里の家ファーム

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改憲勢力2/3超

2016年07月11日 | 社会・経済

 何とも恐ろしい時代になった。でも半数は改憲に反対している。これからが勝負だ。
投票日当日の元NEWS23岸井成格氏 のインタビューが載っていたので紹介する。

NEWS23岸井成格氏 「このままだとメディアは窒息する

    日刊ゲンダイ 2016年7月10日

 選挙報道が減ったのはイチャモンが面倒くさいから

  改憲派が3分の2を制するのか。天下分け目の参院選を前にこの国の報道の静かなこと。まともに争点を報じず、アベノミクスの検証すらやらない。この国のテレビはどうなっているのか? さぁ、このテーマを聞くなら、この人。毎日新聞特別編集委員の岸井成格氏(71)しかいない。

 ――参院選の報道を見て、どう感じますか? 報道の量そのものが減ってしまったような気がします。

  その通りだと思いますね。集計していないのでハッキリわかりませんが、減っている
印象です。2014年の衆院選の時も、テレビの選挙報道は減った。従来の衆院選の時に比べて半分くらいになった。そうした傾向が続いていますね。

 ――2014年の衆院選といえば、安倍首相が岸井さんの「ニュース23」に生出演して、文句を言った選挙ですね?

  アベノミクスについての街録で反対意見が多すぎる。局が恣意的に選んでいるんじゃないか。そういうことを言われたんですが、その2日後に自民党からテレビ各局に政治的に中立、公平な報道を求める文書が届いた。街録の人数とか時間とか具体的なことにまで踏み込んで要請文書が来たのは初めてでした。

――テレビ局がスクラムを組んで文句を言うかと思ったら、選挙報道そのものが減ってしまった。

 街録そのものもなくなっちゃった。

 ――なぜですか?

  イチャモンをつけられるのは嫌だからでしょう。それに現場は面倒くさい。街録でアベノミクスに5人が反対したら、賛成5人を集めなきゃいけない。面倒だから報道そのものが減ったんですが、今回は参院選の争点も番組で扱わなくなっている。だから、何が争点だか、ぼやけてしまっている。舛添問題や都知事選の報道ばかりで、参院選を真正面から取り上げている番組が少ない。今度の参院選が盛り上がらないのは、権力側が争点隠しをやっていて、メディア側も与野党の相違点をきちんと報じないからですよ。

 ――争点はズバリ、改憲と言論弾圧を許すのか否かじゃないですか?

  特定秘密保護法に始まり、安保法制の強行、高市総務相の電波停止発言、それに自民党の改憲草案。中でもいざという時には国民の権利を制限できる緊急事態条項の創設ですね。これらを一連の流れで見ていくと、国家統制、監視社会の強化の方向に向かっているのは間違いないと思います。そういう時にメディア側が萎縮していていいのか、権力側に忖度していていいのか。強い危機感を覚えます。

 ――高市発言の際には岸井さんや田原総一朗さんらが立ち上がって外国人記者クラブで会見を行った(2月29日)。それでも現場は変わりませんか?

  去年よりひどくなっています。「息苦しい」という表現が使われましたが、それを通り越して、このままだとメディアは窒息するんじゃないか。

 ――それほどですか? それは現場のディレクターなどの言動からですか? それとも上からの圧力?

 具体的にどうのこうのというより、肌で感じる部分がありますね。
意見広告が出たときは「気持ち悪いなあ」と

 ――改めて、「ニュース23」の降板騒動について伺います。騒動のキッカケは昨年9月、いきなり新聞に意見広告が出て、岸井さんの発言が放送法違反であると糾弾されたことでした。

  驚きましたよ、最初、何の広告だろう、気持ち悪いなあ、と思って読んでみたら、全編、僕と23への批判だった。

 ――文化人による意見広告の形を取っていましたが、裏には安倍官邸のにおいがしました。

 皆さん、安倍応援団ですからね。

 ――つまり、官邸と一体であると?

  彼らが官邸の空気を先取り、忖度して、広告を出したのかもしれません。でも、これが高市電波停止発言につながっていく。23では「変わりゆく国」というシリーズを組み、40回も安保法制の問題を取り上げました。アーミテージ元国務副長官のインタビューもやりました。アーミテージ氏はこう言ったんですよ。「日米共同で何かを行うために議論を始めようとすると、必ず憲法9条がバリケードのように塞いできた」と。解釈の変更による今度の法律でバリケードが取っ払われる、そんな言い方をしたんですね。

――本音をズバリ吐露ですね。

  自衛権という言葉に騙されてはいけません。米国のために出ていくのですから。しかし、こういう議論を国会できちんとしていないでしょ? だから、番組で何回も取り上げたことを偏向報道だと批判された。

 ――背筋が寒くなるというか、恐怖心はなかったですか?

  僕も甘くて、タカをくくっていた部分はあるんです。僕も取材してますから、官邸や自民党サイドから、「岸井はやりすぎじゃないか」「こういう発言は問題だ」という声は聞こえてはいました。でも、それを圧力とは思わなかった。あの広告を見て、初めて、ここまで苛立っていたのかと思いましたね。

 ――それが「ニュース23」降板につながったのでしょうか?

  TBS側はメーンキャスターの膳場貴子さんが産休に入るので前から番組一新を考えていた。そうしたら、あの意見広告が出たものだから、困っちゃった。決して圧力に屈して決めたわけではありません、という説明でした。

――その説明を信じている?

