しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「広島国際平和マラソン」

2023年07月18日 | 無くなったもの

場所・広島県広島市西区・広島県総合グランド
無くなった日(最終回)・2019年11月3日
撮影日・2019年11月3日

 

あの、大好きだった「広島国際平和マラソン」がなくなる。
コロナで3年中止され、今年は4年ぶりに再会されると楽しみに待っていた。

 

経費節減のため2023年は大会消滅、

コロナ前の2019年の大会が最後となった。

 

NHKニュース
2023年04月24日 16時52分

昭和56年に始まった「ひろしま国際平和マラソン」は令和元年まで39年連続で開催されていましたが、
新型コロナウイルスの影響で令和2年から3年連続で中止になっていました。
実行委員会は、4年ぶりの開催を目指して検討を続けてきましたが、運営費の高騰や参加者の減少を理由に大会を終了すると発表しました。

 

とにかく楽しい大会だった。

スタート地点は「広島ダイヤモンドホテル」。

 

別件ながら、2023年7月5日の中国新聞に、「広島ダイヤモンドホテル」も
来年6月末で営業を終了する記事が載った。

 

(スタート地点での混雑防止
選手が座っているのは、立つと選手同士が密着し危険なので、集団の密を緩和するため)

ダイヤモンドホテル前では、

ラジオ中国のアナウンサーや、広島カープの選手がステージから盛りあげていた。

 

 

 

走る幸せを感じる庚午橋ふきん。

 

 

 

 

 

ゴール後はスタジアムの芝生に寝ころぶ喜び。

 

 

 

チチヤスやカルビーや三島のフリカケ等をもらう。

参加賞のTシャツも他大会に比べて生地もデザインもよい。

 

 

スタジアムの隣のサブグラウンド。食べもの・ステージ・売店でにぎやか。

ここも楽しい。

 

・・・・

 

それに、せっかく広島に来たのだから、

呉見物、武田山・鈴が峰・二葉山などのトレッキング、宮島観光等を併せて楽しむ。

 

ほんとうにいいマラソン大会だった。残念だ。

 

 

 

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みはらし温泉 

2023年07月17日 | 無くなったもの

場所・広島県三原市須波
無くなった日・2019年1月31日
撮影日・2009年6月16日

 

「みはらし温泉」は、いい温泉だった。

 

外観からして”みはらし”がよかった。

これは↓、生口島沢港~須波港のフェリーから見る「みはらし温泉」。

写真左から、ホテル・温泉・駐車場。

 

 

 

ここが「みはらし温泉」、国道185号線。JR呉線とほぼ平行する。

 

 

 

 

 

大浴場は海側に面して長い風呂。

前に見える佐木島と小佐木島の間には渦潮が発生するが、浴槽内も渦を思わす流れがあった。

 

 

大浴場のガラス越しに見える眺めも最高。

大浴場から見る左から「みはらし連山」「小佐木島」「佐木島」。

 

こんなに眺めも温泉もよかった「みはらし温泉」だが、レジオネラ菌で新聞テレビで報道され、

営業休止を経て再開後に再びレジオネラ菌が見つかり、死者も出て、ついに休館となった。

 

 

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小早川隆景

2023年07月17日 | 銅像の人

場所・広島県三原市本町(駅裏)

 

小早川隆景

(Wikipedia)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
毛利元就の三男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。
吉川元春と共に毛利両川として戦国大名毛利氏の発展に尽くした。
毛利水軍の指揮官としても活躍している。
豊臣政権下では五大老の一人に任じられた。
実子はなく、豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。

 

・・・

「あなたの知らない広島県の歴史」 山本博文 洋泉社 2012年発行

豊臣秀吉は得意の絶頂にあった。
しかし、高齢であった秀吉は、幼少の秀頼を残して死ぬことを何よりも心配していた。

自身の死後の安定を図り、有力者に幼い秀頼を補佐させなければないと思い立った。
そして当時秀吉に次ぐ地位を誇った徳川家康、前田利家、毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家の5人の大名に対して、
豊臣政権における政治上の最高顧問を委嘱し、のちのことを託したのである。

