しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

お祖父さんの自慢話

2023年07月05日 | 江戸~明治

祖父(1893~1992)は、
明治26年広島県深安郡下竹田村に生まれた。
4男だったので、茂平の農家に養子結婚した。
平成4年に亡くなったが、その時は、笠岡市の男性で2番目の長寿だった。
4人の子がいるが、
戦死者もなく、今も2人が健在。
(その長命の系統にあやかりたいと、ひそかに、いつも願っている)

子どもの頃、風呂で話す祖父の話はワンパターンだった。
「百姓はいけん。月給取りになれ」

その話を信じ(職種は選ばず)、”会社員”になったが、
悪くはないが、いいものでもなかった。
でも、祖父が言いたかったことは、時代や社会や世相をからみて、
至極妥当な意見であったと思っている。

・・・

(昭和16年頃と思える家族写真・後列右側が祖父)

 

・・・

江戸時代末期、
日本の識字率は60~70%といわれ、
それが明治の文明開化成功の大きな要因とも言われる。
逆に言えば、
30~40%の人は読み書きが出来なかった。
昭和17年、茂平に嫁いだ母は
最初の村人からの依頼事項は、隣家の老婆からの手紙の代筆だった。
そういう事例は管理人が小学生までつづいた。

・・・・

2023.7.3
姉との雑談に出た、祖父の話。

(姉の話)

お祖父さんは高等小学校を出ていた。
それで、
”ひろこ(=姉のこと)よ、ワシは高等小学校を出とる。
それじゃけえアルファベットも言えるし、書ける。
わからん時はワシに聞け、おしえてやる”

・・・


大正生まれの、
父や母の時代の高等小学校は、
尋常6年、
高小2年、(義務教育6年)

明治の、
祖父の時代の高等小学校は、
尋常4年、
高小2年の時代。(義務教育4年)

ABCを習った祖父は大きな自慢だったのだろう。
でも、それを言える相手が孫娘しかいなかったのも、
養子のつらさだった・・のだろうなあ?

・・

 

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一つの鍋 (満州引揚の話)

2023年07月04日 | 昭和21年~25年

昭和20年8月8日、
ソ連軍の満州侵攻でたちまち、日本人は棄民となった。
これは、おば(父の妹)の引揚時の話。

昨日、姉と雑談していたら高齢のおばのことが話題となり、
記録として書き残す。

 

 

一番困るのが・・・

おばの話(2002・4・30)

吉林から葫蘆島(ころとう)まではゴットン車ででた。
ゴットン車なので雨が降ればびしゃ濡れ。

食事は日に一食。
高粱のお汁のようなお粥。金(かね)の皿で二人に一つ、じゃから夫婦で一つ。
汽車が止まるのは一日一回。
止ったとこは(駅でなく)何処ゆうもんじゃない。

野宿。
一度だけ、焼けて屋根も半分ないような家か工場へ寝ることがあった。その時は病人や、子供や、年寄りがその中で寝た。
野宿じゃから毛布を頭から被って寝んと顔に露がつく。
とにかく私らはづっと野宿をしとった。
若かったけぇなあ。何日かかかってコロ島へでた。

一番困るのが・・・
吉林から葫蘆島(ころとう)までで一番困ったのが・・・おしっこ。
汽車は走りだしたら止まらんし。
満員でみんな立ったまま。
私が「おしっこがでたい」言うたら、身体へ毛布を巻いて、それからカナダライの洗面器にして。
それを、びっしり(満員)乗っとるひとの頭の上を、みんなで運び動いている貨車から外へ棄てていた。
そのカナダライは洗いもなにもせん。

 

管理人記
ここに出る「カナダライ」は、カナダライでなく、・・・じつは「鍋」だった。↓

 

・・

姉の話 2023.7.3 (姉とおばの会話日時は不明)

一つの鍋

日本に引き揚げる時、かね(金属)の手荷物は鍋一つだった。
この鍋で全部の用を足した。
オシッコをするのも鍋にした。
大便もするのも鍋にした。
水を飲むのも鍋にくんで飲んだ。
食糧を受けるのも鍋に貰い、鍋で食べた。


