モノスヤ☆のまきのテケテケあるある記。

花柳仲登嗣(モノスヤ)&仲真央(のまき)のコンビは2013年もブルワーズ青木を鋭意応援して生きます!!芸道も精進ちゅ♪

お片付け。

2006-06-20 18:55:22 | いろんな話。
またか、といわれそうなタイトルだな(笑)

部屋は、その人の心の中を表わすと江原先生は説いています。

ものを処分したくなったときは、
自分の心が強くなったと考えていいそうです。

「自分を変えたい」意欲やパワーが強まると、
部屋を片付けたくなったり、ものを処分したくなったりするらしいです。

無性に部屋の模様替えがしたくなるとき。
「新たな運命の流れ」が起こる前ぶれらしいです。

スタート直前のようです。

本当に、
なんでこんなに忙しいときに部屋の模様替えなんてしてるんだろ私って。
先月あたりは、そう思ったものでした。

そして、その流れは今も続いていて、
相変わらず(相変わらず??)部屋はキレイな状態をキープしています。

今までの私には考えられないことでした・・・。


模様替えをしたくなったときは、その心の声に素直に従うのが良いようです。

なぜだか新しいことを始めたくなる、
それも「変化のとき」「自分自身がふくらむとき」のサインなのだそうです。

ここに書いたことは、
すべて江原先生の受け売りですよ(押し売りじゃないですよ)。

自分の心の声に耳を澄ませて、その声のとおりに動いてみたら。

掃除好きになりました。
手芸好きになりました。
勉強好きになりました。
園芸好きになりました。

今までの私には、
とても考えられなかったことです。


もしかしたら、
ささやかなことなのかもしれませんが。

やっぱり自分の中で何かが、
自分の中の何かが変化しているような気がします。


私の中で蓋をしてきた女性性みたいなものが、
むくむくと膨らんできた兆しなのかも。ちょっと怖いな(笑)


最後に今日の可愛いちゃんのご紹介です(しばらく続きます)。


☆これが、わが家にやってきたばかりの”らび”(月兎耳)の姿☆




☆下が↓昨日今日の、らびの様子☆




大きくなったような?あまり変わらないような??(笑)

ちゃんとアップの画像を撮っておくべきだったと反省。

デジカメで育成アルバムを撮り始めました。

おきざりす。

2006-06-20 14:01:07 | いろんな話。
オキザリス。

母が知人から鉢植えを、もらってきたことがある。
そのときの私は、まだ園芸に何の興味も示さず、
ただ「オキザリス」という不思議な名前だけが妙に心に残っていた。

私の中に、
祖母に連れられて出掛けた佐渡の旅行から帰ると、
部屋から父親とその荷物が全て消えていたあの日のことがいつまでも残っている。

消そうにも消せない。

それが4歳のとき。
そのあと、やはり祖母に連れられた東京は新宿の駅の雑踏の中。
祖母と、その弟はウィンドーショッピングに夢中になっていた。
そして間もなく小2になる私の手が離れたのに気付かずにいた。

気が付くと私は知らない男の人の傍にいた。
幸いだったのは、その人が悪い心を持った人ではなかったこと。
そして、そこには泣きながら私の手を固く握る祖母の手があったこと。

間のことは何も覚えていない。
ただ人ごみの中、迷子になってたぶん泣いていた私を、
誰かが安全なところへ連れて行ってくれたか。
駅員さんが見つけてくれたか、そんなところだったのだろう。

それから、
きっと信じられるのは自分だけというさみしい子になってしまった。
どんなに大切な人でも私を残して去っていく。

この手が握られていても、
いつの間にか離していなくなるかもしれない。
そんなことを常々、考えるようになってしまった。

たぶん、
それがトラウマというものなのだろう。


オキザリスという植物の名前を数年前、初めて知った。
母は咲き誇る花を1年見ただけで、
あとは放置していたのだろう。
いつの間にか、どこにいったのか。オキザリスの姿は見えなくなった。