・・・


三原観光navi

三原の礎を築いた知将・小早川隆景

三原の礎を築いた知将・小早川隆景
三原の歴史を語る上で欠かせない人物といえば、1567(永禄10)年にこの地に三原城を築いた戦国武将・小早川隆景です。
隆景は、戦国時代に中国地方の覇者として君臨した毛利元就の三男として生まれ、
毛利家にまつわる有名な逸話「三矢の訓(みつやのおしえ)」のうちの一本として本家・毛利を支えました。

 

・・・

 

撮影日・2014年10月26日 「 第11回みはら浮城まつり」

 

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笹川良一母子像(孝養の像)

2023年07月17日 | 銅像の人

場所・岡山県岡山市北区高松稲荷・最上稲荷

 

最上稲荷に行くと、笹川良一さんの銅像(母子像)があった。
昔はTVコマーシャルでよくみた銅像。

岡山県内には倉敷市児島ボートレース場にもある。
児島ボートの銅像は「孝養の像」と呼ばれるから、
この最上稲荷の銅像も「孝養の像」が正式名称かもしれない。

でもなぜ、最上稲荷とは縁がなさそうな笹川さんの像がココに建つのだろう。

 

・・・

笹川 良一

(Wikipedia)抜粋

生年月日 1899年5月4日
没年月日 1995年7月18日(96歳没)
称号 勲一等旭日大綬章
座右の銘 「世界一家 人類兄弟」。

 

・・・

 

撮影日・2023年7月16日

 

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高松城跡の宗治蓮

2023年07月17日 | 令和元年~

場所・岡山県岡山市北区高松・備中高松城跡公園
日時・2023年7月16日

帰省していた長男が東京へ帰るので、妻といっしょに岡山空港へ送っていった。
途中、空港の10kmほど手前にある高松城へ寄った。

 

 

 

目的は宗治蓮を見ること。
満開には少し早いかな?
時間が午後3時なので、早朝に咲く蓮見物には不利。
とか思いながら、
公園駐車場からハス池に向かった。

 

予想通り、
満開には早く、
見物時間は遅かった。
しかし四百年地下に眠っていたという「宗治蓮」は、
見る人に花と戦国の歴史を、じゅうぶん感じさせてくれた。

 

 


高松城水攻め

(Wikipedia)

備中高松城の戦い
天正10年(1582年)に織田信長の命を受けた家臣の羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治の守備する備中高松城を攻略した戦いである。
秀吉は高松城を水攻めによって包囲したことから、高松城の水攻め(水責め)とも呼ばれる。
この攻城戦の最中に、秀吉の主君である織田信長が明智光秀に討たれた、いわゆる「本能寺の変」が起きた。

 

 

清水宗治辞世の句碑

「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」

 

・・・

 

 

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昭和12年7月7日・盧溝橋事件 (悲劇の序幕)

2023年07月08日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

盧溝橋事件をきっかけに始まった日中戦争は、
現在のウクライナ戦争に似ている。

相手を弱国とみて、一方的に進攻する。
世界中で、日本国民だけが、”正義の皇軍”であると信じていた。

・・・


「軍国日本の興亡」 猪木正道 中公新書 1995年発行

盧溝橋事件

1937年7月7日、盧溝橋で、
日本の天津駐屯軍の小部隊が演習中に中国軍の小部隊と衝突した。
これを「盧溝橋事件」という。
最初の一発が、日中両軍のどちらかによるものかは、いまだ明らかでない。
7月11日現地で停戦協定が結ばれた。
・・・
ところが、
同じ7月11日、東京では五師団の兵力を中国に派遣することが閣議で決定された。
参謀本部作戦課長は
「千載一遇の好機だからこの際やったほうがいい」、
参謀本部支邦課長は
「上陸せんでよいから、塘沽附近まで船を回して行けば、それで北京とか天津はもうまいるであろう」
と述べたという。
拡大派も中国との全面戦争を希望したわけではなく、
出兵という武力の威圧によって中国は屈伏するものと楽観視したわけである。