・・・・

 


ソ連軍の侵攻後、何度も生命の危機があり、
その中で一子を失ったおばは、
引揚時の苦労程度は、たいした問題ではなかったような話しぶりだった記憶がある。

 

 

 

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鞆の祇園さん参り

2023年07月04日 | 暮らし

広島県福山市鞆町「沼名前神社」(鞆の祇園さん)

 

茂平の港に年に一二度、観光汽船が入港していた。
茂平の波止場には、小さな漁船しかなかったので
大きな旅客船が目の前で見えるのは楽しかった。


波止場には乗る人や、見送る人や、見物人でにぎやかだった。

観光汽船は茂平の樋門の前に停まり、
荒神さん側から伝馬船で客を2~3人ずつ乗せて、本船へ運んでいた。


観光汽船は茂平から鞆へ行くということだった。
知らない鞆よりも、観光汽船へ一度乗ってみたい、その願望や気持ちが強かった。
鞆への観光船は、茂平の人たちの日帰りの物見遊山だと思っていた。

 

広島県・岡山県・香川県・愛媛県の、漁船や海上輸送の人達が、”海上安全”の信仰でお参りしていた、
ということを知ったのは、それから何年も後の事だった。

 

祇園さん参り


管理人は祇園さん参りに行ったことがないので、
姉に体験談を聞いてみた。
観光船でなく、隣家の漁船で行ったとのことだった。

姉の話・談2023.7.3

隣のおじさんの船に乗っていった。
おとうさんと私と、他に1~2人。
5~6人で行った。(茂平の漁船は定員自体が5~6人)

鞆に着いて降りる時が怖かった。
船からおりて、階段(雁木)を一段づつはいながら道まで上った。
それから鞆の町を歩いたり、お父さんが、土産や酒かすを買った。
帰るときも、船に乗る時がこわくていけなんだ。

管理人記・当時の港にポンツーン・桟橋は極少数で、
船を岸につけたら、船に飛び乗ったり、一枚板の上をあるくのが普通の乗船方法だった。

 

・・・


鞆の祇園さん参り

「金光町史」

鞆の浦の祇園様に参詣する。
昭和30年頃まで須恵では、毎年一月と六月に参詣していた。
今は7月にバスで行く。
かつては、朝出て南浦港まで歩く。
予約してある運搬船天神丸・八天丸で鞆に行き、
参詣後、阿伏兎観音で御祈念してもらう。
船で北木・白石島を通って南浦港へ帰る。
30~40人ぐらいの一行である。

 

「金光町史・民俗編」 金光町  平成10年発行

祇園講
祇園講は福山市鞆の沼名前神社、通称、鞆の祇園さんへ参る講である。
祭神は疫病除けの神である。
毎年七月ここへの参詣を続けている地区は多い。
戦前は玉島から船で、戦後はバスで参っている。
・・・

・・・

撮影日・2022.10.13

 

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神島88ヶ所霊場参り

2023年07月02日 | 暮らし

神島霊場は備中備後から多くの霊場巡りの人達がいた。
たいてい一泊二日の日程で、毎年お参りし、毎年同じ宿に泊まっていた。
外浦には宿が集中してあった。

いつの間にか、車でお参りする人たちが増え、
いつの間にか、それも減り、宿も減り、
巡礼する姿を見るのが珍しくなった。

・・・

撮影日・2008年4月26日  神島88ヶ所霊場・笠岡市神島

・・・

 

 

お接待。

 

青龍寺。

 

・・・

 


神島88ヶ所霊場参り

「金光町史」

戦前・戦後の頃、
4~5人で、早朝歩いて鴨方から里庄へ行き、そこから川沿いに神島瀬戸へ出て、
神島外浦を巡って定宿で一泊する。
翌日島を巡って瀬戸から船に乗り笠岡港へ、
笠岡駅から鴨方まで汽車に乗る、そこから歩いていた。

