である「萩城下街割原標石」が市民館の西側に残っています。

 

撮影日・2022.12.19

 

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杉山岩三郎

2022年12月22日 | 銅像の人

場所・岡山県岡山市北区幸町 下石井公園

 

 

「おかやまインターパークス里丘」のイルミネーションを見に行った。

会場に胸像があった。

杉山岩三郎翁の胸像とあるが、今日の今日まで翁の名は知らなかった。

 

 


【コトバンク】

杉山岩三郎(すぎやま・いわさぶろう)


1841-1913 明治時代の実業家。
天保(てんぽう)12年8月15日生まれ。
岡山県典事,島根県権(ごんの)参事をつとめる。
明治5年郷里の岡山にかえり,士族授産のため,第二十二国立銀行や岡山紡績所などの創立にくわわる。
28年中国鉄道社長。
備前西郷と称された。
大正2年7月18日死去。
73歳。
本姓は中川。名は厚。

 

 

撮影日・2022.12.19

 

 

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「チームラボ 福山城 光の祭」を見に行く

2022年12月14日 | 令和元年~



場所・広島県福山市丸之内 福山城公園の本丸・二の丸
撮影日・2022.12.12

 

 

夜も温かい天気予報だったので、福山城に行った。

福山築城400年記念行事で、2022.12.2~2023.1.29、開催中。

福山城公園は無料の公園だが、この期間の
夜間のみ、
本丸・二の丸のみ、
入園料が必要で、お値段は1.500円。

 

 

大人も子供も卵の色を楽しんだり、
石垣へのプロジェクションマッピングを不思議そうに見たり、当てたりしていた。

 

 

 

 

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2022年12月、JR笠岡駅は無人駅になった

2022年12月14日 | 令和元年~

毎日利用している訳ではないので、違っているかも知れないが
利用日と写真時間で判断すれば、どうも笠岡駅は無人駅になったようだ。
さみしい限りだ。

 

・・・・・・・

2022年11月13日 8:51

 

この日、みどりの窓口・切符販売が閉鎖されていた。

新聞記事でJR各社の合理化が多いので、少しは懸念していたが、・・・それでも、びっくりした。

 

 

改札口に駅員さんは立っていた。

 

 

 

・・・・・・・

2022年12月10日 19:18

 

改札口に駅員さんがいない。

でも日中(明るいうち)はいるのだろうと、期待感を含めて思っていた。

 

 

・・・・・・・

2022年12月12日  14:31

期待ははずれ、日中も駅員さんはいなかった。

 

 

笠岡駅もついに無人となってしまった。

がっくりだな。

・・・・・・・

 

 

駅構内にある「セブンイレブンハートイン店」が、やけに頼もしく感じられる。

 

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知られざる英雄

2022年12月08日 | 占守島の戦い

(「週刊新潮」)

 

ここ1~2年、急に樋口季一郎の名がマスメディアに載るようになった。

当初は占守島の戦いでの、方面軍司令官として。
今は、それに加えてユダヤ人を救った恩人として。

占守島のことは、資料が極めて少なく、言ったもん勝ちの状況。
樋口司令官の場合、居たのが現地でないのが少し弱いように感じる。
ユダヤ人の件は、樋口本人に罰はなかったのか、軍規則や司令部の絡みを説明しないと、「はい、そうですか」とは言えない。

 

(NHKニュース 2022.12.2)

 

 

・・・・

 

週刊新潮」2022年10月27日号に、”知られざる英雄”の記事がある。

 

(「週刊新潮」)

 

知られざる英雄

「生前、祖父は戦争の話はほとんどしませんでした」と語るのは、
バッハの研究で知られる音楽学者で、明治学院大学教授の樋口隆一氏(76)だ。

淡路島で生まれた彼の祖父、樋口季一郎は、陸軍の情報将校としてロシア語を学び、
ポーランドや満州などに駐在。
終戦時の階級は中将で、北海道・樺太・千島を管轄する第5方面軍司令官だった。

1938年、ナチスの迫害からシベリア鉄道で満州に逃れてきたユダヤ人たちがいた。
現地当局はドイツとの関係を考慮して入国を拒否するが、
ハルビン特務機関長だった樋口が「これは人道問題」と主張しユダヤ人の入境を認めさせた。
後に《ヒグチ・ルート》と呼ばれる、この脱出路により、最大2万人のユダヤ人が命を救われたといわれる。
が、樋口が英雄と呼ばれる理由はそれだけではない。
「祖父は、北海道をソ連から守ったのです」(隆一氏)

日本が降伏を表明した後の45年8月17日、千島列島の最北端・占守島にソ連軍が上陸。
日ソ中立条約に違反した卑劣な侵略行為を前に、樋口司令官は「自衛のため断固反撃せよ」と命じる。
戦史に詳しい陸上自衛隊OBいわく、
「占守島には満州から移駐した戦車第11連隊をはじめ、精強な部隊が残っていた。
彼らの徹底抗戦に手を焼いたソ連軍は、とうとう北海道の占領を諦めました」