・・・

最後の関頭

中国では、反日・抗日の声が高まった。
1937年7月17日、
蒋介石は有名な「最後の関頭演説」を行っている。
「たとい弱国たりとはいえ、
もし不幸にして最後の関頭にたちいたるならば、
われわれがなすべきことはただ一つ。
即ち、
わが国民の最期の一滴までも傾倒して、
国家の存立のため抵抗し、抗争すべきである」。

ここで日本は、
西安事件に際し国民党と共産党の妥協を想起すべきであった。
残念ながら日本には、
国民党と共産党との抗日統一戦線を予測する能力に欠けていた。
また、
中国を相手にする戦争に深入れすれば、
米英両国を敵に回す惧れが大きいのに、気がつかなかった。
こうして、日本は
盧溝橋事件という些細な出先の揉め事をきっかけとして、
中国との全面戦争に深入りすることになった。

・・・

盧溝橋

・・・


「教養人の日本史」 藤井松一 現代教養文庫  昭和42年発行

悲劇の序幕

昭和12年7月7日夜、
北平(北京)郊外の豊台に駐屯していた日本陸軍の一個中隊が夜間演習に出動し、
芦溝橋の西北に向かった。
この当時、義和団事件議定書の条項により北平郊外には
日英仏伊四か国の軍隊が駐屯しており、
これらの軍隊は、戦闘以外の演習を自由に行うことができた。
しかし前年以来の緊張した状況の中で、
しかも中国軍が駐屯する芦溝橋のまぢかで演習を行うことは、
事件を引き起こす可能性を十分にはらむものであった。

その夜10時半、実弾射撃が加えられ、点呼すると兵一名が行方不明になっていた。
その日現地の牟田口聯隊は芦溝橋、竜王廟を占領し、
9日から11日までの交渉で停戦協定が成立した。

しかるに内地では9日、杉山陸相は三個師団の派兵を提案、
11日夕刻五相会議で認め、派兵声明を行った。
現地で停戦交渉が成立したにもかかわらず、
内閣が派兵とその理由を声明したことは、
日本政府が戦争をたくらんでいるという印象を内外、
とくに中国につよく印象づけた。

7月28日早朝から日本軍はいっせいに総攻撃を開始し、
宋哲元軍を北平周辺から一掃した。
8月14日、日本政府は
「支那軍の暴戻を膺懲し、 (暴支膺懲・ぼうしようちょう)
以て南京政府の反省を促す為、
今や断固たる措置をとるにやむなきに至った」
との強硬声明を発した。

以後、日本の大陸侵略戦争はまる8年間の長きにわたってつづけられていくのである。

・・・

盧溝橋

・・・

画像は、

「NHK歴史への招待㉑」より借用

 

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昭和12年7月7日・盧溝橋事件 (岡山県郷土部隊~護国の人柱~)

2023年07月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

護国の人柱

「岡山県史」

『合同新聞』は、
「独流鎮の華 仰げ護国の人柱 碧血に輝く郷土将兵の偉勲」
「あゝ○○大尉、我が赤柴部隊に鳴る勇猛果断」と大きく報道。
そこでは、岡山市の留守宅を訪れると、夫人はさすがに武人の妻らしく、
「かねて覚悟してゐました、
お国のために立派に働いたのですから思ひ残すことはありますまい」
と、少しも取り乱すことなく言葉少なに語ったという。
この後も、一貫するワン・パターンの記事が載せられ、
銃後の国民の本音はそうした建前に押し流されていくことになる。

 

・・・

 

「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行


支那事変

昭和11年12月に起きた西安事件は、それまで対立抗争を続けてきた国共両党を合作に導き、
抗日意識を全国的に統一させた。

こうした情勢の下に、昭和12年7月7日、盧溝橋事件が勃発した。
7月11日、内地から三個師団(第五・第六・第十)が考えられていて、
我が歩兵第十聯隊もそのとき運命が決せられていたのである。

従来日本の武力の前に支那は屈っしていた。
派兵の目的も、伏在的にそうした威圧の奏効を考えてのことであったが、
もはや支那はそうはいかなかった。
9月2日「北支事変」の名称を「支那事変」と改称し、全面的な日支戦争の開始を政府は確認した。

 

・・・

(「歴史街道2021年9月号)