カタバミ科だという、その植物の名前だけが私の中に残った。

その時、他にもう一鉢もらってきたものがあって。
それが、いったいなんだったのか。
何という花の名前だったのか、いくら考えても思い出せない。

ただ確か、この鉢だったようなという記憶だけが残っている。


その鉢は裏庭の片隅に土の入ったまま投げられていて、
その鉢を使おうとして庭に土を空けると。

そこから球根状の根っこと、
ひょろひょろと頼りなげな茎と葉が転がり落ちた。
それが何本かある。

これは、なんなんだろう。
あの時、貰ってきた鉢に植えられていたのだろうか。
母に聞いても「さあ??」の一言で、さっぱり的を得ない。

もしかしたら雑草かも、しれない。

でも、なんだか、
「生きてるよ」「ここにいるよ」って声が聞こえるようで。
そんなはず、ないんだけど。

捨て置けなくて、
他の鉢と一緒に植え替えをしてみた。

育つんだろうか。
咲くんだろうか。

その前に、お前は誰なの。


雑草かもしれない、でも。
なんとなく、こうしちゃうと愛着が湧いてくるものだよね。


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今朝、
陰うつな気分で突き動かされるように足を向けた花屋。

花屋からも、
「ここだよ」「こっちだよ」って声が聞こえて(くるようで)。

その場から、しばし動けなくなる。

朝の花屋は、それぞれに忙しそうで。
誰も私の存在に気にも留めない。
世の中なんて、そんなもんだよねと思いながら。

これ以上ないくらい見倒して、
また二人連れ帰ってきてしまった。

母の仕事中に、こっそり植え替えて隅に置いて黙っておいたが。

帰ってくるなり見つかってしまった。


アンタは、大きな子供ですか。

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◆ベンケイソウ科 クラッスラ属 『ゴーラム』◆




◆キク科 セネキオ属 『万宝』◆


胸肉の話。

2006-06-20 10:12:25 | いろんな話。
モノスヤです

唐揚げにするなら、やっぱりモモ肉だよね。
カロリーが気になる人はムネ肉を使ってね。

って。鶏肉の話かよ。
って、違うけど。

胸の話だよ。

私は女性(一応)だけど、
”ほしのあき”ちゃんは結構好き。

あの顔(ファニーフェイスか)で、あの胸。
つくづく、うらやましいと思う。
ずるいとも思う。

神様って不公平だよな、ってブツブツ言ってみたりする。

胸の大きい人、
上半身のビックな人は下半身がホッソリしてたりする。
逆三角形の体型っていうのか、欧米人型って、いうのか。

だから胸は大きくて、お尻は小さくて足は細い。

それに、顔が可愛い、これ以上のバランスはないじゃないの。
神は二物も三物も与えているじゃないの。

今、願いことが一つ叶うなら。
「どうか神様、大きい胸を私に与えてください。」
そう願うつもり。いや、これはマジだ。

胸の大きい人は大きいなりの悩みがあるんだと言う。
きっと、それはそうなんだと思う。

でも。
胸の小さい、どころか私みたいに薄い人間は悩みじゃない。
なぜなら。
悩むほど、ないからだ。

それは悩みじゃなく哀しみなんだ。

活字の貧乳、まな板なんて言葉を目にするたび。
胸が、えぐれるような痛みを覚える。

これは悩みじゃなくて痛みなんだ。
ある意味、元々ない胸がこれ以上えぐれたら。
逆に背中に飛び出すんじゃないかと思うほどだ。


かの、仲間由紀恵もトリックで貧乳を武器に大活躍した。
私も、その姿に感銘を受け勇気付けられた。

わけ、ないじゃないか。

あれは仲間ちゃんだから許されたの。

あの言葉を聞けば聞くほど、
やるせない気持ちに陥ったのは私だけじゃないはず。


胸じゃないよ、とか。
胸の大きさなんかじゃないよ、とか。
言って慰めてくれる人もあるけど、
そうじゃない人も多いのもまた事実だ。

母R子を仕事場に送っていく道すがら、
短大生の学校へ向かう自転車の波に遭遇する。

ヘソ上、首下の部分のおよそ半分が生肌で露出されている娘さんに視線が向かう。

みんな、これ見よがしに豊満な胸肉をアピールしてくる。
深い切れ込みから目が離せない。

胸の大きい女性に目が釘付けになるのは、
お兄ちゃんやオジチャンだけじゃないんだ。

お兄ちゃんやオジチャンは自分の胸を見て深いため息はつかないだろう。
(自分の下のほうを見て、ため息つくかもしれないけど。)
でも私は自分の胸と見比べて、いつも深くうなだれている。


胸のない人間の哀しみなんて、その人にしかわからない。

置き去りをくらった人間の哀しみなんて、
そうされた人にしかわからない。

ハッピーの中にある人は、
そうじゃない時のことは忘れてる。


それは、その人のせいじゃないよ。

たぶん、それは自分も同じようなものなはずだから。