  今年5月、国連の人権委員会からデイビット・ケイ米カリフォルニア大教授が日本の「表現の自由」について調べに来た。僕の問題も調べて、インタビューを受けましたが、彼は圧力のエビデンスが見つからなかったと言っていました。でも、「岸井を辞めさせた方がいい」という声もありましたからね、忖度もあったのかもしれない。

 ――そもそも素朴な疑問なんですが、テレビ局側は権力側に媚びたり、忖度すると、何かいいことがあるんですか?

  メディアにとってはいいことひとつもありませんよ。自殺行為なんだから。

 ――それなのに忖度するのはなぜですか?

 面倒くさいのがひとつ。もうひとつはスポンサー。

 ――権力に逆らうと、スポンサーがなんか言ってくるんですか?

役所から「なぜ、あの番組のスポンサーをするのか」みたいなことを聞かれた社長はいたみたいです。

 ――もうひとつ、忖度すると総理が番組に出てくれるというのもあるんじゃないですか? というか、忖度してくれる番組を選別して協力している感じがします。

  選別、これはハッキリしていますね。昨今は安倍チルドレンといわれる国会議員を中心に、なんか偏向報道は取り締まるのが当たり前みたいな感覚がある。これは安倍首相自身がテレビ報道に対してトラウマがあるからでしょう。初当選が93年で、この年、自民党は下野した。その背景には細川政権を応援しようというテレビ朝日の椿発言などがあった。そうした首相のトラウマが自民党の若手国会議員にも伝播し、広がっている。メディア側はそれを忖度して、自粛する。場合によっては番組内容を変える。ときにはキャスターまで代えてしまう。

■都知事候補だった桜井俊前次官がやってきたこと

 ――総務相が電波停止命令ができる放送法がある限り、テレビはいつでもそうやって脅されてしまう。違いますか?

  放送法というのは戦前の反省から権力の介入を排除するために作られたんです。政治的に公平中立な放送を求めているのは、権力側の介入を許さないためで、偏向報道かどうかを権力側が決めるなんてことはありえない。それなのに、突然、権力側にそうした権限があるかのように言い出したのが安倍政権なのです。

 ――ここでも憲法の解釈変更のようなことが行われたということですか?

 役所において、その中心にいたのが都知事候補だった桜井俊前総務省事務次官ですよ。

 ――岸井さんは政治記者として、若いころから安倍首相を知っているわけですよね。首相として、どういう評価をしていますか?

 晋太郎さんの担当だったし、岸信介さんのロングインタビューもやりました。当時、晋三さんは秘書だった。いつのまにか右のプリンスみたいになって登場しましたが、政治に対する考え方や進め方について、問題がある首相であると思います。

 ▽きしい・しげただ 1944年9月生まれ。慶大中高を経て、慶大法卒。毎日新聞入社。主筆を経て特別編集委員。


 

「永六輔の誰かとどこかで」好きな番組でした。
ご冥福をお祈りいたします。

訃報

永六輔さん83歳=放送作家、ラジオタレント

 
永六輔さん=梅村直承撮影

 放送作家、タレント、エッセイストとしてテレビの草創期以前から多方面で活躍した永六輔(えい・ろくすけ、本名・永孝雄=えい・たかお)さんが死去していたことが11日分かった。83歳。

 東京・浅草の寺の息子として生まれた。中学生のころからNHKラジオ「日曜娯楽版」に投稿を始める。早稲田大在学中に同番組を手がけていた三木鶏郎に見いだされ、放送作家、司会者としてデビューした。

 作曲家の中村八大に誘われ、作詞家業を開始。中村・永のコンビで1960年代に「こんにちは赤ちゃん」など数々のヒット曲を手がける。なかでも坂本九が歌う「上を向いて歩こう」は大きな反響を呼んだ。

 作詞した曲はほかに、作曲家いずみたくと組んだ「いい湯だな」「見上げてごらん夜の星を」、中村と組んだ「黄昏(たそがれ)のビギン」などがある。

 60年代半ばからは軸足をラジオの世界に移した。67年から2013年9月まで放送されたTBSラジオ「永六輔の誰かとどこかで」は放送回数が1万2629回に達し、同一人物が出演する同局の番組としては最長寿となった。同局の「永六輔その新世界」も91年から15年9月まで続いた。好きな旅で得た話から時事問題まで縦横無尽に語り、ラジオパーソナリティーとして活躍した。

 94年には老いや死を巡る言葉を集めたエッセー「大往生」が200万部を超えるベストセラーになった。96年9月〜16年2月の間、毎日新聞朝刊でコラムを執筆(15年10月以降は東京都内版掲載)。00年には菊池寛賞を、14年には毎日芸術賞特別賞を受賞した。60年安保反対闘争に参加し、尺貫法の復活を唱え、市民運動家としても知られた。

 近年は病との闘いを公表。10年には前立腺がんやパーキンソン病であることを明らかにした。11年11月には自宅で転倒し、骨折したが、その後もリハビリを続けながら車椅子でラジオへの出演を続けていた。今年2月に脊柱(せきちゅう)損傷のため手術を受け、TBSラジオ「六輔七転八倒九十分」を休み、番組は6月27日に終了した。