・・・

「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行

大本営徐州会戦を決す
徐州会戦の戦機は愈々熟し、その包囲網は狭べられた。
しかし敵の逃げ足は早く、四方から迫った我が軍は、もぬけのからの徐州城へ突入していった。
5月19日徐州城西門に日章旗を掲げ、翌20日入場式が挙行された。

徐州会戦後、近衛首相は閣僚を更迭し、
政戦両略に通じる我が郷土出身の宇垣一成大将に外相就任を懇請するとともに、
第五師団長板垣征四郎中将を陸相に起用した。

だが、その後、
興亜院新設問題に端を発し宇垣外相は辞任した。
かくして戦争は継続され、ますます拡大されていった。


・・・

漢口作戦

漢口進撃命令が下ったのは昭和13年8月22日であった。
漢口進撃作戦に従事した中支那派遣軍は、総兵力30万をこえる大軍団であった。
我軍の作戦進路は四路に分かれ、
我が第二軍は大別山の北麓に沿って信陽に進攻し漢口北方へ迂回するものであった。
8月27日、第十、第十三師団は金橋、椿樹嵩の線より行動を開始した。
8月28日、師団は六安を占領した。
道路は予想の如く不良で、尚且つ敵の破壊甚だしく車両部隊の追及は困難を極めた。

第十師団は歩兵第第八旅団が先頭にたち、我が歩兵第三十三旅団は大した戦闘を交えることなく進軍したが、
8月末の晴天つづきの炎天下であり、昼間百十余度も騰り、
当時携帯食糧等の負担量多く、給水また十分でなかったので、
落伍者多く喝病患者また発生、
マラリヤ、コレラ患者も続出して、苦難を極めた難行軍であった。

・・・

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昭和12年7月7日・盧溝橋事件 (岡山県内)

2023年07月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

第二次世界大戦の始まりは、
1939年(昭和14年)9月1日、ドイツ軍によるポーランド侵攻といわれる。
大東亜戦争と呼んだ戦争は、
1941年(昭和16年)12月8日のハワイ・マレー沖海戦。
日中戦争の始まりは、
1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件。(旧日支事変、旧北支事変、旧支那事変)

令和の現代からみると、
日本が戦争状態になったのは
国家総動員態勢となり、国家・国民が戦争体制に組み込まれた、
「盧溝橋事件」と思える。
”神州不滅”という狂乱国家の始まりは、今から86年前の今日。

 

・・・・


「美星町史」 美星町 昭和51年発行


戦争の泥沼へ


昭和12年7月、日本はついに中国への全面戦争に突入し、動員令がしきりに下命されて軍隊は続々と中国大陸へ向けて出勤したのである。
岡山に駐屯する歩兵第十聯隊、工兵第十聯隊にも7月27日、動員が下され、
8月上旬華北へ向けて出発した。
そして赤柴隊など郷土部隊の奮戦ぶりが報ぜられた。
出征後月余にして町内出身兵士の戦死が報ぜられ、
また続々と発せられる召集令状により郷土を出発する出征兵士の数も日増しに増加して、
村民の複雑な緊張感は急に高まっていった。

村では出征兵士に送る「千人針」をもとめる婦人、
また武運長久を祈る八社または百社参拝の群が多く見られた。

日中戦争勃発とともに政府は「挙国一致、尽忠報国」「堅忍持久」を標語とする
国民精神総動員運動を展開し、
その実践事項としては奉公精神の涵養、銃後の援護の強化持続、経済政策に順応する生活の建て直し、資源の愛護などで、
ことに神社参拝や隣保団結、納税貯蓄、勤倹力行などが強調され、
国民一人一人の生活は抑制されていった。

この運動は次第に強化されて昭和14年11月には部落会、隣組の末端組織を作り、
それぞれ常会を設けて全国民を戦争体制の中に入れ、国策に協力するよう強く推進されたのである。
この頃から服装も男子は巻脚絆、女子は筒袖にモンペが常用になった。