樋口は70年に82才で亡くなった。
ユダヤ人を救った日本人といえば、駐リトアニア領事代理だった杉原千畝が有名だが、樋口の名は一般にはあまり知られていない。
先のOBは、
「杉原さんは外交官ですが、樋口は軍人。
敗戦国日本では、軍人=悪人でしたから」と嘆く。

その風潮も、今後は少し変わるかもしれない。
隆一氏が語る。
「占守島で戦わなければ、北海道は今のウクライナのように蹂躙され、ロシア領にされていたはず」

日本で軍服姿の軍人の全身像が建立されるのは、戦後初だという。

 

(「週刊新潮」)

 

・・・・

 

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教育勅語

2022年12月07日 | 【史跡】を訪ねる

例え学校が事故や災害で、焼けようが、倒れようが、津波に遭おうが、
校長先生にとっては、生徒の生命を守ることよりも大切なものがあった。
それが、「教育勅語」と「御真影」。


日本には、
逃げまどう児童生徒は放っても、二枚の紙だけは護らねばならない学校時代があった。

 

 

 

 
・・・・


城見国民学校・Fさんの話
談・2022年7月5日

式の時は、校長先生はモーニング姿で、白い手袋で、奉安殿からの教育勅語を受け取っていました。
校長先生はその時は、極度に緊張し、手が震えていました。

 

・・・・

 

「太平洋戦争下の学校生活」  岡野薫子 平凡社 2000年発行

「天長節」

今日のよき日は 大君の
うまれたまひし よき日なり

式の当日、校庭の一角に建てられた奉安殿の扉がひらかれる。
奉安殿というのは、天皇、皇后両陛下の写真と教育勅語がしまってある小さな蔵で、
建物自体、神社のつくりになっている。

その奉安殿から式場まで、勅語を運んでくるのは、教頭先生の役目だった。
教頭先生は、紫のふくさに覆われた教育勅語の箱を黒い漆塗りの盆にのせ、それを頭上高くかかげながら、
しずしずと運動場を横切って講堂まで歩いてくる。
やがて「最敬礼!」
号令がかかって、私たちは頭を深く下げる。
静かに「直れ」の号令がかかり、やっと頭をあげる。

フロックコートの礼装で絹の白手袋をはめた校長先生は、おもむろに紫のふくさをひろげ、
箱から教育勅語をとりだすと、巻物の紐をといてひろげ、押しいただく。
この時、私たちはまた、頭を下げる。
勅語を読み終わるまで、そのままの姿勢でいなくてはならない。
やがて、
「朕惟フニ、・・・・」
と、重々しい奉読の声が聞こえてくる。--というよりは、頭の上におりてくる。
何しろ、神主が祝詞をあげるときのような荘重な節回しで読まれるので、
子どもにとっては、耐え難く長い時間に思われた。
やっと終わって、元の姿勢に戻る時、あちこちから鼻水をすすりあげる音がおこる。
まわりはほっとした空気につつまれる。

新校長は、緊張のあまり手がふるえ、声がうわずる。
明治天皇のお言葉を代読することになるわけで、緊張するのも無理はなかった。
やがて、意味はわからぬまま、部分部分を暗記するようになった。


・・・・

 

教育勅語

「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫  福武書店 1991年発行

学校では校長以下全員が、この勅語の扱いについては丁重を極めた。
子ども個人は、その内容を考えるようなことはなく、感動もなければ疑問も感じなかった。ただすらすらと暗誦できることの方が先決だった。

フロックコートに身を正した校長が壇上にすすむと、
タイミングよく次席が白手袋の略礼装で,勅語の納まった白桐の細長い箱を、
うやうやしく三宝にのせて式場にはいってきて、校長の前の卓上に静かに置いて退く。
校長はこれに最敬礼し、やおら桐箱のなかから白絹に包まれた勅語の謄本を取り出し、
会場に向かって捧げ持つと「最敬礼」との号令がかかり、参加者一同が最敬礼でかしこまる。

奉読の間,咳一つするにも気がひけたが、青はな垂らしの子供たちが、いちばん苦手とするのがこの時で、
垂れ下がる鼻水を吸い上げる音がだんだん激しくなるころ「ギョメイギョジ」で奉読が終わる。

勅語を無事読み上げた校長は、緊張から解放された安堵の表情に変わり、白絹を巻く手元のふるえはもうなかった。
勅語の奉読については、どこの校長も独特のくせ節回しに近いものを持っていて、
いともおごそかに恰好をつけて奉読していたが、万一、
公式の場で読み違えるようなことがあったら、それはもう確実に進退伺いの必要があった。

 

