6月21日の記事『生活保護調査「惨めになった」』では、どのような判決が下ったのかがなかった。当然情状酌量、執行猶予と思い込んでいた。
生活保護申請直後に一家心中、行政の責任論だけで語れない深層(一部抜粋)
ダイヤモンド・オンライン
みわよしこ [フリーランス・ライター] 2016年7月15日
また2016年6月21日、初公判での被告人質問を報道した朝日新聞記事も、「生活保護調査『惨めになった』 利根川心中、三女初公判」と、生活保護開始までの調査が申請者を傷つける可能性をタイトルで訴え、さらに記事中で
『生活保護で「お金の面は何とかなる」と考えていたが、父の病状悪化で悲観的になったと供述し、「母だけ残しても可哀想だし、家族一緒じゃないと意味がないと父に言われた。一人生き残って申し訳ない」と述べた』
と、父親の病状悪化で悲観的になっていた当時の心情、さらに父親が「家族一緒じゃないと意味がない」という考えの持ち主であったことを紹介している。一家心中へと至ったのは、これらが最も不幸な形で複合してのことであろう。
あまりにも「上から目線」の判決文
求刑の懲役8年に対し、弁護側は執行猶予が妥当と訴えた。しかし、懲役4年の実刑判決が下った。
判決文には、
「本件犯行に至る経緯、動機には、酌量すべきものがある。そうであるとはいえ、社会的な援助を受けて生きることもできたのに、認知症であったにせよ死ぬことに同意したわけではない母の殺害と、父の自殺をほう助する決断をした上、自ら心中の実行時期を早め、(略)主体的かつ積極的に本件犯行を行った被告人は、生命を軽視していたものといわざるを得ず、(略)相応に非難されなければならない」
とあり、さらに「酌量減軽を検討すべき事案であるといえるが、執行猶予に付すべき事案であるとまではいえない」としている。
引用した判決文を一読して、私は怒りのあまり言葉が出なかった。アンダーラインは、特に怒りを覚えた部分だ。背景には、生活保護を「恥」とする意識や家族主義がある。一家の生活の中で、おそらくNさんの無意識のレベルに深く植え付けられたそれらの意識や考え方が、「主体的」「積極的」にNさんが獲得したものであるはずはない。「一緒に死んでくれ」と父親に言われたNさんが逆らわなかったことを考えると、一連の出来事は、
世の中からは『隠された』存在である一家が、強固な『血のつながり』による絆で結びついており、絆ごとブラックホールに飲み込まれようとしていた。最後の力を振り絞って『隠されていない』世界の生活保護に救いを求めた一家は、『隠されていない』世界の眩しい光とエネルギーによって『隠された』世界へと強く跳ね返され、心中に追いやられた」
と解釈すべきではないだろうか? この視点からは、裁判と判決も
「『隠されていない』世界が、『隠されていない』世界の規範で、『隠された』Nさんの『隠された』ゆえの悲劇を裁いた」と見ることができる。
このことは、社会学用語の「サバルタン」を用いて説明することもできるのだが、正直に白状すると、何度か判決文を読みなおした私は、心のなかで「一体何様? 何だよ、そのエラソーな上目線は!」と叫んでしまった。
なお、Nさんは亡くなった夫妻の三女にあたり、姉が2人いる。しかし結婚している姉たちに、母親の介護や仕送りを行う余裕はなかった。Nさん一人が「血縁」の結界から離れられなかったゆえの悲劇、とも見ることができる。もしもNさんが両親のもとを離れていれば、両親は地域・行政が支えるしかない。もしもそれが可能だったら、「他人行儀」が同時にもたらす風通しによって、親子3人での心中という悲劇は避けられたはずだ。
「社会的な援助」は絵に描いた餅
なぜ、そうなってしまうのか?
もちろん、一家心中(未遂)より、「社会的な援助を受けて生きる」の方がより望ましい。問題は、どの程度の実現可能性があったかだ。
雨宮処凛氏による記事「参院選と、利根川一家心中事件の裁判。」には、
「介護保険料を払っていなかったことから、介護サービスに引け目を感じていたこと、お金がないから母を施設に入れられないと思っていたことも裁判で明らかとなった」とある。Nさんの両親は無年金だったため、介護保険料が「天引き」で徴収されていたわけではない。
介護保険料を1年以上滞納すると、介護サービスの利用料は、いったん全額自費負担となる。後に9割が返還されるのではあるが、困窮により介護保険料を払えない家庭にとっては、実質「介護保険は使えない」ということになる。
「保険料を払っていないのに使えている」という人が目立つようでは、「だったらバカらしいから保険料を払わない」という人々が増え、保険制度は維持できなくなる。だから、未納・滞納に対する制裁の存在を、一概に「悪」とするわけにはいかない。この点は、「何かを払っている」を前提としない生活保護のような「扶助」と「保険」が大きく異なるところだ。
しかし、「保険」の保険料を払えない人々のためにあるのが「扶助」だ。健康保険料・介護保険料・年金保険料を長期に未納・滞納のままにせざるを得ない人々にとっての救いの糸は、日本のほとんど唯一の「扶助」、生活保護しかない。
Nさん一家が施設入所も含め、介護保険を利用できる道は、生活保護しかなかった。生活保護のもとでなら、介護保険が未納でも、支払うべき費用の全額が生活保護の介護扶助の対象となる。
問題は、Nさんと父親が、「介護と医療の費用も、生活保護を受ければ心配しないでよくなる」ということを理解できるように説明されていたかどうかだ。市役所職員が「保護開始になるという前提で申し上げますと、とにかく、介護や医療について、お金のことは心配しなくていいんですよ」と何回も繰り返して、やっと「安心していいのかも」と思われるかどうか、というところだろう。
さらに気になるのは、生活保護について、Nさんが「惨め」と繰り返したことだ。困窮状態にあって、保険を利用することが実質不可能で、したがって生活保護しかないという状況の人々は、さらに生活保護のスティグマ感(烙印感・恥の意識)を乗り越えて、申請し、保護開始となって、やっと生活保護で暮らすことが可能になる。
困窮している人が、困窮によって「惨め」「恥ずかしい」という思いを募らせ、「恥を受け入れるか、生きるのを諦めるか」の究極の選択を迫られる。これが、まっとうな先進国の姿だとは、私には思えない。