・・・


「岡山県史・民俗Ⅰ」 岡山県 昭和58年発行

大師信仰と88ヶ所めぐり

弘法大師
大師信仰とは一般に弘法大師信仰と理解されている。
そして弘法大師の開基という寺伝を持つ寺、
弘法大師作と伝える仏像、
弘法大師によって湧き出たという泉、
弘法大師の霊験の話などはじつに多く、
弘法大師の信仰が庶民の間に深く浸透していることはいうまでもない。
県下の講の中でも、「大師講」がもっとも普遍的で、
20日の夜、あるいは21日をその日に当てているのは、弘法大師の命日であるからである。
このように弘法大師信仰を普及させたのは、
高野山を根拠とする聖(ひじり)が弘法大師信仰と高野山への納骨を勧めて村々を巡って歩いていたからであるという。
このような高野聖を村に迎えた人びとの心情には、
高貴な霊力を備えた人が、村の外から訪れて祝福してくれるという信仰があり、
その訪れを待ち、その話に耳を傾けようとする態度が強かったからである。

八十八ヶ所巡り
88ヶ所巡りは33観音巡礼と並んで宗派を問わずに庶民の参加する民間信仰である。
これを遍路といい、
また辺土ともいった。
『今昔物語』にも見えるところからすれば、すでに平安の初期に、遠く遥かな四国をあの世(他界)と見て、そこを巡ってくる信仰が生まれていたのであろう。
しかし、
県下などで88ヶ所巡りが行われたのは、江戸時代の中頃であろうといわれている。
そして四国から持って帰った霊場の砂や大師像などを村人に配ったり、
それぞれの村に新四国88ヶ所を設けた。
親しまれている小豆島88ヶ所は1686年(貞享3)の開設といわれる。

神島88ヶ所霊場
笠岡市の神島88ヶ所霊場は、
1744年(延享元年)笠岡の今田卯兵衛(慧玄)が、
愛児の菩提のために四国遍路をして、大師のお告げを受けて開いたと伝える。

 

・・・

 

「写真集笠岡」 田中舜治 国書刊行会 昭和56年発行

お大師まいり


春正月ともなれば桃やあんずの花が咲き、
瀬戸内海の潮の香りも一段と強くなり、
お遍路さんの季節である。
備中・備後の奥地の人々は米を背負い老幼相携えて神島八八ヶ所の霊場巡拝に出かけてくる。
そして神島に一泊し新鮮な内海の魚で精進落ちをして一年の農作業のつかれをいやす。
それが江戸時代以来の農民の習慣であった。
五、六月頃は除虫菊が満開である。

神島霊場めぐり


毎年旧暦20日、21日は弘法大師縁日としてお大師参りの客が続く。
彼らは野道・山路を巡礼してひたすらおかげをこうむろうとする。
山あり、海浜あり、そして国立公園瀬戸内海の風景を観賞して気をはらす。
大抵の病気は治ってしまう。
それはこの島が持つ風光の美しさと信仰の渾融であろう。
最近名古屋方面からも参拝者が訪れるようになった。

・・・

 

 

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石鎚参り (お山開き7/1)

2023年07月01日 | 暮らし

笠岡市の山で、
いちばん多い名は「竜王山」次に「石鎚山」。
各小学校区に竜王山と石鎚山はあるように思う。
この地方に”石鎚講”は多く、
今も形を変えながら、四国石鎚山へ登る人は多い。

 


・・・

矢掛町史・民俗編」 矢掛町  昭和55年発行

 

石鎚参り

石鎚山登拝は古くから行われているのであるが、

現在古老より聞きうる、
大正から昭和初年ごろの石鎚参りを記してみよう。

石鎚参りは田植えの終わった直後、
先達を中心に50~60人の人が組を組んで参った。
思い思いの服装の人が多かった。

歩いて夕方笠岡市西浜に着いた。
その夜、舟で西浜を出、翌朝伊予の壬生川港に着いた。
舟は櫓を漕いだので、潮の加減で遅れる場合もあった。
壬生川から黒川まで歩き、はじめて宿についた。

宿を早朝出発し、石鎚山に登った。
登る途中には
「ナンマイダー、ナンマイダー」
と声高に唱えた。
山頂のご神体に体をなすりつければご利益が得られるので、競って触れた。