・・・・・

「福山市史・下巻」

学校行事の変化

昭和初年までの学校行事は、
入学・卒業式のほか祝祭日・諸記念日(陸海軍記念日など)などが中心であったが、
その後漸次軍国主義的傾向が強まり、柳条溝事件前後からは戦時色あふれる行事がふえている。
まず昭和4年には、
紀元節が第一回の建国祭として祝われ、いままで以上の意味をもたされることになり、
「八紘一宇」のスローガンのもと盛大な祝典が挙げられ、軍国主義教育の出発点となった。
翌5年には教育勅語渙発40年記念式が行われ、
昭和6年には新しい「御真影」が下賜され、各学校でその奉戴式がいっせいに挙行された。
それにともなって、奉安殿の新・改築や国旗掲揚台の新設が行われた学校も少なくない。
いずれも軍国主義教育のシンボルとされたが、
とりわけ「御真影」は重視され、校舎や学籍簿、さらには教員・生徒の命よりも大切に扱われた。

昭和20年の空襲で「奉安殿と渡廊下を残して全焼した」深津国民学校では、
「奉安殿に保管中の教育勅語詔書類は宿直教官の護衛により安全に待避された」と特筆されている。

 

・・・・

 

笠岡市史4巻


御真影は、
「昭和21年1月11日に城見国民学校他4校が御真影を地方事務所に奉還した」、
教育勅語は
「笠岡東小が昭和23年8月24日返還」となっている。

 

・・・・

場所・岡山県備前市香登

撮影日・2022.12.2

 

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お伊勢参りの絵馬

2022年12月07日 | 【史跡】を訪ねる

紀元二千六百年の祝賀行事で、茂平八幡神社には”聖地参拝”という伊勢神宮にお参りした記念写真が奉納されている。
戦時中は「お伊勢参り」ではなく「聖地参拝」と呼ばれていたようだ。

 

・・・


里庄町の高岡神社にはお伊勢参りの絵馬が奉納されている。

里庄町の現地説明文を写す。

里庄町指定文化財
絵馬伊勢参詣図一面

高岡神社に奉納された絵馬(85cm*184cm)で、
伊勢参詣の旅の様子が描かれています。
その絵柄から江戸時代末期から明治時代の頃と思われます。
13人の男女が描かれ、右下には奉納者の名前等が記されています。

伊勢参詣は「おかげ参り」などと呼ばれ、江戸時代末期から明治30年代にかけて特に大流行しました。
伊勢の参詣から戻ると、旅先などで購入した絵馬を地元の神社に奉納し、旅を無事に終えたことを報告しました。
この絵馬が残されていることは、当時の社会風俗を物語るうえで貴重なものといえるでしょう。


平成14年2月20日指定 里庄町教育委員会

 

岡山県浅口郡里庄町里見・高岡神社

撮影日・2022.12.3

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

時代によって変わる「伊勢参り」

・・・・

江戸時代・元禄

 

ケンペル「江戸参府旅行日記」   訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行

伊勢参りの人たち
1691年(元禄4)

 

一年中行われるが、特に春が盛んで、街道はこのころ旅行者でいっぱいになる。
老若・貴賤を問わず男女の別もない。

自分たちの食べ物や路銀を道中で物乞いして手にする多くの伊勢参りの人。
参府旅行をする者にとっては少なからず不愉快である。
なぜなら、ひっきりなしに近づいてきて、
「旦那様、お伊勢参りの者に路銭を一文お恵み下さい」と言葉をかけるからである。

江戸の町や奥州の住民には、許可を受けずに伊勢参りの旅に出る風習がある。
そればかりでなく、非行を犯して両親のところから逃亡して伊勢に向かい、赦免の免罪符をもらってくる。
そのため、銭がなく野宿したり、時には路傍で病み死んだ人を見ることもある。

 

・・・・・

江戸時代後期


「江戸の旅とお伊勢参り」  泉洋社  2017年発行

千三百年以上もの歴史を持つ伊勢神宮への参拝は、
江戸時代に熱狂的な支持を得た。
商家の小僧から、京の遊女、村の農民まで、
全国から数百万人規模が伊勢を目指して歩いた。

しかも「おかげ参り」という名さえあれば、
突然の旅立ちも行方不明の無礼も放免。
道中では路銀がなくても誰もが喜捨の「おもてなし」を受け、
伊勢滞在に身をゆだねることができた。

なかでも最大規模だったのは、文政13年(1830)の四百万人。
当時のおかげ参りの熱狂ぶりがうかがえる。
しかもその多くが着のみ着のままの無一文。
おかげ参りのトレードマークだった柄杓を差し出せば、
お金や食べ物の無料提供は当たり前、
宿さえ無料で泊れたというのだから、
参拝者だけでなく日本全国が、まるで熱に浮かされたように、
伊勢神宮に焦がれついていたのだろう。

・・・・・・

大正~昭和

父の話・2004.7.4

お伊勢参り
じいちやん(管理人の祖父)が若い時分はいっぺんは参らにゃあようた。
ワシの時にゃあ小田郡から参るんで、各地区から集まって団体で行きょうた。
名古屋から参り紀伊半島をまわり大阪へ出ようた。

 

・・・・・

 

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