・・・

「岡山県郷土部隊史」昭和44年発行

・・・

「早島の歴史2」 早島町史編集委員会  1998年発行


昭和の幕開けは全国的な御大典祝賀行事で始まった。
しかし、そのお祭りムードの裏で戦争への準備も着々と進み、満州事変・上海事変を経て昭和12年には日中の全面戦争へと突入した。
そして昭和16年の真珠湾攻撃によって日本は世界を相手に戦争を行うこととなった。


昭和12年7月の盧溝橋事件を機に日中全面戦争にいった。
そして、人々の生活も軍事最優先とされた。
こうした時代の中で、早島からも数多くの人々が戦地へ赴いた。
早島町出征軍人後援会(会長=町長)は町や家族の近況などを掲載した『早島新報』を発行した。

男たちの多くが出征した後、地域や家庭の守りは女たちの役割となった。
そして、彼女たちは愛国婦人会・連合婦人会・大日本国防婦人会などの婦人団体に組織された。
婦人会員の実行すべき申し合わせ事項として、
一、非常時の国家に報いるために、はたまた一家の更生のために一層勤労努力致しましょう。
二、経済の組織化計画化を図り、之が実行を期しましょう。
三、分に応じ社会奉仕をしましょう。
四、経済生活と道徳生活を一致させましょう。

その下に数項目からなる細かな目標を定めている。
ととえば、
子女の教育に留意し御国に役立つ善良な第二の国民をつくろうとか、
非常時を自覚し一日のうち一時間長く働こうとか、
宅地を利用して野菜や鶏・兎を育てようとか、
日常生活の細部にわたって目標が掲げられていた。


昭和12年8月、大日本国防婦人会都窪郡早島町分会が組織された。
宣誓決議には

本町よりも勇士を多数戦場に送っていることは、ひそかに誇りとし歓びとするところでありまして、
本町民たるもの挙町一致、
常に皇軍の武運長久を祈り、不断に銃後の務に欠くることなきを念ひ、努力を続ける次第であります。

その後、三つの婦人団体は昭和17年全国的に統合され「大日本婦人会」として再発足した。
早島町でも、モンペ服装にて国防訓練に貯蓄に援護に会員一同団結して活動する会員数1779名の早島支部が発足した。


昭和12年8月、政府は全ての国民を戦争に協力させるために国民精神総動員実施要項を策定した。
早島町でもこれを受けて、10月13日から一週間を強調月間とし、
各戸ごとに国旗を掲揚して、
13日・時局生活の碑、
14日・出動将兵への感謝の日、
15日、非常時経済の日、
16日、銃後の守りの日、
17日、神社参詣殉国勇士を讃える日、
18日、勤労報国の日、
19日、非常時心身鍛錬の日、
と定め、行事の励行に努めさせた。

思想防衛団
また、思想統制も強化され昭和13年10月には「早島町思想防衛団」が組織された。
共産主義や反国家思想による銃後錯乱に備えるものであった。
団長は町長、副団長には助役と小学校長が就任した。
町内を16の班に分けそれぞれに班長を置いた。
その活動は思想動向の調査にあり、人々は心の中まで監視されるようになった。

・・・

 

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七月七日 ②なぬかび

2023年07月06日 | 暮らし

牛が一年で仕事をするのは、一度(田植え時)しかなかった。
しかも牛は大飯食い。
エサをあたえるのは農家の大仕事、
それでも牛は大切にされていた。
その極めが七夕の水浴だった。
茂平では”とんま”の浜で牛を洗っていた。
牛が何頭も波打ち際で、体全体をゴシゴシ洗うさまは子供がみていても興味深い風景だった。

 

・・・

井戸掃除は、井戸が深くなく、はんぶん遊びだった。
朝からバケツで井戸水を汲みだし井戸を空にしていた。
空になる頃、父が井戸の底に降りて、底に溜まった枯葉などを取り除いておしまい。
すぐ終わり、すぐに地下水が井戸に溜まっていった。

 

・・・

井戸掃除 (母の話し)

何処のうちでもボニの前、七夕の頃。・・昔ぁ、旧じゃが。
井戸掃除をしょうた。
毎年じゃ。
井戸の水を全部出して、底をこさぎょうた。

ウチのは浅いのでワケはないが、(実家の)賀山にゃぁきょうていくれいじゃった。
縄をつとうて下まで降りていきょうた。
上から見ようてきょうとかった。しまいにゃおじいさんも、「もうようおりん」ゆうてようた。
底にたまった泥を取りょうた。

