TOMATOの手帖

日々の生活の中で出会う滑稽なこと、葛藤、違和感、喪失感……などをとりとめもなく綴っていけたらと思っています。

まな板の上の鯉

2022年10月15日 | エッセイ
何年か前にも、このタイトルで書いたかもしれないが、おおむね2年に1回の、大腸内視鏡検査を先日うけてきた。
それほど多くの種類の検査を受けたことがあるわけではないが、この検査ほど、前準備の段階から、「無謀」なものはないと常々思っている。
なにごとも最初の印象は大事である。
10年以上も前に近所のクリニックで初めて受けたこの検査は、痛みに耐えかねて検査台の上で七転八倒。
結局1時間半以上もかかってしまい、午後の診察に大幅な影響を与えてしまった。
そこのクリニックは、先生ひとりで検査も診察も切り盛りしていたので、代診の先生もいらっしゃらなかったのである。
先生も困ったと思うがわたしもそれ以来、この検査にたいして大いにトラウマを持ってしまったのである。

現在、「痛くない検査」を誇っている現在の先生につながって数年たった。
それでもやはりイタイ。
せっかく「痛くない」を売りにしているのに、ここで痛がっては、なんだか申し訳ないような気がしてギリギリまで我慢するのだが、やはりイタイものはイタイ。
鎮静剤を打っても、お腹の痛みとはまた別の話なのである。
顔をゆがめて耐えているのが先生にもわかるらしく、すぐに別ルートを選んで痛くないように工夫をこらしてくれるのが本当にありがたい。

そして20分ほど。
「は~い、よくがんばりました。ワルイものは見つかりませんでした」という先生の声高らかな明るい声で、無罪放免。
ただ生きているだけでありがたい……と日々のなんと言うこともない生活のありがたみを一瞬たりとも実感するのは、皮肉なことにこんな状況のときである。
結果説明のとき、先生いわく、「〇〇さんの(大腸の)ケースは、本当にむずかしい。わたしでなくては無理ですよ」。
腸の形状が検査に不向きなのか、それともわたしが痛みに過敏過ぎるということなのか……。
2年後の検査も先生にお願いして帰宅。無事に終わった終わったという安堵もあるが、検査前の薬で体内の水分がドッと失われたということもあり、オレンジジュースの、これまでにないほどおいしく感じられたことといったらない。

コメント (4)
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