石鎚参りの土産は石楠花の葉、熊笹、縫いぐるみの小さな猿、ダラニスケ、ニッケなどであった。
石楠花はの葉は、田や畑に棒で立てると虫よけになるといわれた。
熊笹の葉は、牛に食べさせると元気になると信じられた。
縫いぐるみの小さな猿は、子どもが授かるとか、元気に育つ伝承があり、
ダラニスケは胃薬になり、
ニッケは子供への土産であった。
往復5日ほどを要した。

村へ帰ると、人々は出迎え、道端に伏して石鎚参りの人にまたいでもらった。
またいでもらうと、病気が治るとか、ご利益を授かると伝えられた。
一番に村の石鎚社や山上様に参詣し、無事下山のお礼と報告をした。
家のものは、毎日神棚に灯明をあげる場合もあった。

 

・・・


「金光町史」 金光町  平成10年発行

石鎚講

町内で盛んな講の一つに石鎚講がある。
四国の石鎚山を信仰する講で、
遥拝所のある佐方を中心に、町内で百数十軒が加入している。
7月に夏山と呼ぶ石鎚山登拝の行事があり、
以前は沙美や寄島から船で、
現在はバス二、三台で石鎚山に参っている。

かつては夏山から白衣の行者たちが帰ってくると、
道に伏せて迎えてまたいでもらったり、
石鎚山の笹と石楠花をつけた五穀成就の札をもらって田に立てる光景が見られた。
なお、町内では「イシズキサマ」と発音されることが多い。


・・・

 

・・・


「金光町周辺の民俗」  岡山民族学会調査報告  昭和46年発行

石鎚の信仰

金光・鴨方町地域には石鎚信仰者が非常に多い。
この地域に石鎚神社が多く分布しているのも石鎚信仰者が多いあらわれである。
数字を示してみよう。
(笠岡市ぶん抜粋)
真鍋島 先達 14 大先達 0
北木島    109    5
神島      78   4
笠岡    244   10
今井    37   1
金浦   93  5
城見   44  2
陶山   52   2
大井  24  0
吉田  20   1
新山  30  1
白石島  10  0

先達の位をもらうには、5年以上石槌山に登拝しなければならない。
大先達は、長年の登拝を重ね、50歳を過ぎ、しかも宗教上の統率力を持つ人のみに与えられるという。

大正期の石槌山登拝の様子を記しておく。
家の前に、砂を盛り青竹を立てて、シメ縄をはった。
出発前日か当日に村の鎮守に参拝した。
衣装は白装束で、腰に鈴をつけ、六角形の杖を持った。
この杖は石鎚山の成就神社で求めることが多かった。
登拝者の集団は40人から50人くらいで、
先達の人は錫杖をもち、先達の絵符を錫杖に結びつけていた。
ホラ貝は、グループに一つか二つあった。

皮類は一切持っていかず、財布も皮のものを避けた。
登拝する人は、みな自分が神になったつもりで参ったという。
留守をあずかる家の者も、帰宅するまで、肉や魚は食べず、毎日神棚に灯明をあげた。

石鎚山に登る朝は、三時頃より起き、コリを取った。
コリを取らなければ鎖から落ちるといわれた。
登山のおり、息が苦しくなったり、鎖にとりかかった際などには、
六根清浄六根清浄ととなえた。
山頂に着くと、
石鎚神社のご正体に、体をなすりつけておかげを受けた。
ご正体に供えてあるお賽銭をいただいて帰った。
その場合、いただく金額の倍のお賽銭をした。

いただいて帰るものは、このお賽銭のほかに、
人形の猿、笹の葉、石楠花、ニッケ、お礼である。

村に帰ると鎮守に参った。
石鎚登拝の人々は、毎月一日集まって石鎚様を祭った。
石鎚講である。
次の石鎚登拝のため旅費を少しずつ積み立てた。

・・・

 

撮影日時・ 2011年7月13日  愛媛県西条市 /石鎚山 

 

 

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