共同井戸のところにゃ、共同で掃除をしょうた。

2001/1/1

 

 

・・

「福山市引野町誌」  引野町誌編纂委員会 ぎょうせい 昭和61年発行

この日七度水浴びをすれば病気にかからないといわれ、多くの者が水(海)浴をし、
牛や馬も洗ってやる。
特に海で牛を洗えば元気になるといわれていた。

またこの日、
井戸替えをすれば、一年中きれいな水がわき出るとの言い伝えがあり、
井戸さらいをする

・・・


「美星町史」 美星町 昭和51年発行

ナヌカビ

七月七日をナヌカビといい、一般に井戸かえやノミカワのカワカエをし、水神様を祀る。
またナヌカビには墓掃除にも行く。
この日、牛を飼っている家では牛を川へつれていき、川入れをして「一年中の風呂入りじゃ」と洗ってやる。
一般にナヌカビから、僧侶が各檀家をまわってタナギョウをする。

 

・・・

・・・
 

「金光町史・民俗編」 金光町 平成10年発行

七日をナノカビといい、
子どもは七回水浴すれば丈夫に育つという。
女性は髪を洗うと髪がきれいになるとか、黒い髪になるという。
また洗濯をして七竿干すのだともいう。

この日は必ず井戸替えをする日とされている。

 

 ・・・

 

「岡山県史・民俗編Ⅱ」 岡山県  昭和58年発行
七夕
七日に井戸替えをして水神様を祀る例は非常に多い。
このほか牛を川へつれてゆき、タデの葉で洗ってやると牛が達者で災難にあわないという。


・・・

 

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七月七日 ①たなばた

2023年07月06日 | 暮らし

七夕飾りは楽しかった。
ナスビやスイカを書いた絵を買ってきて、
藪から竹を一本持って帰り、
こよりを作りながら、
竹に飾った。
家の庭に立てたまま1週間ほど経つと「七夕」の日となり、
庭から海に、ひこずって持ち運び、流した。
毎年の夏休みに一度ある、朝の行事だった。

 

・・・

 

・・・

「福山市引野町誌」  引野町誌編纂委員会 ぎょうせい 昭和61年発行


七月七日

七夕の節句、たなばたさん、星祭りともわれている。
六日の夜に主に行う。
二三日前の早朝に、
稲の葉の上にある露を集めて硯に入れ墨をすり、
五色の紙を短冊に切ったものに七夕の歌、星の名、俳句、和歌などを書き、
これを竹の葉枝につるして庭前に立てて牽牛、織女の二星に供える。
六日の夜は、
うり、なすの各一個を七つに切ってこれを稲の葉で通し、かしわの葉に盛り、
酒、もち(だんご)とともに星に供え、技芸が上達するよう祈願する。
七日の早朝になると、供物などを川や海に流す。
これは「天の川」へ流すという意味から。

 

・・・

「金光町史・民俗編」 金光町 平成10年発行
七夕とナノカビ

七夕
七月六日は子供の祭り、
子供たちは早朝、ハスや里芋の葉に溜まった朝露を集めてきて、
墨をすり、短冊に願い事を書いて笹竹に吊るす。
笹竹は縁側に立て、団子や西瓜、瓜、大豆、ササゲ、栗などを供える。
ナスやキュウリで牛や馬、鶏などを作って供える。
笹竹の下枝にナスを輪切りにして二つずつ刺す。
夜は満天の星をあおぎ、願い事を祈る。

翌七日朝七夕を川に流す。


 

・・・・


「岡山県史・民俗編Ⅱ」 岡山県  昭和58年発行

七夕

七夕はタナバタと読み、旧暦七月七日の行事とされているが、
六日夜行われる神祭である。
女の子が機織りが上手になるようにと願って布切れを供えたり、
この夜の星明りで針に穴を通すと、裁縫の手が上るとか乞巧奠(きこうでん)の名残である。

・・

 

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